軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第89話・魔国と王国の協議

西方諸族連合王国――通称「魔国」。

大陸の西端。森と砂漠の境目に造られたその国は、種族ごとの文化が複雑に折り重なってできた国家。街と街の間に森が入り込み、森の中に集落があり、集落の傍に砂漠がある。境界に様々な土地がある。その分、統治には骨が折れる。

首都ラウルスリムは、その中心にある都市。

石と木と金属の折衷。けれど違和感はない。多種族が「譲歩」を積み重ねた結果の調和が、建物の輪郭にまで染み込んでいる。

その王城の一室――昼食の席が設けられていた。

窓からは柔らかな日が差し込む。香辛料の匂いがふわりと漂い、その匂いだけで空腹が呼び起こされるようだった。卓上は簡素ではないが、過剰に華美でもない。外交の席に必要な品格と、私的な食事の温度が同居している。

そこに座るのは三人。

魔国女王メトゥス・ラウルスリム。

そして南王国第一王女レジーナ。隣には夫であり侯爵であり聖騎士であるラディウス。

南王国が誇る『華』と『剣』。そして魔国が誇る女王。その三人が向き合い、同じ皿を前にスプーンを持つ。

皿の中身は――「カレーライス」。

艶を帯びた濃い色の液体が、白い穀物にたっぷりかけられている。香りは強い。辛さと甘さと、どこか薬草めいた鋭さと焼いた香ばしさが、同時に鼻をくすぐる。初めて見る者なら躊躇する。白い穀物に、色のついた汁を「ぶっかける」乱暴な料理。

この世界で「米」という穀物の認知はまだ薄い。そもそも、リザードマンの湿地帯で細々と育てられてきた作物で、食べ方も知られずにいた。湿地の民の生活に根差したものが王城の食卓に上がるなど、少し前なら誰も想像しなかったはずだ。

だが今は違う。

米は、森の賢者――世渡有羽が渇望し、執着し、恥も外聞もなく「欲しい」と言い切った食べ物。その欲がただの贅沢ではないことを、王国と魔国の上層部は理解している。主食というのは嗜好ではない。根――生活の土台である。

そして有羽曰く、カレーと米の組み合わせは最強なのだと。

最強――などという言葉は、戦場でこそ使うものだと思っていた。

だが、実際に口に運ぶと否定できないのが事実。

レジーナはスプーンを入れた。白い米が、カレーの色を吸う。すくい上げた瞬間、香りが立ち上がり喉の奥が勝手に唾液を分泌する。一切躊躇わず口に入れる。

それだけで、彼女は小さく息を吐いた。

「……はぁ……賢者様が欲しがる訳よ。素晴らしい代物よ、これは……!」

感嘆が漏れる。上品な席で漏れる類の、抑えた声ではない。腹の底からの吐息だ。王女としては少し崩れすぎている。だが、それほどまでに抗えない。

カレーがライスを惹き立てる。ライスがカレーを受け止める。

カレーだけなら辛い。濃い。香りが強すぎて、口の中が戦場になる。だが米が、その戦場に「要塞」を作る。辛さを吸い、熱をなだめ、甘さを引き上げる。そして米だけなら淡い。白い穀物の味はあるが、華がない。そこへカレーが絡むことで、米は一気に主役になる。

調和。奇跡のバランス。

スプーンが止まらない。掬う。運ぶ。噛む。飲み込む。次の一口のために、既に手が動く。食事をしているというより、身体が「手順」を実行してしまう。理性が料理に侵食されている。

ラディウスも同じだった。彼は聖騎士らしく、食事の所作を崩さない。だが、スプーンの速度は嘘をつかない。皿が明らかに減っていく。

「味だけじゃない。腹持ちが抜群だ」

口を動かしながらも、声は落ち着いている。

「騎士団や軍でも絶対に絶賛される。兵の飯としても強い」

王族の夫として、聖騎士として、侯爵家当主として――彼の目は常に「制度」に向く。美味いで終わらせない。これは軍の飯になる。肉と野菜を煮込めば栄養も取れる。しかも美味い。軍が歓喜する未来が容易に想像できた。

そしてメトゥスは――実にご満悦な顔で、カレーライスを頬張っていた。

クールビューティーの顔が、完全に解けている。頬が少し膨らみ、目元が緩み、口角が上がりっぱなし。まるでリスの頬袋だ。若い娘が「美味しいものを食べてご機嫌」なだけの光景にしか見えない。

その破壊力に、レジーナの視線が横へ滑った。

ラディウスを睨む。睨むというより、釘。

王女の目線は笑っているのに、何かが冷たい。

(……言っておくけどあなた。見惚れたらタダじゃおかないわよ?)

小さく小声で、伝わる圧。

ラディウスは苦笑で返すしかない。

(……する訳ないじゃないか。少しは信用しておくれよ)

彼はレベル四十八の聖騎士で、誓約に生き、剣に生きる男。だが恐ろしいものと勝てないものは知っている。妻の怒りは、多分どれだけレベルが上がっても勝てない。勝てない戦に挑むほど、彼は愚かではなかった。

そのやり取りが目に入ったのか、メトゥスは咳払いを一つして、背筋を正した。頬の赤みを隠すように「女王の顔」に戻る。戻るのが早い。さすが統治者である。

「……今現在も、魔国の料理人はこのカレーのアレンジに夢中になっています」

淡々と報告する声。その裏に、嬉しさが滲む。

「有羽様から伝えられたカレーのレシピ。このレシピを元に、今後どんどん発展改良されていくことになるでしょう。辛味の調整、香りの層、肉や豆の使い方……各種族の食文化が混ざれば、枝分かれは止まりません」

魔国の料理人は種族ごとに味覚も香りの好みも違う。辛さに強い者もいれば、甘さに敏感な者もいる。肉を好む者、草を好む者、乳製品を愛する者。混ざれば混ざるほどカレーは形を変え、味を増やしていく。

それは脅威でもあり、歓喜でもある。

メトゥスはレジーナに微笑んだ。

「本当にありがとう。……あなたが、有羽様からの手紙を届けてくれたことも含めて」

ありがとう――その言葉には、単なる礼以上の意味がある。

レジーナが、封蝋付きの封筒を「そのまま」届けたこと。そこに余計な手を入れず、覗かず、疑わず、魔国の手に渡したこと。その信義が魔国を動かした。

レジーナは笑顔を返す。

「いえいえ。女王陛下に届けられて、こちらも嬉しく思います……これ程の美味、我が王国でもきっと流行る事でしょう」

そして、続ける。

「今後は、米の輸入も検討しますので……友好国として、稲作の規模発展を応援いたしますわ」

応援――という言葉は柔らかい。だが、意味は一つだ。

稲を寄越せ。

そのために王国は金も人も出す。

だから、魔国は米を出せ。友好国として当然でしょう、と。

メトゥスは、同じ温度で返した。笑顔を崩さない。声も崩さない。

「……ええ、私達魔国が先陣を切りますので、王国も続いてくれると嬉しく思いますわ」

先陣は魔国だ。王国は後に並べ。

行儀よく背中を追いかけろ――そんな意味が、涼しい声に混じる。

レジーナの笑顔が一段明るくなる。メトゥスの笑顔も一段柔らかくなる。

笑顔と笑顔が、視線でぶつかる。

「おほほほほほ」

「うふふふふふ」

笑い声だけが、いかにも「仲良しの昼食」を演出する。

だが視線はぶつかっている。火花が散る。

それが外交だ。本音を隠しつつ、笑顔で握手を交わす。

とは言え、両者の意見は同じだ。

カレーを広めたい――その点では一致している。

技術は広まって初めて意味を為す。自国だけで独占しても、市場が育たない。比較対象がなければ評価も定着しない。複数の国で食べられるからこそ名が広まる。名が広まるから「名産」になる。

問題は、その名産の看板を誰が握るか。

うちが一番。あちらは二番。

料理ですら、国の矜持の領域に入る。ましてやカレーは、ただの料理ではない。香辛料の価値を引き上げ、米の価値を引き上げ、流通の価値を引き上げる。市場が膨らむほど、国力は増す。兵も民も腹が満ちる。逆に言えば、腹を握れば人を握れる。

だから笑っていられない。

笑っていられないのだが……レジーナはスプーンを置かずに、内心で結論を出していた。

(……米も、正確なレシピも魔国が抑える以上、カレーの先陣は魔国でほぼ確定)

悔しいが事実だ。今の時点で、魔国は有羽直筆のレシピを持つ。そして米を育てる土地を持つ。王国は、まだ米を自前で作れていない。輸入で賄えば、それは首根っこを掴まれるということでもある。

だが、レジーナの口元は笑ったままだ。諦めの笑みではない。

そのレジーナの笑みの意味を掴めないほど、メトゥスは愚かではない。

(安心はできない。有羽様との距離は、王国が格段に近い)

賢者との「縁」を持っているのは王国だ。カレーの起点は、賢者。賢者に通じる道を持つのは王国。料理の先陣は魔国でも、世界の主導権が料理だけで決まるわけではない。賢者が何を次に生むか。それ次第で、魔国の優位など一瞬で薄れる。

メトゥスも同じことを考えている。だから、目が笑っていない。笑っているのは頬だけだ。

彼女は女王だ。現実を直視する。米を握っているという事実は、強みであると同時に責任だ。もし米を武器にすれば、友好国は敵になる。友好が崩れれば、森に座す「主」が何を思うか分からない。賢者は王国寄りで、樹神女帝は気まぐれだ。

そして何より、今の世界状況が油断を許さない。

カレーの覇権争いなど、平和な夢にすぎないかもしれない。そう思ってしまうだけの「火種」が、帝国側に持ち込まれている。

蛇の分身。

その名を口にしなくても、部屋の温度が少し下がるような気がした。レジーナもメトゥスも、同じ瞬間にスプーンの速度がほんの僅か鈍った。ラディウスは気配で察し、言葉にしないまま目線を落とす。

昼食の卓上には、温かな料理と、柔らかな笑い声がある。

だがその底には、冷たい現実がある。

外交は、互いに腹を満たしながら、互いの喉元に刃を置く遊びだ。

レジーナとメトゥスは、同時に小さく溜息を吐いた。

吐息は香辛料の匂いに混じり、誰にも気づかれない。

気づかれないまま、スプーンは再び動く。

掬う。運ぶ。噛む。飲み込む。

腹を満たすために。

そして、腹の底に沈む不安を、少しでも押し流すために。

◇◇◇

食事が終わり、皿が下げられていく。

先ほどまで「カレーライス」という名の暴力に屈していた面々の顔が、少しずつ「会議の顔」へ戻っていった。満腹は人を丸くする。丸くなったところへ政治を入れる――王国が魔国に来たのはカレーライスを食べるためではない。王国と魔国の間の協議を進める為だ。

王城の会議室は、同じ建物の中にありながら食堂とは空気が違った。窓は高く、壁には魔国の紋章が掛かり、椅子の背は硬い。机上には地図、文書、封蝋、筆、インク壺。人間の外交の道具と他種族国家の運用の道具が混ざり合い、奇妙な均衡で並んでいる。

席次も自然と整う。

中央にメトゥス。左右に側近と代表者。

向かいにレジーナ。傍にラディウス。

さらに周囲に、ドワーフの長、エルフの長、それぞれの補佐官と若い文官たち。

部屋にいる全員が「何か大きいものが動き始めた」ことだけは察している。

しかし、その正体の輪郭を知る者は一握りだ。

帝国に、世界を揺らす規模の存在が潜んでいる――そんなことは、知られていない。知られていないように、している。

森の主格。南の賢者。西の女帝。東の世界天蛇。その分身。そういう単語を、ここで口にするだけで、政治は暴走する。恐怖は伝播し、噂は勝手に肥大し、民衆の不安は党派の武器になる。貴族は己の保身で騒ぎ、軍は過剰に動き、商人は利を嗅いで走り出す。

――つまり、世界が壊れやすくなる。

だから、公式の議題は別の形を取る。

防衛協力。

交流強化。

安全保障分野での連携。

国境監視の共同化。

物資流通の安定化。

どれも正しい。どれも必要だ。

だが正しさは、そのままでは動かない。正しさを動かすには「納得できる理屈」が要る。

レジーナがここに来た理由は、それだった。

森で――有羽の居住空間で、宝玉越しに話し終えている案を、そのまま「はいどうぞ」と国政に落とすのは不可能。国は巨大だ。巨大なものを動かすには、段取りがいる。建前がいる。反対派に渡す餌がいる。賛成派に与える名誉がいる。

そして何より、今は「帝国がまだ目立って動いていない」。

表向き、王国との停戦は続いている。国境線は静かだ。静かな相手へ向けて防衛予算を増やすのは、民にも貴族にも「無駄遣い」に見える。

その理解が、会議室の空気に薄く張り付いていた。

レジーナはその空気を剥がさず、むしろ利用するように微笑んだ。

「この協議は、南王国と魔国――西方諸族連合王国が、今後の安全保障と安定のため、協力を一段階引き上げる枠組みについて確認する場でございます」

レジーナは視線を上げ、室内を一巡した。

「前提として、両国の交易路、国境地帯の治安、魔物発生地域の掃討、そして軍需物資の相互融通――この四点は、これまでの交流により一定の成果を上げて参りました」

成果を先に置く。成果があるなら、継続は保守になる。

保守は安全だ。安全なら賛成されやすい。

「そこで――本日ご提案するのは、いわば「骨格」を整える内容です」

骨格。つまり、これから後の政治の器を作る。

資料が配られた。紙が擦れる音が一斉に鳴り、会議室の気温が一度下がったように感じた。

だが、その紙に書かれているのは筋の良い正しさだった。

共同巡回の頻度。連絡網。情報共有の形式。国境線での偶発的衝突を避ける手順。魔物討伐の協力。医療支援。難民発生時の受け入れの枠。緊急時の物資貸与。これらを「協定」として、署名を伴わない覚書で締結する――という案。

署名は重い。重いものは国内の反発を呼ぶ。

覚書は軽い。けれど軽いものは後から強化できる。

メトゥスも理解していた。だからこそ表情を崩さない。女王として頷く。反対しそうなのは、むしろ現場を知らない下位貴族や一部の文官だ。魔国の内部にも派閥はある。王国と近づきすぎれば、自国の独自性が失われるという恐怖。人間が得をするだけだという猜疑。そういうものが必ず湧く。

レジーナはそこも逃がさない。

「敵対を想定する相手は、帝国のみではありません」

この一言で、空気が少し変わった。

帝国だけなら、停戦の紙がある。だが「帝国以外」という言い方は、意識を変える。

「北方――サンクトゥス神聖国を含め、我々の安定を乱し得る勢力は複数存在します。小規模な摩擦は既に生じておりますし、今後「摩擦が増える」可能性を否定できません」

具体は争いを呼ぶ。可能性という言葉は逃げ道でありながら、人を動かす燃料でもある。

メトゥスは頷く。ドワーフの長は鼻を鳴らし、肯定した。ドワーフは物資と構造と安定の種族だ。北方との摩擦は、輸送路と工房を脅かす。彼らは理屈が通るなら動く。

神聖国との小競り合いなら、今も時折起きる。辺境の峠道や雪原の端で、小さな火花が散る程度の摩擦は、魔国の記録にも王国の記録にも残っている。なら、「いずれ」に備える枠組みを整えること自体は、表向きにも筋が通る。

レジーナは議論を長引かせない。論点を先回りして潰し、譲るべき所を最初から譲り、譲れない所は笑顔で固定する。

ラディウスは横で黙っている。黙っているが、彼の沈黙は「王国の剣がこの文書に背を向けない」という保証になる。海神の加護を得た聖騎士の保証は、時にどんな言葉よりも雄弁に信用を得られる。

メトゥスも魔国の女王として口を開く。

「魔国としても、南王国との枠組み強化は利益になります。諸族が安心して暮らせるよう、余計な火種は摘みましょう」

この一言で、部屋の反対派は言葉を失った。

女王が利益と言った。つまり感情ではなく、理で決めた。

理で決められた以上、反対は「国益に逆らう」形になる。

なにより、本当に損は少ない。実際に被害が起きてから対策を立てても遅すぎる。友好関係である今の内に、神聖国への対応を考えるのは確かに利益だ。

レジーナは最後に、穏やかな笑みで「圧」を乗せる。

「――それでは、安全保障分野での協力体制を推進することに、皆様ご賛同いただけますね?」

にっこり。

優しい笑顔。

だが、断る選択肢が消える笑顔。

裏事情を知っている者たちは、微笑みながら頷く。

知らない者たちは、納得しきれない顔をする。

けれど資料の筋の良さと、現実的な利点を見て飲み込む。

反対は出なかった。

出るとしたら、後だ。各部署へ降りていく途中で、別の形で噴き出すだろう。それでも今ここで「骨格」を通すことが重要。骨格さえできれば、肉は後でつけられる。

会議は、次の段へ移る。実務の割り振り。担当者の選定。連絡網の確認。覚書の文言の微調整。各種族の言葉のニュアンスの擦り合わせ。

その間、若い文官たちが忙しく出入りし、議事録が積み上がり、紙の山ができた。

そして、最後に。

レジーナが公式の会議を閉じ、頭を下げる。

「本日はありがとうございました。以後の実務は、王国の担当にて滞りなく進めさせます」

拍手はない。外交は拍手を求めない。求めるのは結果だ。

文官たちが次々に退室していく。紙束を抱え、顔を引き締め、廊下へ散る。彼らはこれから、各部署へ説明し、反発を抑え、調整し、動かし、形を作る。政治の苦労はここからだ。

扉が閉まり、足音が遠ざかる。

最終的に部屋に残ったのは、ほんの数名だった。

魔国女王メトゥスとその側近。

南王国第一王女レジーナとその側近。

ドワーフの長、エルフの長。

そしてラディウス。

知っている側が残った。

沈黙が一秒。

そして全員が、同時に大きく息を吐いた。

「……どうにか、話は纏まりましたわね、陛下。本当に疲れた。こんなに疲れたのは何時以来かしら」

レジーナが椅子にもたれ、珍しく肩の力を抜く。社交の華が「素」の顔を見せる瞬間は、周囲にとっても貴重だった。側近の侍女が水を差し出し、レジーナは受け取って一口飲む。

メトゥスも椅子に背を預け、ため息混じりに笑った。

「……かつての国境線でのミスリル騒動以来よ、レジーナ。とは言え今回は、あの時以上に大変だったわ」

「ああ、懐かしい……あの時は本当に大変でしたわ。まさかあの時以上の出来事が起こるなんて」

室内の者たちも、似た顔になる。その過去を共有しているのだろう。

五年前。

国境線でミスリル鉱山が見つかった時。

鉄より丈夫で、鉄より軽く、鉄より美しい理想の鉱石。魔力の乗りも良く、魔導具の素材としても一級品。ミスリルの鎧は軍の夢であり、ミスリルの装飾品は貴族の夢であり、ミスリルを扱う工房は国家の夢であり――その夢はいつも戦争を呼ぶ。

しかもそれが、よりにもよって国境線で出た。

あの時は、本当に「火種」だった。二国は戦争寸前まで空気が張り詰めた。だがその危うさの中で、レジーナとメトゥスは互いの手腕を知り互いの腹を知り、友誼を結んだ。

その友誼が、今もここにある。

レジーナは苦笑し、メトゥスの方を見た。

「今回の規模は、間違いなく五年前より大きくなる。正直、もっと確かな状態に持っていきたかったのだけれど……」

メトゥスは頷く。女王の顔に戻る。

「気持ちは私も同じ。けれど、これ以上は無理ね。帝国の動きが無い以上、これ以上詰めようとしても国民感情が納得しないわ」

国民感情。

それは魔国にも王国にも等しく重い言葉だ。王国では民と貴族の感情。魔国では多種族の誇りと不信。何も起きていないのに金を出せと、兵を増やせと、備蓄を積めと言う。

そんなもの民は納得しない。貴族は反発する。商人は嫌がる。

ラディウスが静かに言った。

「最低限を形にできただけでも、相当な成果さ。あとは……相手が動いた瞬間に動ける準備を、今からしておくしかない」

聖騎士は、誓約を立てるだけの人間ではない。

誓約を運用する人間である。

レジーナは内心で、その通りだと思った。

あの森で話した本当の理由を、今この場で口にできなかったのが歯痒い。

帝国にいる災厄級の存在。森の主のこと。番人のこと。

それを出せば、政策は一瞬で進むだろう。恐怖は人を動かす。

だが恐怖は、同時に人を壊す。

恐怖で動いた国家は、必ずどこかで暴走する。

恐怖は燃料として優秀すぎるのだ。

だから、これでいい。

この程度でいい。

――と、自分に言い聞かせるしかない。

その時、メトゥスが話題を切り替えた。表情が少し柔らかくなる。

「それからレジーナ。有羽様に渡す米と稲についてだけど――用意出来たわ。既に手配は済んでる。馬車一台分。王国に渡す分も含めて、ね」

その瞬間、レジーナの目がほんの少しだけ柔らかくなる。

賢者の顔が脳裏に浮かぶ。米の話になった瞬間に「尊厳を捨てる」勢いで食いつく、あの情けないようで真剣な顔。米を渡すということは、賢者の機嫌を取る以上の意味を持つ。

だが、国の王女に渡す手土産としては「少なく見えてしまう」量でもある。

現実の量と、見栄えの量は違う。外交は時に中身より見栄えが重要だ。馬車一台分が少ないわけではない。けれど「米」という未知の価値が伝わらない層には、ただの穀物に見える。

「……強請るつもりじゃないけれど、それが限界かしら」

「今はこれが限界よ。言ったでしょう? 米は元々、リザードマン達がようやく安定した栽培に成功したものだって。馬車一台分だけでも無理を言っているの。これは、米をあなた達王国でも広めてくれることを見通した投資でもあるわ」

メトゥスは即答する。

即答できるということは、既に内部で殴り合いを済ませてきたということ。

リザードマン達もカレーを食べた。米とカレーの相性も知った。だからこそ、限界ぎりぎりの量を献上してくれた。自分達の主食が他国でも広まることを、純粋に喜んだ。湿地の民の好意。それを踏みにじる真似はできない。

それゆえの投資。

国は、友好を「投資」として扱う時がある。友情の顔をした投資。

だが、その投資を成立させるのは信頼であり、信頼は友情とそう変わらない形を取る。

ドワーフの長が唸った。

「水田を作るなら、まず水と泥を管理しろ。甘く見たら稲はすぐ駄目になる」

彼の言葉は短いが、含む意味は多い。

水は恩恵であり、事故にもなる。稲作は技術だ。技術は時間がかかる。

レジーナは頷き、すぐに次を考え始めた。

「……王国に帰ってからも早急に動く必要があるわね。大まかな収穫方法は聞いたけど、どこまで再現できるか……」

「こちらでも、今急ピッチで『水田』の制作に取り掛かっているわ。国の上層部の、ほぼ全員が動いてくれるのが幸いね。カレーライス様々よ」

メトゥスは冗談の形で言うが、半分は真実だった。

食は人を動かす。王侯貴族であっても、腹は同じだ。

腹に刺さった美味は、政治の歯車に油を差す。

レジーナは口元に笑みを浮かべ、少し挑発するように言った。

「……そうね。王国でも、まず『食べさせて』みるわ。カレーの匂いと味。両方味わえば皆黙って従うわ。あれは暴力的すぎるもの」

メトゥスが微笑む。彼女も同じことをした。重鎮たちを「わんぱくな食いしん坊」に落とした。落ちたわんぱくは、すぐ政策に傾く。美食は本当に国を動かす時がある。

しかし、ここでひとつの棘が刺さる。

メトゥスは微笑みつつ、首を傾げた。

「あら? 王国はカレーのレシピは知らないのではなくて?」

レジーナは、平然と返す。

「知らないわよ? でも――私は食べたわ。魔国だけでなく、賢者様のところでもね?」

視線が交わる。友好の笑顔のまま、競争の火花が散る。

――うちの強みは、レシピじゃなく賢者との距離よ?

――うちの強みは、米とレシピよ?

言葉にしない会話が成立する。

微笑みながら圧をかけるのは礼儀作法。ここでも二人は、その礼儀を忘れない。友好であっても、国家は国家。譲りたくないものがある。

ラディウスはその間に入らない。入れば火傷する。聖騎士の誓いでも防げない類の火傷だ。彼は水を飲み、静かに咳払いをした。話を少しだけ逸らすために。

「どちらにせよ、今は協力が先です。競うのは……生き残ってからにしましょう」

冗談に聞こえるが、真実だ。

そして、その真実を裏付けるように――扉が叩かれた。

控えめなノック。入室を待つ礼儀。だが、その間合いが短い。緊急の気配がある。

「陛下」

伝令が入ってきた。若い獣人の兵士だった。耳が僅かに伏せられ、尻尾が硬い。恐れを隠している。恐れを隠せないほどの報告がある。

兵士はメトゥスの傍へ近づき、耳打ちする。声は小さい。

だが、室内の空気が変わるのが分かる。

メトゥスは、目を伏せたまま短く息を吸い、そして吐いた。

耳打ちの内容を、瞬時に「共有すべき情報」へ分類したのだろう。

隠す理由がない、いや隠すべきではないと判断した。

メトゥスは顔を上げ、レジーナへ向けて言った。

「……魔国北部で、神聖国の小隊との争いがあったそうよ」

その一言で、室内の温度が下がる。

神聖国。

北方の宗教国家。表向きは閉ざされ、交流も少ない。だが国境付近での小競り合いは、確かに時折起きていた。起きていたが――小隊という言葉の重みは、違う。偶発ではなく、意図が見える規模だ。

レジーナは、顔を動かさずに目だけを細めた。

表情に出すほどの動揺を許さない。だが内心では、歯車が回り始めている。

帝国だけではない。

北も動き始めている。

――世界の火種が、更に増えた。