軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第87話・『夢』

夢だと、解っていた。

神聖国の夜は、皆冷たさに負けぬよう早めに寝静まる。

眠りの底は深い。けれど夢の入り口は、その者にとって神の力の賜物だった。

神の加護――この国では距離が近い、力の名。中には特異な力を授かる者もいる。

戦闘面の強化だけではない。時折、授けた神自身ですら把握していない道を見出す場合も。

かの者の夢見も、その一例。見えない筈の光景が瞼の裏に差し込まれる。

それは、黒だった。

黒い深淵に、ひどく湿った嫌悪が満ちる。肺に入れた覚えのない息が詰まる。水に沈む感覚に似ているのに、溺れているのは肉体ではなく精神。何かが体内を這い、内臓の裏側を撫で回しながら、骨の隙間を埋めていく。

己の内側に己以外のモノがある。吐き気が喉元までせり上がり、それでも吐けずに苦しみだけが増加していく夢の中。

これは――北に座する黒い『ソレ』が、常に抱いている不快。

その感覚が、夢を見ている者の胸に移植された。正確には移植されたというより、同じ器に入れられた。胸の奥に膨大な想念が流れ込む。

満ちているものは、不快という言葉では到底足りなかった。

無数の雑念。祈りの残骸。誓いの屑。敗北の呻き。勝利の陶酔。慈悲の涙。正義の刃。罪悪の言い訳。赦しの願い。赦しなど与えるつもりのない願い。救済を求める声と、救済を拒む声と、救済を利用する声。その全てが、ひとつの肉に押し込められて渦を巻く。

気持ち悪い。

気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

同じ単語が、夢の中で何度も何度も反芻される。それはもはや感想ではなく、世界のどこかで鳴り続ける警鐘。耐え難い異物の密度。神域に達した器でさえ吐き気を催すほどの、歪みの濃度。

限界だった。

黒い『ソレ』は、限界を迎えていた。

だから暴走する。体内に蠢く異物を、世界に吐き出すために。体内に詰まった膿を、外界に流し出すために。自分の内側にあるものを、自分のものではないと断じて、外へ捨てるために。

黒い悪性の膿が吐き出される。

視界の端で、緑が緑であることを失い、土が土であることを失い、空間が空間であることを失い始める。触れれば肉が腐るという種類の毒ではない。触れれば世界の善悪が擦り切れるという種類の毒。秩序ではなく、世界の軸が削られる。

魔境の大森林そのものが引き裂かれる、その寸前。

三つの同格が割って入った。いずれも、森の四方に位置する楔たち。黒い『ソレ』と同じ 存在格(質量) を持った森の番人。

世界を繋ぐ天蛇(永遠を壊す不滅) 。

豊穣を司る女帝(無限に増える樹木) 。

深淵に佇む隠者(大海に揺蕩う残骸) 。

目障り。邪魔。塵芥。屑。

北の『ソレ』が抱いた感情は、そういう単純な拒絶。目の前の障害を叩き潰すために、己の力を開放する。瞬間、夢の中の色が全て黒へ傾く。黒が光を飲み込み、黒が緑を腐らせ、黒が境界を削る。

人の理解を越えた、神話の闘争が始まった。

三対一の構図。三の側はどれも上位神の領域に座する魂を持ち、本来なら一つだけで世界を砕くほどの熱量を備えている。だが、実際は終始一が三を凌駕していた。常軌を逸した結果。夢の中の理性が、これは見てはいけない、と何度も耳元で囁く。それでも視界は逸らせない。夢は逃げ道を用意しない。理解を拒む、超次元の戦いが脳裏に焼き付いていく。

押し切れない理由があった。

三の内のひとつ、蛇が、常に崩壊を防ぐために力を使い続けている。蛇は攻撃に回れない。蛇が噛み留める顎を緩めた瞬間、森は裂け、裂けた森の裂け目は世界の裂け目となり、世界は外側へ漏れ始める。漏れれば戻らない。夢のこちら側の身体が、なぜかそれを知っている。ただ解る。世界は縫い目からほどける。静かに、取り返しのつかない速度で壊れていく。

そしてもう一つ、本質的な不可能があった。

番人に共闘は原則として成立しない。それぞれが世界を塗り替える力を持つ故に発生する不具合。全力を出すということは、己の領域で 世界(法則) を支配するということ。支配は重なり合えず、重なれば喰い合いになる。だから彼らは互いにぶつかり合いながら戦うしかない。三つの力は一致して一に向かうことが、本質的に不可能だった。

しかし――それを踏まえても、北の『ソレ』はあまりに異常。

いかに全力での共闘が叶わないとはいえ、それでも三対一の構図に変わりはない。本来なら戦いが成立しないほどの戦力差。三が並び立った時点で、勝利の秤は三に傾く。

だが、内側で蠢く奔流が桁を違えていた。三つの番人がそれぞれの理で押し返しても、器の内側から溢れるものが減らない。減らないどころか、押し返されるたびに余計に混ざり合い、より腐敗し、より悪性を増す。善と悪が混ざるのではなく、善悪という分類そのものが破壊される。

よって、まず樹が禁じ手へ踏み込んだ。

森の緑が、一本の意志へ統合される。

草の一本、苔の一枚、葉の一滴。全てが束ねられ、一本の槍となる。

―― 世界を穿孔する(フィニス・ムンディ) ヤドリギの樹槍(・ミストルティン) 。

ヤドリギの槍。局地災害という言葉が空虚に感じるほどの規模。

森の緑を「統合」し、一本の槍に束ねて撃ち出す――世界に亀裂を刻む反則。

それでも北の『ソレ』は止まらない。

鬱陶しい棒を振り払うように、槍が折られる。

槍を構成していた緑の意志が、噛み砕かれ、引き千切られ、意味を失い、黒に汚染されていく。その反動で、樹木の側がヒビ割れていく。

それでも樹は根を伸ばし、北の『ソレ』の動きを封じようとする。

そこへ、今度は隠者が踏み込んだ。

何一つ理解できない詠唱が響く。

世界の深奥から拾い上げるような声。

けれど、上空から位相を越えて、「何か」が堕ちてくるのだけが解る。

―― ■■■(Aether) ■■■(et terrae) ■■■(Ad astra) 。

詠唱が響いた瞬間、空が空であることを辞めた。

距離の概念が裏返る。位相がずれ、何かが落ちてくる。

死の星。悪性の星。

それは隕石ではない。隕石の形をした概念だ。触れたものを滅却するという意味が、先に落ちてくる。終わりが先に墜ちてくる。

―― ■■■■(Principiis) ■■(obsta) 。

衝突。

森が砕けそうな衝撃。もし国に落ちていたら確実に滅んでいた規模。

いや、滅ぶだけならまだ良い。滅びた後に何も残らないのではなく、滅びという概念だけが残り続ける類の星。空の凶星。名前の無い、ただの終端。

それなのに――北の『ソレ』は、まだ動いていた。

黒き形。黒き災厄。黒き器。衝突の痕が、赤黒い線となって走っている。だが致命ではない。器は割れていない。割れていないのではなく、割れた分だけ、内側の膿がさらに滲んでいる。痛みが、怒りが、拒絶が、吐き気が、全て一つの熱として増幅している。

その瞬間、夢を見る者は理解してしまう。北の『ソレ』が強いのではない。背負わされているものが多すぎるのだと。そしてその多さは、他の番人達の力を、仮にひとつに集束できたとして――天秤の対に、成り得るのか分からない。

それこそが、魔境の大森林「北の主」。

東、西、南。

それぞれの番人達と並び立つ同格存在。

世界の善悪を飲み込む竜。

森の北の番人―― 黒竜大魔(デモン・ヴェルドゥーム) 。

その名が、夢の中で勝手に脳へ刻まれる。

同時に理解した。この戦いが何なのかを。

これは――かつて起こった戦いだ。

それを夢で垣間見た。

四年前、森の北で、世界が壊れかけた時の光景なのだと。

そして――

◇◇◇

――男は目を覚ました。

最初に意識へ干渉したのは、冷気だった。肺の奥を撫でるような、乾いて鋭い冷たさ。鼻の奥で凍りつく息。耳の奥で、風が家の隙間を擦り抜ける音が鳴っている。

目を開けると天井が見えた。板を並べ、廃材で隙間を埋めただけの今にも崩れそうな天井。

寂れた寒村。氷原の寒空の下で、懸命に生きている小さな村。

そこにある家の一室。土間に近い場所に敷かれた粗末な寝台で、男は身を起こした。

白い外套に包まれた身体が、ぎしり、とわずかに布鳴りを立てる。白い髪。白い肌。白い服。全身が白で構成された、一人の男性。年の頃は二十歳ほど――そう見える、というだけで実際の年齢がどこにあるのかは、本人以外には分からない。

首を回す。肩を回す。骨が鳴り、筋が軋み、鈍い痛みが後から追いついてくる。

「……はぁ」

吐息と一緒に、かすれた声が漏れた。頭の内側に重い鉛が詰まっているような感覚。目の奥がじくじく痛む。身体全体が、熱を失った鉄みたいに重い。

その時、室内のもう一つの気配が、静かに立ち上がるのを感じた。

木の椅子の軋む音。衣擦れ。人の気配。

男が視線を向けると、そこに居たのは商人だった。

見た目で判断するのなら、ただの行商人。背負い袋は膨らみ、革紐で幾重にも締められている。毛皮の襟、厚手のコート、指先の手袋。氷原の旅に必要な装いを過不足なく揃えている。だが、その目は――商人のそれにしては、冷静すぎた。

「起きましたか? あまり寝付きが良くなかったようですが?」

声は柔らかく、顔は穏やかな笑み。だが、柔らかさや穏やかさの割に、温度は無い。

あるいは外の氷原よりも冷たい色。

白い男は、鼻で短く笑う。

「……ああ、正直最悪の部類だ。頭は痛ぇし、気怠いしよ」

「ふむ。……動くのに支障は?」

「それは問題ない。今すぐにでも動ける」

男は指を握り、開き、確かめるように掌を見た。白い指先は冷たい。血の気が薄い。

だが、力は入る。骨も筋も、言うことは聞く。

商人は満足げに頷いた。

「それは重畳。流石にあなたを抱えて動くのは厳しいのでね」

「安心しな。アンタに迷惑かける気はねぇよ……最悪、俺一人でもどうにかするさ」

男は立ち上がり、窓へ向かった。

窓と呼ぶには雑だ。板を切り抜いただけの穴に、薄いガラスの代わりに粗い布で押さえられている。

だがそれでも外の光は入る。白い光が、容赦なく。

布の隙間から覗く外は、一面の銀世界だった。

雪。氷。白。

凍りついた大地が延々と続き、遠くには低い丘が波のようにうねる。その向こうに、山脈の影が薄く横たわっている。気温は、肌が痛いほど低い。

首都ならばともかく――『神の加護』が及ばない、この外れの村落の環境は厳しい。

村人たちは、みな小さかった。体格の話ではない。生き方が小さい。火を囲み、互いの体温を盗み合い、食糧を削り、衣を繕い、同じ言葉を繰り返して冬を耐える。そういう小ささが、氷原の暮らしには必要だった。

そして同時に――ここまで『目』は届かない。

白い男が、その事実を確かめるように、息を吐いた時。

商人が背後で言った。

「ご安心を。ここに『神の手』はありませんよ。ここまで来れば、目的の半分は果たしたようなもの。あとは……山脈を越えるだけです」

白い男は振り返らずに答えた。

「……半分なら、残り半分で死ぬ可能性もある」

「ありますとも。ですが、あなたは死にません。死なせません。私も困りますからね」

商人は平然と言った。その平然さに、男は少しだけ口角を上げる。

「信用してるわけじゃねぇぞ」

「結構。信用は重いですから。軽い方がいい」

会話は淡々としているのに、含むものが多い。

寒村の一室に似つかわしくない、妙な緊張。

男は窓の外に視線を戻し、銀世界を眺めながら呟いた。

「……今頃、首都は大賑わいなんだろうな」

「でしょうね。上から下まで大騒ぎですよ。なにせ――彼らの『聖戦』が近いのですから」

商人の声には、ほんの僅かな嘲りが混じった。

神聖国の首都。光の神に仕える民たちが住む中心。白亜の聖堂。鐘楼。清潔な石畳。雪の中でも燃えるように明るい灯火。そこでは今、戦争の準備が進んでいる。

彼らは戦争とは呼ばない。『聖戦』と呼ぶ。

言葉が違えば、責任も変わる。

言葉が違えば、罪も変質する。

言葉が違えば、人は何でもできるように な(・) っ(・) て(・) し(・) ま(・) う(・) 。

男は歯を食いしばるように、舌打ちを堪えた。

「……止められると思うか?」

窓の外を見たまま、男は問う。

問いは商人に向けたものだが、半分は自分自身に向けた問いでもあった。

商人は肩を竦める。

「さあ? ですが、言えることはありますよ。止めなければ、世界が大きく揺れてしまうということ。そして現状、あの光の神に止まる気は欠片も無いということ」

商人は肩を竦める。軽い仕草。けれど、その軽さが逆に不気味だった。

普通は、神の名を出せば声が震える。震えないということは、恐れないか――あるいは恐れの外に商人がいるかだ。

男は白い髪を押さえつけるように、頭に手を当てた。頭痛が増す。視界の端が少し霞む。だが、霞みがあっても世界は見える。目を逸らす理由にはならない。

大きな騒ぎが起きる。

箱庭の中だけで繁栄していた国が、今、外界へ向けて手を伸ばそうとしている。

対話でも交流でもなく――侵攻という手を。

男の胸の奥で、何かが冷たく固まる。

怒りか、焦りか、諦めか。

あるいは、その全部なのか。

「……仕方ねぇな。止められるかどうかは分からねぇが、やれるだけやるか」

それは決意というより、責任の確認だった。

自分が「そういう立場」にいることを、改めて受け入れるための言葉。

商人はにこやかに頷く。

「私も多少のお手伝いはしましょう。私も、『神聖国一強』という未来だけは阻止したいのでね」

「……面白くないからか?」

「はい。よくご存じで」

白い男のジト目に、商人は微笑みを崩さない。まるで「退屈」が罪だと言わんばかりに。

「ま、アンタはそれでいい。それじゃ――魔国までよろしく頼む」

「ええ。お任せを。こう見えても行商人としての実力は本物ですので」

そう言って、商人は荷を担いだ。肩紐を締め、背の重みを確認し、外套の襟を立てる。動きが迷いなく滑らかだ。旅慣れた者の所作。道の恐ろしさを知っている者の慎重さ。

男も白い外套を整え、腰のあたりに手をやった。武器は見えない。だが、何も持っていないわけがない。持ち物の有無とは別に、男自身が武器のようなものだった。

外へ出る。

寒さが顔を殴った。

鼻の先が瞬時に痛み、頬が切れるように冷える。まつ毛の先が凍りかけ、息が白く弾ける。風が外套を叩き、雪煙を巻き上げる。

村人の視線が窓の隙間や戸口の影から、ちらちらとこちらを伺っているのが分かる。見慣れぬ旅人。まして、白い髪の男は異質だ。だが、誰も声をかけない。氷原の村は他人に優しくない。優しくないからこそ、余計な敵を作らない。

商人は、村の外れへ歩き出した。足跡がきゅっ、きゅっと乾いた音を立てる。

男はそれに続き、最後に一度だけ振り返った。

崩れかけた家。粗末な壁。小さな煙突から細い煙。寒村の人々の生存が凝縮された箱。

ここには神の手はない。

だが神の手がない場所は、神の慈悲もない場所だ。

生きるのに、誰も助けてくれない場所。

だからこそ、彼らは自分たちだけで生きている。

男は目を細め、再び前を向く。

その瞬間、商人がふと思い出したように振り返った。

雪の中で、何故か笑みだけが妙に鮮明に見える。

「そうそう。お名前は何てお呼びすればよろしいですか?」

問われた男は、足を止めた。

名を聞かれ、何故か男はしばし悩んだ。

いや、悩むというより選ぶが正しいのか。

今ここで使う名を。誰に渡してもいい名を。

渡しても、致命傷にならない名を。

広がる銀世界を眺めながら答えた。

白い景色。冷たい風。溶けかけた雪が、踏まれて黒ずみ始める。

白が、いずれ汚れていく未来。

「 雪(ニクス) ――ニクスでいい」

商人は、にこりと笑った。

「ニクス。良い響きです。雪は白く、溶ければ消え、踏まれれば黒ずむ。……実にあなたらしい」

「勝手に言ってろ」

「ええ、勝手に言います。そもそも、人は勝手に意味を付ける生き物です。ともすれば神でさえ、それは同じ。違うのは……付けた意味で殺し合うかどうか、くらいでしょうか」

商人の軽口を聞きながら、ニクスは鼻で笑った。

そして商人は踵を返し歩き出す。

ニクスも同じように、歩き出す。

銀世界の上に、二本の足跡が伸びていく。

一本は商人のもの。もう一本は、白い外套の男のもの。

足跡は並び、時に離れ、また寄り添う。

目指す先は山脈。

そしてその先の――魔国。

雪が舞う。風が鳴く。山脈が遠くで黒く横たわる。

白い男と、行商人。

謎の二人は、氷原を進んでいく。

ただ、 雪(ニクス) と名乗った白い男には特徴があった。

それは、白い外套から発せられる、あまりある聖気。

いかなる邪悪も寄せ付けぬような、特大の神聖さ。

村人が遠巻きに見ていた理由のひとつでもある。

あまりに――近寄りがたい神聖な色。

そしてもうひとつ。

村人は全く意識せず何も違和感を抱かない特徴。

もしもこの時、魔国の女王や、王国の王女が見ていたら驚きで目を見開くほどの特徴。

全身が白で構成されたニクスの容姿は、ある男に酷似していたのだ。

森の南部に住む、世渡有羽の姿に、とても良く似ていた。