軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第60話・『朝』

朝の森は、夜とは別の顔をしていた。

鳥の声が澄み、葉擦れの音が軽く、空気は冷たくも甘い。木漏れ日が芝の上に踊り、庭の長机には白い光が斜めに差し込んでいる。

新設の客間――その柔らかすぎる幸福の巣から、レジーナは引き剥がされるように起こされた。

「ほら、レジーナ起きて。もう朝だよ」

声は優しい。だが、容赦がない。

レジーナはふかふかの寝具に丸まり、完全に世界と和解していた。王宮で培った「浅く眠る技術」は、このベッドの前で無力だった。

「…………ぇ?」

ぽけ、とした顔でラディウスを見つめる。

まぶたが重い。頭がふわふわする。

寝ぼけ顔の第一王女という貴重な存在が、ここに完成している。

「……まだ、夜よ……」

「さすがにそれはない」

ラディウスが笑いを噛み殺す。

ソファでさえ立てなくなりかけていた彼も、朝の空気でいくらか人間に戻っていた。もっとも、妻があまりにも気持ちよさそうに寝ていたので、起こす手つきは最後まで優しかった。

だって妻が、涎垂らして寝ているのだ。起こすのが可哀そうだった。

レジーナはもぞもぞと顔を枕に埋め、最後の抵抗を試みる。

だが、その抵抗は「低反発」に吸われて消えた。

「……朝……?」

自分でも驚くほど小さな声。

王宮の寝具に不満など抱いたことがない。むしろ一級品しか知らない。

それなのに――このベッドは、身体の芯をほどき、神経の端を撫で、思考の余白にまで温度を与えてきた。

レジーナは目を開けたまま、数秒だけ呆然とする。

しばらく、ぽけー、とした顔のまま夫と見つめ合う。

王宮でならありえない沈黙だ。

互いの表情を、ただ眺めるだけの時間。

それがここでは自然に流れてしまう。

そして、ふいに現実が追いついた。

「――っ!」

レジーナは飛び起きた。

頬が熱い。耳まで熱い。

背筋が反射で伸び、寝乱れた髪を慌てて手で押さえる。

「ご、ごめんなさい! わたしったら、なんて見苦しい……!」

王女としての羞恥心が、ようやく戻ってきた。

戻ってきた瞬間、寝具に敗北していた記憶まで鮮明になる。

――涎。

――深い寝息。

――しかも幸せそうな顔。

思い出すだけで胃のあたりが恥ずかしさで捩れる。

ラディウスはくすりと笑う。

「大丈夫。ここは王都じゃないんだから。賢者殿の領域だよ……眠りこけたって、誰も怒ったりしないさ」

「も、もうっ!」

レジーナは反射で、夫の胸元をぽかぽか叩く。

もちろん痛くない。

むしろ「安心して叩ける」という事実が、昨夜の時間の価値を物語っている。

ラディウスは笑いながら受け止め、付け加えた。

「アウローラや侍女達はもう起きている。君も身だしなみを整えるといい。……外でアウローラの侍女長が待ってるから」

その言葉に、レジーナはぐっと唇を噛む。

起きるのが遅い。

王女として、完全に落第である。

「もう、もうっ!」

ぽかぽか。

しかしその手は、どこか嬉しそうだった。

レジーナはシーツから抜け出して、身支度を整えるために鏡へ向かう。

曇りのない鏡に映った自分の顔は「快適な寝具に溶けた王女」ではなく、南王国の第一王女だった。

けれど髪は、やけに艶がある。肌も、やけに整っている。

昨日の湯と、あの「泡立つ洗浄剤」の威力を否応なく実感させる。

(……これは、反則だわ)

言い訳ではない。

本当に反則なのだ。

王宮でさえ、これほどの快適は用意できない。

そうしてレジーナは、扉の外の侍女長を迎えいれる。

外は快晴。木の香りがする。

差し込む朝の光が明るい。

それだけで、心が少し軽くなる。

そんな、柔らかな朝の一幕。

◇◇◇

一方、庭はすでに戦場だった。

ただし剣ではなく、皿とコップとパンで。

有羽は長机を中心に動き回り、焼きたてのパンを籠に並べ、ベーコンエッグを木皿に載せていく。

火の管理も、皿の配置も、全員分の動線も一つの「段取り」として頭の中に組み上げられているのが見て取れる。

「コップ足りないー!」

「こっちフォーク二本! えっ、いや三本!?」

「水差し、ここ置きますね!」

「バター! どこですかバター!」

侍女隊は慣れた手つきで、護衛も当たり前のように動く。

すっかり「共同生活の一員」の顔をしていた。

ただ一人。

アウローラだけが、まったく働いていない。

椅子に背筋を伸ばして座り、両手を膝に置き、まるで良い子の見本のように待機している。

動かない。

動けば邪魔になると学習している。

その代わり、待ちきれなくて頭だけが左右に揺れている。

「まっだかなー、まっだかなー」

言葉も揺れる。わんこである。

そこへ、身だしなみを整えたレジーナとラディウスが現れた。

つい数刻前まで、第一王女が涎を垂らしていたなど、誰が信じるだろうか。

髪は艶やかにまとまり、衣服はきちんと整えられ、顔は王族の微笑を纏っている。

「おはよう皆。いい朝ね」

優雅に微笑み、声も澄んでいる。

まるで最初からこうだったかのように。

王女とは、そういう生き物だ。

だが――その完璧に、容赦なく突き刺さる声がある。

「あ、おはようございます姉上! ぐっすりでしたね! やっぱり有羽の作るベッドは凄いんですね! 私も最初はそうでした! 全然起きれなくて爆睡しちゃったのでお揃いです!!」

全部言う。

本当に全部言う。

レジーナはにっこりと微笑んだまま、音もなくアウローラの横へ歩み寄った。

そして、頬をつまむ。ひねる。

「いひゃいいひゃい。いひゃいでふ」

「嘘おっしゃい。全然平気な眼をしてるじゃない……もう」

手を離す。

姉妹の空気が、そこにふわりと広がる。

王宮の規律も、護衛の目も、社交の鎧も――ここでは少しだけ薄い。

ラディウスはその様子を見て、胸の奥で静かに息を吐いた。

昨日の夜の「重い会話」が、今は一旦棚に上がっている。

代わりにそこにあるのは、朝の光と、食欲と、笑いだ。

レジーナは手際よく動く有羽の背を眺める。

晴れた空。木の香り。整えられる皿。

そして、ふと思う。

(今回、私の滞在期間は と(・) り(・) あ(・) え(・) ず(・) 三日を予定している。賢者様とのやり取り次第で前後するとは陛下にも言ってあるし……ぎりぎりまで延長したいわね)

レジーナは心の中で言い訳を積み上げる。

事前に、やり取り次第で延長もあり得ると言ってある。

だから延長してもいい。

決して、堕落ではない。

決して、寝具と食事の虜になったわけではない。

情報収集と距離感測定だ。

胸中で、言い訳が勝手に増殖する。

(決して御飯の美味しさや、寝具の快適さに敗北した訳ではないわ。これらの製法の手掛かりを掴む為よ。止むを得ない判断よ。ええ、間違いないわ)

言い訳の最後に、ほんの少しだけ本音が混じる。

(……昨日の遊戯のリベンジも……ちょっとだけ)

護衛達も侍女達も席につき始める。

少し遅めの朝食だ。

誰のせいかは言わない。

言えば、王女の微笑が「別の微笑」に変わる。

有羽が苦笑しながら声を上げた。

「それじゃまあ、全員揃ったことだし。朝飯を――――」

そこまで言った。

笑顔で。

人当たりの良い、善性の笑顔で。

――そして、その笑みが消えた。

目の前の空気が、ほんの一瞬で切り替わる。

昼夜を分かつ境界のように、軽さが消え、重さが落ちる。

有羽は、音もなく席を立った。

椅子の脚が擦れる音すら立てない。

そして静かに、空を見上げる――東の空を。

「……有羽?」

アウローラがきょとんと問いかける。

その声は、朝の明るさを保ったまま。

けれど、有羽は答えない。視線は遥か彼方。何もないはずの「東の果て」へ。

次の瞬間。

「――全員、そこを動くな」

声が落ちた。

低く、鋭く、命令というより「警告」。

脅しではない。

安全のための声。

だからこそ、背筋に冷たいものが走った。

同時に――尋常ではない 圧(・) が、有羽の身体から滲み出る。

護衛達が反射的に身を固くする。

侍女達は息を呑み、皿に伸ばしかけた手を止める。

レジーナは微笑を保ったまま、瞳の奥だけを凍らせた。

そしてラディウスは――聖騎士としての感覚が、言葉より先に理解した。

(なん……だ……!?)

強い。

強い、などという単語が軽い。

強さの底が見えない。

有羽という存在は、昨日の会話の中で「危険」だと理解した。

だが、理解と実感は別物だ。

今、実感が襲ってくる。

十年前に打倒した魔界の悪魔――あれは確かに恐ろしかった。

だが今のこれは、恐ろしいのではなく……比較の対象がない。

レジーナは戦士ではない。

魔術師でもない。

だから「強さ」の数値は分からない。

それでも――津波の前に立った時のような、あの身体の覚悟だけは分かった。

(これが……賢者の……本当の力……!?)

息が詰まる。

空が広がる。

家が小さくなった錯覚に陥る。

そして、有羽は――

「 浮遊(フロート) 」

一言で、ふっと浮かび上がる。

風を踏むように。

重力を忘れるように。

音もなく、庭の上空へ。

結界の縁へ。

さらに、その外側――遥か上へ。

その瞬間、地上に残された者たちはようやく呼吸を取り戻す。

あの圧は押し潰すためではなく、 守(・) る(・) た(・) め(・) に(・) 封(・) じ(・) て(・) い(・) た(・) も(・) の(・) だった。

距離が離れたことで、呼吸が戻ったのだと理解できてしまう。

全員が見上げる。

空の高み。そこに有羽が立っている。

いや、立っているという表現すら曖昧だ。

そ(・) こ(・) に(・) い(・) る(・) だけで、空が彼の足場になっている。

「有羽……」

アウローラは凍えそうな恐怖を味わっていた。

有羽に対して――ではない。

何故か有羽が、 自(・) 分(・) の(・) 知(・) ら(・) な(・) い(・) 所(・) に(・) 行(・) っ(・) て(・) し(・) ま(・) い(・) そ(・) う(・) で(・) 、胸が苦しかった。

けれど有羽は――南部の主、 森奥隠者(フォレスト・ハーミット) は上空で動かない。

彼は東を見つめ……否、違う。睨んでいる。

見えない何かを、静かに。

◇◇◇

時を同じくして。

魔境の森の西――西部の主、 樹神女帝(ドライアド・エンプレス) もまた、東の空を睨んでいた。

オアシスに根を張る巨大な樹。

その頂点に、分身の樹人形が座している。

マネキンめいた顔。感情の読めない無機質。

有羽と冗談を交わす「穏やかな気配」は、欠片も感じ取れない。

風が吹く。

葉が鳴る。

だが、その音すら近づけない緊迫があった。

森の南と西。

それぞれの「主」が。

ただ静かに、他者の介入を許さぬ空気をまとい。

――東の空を、睨みつけていた。

◇◇◇

魔境の大森林を進む帝国軍の足取りは、相変わらず重く、そして力強かった。

無数の根が地表を走る獣道を、鉄靴が踏みしめていく。草は踏み倒され、枝は折られ、湿った土には鉄と汗と血の匂いが刻まれていく。先頭に立つのは帝王ウィルトスと、剣聖ハガネ。

彼らの背後には、百を軽く超える精鋭が列を成していた。

前列には厚い盾を構えた剣兵。その後ろに長槍を持つ歩兵の列。左右には素早く動ける軽装兵が付き従い、少し後方には弓兵と銃兵が、弦と引き金に指をかけながら歩を進めている。

さらに中程には、杖を手にした魔術兵たち。彼らの周りには、白い腕章を付けた衛生兵と、背嚢に鍋やパンを括り付けた料理番が続く。

森の中に道を穿ち、拠点を築き、この魔境を「帝国が支配可能な空間」に変える――そのための、軍の進撃だった。

そして――その日。

濃密な木々の壁が、唐突に途切れた。

視界が、ぱっと開ける。

「……渓谷だな」

先頭に立つウィルトスが、足を止めて低く呟いた。

森の切れ目から、深く抉れた地形が口を覗かせていた。

崖は両側から切り立ち、その底を透明度の高い川が流れている。岩肌には苔が貼り付き、ところどころから細い滝が落ちていた。谷底には小さな平地があり、草が揺れ、鳥が羽根を休めている。

風が変わる。

森の瘴気とは違う、水の匂いと、岩の冷たさを含んだ風が、帝国軍の頬を撫でる。

「……良い場所だ」

ウィルトスは、満足げに顎を撫でた。

「ここに砦でも建てれば、立派な拠点になるな。水もある、見晴らしも良い。森の中の中継地点にうってつけだ」

崖の形。川の流れ。

周囲の地形を一瞥するだけで、帝王はもう頭の中に砦の姿を思い描く。

崖上に要塞、崖下に水を汲むための階段。川を渡る橋をかけ、対岸にも見張り塔を建てる。周囲の木々を伐採し、視界を開けさせる――そんな図が自然と浮かんでくる。

周囲の将校たちも、同意するように頷く。

「崖を利用して防壁を……」

「橋を架ければ物資の運搬も……」

口々に案を出し始める軍人たち。その未来図は、決して夢物語ではない。

――そう思った、その時。

空気が、変わった。

川から立ち上る霧が、妙な揺らぎ方をする。水の流れがわずかに鈍り、崖の影が不自然に濃く。

ハガネの指先が、微かに動く。

腰の刀に添えられたその手に、僅かな緊張が走る。

次の瞬間――

渓谷の対岸、崖の裂け目から、ぬるりと「それ」が姿を現した。

「……ほう」

ウィルトスの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。

崖に沿って姿を現したのは、一匹の蛇。

ただし、常識で測れるサイズではない。

頭一つ分だけ見えているにもかかわらず、その長さは平然と木々をなぎ倒し、崖を削っている。胴の太さだけで、帝国兵十人が横一列に並べるほど。体表を覆う鱗は、黒鉄にも似た光沢を放ち、筋肉が動くたびにうねり、岩を砕く音を響かせる。

見えている部分だけでも、軽く百メートルはある。

全身を伸ばせば、一体どれほどの長さになるのか、想像もつかない。

その瞳は、黄色く濁った縦長の瞳孔。蛇特有の冷たさを湛えつつも、魔物特有の獰猛さが滲んでいる。

上位ドラゴンに匹敵する、いや、それすら超えるかもしれない圧。

兵たちが、一度に息を呑んだ。

「こいつはでかいな……!」

しかし帝王は笑った。

口角を上げ、戦斧を肩に担ぎ直す。

ハガネの方は、黙ったまま蛇を観察していた。その視線には、僅かな警戒と興味が混じっている。

(ふむ……)

剣聖は、一瞬だけ目を細めた。

その気配、その魔力の流れ、その動き――確かにこの大蛇は「並み」ではない。いままで相手にしていたデストロイホーンやサイクロプスなど、比べるのも馬鹿らしいほどの格差がある。

気を抜けば、ハガネさえ負けかねない。

そう、判断する程度には。

だが、それでも――

「先頭、盾を構えろ! 槍列、崖下を抑えろ! 弓と銃は一旦待機、魔術兵は合図があったときに一斉射だ!」

ウィルトスは、すでに指揮を執り始めていた。

自然と兵たちが動く。

盾兵が最前列に並び、槍兵が左右に展開する。弓兵は矢をつがえたまま、一旦膝をついて待機。魔術兵は杖を地面に突き立て、魔力の感覚を研ぎ澄ませる。

帝王は、前に出る。

大蛇は、その動きに応じるように、頭をわずかにもたげた。

身体を支える筋肉がうねり、その度に崖の石がぱらぱらと崩れ落ちる。

蛇の瞳が、細く、冷たく、帝国軍を見下ろした。

「負けはせぬ」

ウィルトスの声は、低く、しかしよく通った。

「踏み進み、押し通り、道を作るのが――余の進撃よ」

今も昔も。

ウィルトスの戦い方は変わっていない。

敵がどれほど強大であろうと、その前で足を止めない。横にそれない。退かない。ただ前へ進み、その身と軍勢をもって、道を穿つ。

蛇が、口を開ける。

その口から吐き出される息は、生臭く湿っていて、どこか金属の匂いがした。

「さあ、いくぞハガネよ!」

ウィルトスの声が、渓谷に響く。

「余と、余の軍と、そなたの剣の力――見せつけようぞ!」

帝王の眼は、戦の熱に燃えている。

だが――

「……」

隣の老人は、動かなかった。

「……?」

ウィルトスが、目の端でそれを捉える。

何か異変を感じて、ちらりと老人の横顔を見やる。

ハガネは――呆然と、空を見上げていた。

目の前の巨大な蛇から、視線を外して。

敵がこちらを睨んでいるというのに、その視線を逸らす。戦場においては、あってはならない行為だ。

一体何を――。

ウィルトスは、眉をひそめた。

言葉を投げかけようとした。

だが、その前に――

老人の顔に浮かんだ「表情」を見て、言葉が喉で止まった。

剣聖ハガネ。

誰より多くの死地をくぐり抜け、誰より多くの怪物を斬ってきた男。

その老いた顔に、はっきりと浮かんでいるのは――

理解と。

驚愕と。

そして、確かな「恐怖」だった。

思わず、ウィルトスも顔を上げる。

ずっと前を向いていた兵たちも、釣られるように空を仰いだ。

そして――見てしまった。

そ(・) れ(・) を見た。

視界の、上。

本来なら柔らかな光を落とすはずの青空があるはずだった。

しかし今、そこに広がっていたのは、空でも雲でもなかった。

巨大な「瞳」。

言葉が、出ない。

喉が、凍りつく。

見上げた空には――果てすら見えぬ「絶望」があった。

それは、世界の上に も(・) う(・) ひ(・) と(・) つ(・) の(・) 世(・) 界(・) が載せられたかのような光景だった。

空が、裂けているわけではない。

ただ、「何か」が、そこに「居る」。

あまりにも大きすぎて、脳が理解を拒む。

視界に入っているのは、ほんの一部のはずなのに、それだけで視界のほとんどが埋め尽くされていた。

存在の格が違う。座する次元が違う。

人がその身に宿す魔法や剣技。国が作り出す数多の技術。弱者が強者を倒す為に開発された兵器。

誇りだった。人が人として生きていく間に、積み重ねられた力。

しかし、それらはすべて「些細なもの」だったのだと、思い知らされる。

あの「何か」は――

形を持ったひとつの世界。

あるいは、天からこぼれ落ちた天体の欠片。

その存在感は、そうとしか形容しようがない。

いずれにせよ、それは。

この世の万物すべてを塗りつぶす 存在(法則) 。

世界が、歪む。

空間が、きしむ。

帝国軍の魔術兵たちが、思わず膝をついた。

脚が震えたのではない。

身体の内側――魔力の流れそのものが、何かに掴まれ、無理やり捻じ曲げられたような感覚に襲われたのだ。

「っ……う……?」

杖に縋りつきながら、魔術兵のひとりがうめき声を漏らす。

彼が準備していた術式――大気中に浮かんでいた魔力の構造式が、まるで紙切れのようにぐしゃりと潰れ、崩れ落ちる。

何をしたわけでもない。

誰かが邪魔をしたわけでもない。

ただ、「それ」が「そこに居る」というだけで、構築した魔法が紙くず同然に無効化されていく。

別の魔術兵も、震える声で言った。

「……魔力の流れが……っ……世界の、線が、変わって……」

語彙が追いつかない。

魂ごと握り潰されるような圧。

鳥肌などといった生易しいものではない。皮膚の表面だけでなく、血管、骨、内臓、一つ一つが震え始める。

命の根源――魂そのものから、怖気が走った。

それは「蛇」だった。

一匹の「蛇」。

大蛇――さきほど渓谷から姿を現した百メートル級の大蛇は。

谷の端に身を寄せ、身体を縮めて震えている。

今や、完全に「小さなもの」にしか見えなかった。

あの「蛇」の出現に怯えたのだ。

あの――全長一万メートルを越える、天より見下ろす巨大な「蛇」に。

雲のはるか上、成層圏にまで達しているであろう高さ。真上に、禍々しくも荘厳な「瞳」が浮かんでいる。その瞳孔は細く長く、虹彩は青白く、金属光沢を帯びていた。

瞳の周囲には、星々のような紋様が散らばっている。

蛇の胴は、空を横切る巨大な帯のように、遠くの地平線へと伸びている。その一部しか見えないのに、その長さが途方もないことははっきりと分かった。

世界の縁をなぞるかのように、その身をくねらせている。

彼方の雲の下で、地平線がわずかに歪んで見えた。

それは、「世界」の方が、この蛇の存在に合わせて形を変えているかのようで。

鱗は澄んだ濃紺。わずかに輝きを帯びている。

ひとつひとつの鱗が、都市の広場ほどの大きさがあるのではないかと思わせる。

鱗の隙間には、星々のような光点が散りばめられていた。夜空に浮かぶ星とそっくりの輝きが、その身体のあちこちに瞬いている。

まるで、その「蛇」の体こそが、「星空」そのものなのではないかと思えるほどに。

何故こんな巨躯に、今まで気づけなかったのか。

解らない。何一つ解らない。

人が理解できるようなモノではない。

眼が、あった。

谷底から見上げてもなお、その一瞳が視界の半分以上を占める。

楕円形の瞳孔が、ゆっくりとすぼまり、帝国軍の存在を 認(・) 識(・) し(・) た(・) ことが、嫌でも分かる。

昆虫を眺めるような、新たな石ころを見つけたような。

――そんな、感情の薄い視線。絶望的なまでの「温度差」。

あの蛇に比べれば、精鋭揃いの帝国軍ですら、ゴミか石くれにしか見えない。

鎧も、剣も、魔法も、戦術も――すべて、滑稽なほどに小さい。

「……っ!」

ウィルトスは、無意識に歯を食いしばっていた。

戦斧を握る手に力が入る。

足元が覚束ないわけではない。膝が震えているわけでもない。

それでも、「叫ぼう」と思った声が、喉から出てこない。

覇王と呼ばれた男の喉が、初めて 声(・) を(・) 忘(・) れ(・) た(・) 。

彼の隣で、ハガネがゆっくりと息を吐く。

老いた剣聖の額に、うっすらと汗が浮かんでいる。

この男にとって、「汗」は肉体の疲労の証ではない。

何度も死地を潜った剣士の本能が、ようやく認めた「格の差」の前でのみ、にじむものだ。

(……これは)

思考が、音にならない。

あの鱗一枚すら、斬れる気がしない。

刀を振るえば、届く前に「こちら」の存在が、世界から削ぎ落とされる――そんな未来が、ありありと脳裡に浮かぶ。

伝説の剣聖が――戦いの土俵にすら立てない。

理解を拒否しようとしても、身体の方が先に悟ってしまう。

膝を折りそうになる兵士もいた。

唇を噛み、必死にそれを堪える。

弓兵の指が、震えて弓弦から矢を滑らせた。

その矢が、力なく地面に突き刺さる。

誰も、それを笑わない。

笑えない。

それこそが、魔境の大森林「東の主」。

南の 森奥隠者(フォレスト・ハーミット) 。

西の 樹神女帝(ドライアド・エンプレス) 。

その二者と並び立つ同格存在。

世界の境界を喰らう蛇。

森の東の番人―― 世界天蛇(イオルムンガンドル) 。

世界天蛇の視線が、ほんのわずかに動いた気がした。

帝国軍の上を、ゆっくりと舐めるように、移動する。

誰も、息をしない。

したくても、できない。

胸が苦しい。肺が焼ける。頭が痛む。

魂が、呼吸を忘れてしまう。

一歩でも動けばその瞬間、存在ごと滅ぼされる――

そんな確信めいた恐怖が、全員の背骨の奥に突き刺る。

世界天蛇(イオルムンガンドル) 。

世界の境界を喰らう蛇は――

ただ、静かに。

何もせず。

帝国軍を見下ろし続けていた。