軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第49話・賢者と王族の会話

茶の香りが、二杯目になると少し変わる。

最初の一杯は こ(・) の(・) 場(・) 所(・) の(・) 空(・) 気(・) を飲むための茶だった。森の湿り気を切り離し、喉と肺を落ち着かせるためのもの。

二杯目は 会(・) 話(・) を(・) 回(・) す(・) ための茶になる。温度が少し下がり、甘みが立って、舌の上に余韻が残る。話す側にも聞く側にも、余計な力を抜かせる味だ。

レジーナは二杯目の湯気の立ち方を見てから、視線を有羽へ戻した。表情は穏やか、口元に微笑み。けれどその目は、刃物ではない針に似ている。細いが、確実に刺さる。

「この果実……香りが深いのに、後味が重くありませんね。乾燥の仕方が上手なのでしょうか。火加減……いえ、風の通し方かしら」

褒め言葉に見せて、探り針。

しかも「答えやすい問い」として置いてくる。技術そのものではなく、工程の概念なら話しやすいだろう、と。

有羽はその針を見て、微かに笑った。

「気に入ってくれてよかった。……とはいえ、これ自体は や(・) っ(・) て(・) る(・) こ(・) と(・) は単純だよ。水分を抜いて、香りが飛ばないようにしてるだけ」

「私達の国にも乾物はありますが……それでも、この味には届いておりません」

「うん。「ただ乾かす」だけだと香りが死ぬからね。だから、乾燥の仕方を変える。温度を上げれば早いけど、揮発するものも一緒に逃げる。逆に低温だと遅いけど、香りが残る。あとは酸化。空気に触れさせすぎると風味が変わるから、そこをどう抑えるか――っていう理屈」

理屈だけ。

術式は言わない。具体の工程も、温度も、時間も、魔法陣の形も言わない。

レジーナは心の中で「なるほど」と頷きながら、同時に笑いそうになった。

笑えないほど巧い。こちらが欲しいのは再現の鍵で、彼が渡しているのは再現に辿り着く道の地図だけだ。しかも地図は正確で、だからこそ厄介。

(綺麗に受け流しているのに、情報価値は落ちていない。……賢い方)

レジーナは次の一手として、別角度から寄せる。

「乾燥の仕方……。その「酸化を抑える」というのは、例えば密閉容器ですの? それとも――」

「容器でもいいし、乾燥の前後で空気の成分を変えるのもあり。酸素が悪さをするなら、酸素を減らせばいい。……ただし、そこまでやると「設備」が必要になる。王都なら頑張ればいけるかもね」

設備。

王都なら頑張れば。

つまり「森の奥で、自分はそれをやっている」という意味でもある。

レジーナの目尻がほんの僅かに上がった。驚きではない。好奇心と警戒が同時に動いたときの表情だ。

その横でラディウスは、黙って茶を飲んでいる。

彼はこの会話の「刃」がどこに向いているかを理解している。割って入るのが最善ではないと判断している。護衛としては、妻の背中を守るというより、妻の言葉の足場を崩さないのが仕事だ。

穏やかに。

にこやかに。

それでいて、力を抜かない綱引き。

その綱引きを――台無しにする声が、ふいに飛んだ。

「有羽も姉上も、聞きたい事はっきり聞いたらどうだ? 折角こうして会えたんだから」

アウローラだった。

本人は真面目な顔で言っている。

しかし言っている内容は、会談の卓の下に潜り込んで縄をぶった切る勢い。

有羽とレジーナが同時に肩から力を抜いた。

まるで息を止めていたところに、突然「はい深呼吸!」と言われたような脱力。

有羽が額を押さえて、声を落とす。

「……あのね。王女さんも王族なんだから解るでしょ? 俺とお姉さん、会話の中で力比べしてたの。お互いに有利になろうと、水面下の戦いをしていたと言いますか」

「うん。それは分かる。私も、相手が有羽と姉上じゃなきゃ黙ってた」

分かっていた。

分かった上で言った。

アウローラは悪びれずに、むしろ胸を張る勢いで続ける。

「でも、有羽は駄目なら駄目ってちゃんと言うだろう? 姉上は間違ったらちゃんと謝ってくれる、私の尊敬する人だ。二人なら、もっと砕けた態度で話しても大丈夫だと思う」

それは無償の信頼だった。

軽さではない。

考えた上での、揺るぎない確信。

だからこそ眩しい。

だからこそ刺さる。

有羽は、反射的に視線を逸らした。

レジーナは、反射的に頬が熱くなった。

真っ直ぐな信頼を、正面から受けるのは――どちらにとっても、少し眩しすぎる。

「……えっとお姉さん? あなたの妹さんは、昔っからこんな感じで?」

有羽が困ったように言うと、レジーナは柔らかく頷いた。

「……ええ、そうよ。王族教育をきちんと受けた上で……この純粋さを、ずっと失くさずに成長した稀有な存在。賢者様も……だから気を許したのでは?」

レジーナの視線が、有羽に静かに触れる。

探るというより、確認だ。

有羽は口角だけを上げて返した。

「……ノーコメントで」

「?」

アウローラだけが首を傾げていた。

自分がどれほどの「武器」を無自覚に振り回しているのか、本人だけが知らない。

場の空気が、少しだけ和らぐ。

綱引きの綱が、一瞬だけ緩む。

その隙を、有羽は逃さなかった。

空気が温まった「今」なら、聞けることがある。

「あー……じゃあ折角だし、気になってること聞いてみようかな。その、お姉さんの旦那さんのことなんだけど」

「? 僕かい?」

ラディウスがきょとんとした顔を見せる。

その反応が自然すぎて、逆に「こういう場に慣れている」ことが分かる。王宮の会話でも、戦場の会話でもない。雑談の空気だ。

有羽は頷いた。

「そう。旦那さん。正直、旦那さんの立場って……俺の知識や常識に合わせると摩訶不思議な感じがして。南王国だとどういう扱いになってるのかなって」

有羽の目は、探りではない。

本当に「分からない」から聞いている目だ。

ラディウスは微笑んだ。

外交向きの笑みではなく、説明する者の笑み。

「ああ、なるほどね。うん。確かに僕の立場は 色(・) 々(・) と(・) 複(・) 雑(・) だ」

レジーナも、侍女隊も、アウローラも、同時に納得する顔になる。

この話題は、王都でも何度も同じ顔を生んできたのだろう。

有羽が指を折る。

「俺が知っているだけでも、旦那さんの名称は『聖騎士』『侯爵家当主』『第一王女殿下の夫』の三つがある。で、その三つの役職が同時に存在してる。どういう状況なのかなと」

「賢者殿の懸念はもっともだ」

ラディウスは素直に認めた。

柔らかな笑みを携えたまま、しっかりと有羽と向き合い口を開く。

「本来、僕がレジーナの夫になった時点で王族籍に移るのが筋だ。侯爵家当主の座は、別の者に譲るべきだし……逆に侯爵家を守るなら、王女側が「王族の外」へ出る形になる。どちらかが片方を手放すのが一般的だ」

言い切り方が誠実。

誤魔化さない。曖昧にしない。

有羽は「だよね」と目だけで頷く。

そこで割って入ったのが、またアウローラだった。

今度はわんこではない。王族としての説明係の顔。

「全ては姉上とラディウス卿が 優(・) 秀(・) 過(・) ぎ(・) た(・) から発生した事態だ」

言いながら、アウローラはレジーナへ視線を向ける。

誇らしさが、隠しきれていない。

「姉上は外交官としての名声が高く、社交界でも有名。王国の政治の屋台骨を支える存在といっていい。侯爵家に降嫁することなんて本来ならば許されない」

次にラディウスへ。

彼に向ける目にも、自慢と矜持が宿っている。

「けれど、そこのラディウス卿は聖騎士の称号を賜った、王国最優の騎士。十年前聖剣を振るい、魔界の悪魔を討伐した王国の勇者」

ラディウスが、ほんの少しだけ頬を掻く。

照れが混じる。だが否定はしない。実績は事実だ。

「本来なら許されない婚姻も、ラディウス卿ならばと、民も貴族も認めた英雄だ。だから誰も止められなかったし、止める理由もなかった!」

まっすぐ褒める。

その褒め方に裏がない。

だからこそ、場がまた柔らかくなる。

アウローラはさらに畳みかけた。

「しかもラディウス卿は領地経営も優れていて、侯爵領は順風満帆! 宮廷も文句は言えず、姉上とラディウス卿の結婚はどこからも誰からも非難されずに進んだんだ」

有羽は、耳の裏がむず痒くなる感覚を覚えた。

あまりにも 出(・) 来(・) す(・) ぎ(・) て(・) い(・) る(・) 。

ラディウスが、そこで穏やかに補足。

彼の言葉が入ると、英雄譚が現実の行政へ降りてくる。

「ついでに言うと僕の侯爵領は、正確には王家直轄の領地でね。僕は侯爵位を賜っているが、王家の「代官」としての役目が大きい。王家の領土を預かって治める、その権限と責任が侯爵位にくっついている形なんだ」

「あー……なるほど。王家の延長線上ってことね。つまり侯爵家っていうより、王家の出先機関のトップみたいな?」

「近い。かなり近いよ」

ラディウスが頷く。

「だからレジーナが僕と結婚しても「降嫁」と言い切れない。王家の領域の中で、王家の役目を一緒に担う形になる。……もちろん、形式上は複雑だけどね」

「王家の外に出たんじゃなくて、王家の「手」の中にいる感じか」

「まさにそうだね」

ラディウスは微笑む。

王家に近いからこそ、王族籍と貴族籍の境界が薄い。

だが有羽は、まだ引っかかっていた。

「でもそれだけだと、立場が一定してない理由には……というか、将来の話が浮いてる感じがするんだよな」

その「将来」を繋いだのは、レジーナだった。

茶を一口飲んでから、淡々と。

「一番の大きな理由は、陛下――父上が未だに王位に就いていることね。まだまだ現役だから、次の王位がどうなるか決まってないのよ」

言葉が軽い。

だが意味は重い。

有羽は目を瞬く。

「……え? いや、それ、決めないんだ?」

レジーナは肩をすくめる。

王女の所作のまま、どこか家庭の愚痴みたいに。

「決めない、というより……決められない、に近いのかもしれないわね」

言葉は淡々としている。

だが、そこに「国の重さ」がある。

「私が女王として王位を継ぐ未来もあるし、ラディウスが次期国王となる未来もある。まだ確定していない。……王国の歴史を見ても珍しいわ。 ど(・) ち(・) ら(・) が(・) 跡(・) を(・) 継(・) い(・) で(・) も(・) 安(・) 泰(・) だ(・) か(・) ら(・) と(・) り(・) あ(・) え(・) ず(・) 保(・) 留(・) 、なんて選択は」

有羽は、呆れたように天井を見上げた。

「そりゃそうでしょ。普通ないから、そんな状況……」

有羽が素直に呆れる。

地球の歴史を思い出しても、「保留できる王位継承」は相当珍しい。だいたい揉める。揉めて血が流れる。揉める前提で制度ができている国すらある。

レジーナは、少しだけ肩を竦めた。

それは自嘲でもあり、誇りでもある。

「安泰、って言葉は便利だけど……その裏で、皆が気を配り続けている。派閥が暴れないように。民が不安にならないように。周辺国に付け入られないように。だからこそ、余計に複雑に見えるのだと思うわ」

「結果として僕は、聖騎士でもあり、侯爵でもあり、王族の夫でもある。……ややこしいよね」

「ややこしいなんてもんじゃない」

有羽が即答した。

「つまり、国が強いからできる贅沢な保留。で、二人が優秀だから成立してる……だから『全部持ってる』のか。将来的にどの道に進んでもいいように。どの道に進んでも国が安泰だから」

それは皮肉でもあり、羨望でもある。

そして同時に――怖さでもある。

制度が揺らがないほど強い国。

強い国は、時に平然と「異物」を飲み込もうとする。

レジーナは、その怖さを知っている。

だから微笑みを崩さずに、きっぱり言った。

「だからこそ私は、賢者様の意思を尊重するつもりよ。国が強いからといって、何をしても許されるわけではないもの」

有羽は、ほんの少しだけ目を細めた。

評価が、確かに混じる。

「……良いね。そういうのは」

レジーナは有羽の顔を見て、にこやかな笑みを浮かべる。

理解、共感、評価。会話の中でそれを、自然な形で得る。

だからこそレジーナは『社交の華』であり『外交の刃』なのだ。

ただ、この話題――夫との話題になると、レジーナの周囲には糖分が混じる。

「そして、そんな保留中の夫は、保留中だからこそこうして護衛になってくれてるのだけどね……んー! 愛してるわ、あなたー!」

レジーナが、突然ラディウスに抱きついた。

ラディウスが「わっ」と声を漏らし、しかしすぐに腕を回して抱き返す。

動作が慣れすぎている。日常だ。

侍女隊の数名が、視線を一斉に床へ落とす。

見てはいけないものを見た者の作法で。

アウローラは「うんうん」と幸せそうに頷き、

有羽は椅子にもたれて、天を仰いだ。

(……確かに安泰だ。安泰すぎて砂糖を吐きそう)

同時にこれが「安泰」の本体か、と有羽は思う。国家の安泰ではない。夫婦の安泰が国家を支えているタイプ。本来ならば成り立たない関係を、成り立たせてしまうほどの。

そうして、自然と体の強張りが抜けた状態で、茶を一口飲む有羽。

その僅かな緩みを……第一王女は見逃さなかった。

「そうそう」

と、レジーナが手を合わせる仕草をして、ふわりと空気を変える。

それは話題転換というより、場の温度を一段落とすための合図に近い。有羽とレジーナの会話は、笑顔のまま刃を合わせる綱引きだった。彼女はそれを理解したまま、綱の張り具合をほんの少し緩める。

「実は賢者様に、手土産をお持ちしましたの。是非、受け取ってください」

微笑みは柔らかい。けれど、言葉の芯は揺れない。

王族の贈り物は、贈り物であると同時に「意思表示」だ。友好の印でもあり、距離の測量でもある。

有羽は笑って返しはするが、目だけは笑っていない。

緊張が解けたわけではない。こういう贈り物ほど、断った時の角度まで計算されていることを知っているからだ。

「……国の王女様からの手土産か。胃がきりきりする響きだな」

軽口で受け流しつつ、内側で思考を回す。

毒物、呪い、追跡、契約――そういう直接的な罠ではなくても、 受(・) け(・) 取(・) る(・) こ(・) と(・) そのものが、何かの意味になってしまう。だがレジーナの表情は、そこまで露骨ではない。むしろ、あえてその不安を先回りして潰しに来た。

レジーナは苦笑して、言葉を添える。

「ご安心を。お持ちした物に複雑な意図はありません。あえて言うなら『お礼』です。以前の、海向こうの異国……あの時の助言のお礼だと思っていただければ」

その一言で、有羽の脳裏に記憶が引っ張り上げられる。

助言を求めるアウローラ。王都の晩餐会。貴族の「豪華=牛肉」という雑な価値観。海向こうの異国使節。

(あー……そんなこともあったな。最近、カレーと米とマネキンに脳のメモリ食われてたわ)

有羽が問う。

「そういえばそうだった……あれから話聞いていないけど、どうなったの? まあ、王女さんが普通に来てるってことは問題は起きなかったんだろうけど」

問われ、アウローラが唇をきゅっと結んだ。

笑顔はある。だが、その笑顔は「晴れ」ではない。喉に小骨が刺さったまま、飲み込まずに生きているような顔。

「ううん……何と言うか、『緩やかな貿易』? を続けることになったぞ」

言いながら、アウローラは自分の指を組んだ。普段は貴族的な所作を意識しない彼女が、妙に落ち着いた姿勢をとっている。これは王女としての報告の姿だ。

「有羽の言った通り、宗教観が大きく違っててな……大々的に交流を続けるのは困難だと、私達の国も、相手の船団も、同じ結論を出したんだ」

アウローラの言葉には、戦場を歩いた者特有の「距離の取り方」があった。勝ち負けではない。無理に踏み込めば、互いが裂ける、と知っている者の言い方。

「やっぱ、溝って埋まらないもんなんだな」

有羽がぽつりと言うと、アウローラは頷く。

「埋めない方が良い溝もある。あれは生活に根を張ったものだ。こちらが『合わせよう』とすれば、こっちの民は『壊された』と感じる。向こうが『合わせよう』とすれば、向こうの民が『捨てた』と感じる。……どちらも悲劇になる」

茶の香りがふわりと漂う。

ログハウスの中の空気は温かいのに、言葉だけが冷静で、鋭かった。

そしてアウローラの目が、真っ直ぐに有羽を捉える。

「けれど、有羽には感謝してる。食文化の違い。特定の動物を食べる事の宗教的禁忌。これは南王国にはなかった概念だ」

その声が少しだけ低くなる。戦争の話をする声だ。

「あの時、忠告を受けていなかったら……『緩やかな貿易』どころか、『凄惨な戦争』が起きていた可能性がある」

沈黙が落ちた。

侍女隊の誰かが息を飲み、すぐに戻すのが聞こえた。ラディウスは視線を一度だけ下げ、拳を膝の上で静かに握り直した。レジーナは微笑を消さないまま、瞳の奥を少しだけ硬くする。

戦争になっていたという言葉を、ここまで軽く言わないアウローラが言っている。

つまり、本当に紙一重だったのだ。

レジーナが、そこで柔らかく継ぐ。

空気を戻すための声ではない。言葉の意味を「儀礼」に落とし込む声。

「そのお礼なのです、賢者様。賢者様も先程言いましたように……礼とは鏡です」

彼女の微笑は、刃を隠したまま整っている。

「分かりやすい感謝を伝える『義務』が、私達王族にはありますから」

義務。

そこが肝だった。

有羽は内心で「ほら来た」と思う。善意であっても、王族にとって贈り物は「果たすべき形式」なのだ。拒否はできる。しかし拒否すれば、相手は「儀礼を否定された」と受け取らざるを得ない。悪意がなくても、話は変な方向へ転がる。

「あー……そうなると、拒否は逆に失礼だよね?」

「ええ。受け取ってください。別にかさばるような物をお持ちしておりませんから」

かさばらないという言葉に、有羽は妙な予感を覚えた。

王族が言う「かさばらない」は、庶民のそれと違う。財布がかさばらないのと同じ感覚で、宝石箱が出てくることがある。

レジーナは侍女隊に目配せした。

一礼した侍女が、丁寧に包まれた小包を取り出す。包み紙からして上等だ。紙そのものが滑らかで、触れれば指が吸い付く上質な物。

「どうぞ受け取ってください」

レジーナとアウローラ――美人姉妹の笑顔が、二方向から圧をかけてくる。

護衛の外待機の気配すら、なぜか「断るなよ?」と言っている気がしてくる。

有羽は観念し、慎重に、しかし雑に扱わないよう指先を動かして包みをほどいた。

中から現れたのは――布。

ただの布ではない。

色が、まず違う。深い藍、砂漠の夕焼けみたいな赤、草木の影のような緑、光の角度でふっと表情を変える金糸。

柄は緻密で、しかし目が疲れない。規則正しいのに「手の呼吸」が残っている。線が完全には揃っていないのに、それがむしろ全体を生かしている。

「うわ……すっげ」

有羽の口から思わず漏れたのは、きちんとした礼ではなく純粋な感嘆だった。

それが逆に、相手にとっては一番嬉しい反応でもある。

サイズはランチョンマット。

食卓に敷く布。

大きくない。かさばらない。だが価値は重い。

贈り物として「ちょうどいい凶器」だった。

(ペルシャ絨毯……! とんでもない手織りのランチョンマット……!)

有羽の頭の中で、地球の知識が勝手に翻訳してしまう。

草木染め。手結び。何ヶ月、場合によっては年単位。富と地位の象徴。嫁入り道具。使う芸術品。

有羽は布の縁に指を滑らせる。毛足の密度が異常だ。織り目が詰まりすぎて、指が沈まない。硬さではなく「密度」の強さ。

ひっくり返して裏を見れば、裏まで美しい。裏側に技術が出る。これは誤魔化しが効かない。

そして、有羽はやらかした。

本当に、うっかりだった。

あまりにも刺さってしまったから。

「……これってさ、海向こうの異国が持ってきてた? 他に絨毯サイズとかあった?」

言った瞬間、自分の中で警報が鳴る。

外交の場で「相手の持ち札」を尋ねるな。価値を示せば、次はそれを提示される。提示されたら断りづらい。断ったら角が立つ。角が立つと面倒だ。面倒は嫌だ。森に引きこもってる理由のひとつ。

レジーナの笑みが、ほんの僅かに深くなる。

花が咲く前の、静かな蕾みたいな笑み。

「……ええ、ございましたよ」

あ、と有羽が心の中で呻く。

彼女は今「賢者の欲」を掴んだ。欲といっても浅ましい意味ではない。美しいものに反応する、人間としての自然な反射だ。けれど外交官は、その自然な反射を「手がかり」として扱う。

(馬鹿か俺……! 何、正直に聞いてんだよ……うわー……)

有羽は顔を引き攣らせるのを必死で抑え、改めて布に視線を落とした。

逃げ道はここだ。品を褒めて、受け取って、しかし「次」に繋がる言質を渡さない。

布の中に、確かに「手」がある。

機械的に正確なものなら、有羽の魔法でも作れる。だがこの布にあるのは、正確さではない。僅かなズレ。僅かな揺らぎ。そこに宿る温度。

それが価値だ。人が「温もり」と呼ぶものだ。

「……ま、ありがたく受け取るよ。本当に良いモノだからこれ。大事に使わせて貰う」

有羽は正直に言った。

礼儀としての言葉ではなく、受け取った者としての実感で。

レジーナはわずかに目を細める。

その一瞬で、有羽が「嘘を言っていない」と見抜いたのだろう。

「……絨毯は流石にここまで持ち込むのが困難でしたので。ですが、絨毯が宜しければ、王都まで来てもらえれば差し上げられるのですが……いかがなさいます?」

来た。

王都へ来い、という誘い。

贈り物を餌にしているわけではない。レジーナの言葉は丁寧で、意図も正当だ。だが、有羽にとっては「森の外へ出ろ」の意味になる。

有羽は反射で答えた。

「結構です!」

あまりにも即答。

あまりにも全力。

アウローラが隣で「うわぁ」と顔をしかめた。言い方が雑すぎる、という顔だ。

侍女隊の何人かも、危うく咳払いしそうになるのを飲み込む。

レジーナは怒らない。

むしろ「なるほど」と納得したように、穏やかに微笑むだけだ。

外交官の顔で、相手の拒絶を「情報」として受け取った。

「……そうですか。残念です」

その声に棘はない。

だからこそ、逃げ場がない。

有羽は咳払いを一つして、言葉を整えた。

遅いが、何もしないよりはマシだ。

「……いや、悪い。王都が嫌いっていうか、俺には合わない。俺の性格的にも。森の外に出ると大体面倒が降ってくると思うから」

レジーナは首を傾げるように見せて、内心の帳簿に何かを書き足した顔をする。

(王都を避ける理由は「敵意」ではない。……社会そのものへの距離感。自分が巻き込まれることへの忌避。あるいは――)

レジーナはそこで思考を止め、微笑を保ったまま頷く。

「分かりました。無理に、とは申しません。賢者様がここで生きていること自体が、何よりの理由ですもの」

言葉が上手い。

尊重を示しながら、同時に「ここで生きている理由」を言語化してみせる。

それを口にした時点で、有羽が自分の理由を語りたくなる可能性が上がる――そういう誘導でもある。

有羽は、その上手さに気づいてしまって、逆に口を閉じた。

閉じて、代わりにランチョンマットをそっと抱えるように持った。

抱える動作が、品の価値を認めたことの証明になる。これ以上の言質はいらない。

「……でも、これは嬉しい。ありがとう。こういうの、正直刺さる」

「そう言って頂けて何よりです」

レジーナの微笑が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

外交官ではなく、一人の女性の顔に寄った微笑。

その瞬間、アウローラが元気よく頷いて割り込んだ。

「な? 姉上の手土産、良いだろう!」

「……ああ。良い。めちゃくちゃ良い」

有羽が素直に言うと、アウローラは嬉しそうに胸を張る。

まるで自分が織ったみたいな顔だ。

レジーナは満足げに茶を口にする。

そして有羽は思う。

(でもこれ、テーブルに敷いたら、カレーとか食えない。カレー溢したら泣く。絶対泣く。……俺は泣く)

つまり結論。

これは「使う芸術品」ではあるが、少なくともカレーの日には出せない。

森の賢者に新たな悩みが一つ増えた――そんな、ちょっとした事件であった。