作品タイトル不明
第45話・有羽の心情、帝国の今
魔国女王メトゥスと会ってから、はや一週間。
世渡有羽の生活リズムは変わらない――はずだったのに、最近は妙に「期限」というものが頭の隅に居座っている。
あと三日か、そこら。
アウローラが来る。姉である第一王女レジーナを連れてくる。
(……来るんだよなぁ。ほんとに来るんだよなぁ)
胸の奥で、面倒くささと妙な落ち着かなさが、ふわっと同居する。
だから有羽は動いた。
迎えの献立。
天ぷら。
カレー。
それに合うもの。
魚介類が必要だ。
彼は竿を一本担いで、結界の端へ向かう。
森の南部――自分の領域の、さらに奥。
木々が途切れ空が開き、風の匂いが変わる場所。
そこには「小さめの海」がある。
開けた場所に、水が広がっている。
遠目にはただの湖だ。森の中の水場。よくある景色。
けれど近づくと違う。
磯の匂いがする。
波打ち際の藻の匂い。塩の匂い。潮が乾いた時の、あの微かな鉄っぽさ。
有羽は岸辺にしゃがみ、水を指先ですくって舌に乗せた。
「……しょっぺ」
塩辛い。
湖の味ではない。
(小さい海とか意味不明だけど……本当に海だからなぁ)
笑うしかない。
森の中に、海。
世界の理屈を説明しろと言われても困る。そもそも、この森自体が巨大ダンジョンみたいなものだ。だったら「湖の形をした海」くらい、まあ、あり得る。
水面を覗けば、泳いでいる魚も海の魚だ。
川魚の類は一切いない。見慣れた銀の背。群れの動き。海の顔をしている。
鮪とか鰹とか、普通に釣れる。
森の中で。
有羽は肩の竿を軽く揺すった。
持参した竿は、当然ながら普通じゃない。
再起魔法で記憶の中から引っ張り出して作ったチート品だ。ロッドもリールも、素材も構造も、南王国の技術水準からすれば理解不能の塊。もし漁師が見たら、ガンギマリの目で詰め寄ってくるだろう。
(だからまあ、俺の日用品以外で使えないけどね)
市場を壊さないための自制。
その代わり、自分の食生活には容赦しない。
有羽は仕掛けを整え、海――いや、湖――いや、やっぱり海へと投げた。
糸が弧を描き、ぽちゃん、と水面を割る。
風が頬を撫でた。
木々のざわめきと、潮の匂いが混ざる。妙に落ち着く。海の音はないのに、海の気配だけがある。
少し待つ。
コツン。竿先が震えた。
有羽は反射で合わせる。
ぐっと、手元に重み。
「おっ」
引きが軽い。小気味いい。
上がってきたのは、鱚だった。
しかも、いいサイズ。
有羽の口元が緩む。
「……鱚、最高」
天ぷらの主役。
まさに求めていたもの。
次も。
その次も。
鱚、鱚、鱚。
群れに当たったらしく、釣れるたびに銀色が跳ねる。
籠の中に、鱚が積み上がっていく。
まるで海が「ほら、欲しいんだろ」と差し出してくるみたいだ。
有羽は心の中で礼を言いながら、淡々と手を動かした。
次に、竿先が少し深く引かれた。
今度は重い。
暴れるというより、ぐねる。
水面がもわりと盛り上がり、黒い影が翻った。
「……穴子!?」
上がってきたのは、穴子だった。
ぬらりとした身体。
細長い形。
あの、見慣れた「うなぎに似てるけど別のやつ」という顔。
有羽は思わず笑った。
釣りの楽しさは、こういう偶然にある。
「ほっくほくの大漁だなぁ……」
籠の中の鱚を見て、穴子を見て、献立が頭の中で勝手に組み立てられていく。
天ぷら。穴子丼っぽいのもいける。カレーの付け合わせに、魚のフライも――
そんな計算が回り始めた瞬間、穴子の姿形が別の連想を呼んだ。
東。
巨大な「蛇」。
森の東部でとぐろを巻いて寝ている、動くだけで森に影響する同格存在。
有羽も女帝も、全力で「行きたくない」と言う相手。
(アイツは本当に意味がわからん……)
女帝は、まだ分かる。
会話が成立する。気分の上下は激しいが、機嫌を取る余地がある。何を喜ぶかも、だいたい見当がつく。
だが、あの蛇は違う。
気配だけが重い。眠っているだけで圧がある。意思があるのかないのかすら曖昧で、こちらの常識が届く気配がしない。
(東の連中も大変そうだ)
東。
帝国。
群雄割拠の戦乱を勝ち抜いた、東の大国。
そこまで思考が伸びたところで、別の記憶がひっかかった。
(……王女さんの旦那さんが死んだのが、帝国との戦だっけか……)
有羽は詳しく知らない。
ただ、事実だけは知っている。侍女隊や護衛隊の雑談で、何度か話題に上がった。
アウローラの笑顔が増えた、という話と一緒に。
笑顔が減った時代の話も、同じ口から出てくる。
有羽は深掘りしない。
自分にも、触られたくない過去がある。
痛いところを勝手に掘り返されたら、誰だって壊れる。
アウローラが黙っている限り、自分から突っ込むことはしない。
ただ。
(……悪いけど、良い印象は持てない)
帝国の人間に会ったことはない。
会話したこともない。
どんな正義があって、どんな事情があって、どんな背景があったのかも知らない。
それでも。
――アウローラを泣かせた。
その一点だけで、帝国に対する好感度は自然と下がる。
理屈じゃない。
個人的感情で、悪いと思うけれど。
そしてそれは――自分が、アウローラを特別に想ってしまっている証拠でもあって。
有羽は釣り上げた穴子を籠に入れながら、ふっと息を吐いた。
「……あー、だめだ。考え過ぎ」
振り払うように首を振る。
森に引き籠っている自分には関係ない、と言い聞かせる。
王国も帝国も、政治も戦争も、森の外の話だ。
ここは森の南部。
自分の結界の中。
自分の生活の範囲。
有羽は籠を持ち上げた。
中で鱚が銀色に光り、穴子がぬらりと影を落とす。
潮の匂いを背に、彼は静かな足取りで帰路につく。
木々の間を抜ける風が、頬を撫でる。
結界の縁が近づくにつれ、空気が少しずつ「整ったもの」に戻っていく。
あと三日かそこらで、客が来る。
王女が来る。王女の姉も来る。
その日に備えて、今はただ魚を持ち帰る。
森は静かで、世界は広い。
有羽の足音だけが、帰り道に淡く残っていった。
◇◇◇
魔境の大森林は、南も東も相も変わらず「森」という言葉から連想される穏やかさとは、ほど遠い場所である。
日差しは厚い樹冠に遮られ、地面まで届く光はところどころに滲む薄い斑だけ。湿った土と苔の匂い、遠くで鳴る獣の咆哮、時折どこかで木が軋むような低い音――すべてが、ここが「人の領域」ではないことを告げている。
その静寂を、甲冑の軋みと足音が切り裂いていた。
帝王ウィルトスと剣聖ハガネ。その背後には、百を超える帝国精鋭の兵たちが続く。
前列には分厚い盾と長剣を構えた剣兵。
その後ろには槍を持った歩兵の隊列。もっと後方には、弓を構えた射手たちが、半ば走り、半ば歩きでついていく。
全体の中ほどには、杖を携えた魔術兵たち。腰には護身用の短剣。彼らの周囲には、弾薬箱と鉄筒を肩に担いだ銃兵の姿もちらほらと混ざっていた。
さらに側面には、森に慣れた軽装の斥候が木の陰を縫うように並走している。背負い籠には水袋と干し肉、衛生兵の背嚢には包帯と薬草。最後尾には、荷馬車こそないものの、大きな鍋や食材を抱えた料理番たちもいた。
これは、ただの「討伐隊」ではない。
小さくとも、一つの「軍」そのものだ。
森を踏破し、その内部に「道」を穿つことを目的とした帝国の牙の一つ。
そんな行軍の先頭に――王がいた。
「足を止めるな! 前列、間隔を詰めろ!」
ウィルトスは、肩にかけていた巨大な戦斧をひょいと担ぎ直しながら、振り返って兵たちに声をかける。
覇王にふさわしい、太くよく通る声だ。
そのすぐ横には、ハガネがただ静かに歩く。
背筋を伸ばし、地面のわずかな傾斜と足元の根の張り具合を、視線ひとつで把握している。腰の刀は鞘に収まったままだが、その存在は抜き身以上に鋭く感じられた。
森が、反応する。
濃い瘴気を含んだ風が、一瞬だけ逆巻いた。
「来るぞ!」
斥候の一人が叫ぶのとほぼ同時に、それは現れた。
木々の間を、地鳴りが駆け抜ける。
枝葉が揺れ、鳥が飛び立ち、その隙間から――黒い影。
「デストロイホーンだ!!」
誰かの悲鳴のような叫びが上がった。
鎧を砕く凶暴な牛の魔物。厚い筋肉と、鉄塊のような角。頭部を守るように硬い皮膚と骨が何重にも折り重なっており、普通の槍や剣では太刀打ちできない。
一体が先頭に現れると、続くように左右の樹間から二体、三体と姿を見せた。
巨大な蹄が地面を踏み砕き、突進してくる。
その先にいるのは――ウィルトスとハガネ。
「う、おおおい!? 陛下、前へ出すぎ――」
護衛役の将校が慌てて声を上げるが、ウィルトスはまるで聞いていない。
むしろ口元に笑みを浮かべて、一歩前に出た。
「よし来たぁ!」
戦斧を握る手に力が篭る。
デストロイホーンの角が、迫る。
振り下ろされた戦斧が、それを受け止める――いや、受け止めると同時に軌道を「逸らした」。
火花が散る。
帝王の腕力と技量が、魔物の突進をわずかにずらし、その巨体が彼の脇を擦り抜ける形で通過する。
「今だ!」
ウィルトスの怒号が飛ぶ。
彼の声に、兵たちが反射的に動いた。
側面に回り込んでいた剣兵と槍兵が、一斉にデストロイホーンの脇腹へ剣と槍を突き立てる。
厚い皮膚の隙間――関節、内股、首筋。
普段なら狙う余裕のない急所に、次々と刃が吸い込まれていく。
血煙が上がる。
デストロイホーンが怒りに身を捩るが、さらに別の角が横から飛び込んできた瞬間――その首が、音もなく飛んだ。
通りすがりに抜かれた刀が、何かを斬った――そう認識したときには既に結果が出ている、そんな斬り方。
擦れ違いざま。
ハガネが、文字通り「一瞬だけ」刀を抜く。
その軌跡すら、誰も見ていない。
見えたのは、デストロイホーンの巨体が一歩進んだところで、首だけが遅れて転がり落ちる異様な光景だけだった。
ご、と地面が揺れる。
血飛沫が、数歩先に立っていた兵士の頬をかすめる。
「……」
振り返ったハガネは、何事もなかったかのように刀を鞘に戻した。
その間にも、二体目、三体目のデストロイホーンが突進してくる。
「余に続けぇぇぇぇぇぇっ!!」
ウィルトスの叫びが、森に響き渡った。
その声は凶暴な魔物に怯えかけていた兵たちの胸を、内側から叩いた。
我等が王が前線に立ち、魔物と戦っている。
王が、最も危険な場所に立っている。
それなのに、自分たちが足をすくませているなど――有り得ない。あってはならない。
「行くぞ!」
「続け!」
槍兵が走り出す。剣兵が続く。
弓兵が後方から矢を放ち、魔術兵が風の刃や束縛の蔦を飛ばす。
命令だから従うのではない。
王の背を見て、自然と足が前に出ている。権力でも命令でもない、その雄姿をもって兵を従える天賦のカリスマ。
デストロイホーンの群れが、帝国軍の波に飲み込まれていく。
巨体は脅威だが、頭さえ上げさせなければ、その突進は封じられる。ウィルトスが正面で角を受けるたびに、兵たちはその隙を逃さず側面から斬り込んだ。
やがて、地鳴りは止む。
代わりに聞こえてくるのは兵士たちの荒い息と、血を吸った土がじゅくじゅくと鳴る嫌な音。
「前方、上!」
今度は、別の声が飛んだ。
兵たちが反射的に顔を上げる。
鬱蒼とした樹々の間から、ひときわ高い一本の幹が、ぬうっと動いた。
瘴気を孕んだ樹木が、意思を持ったかのように根を引きずりながら歩み出る。
幹にはねじれた顔のような節目があり、枝先には葉ではなく、棘だらけの蔦が絡みついている。
「イビルトレント!」
魔術兵が、悲鳴を含んだ声で叫んだ。
枝が鞭のようにしなり、前列の兵たちに襲い掛かる。
刃を弾く硬さと、鉄を腐らせる瘴気を併せ持つ「森そのもの」が敵になったような存在。
前列の盾兵たちが盾を構えるが、瘴気を含んだ蔦が触れた部分から、じりじりと音を立てて金属が黒く変色していく。
「ちっ、面倒だな」
そこにまた一歩、老人が出た。
ハガネが腰から刀を抜きかけた――と思ったときには、もう刀が鞘に収まっている。
ただ、彼が歩いた後に「道」が出来ていた。
イビルトレントの幹が、縦横に切り裂かれている。
茂った枝が、草を刈るようにばっさりと落とされている。
瘴気ごと、まとめて「雑草のように」刈り取られていた。
斬撃の残滓なのか、空中に漂っていた瘴気がしばらくの間だけ薄くなる。
イビルトレントは、幹の中央に刻まれた「顔」の部分だけを残し、ばらばらと崩れ落ちた。
枝に絡まれていた小さな魔物たち――森蜘蛛や小型の蝙蝠――が、ばさばさと音を立てて地面に落ちる。
兵たちはその隙を逃さず、残った小型の敵を処理していく。
さらに遠く、森の奥から重い足音。
木々の間から、今度は単眼の巨人がぬっと頭を出した。
片目に禍々しい光を宿した巨人。石柱のような棍棒を肩に担ぎ、身に纏うのは簡素な皮のみ。
「サイクロプス!」
兵たちの間から、緊張した声が上がる。
サイクロプスの石化の邪眼を見た者は、肉体そのものを石に変えられ二度と戻らない――それは、この森に限らず大陸各地に伝わる「厄災」の一つだった。
「目を合わせるな! 視線を逸らせ!」
指揮官が叫ぶ。
兵たちが慌てて顔を伏せる。
その瞬間。
サイクロプスが眼を光らせようとした、その瞬間。
刃が走った。
ハガネの身体が、一歩、前に出ていた。
誰も見ていない。
誰も、何も見えていない。
ただサイクロプスの巨大な単眼に、細い線が走り――次の瞬間、血と共に眼球が弾けた。
石化の光が放たれる前に、視線そのものを「斬り捨てた」。
サイクロプスは空を掴むように手を伸ばし、その場で膝をつく。
巨体がぐらりと揺れ、倒れ込む直前――その脳天に、ウィルトスの戦斧が叩き込まれた。
ぐしゃり、という生々しい音。
サイクロプスの身体が、ぐたりと完全に力を失った。
「ふぅ……!」
ウィルトスが戦斧を肩に担ぎ直し、振り返る。
「どうした! まだ行けるだろう!」
彼がそう叫ぶと、兵たちの喉から自然と返事が漏れていた。
「おおっ!」
恐怖もある。疲労もある。
それでも、「王と剣聖」が前にいる。
その背中を見ていると、不思議と足が前に出る。
帝国軍は少しずつ、しかし確実に森の奥へと進んでいった。
邪魔な樹は、伐採班が斧と魔法で倒す。
でこぼこした地面は、土木兵が鍬とスコップで均していく。
魔術兵が地面に防腐の魔法を刻み、道の両脇には目印となる柱が立てられる。
初めて踏み込む魔境のダンジョンに、一本の「道」が刻まれていく。
やがて、その日の進軍予定距離を終えた頃。
大樹がまばらになった、少し開けた空間に出た。
「ここを野営地とする!」
ウィルトスの声が響く。
直後、軍は流れるように動き始めた。
魔術兵が総出で結界を張る。地面に杖の先で魔法陣を描き、透明な膜のようなものが一帯を包み込む。
剣兵と槍兵は周囲に輪を作り、交代制で見張りにつく準備をする。
弓兵と斥候は、さらに外側を一周し、近くの危険な巣や魔物の気配がないか確認に走る。
別の兵たちは天幕を手際よく組み立てていく。支柱を立て、布を張り、地面に杭を打つ。水を汲みに行く兵。焚き火の場所を決め、火を起こす兵。料理番は早速大鍋を地面に下ろし、干し肉と豆と香草を取り出している。
「軍」が、わずかな時間で「拠点」に姿を変えていく。
その中心に、ひときわ大きな天幕が張られた。
そこが帝王の天幕――指揮所だ。
中に入ると、簡素ではあるが実用的な机と椅子。それに分厚い地図や、魔境の概略図を描いた羊皮紙が何枚も広げられている。
ウィルトスはその椅子に、どっかりと腰を下ろした。
鎧を少しだけ緩め、息を吐く。
「うわっはっはっは! 凄まじい森だな!」
まず出てきたのは、笑い声と感嘆の言葉だった。
「やはりここは普通の森ではない!」
額には汗が滲んでいるはずなのに、それすら楽しげに見える。
ハガネはその対面に座り、鞘から刀を抜き、無造作に布を取り出して刃を拭っていた。
血と瘴気の汚れをそっと拭い、油を薄く塗り直す。
「……おそらくはダンジョンであろうな」
老人は静かに言う。
「地形も、ただの森ではない。この調子では『山』や『谷』も出て来るぞ。外から見た地形と、内部の感覚が、微妙に噛み合っておらん」
「もはや別世界よな!」
ウィルトスは、どん、と机を叩いた。
「だが良い!」
目がぎらりと光る。
「そんな秘境を踏破してこそ我が覇道! 進撃帝の進む道は、困難を乗り越えてこそよ!」
地図の上に置かれた拳が、紙をくしゃりと歪ませた。
「……ふっふっふ」
帝王の口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「ダンジョンならば尚の事、必ず『主』がいる」
森全体か、あるいは階層ごとか。どこかに、この魔境の「主」がいる。
この世界の常識として、ダンジョンには管理者がいるものだ。巨大な魔物か、意思ある魔族か、あるいは何か別の存在か。
「それを打倒せれば、余の帝国が魔境の支配域になるといっても過言ではない!!」
天幕に、豪快な笑い声が響く。
外で兵たちが鍋をかき回し、焚き火の爆ぜる音がする。その雑多な音に混じってもなお、帝王の笑い声は、ひときわ大きく、よく通る。
ハガネはその様子を、苦笑しながら見ていた。
剣聖――不撓不屈と謳われるこの老人は、ただの戦馬鹿ではない。
女子供を守るためなら、安い報酬でも喜んで剣を振るう「慈愛」の性質を持っている。襲われた村の護衛や、逃げ遅れた子どもの救出など、金にも名誉にもならない仕事をあっさり引き受けてきた。
だが同時に。
気に入らぬことなら、例え王命であろうとも「嫌じゃ」と断る、わがままな面もある。
賄賂目当ての王侯、名誉だけを求めて民を踏みにじる貴族、己の武勇自慢に巻き込もうとする成り上がり――そういった者たちの頼みは、一刀両断に断ってきた。
『その方、剣聖ハガネとお見受けする! 我が国に仕え――』
『嫌じゃ』
そんなやり取りは、一度や二度ではない。
だからこそ、彼は「どの国にも仕えない伝説の剣豪」として名を馳せている。
そんな男が――
「やれやれ」
刀を拭きながら、肩を落とす。
「面倒な男に、手を貸すことになったものだ」
とは言いつつ。
その口調には、どこか茶目っ気が混じる。
ウィルトス・ゼノ・ウァリエタース。
この帝王について、気に入らぬ点を挙げろと言われれば、いくらでもある。
粗野。
豪快すぎる。
細かいことを気にしない。
政治に長けていないわけではないのだろうが、物事をすべて「正面突破」で片付けようとする危うさもある。
だが――
民の前で笑うときの顔や。
兵の前で前線に立つ姿や。
戦場で倒れた兵の亡骸に、静かに膝をつくときの表情や。
そういったものを帝国の港町でも、ここ数日の行軍の中でも、ハガネは何度か目にしていた。
そして、思ってしまったのだ。
――なんとも「憎めない」と。
「ふふ」
ハガネは自分でも気付かぬうちに、微笑を浮かべていた。
女子供を守るためなら剣を振るう。その一方で、気に入らない仕事はどれほど金を積まれても断る。
そんな剣聖が、今はただ――
何となく気に入った。
それだけの理由で、帝王の遠征に手を貸している。
金でも名誉でもない。覇王と呼ばれる男の、馬鹿正直なまでの「前へ進む姿勢」。
民を守るために龍を倒し、国を強くするために森へ踏み込むその在り方が、少しだけ気に入ったのだ。
「なあ、ハガネ」
酒の入った木杯を片手に、ウィルトスがこちらを見た。
「この森の『主』を斬った後は、どうするつもりだ?」
「……さてな」
ハガネは、刃を見つめたまま答える。
「道があるなら、歩くだけだ。余計なことは考えん」
「がはは! 良いなそれ!」
ウィルトスは、豪快に杯を煽った。
「ならば、しばらくは余の隣を歩け! 道は、まだまだ続くぞ!」
その言葉に、老人はわずかに目を細めた。
「……気が向いたらな」
返事は、いつも通り淡々としている。
だが、その口調にはほんの僅かに柔らかさが混じっていた。
外では、魔境の夜がゆっくりと深まっていく。
瘴気を遮る結界の内側で、帝国の精鋭たちは焚き火の光に照らされながら、それぞれの夜を過ごし始めている。
森の奥。
まだ見ぬ「主」が待つ場所へと続く道は――今、確かに、帝王と剣聖の手で穿たれつつあった。