軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第15話・スパイス地帯

「スパイス地帯」と呼ばれた一角は、想像以上に広かった。

オアシスの奥。

湿った土と浅い水脈が縫う平地に、低木と草本と背の低い樹木が、層をなして広がっている。

風が渡るたび、空気が一気に騒がしくなる。

甘い香り。

鼻を刺すような鋭い香り。

土を連想させる、重たい香り。

すっきりとした爽やかな香り。

それらが折り重なり、息を吸うだけで、口の中にまで味が広がってくるようだった。

「……は?」

有羽は、思わず足を止めた。

視線の先。

細長い種を鈴なりに実らせた草――クミンもどき。

白い小花をたくさん付けた、セリ科特有の形の草――コリアンダーもどき。

地面近くに葉を広げ、その下に太い根を隠したターメリックもどき。

そこまでは、以前、遠目に見ていた通りだ。

だが、その周囲には――。

「ちょ、ちょっと待て」

有羽は、左へ二歩、右へ三歩と、スライドするように移動する。

そこには、縦に長い鞘をいくつもぶら下げた低木があった。鞘の中には細い黒い粒。

噛んだ途端に爆発しそうな、鋭くて甘い香り――カルダモン。

少し離れたところには、細長い樹々。

近づけば、あまりにも馴染み深い、甘くて温かい香り――シナモン。

さらにその奥、釘のような形をした小さな蕾を、これでもかと付けている低木。

一つ摘み取れば、じわりと舌を痺れさせる芳香――クローブ。

赤く尖った実をいくつもぶら下げ、触れただけで指先がひりつきそうな唐辛子。

細く伸びた葉から、清涼感のある香りを放つタイム。

他にも、有羽が名前を知っているものから、見覚えのないものまで、香りと色の洪水が視界いっぱいに広がっていた。

「……」

数秒。

有羽の脳内で、何かが遅れて爆発した。

「うわー……何してんだ昔の俺」

頭を抱える。

「ここ、宝の山じゃん。っていうか、宝物庫だよこれ……」

思わず、その場でくるりと回る。

視界の右にも左にも、スパイス、スパイス、スパイス。

風がひと撫でするだけで、香りが層になって押し寄せてくる。

今までは――遠くから見て「あ、コリアンダーっぽいのがあるな」で、わざと視線を切っていた場所。

カレーを思い出したくなかったから。

(いや、バカか俺。何で近づかなかったんだよ)

自分で自分の胸ぐらつかみたい気分だった。

記憶の引き出しが、自動的に開き始める。

スパイスカレー。

キーマカレー。

バターチキン。

スープカレー。

いやそれどころか、カレー以外にも――。

「……カルダモンあるならチャイも……。

シナモンとクローブあったら、ホットワインとかも……

いや酒じゃなくても、ジュースで似たの作れそうだ……

タイムとローリエっぽいのも混ぜれば、煮込み料理が一気にレベルアップするし……」

呟きながら、涎が出かかる。

有羽の頭の中で、記憶のレシピ群が総動員されていた。

スパイスの配合表。

香りの相性。

肉との組み合わせ。

煮込み時間の違いによる味の変化。

今までは「材料がないから無理」で強制シャットアウトしていた部分が、一気に解放された結果、イメージだけが洪水のように押し寄せてくる。

近くで見れば見るほど、この地帯は圧巻だった。

線を引いたみたいに、同じ種類のスパイスがまとまって生えている。

それは自然ではあり得ない整い方だった。

女帝が何百年、何千年かけて、少しずつ「植え替え」てきた結果なのだろう。

一角をカルダモンの群生地に。

一角をタイムとローズマリー系の香草帯に。

一角を、辛味の強い唐辛子たちの楽園に。

「香り」と「効能」と「相性」を基準に、植物たちが配置されている。

まさに、女帝が作り上げた香辛料の温室――いや、野外植物園。

その真ん中で、有羽は完全に少年の顔をしていた。

「あ、これもいいな……でも、こっちも捨てがたい……いや、これとこれでブレンド作ったら絶対うまいし……」

試行錯誤の妄想だけで、何日も潰せそうだった。

そんな有羽の様子を、女帝は少し離れた場所から眺めていた。

マネキンのような無表情の樹皮の顔に――今は、確かな「柔らかさ」が宿っている。

『宝か』

木でできた唇が、ゆっくりと動く。

『宝物庫か……ふふ』

女帝の足元の草が、さざ波のように揺れた。

『かつて、この地帯まで迷い込んだ人間も、幾人か居た。彼らは皆、この子らを「奇妙な草」と呼んだ。中には、虫除け程度には使った者もいたが……』

さほど重要視されることはなかった、かつての光景を思い出す。

人間達は草の判別もつかず、ただ流し見るだけだった。

しかし、今、夢中になっている有羽は違う。

まるで、輝く星空を見るような顔――。

『――その子らを宝と称したのは、お主が初めてだ、隠者』

その言葉は、ひどく小さかった。

有羽には届かない。

今の彼は、完全にスパイスの海に溺れている。

クミンを前にして、カレーのベースを考え。

カルダモンを前にして、チャイの配合を思い出し。

クローブを見て、煮込み料理のアクセントに思いを馳せ。

そして最後に、とんでもないものを見つけて目を剥いた。

それは――水の浅いところ。痩せた花弁に、赤い柱頭と花柱のサフランもどき。

「サフラン……お前サフランだろおい。こりゃもうパエリア作るしか――」

口に出した瞬間。

「あ……駄目だ。米が無い」

有羽は、その場でがっくりと膝に手をついた。

視界の中で、黄金色のパエリアが、ふわっと湯気を立てたかと思えば、そのまま霧散する。

(何でだよ……何で米だけ無いんだよこの世界……)

日本人的には、ここが一番重要だ。

カレーライス。

オムライス。

親子丼。

チャーハン。

全て、「米」という土台あっての豊かな食文化。

南部でも、ここ西部でも、海まで見つけたのに。

なのに、いまだに――稲だけが見つからない。

有羽の肩が、だらりと落ちる。

女帝は、その様子を見て、ようやく口を開いた。

『コメ?』

不思議そうに首をかしげる。

『聞かぬ名だ。どのような子だ?』

「……あー……」

有羽は、まだ若干魂が抜けかかったまま、説明を始めた。

「えっとね。湿地帯とか、水の張ってあるところに群生する穀物で、細長い茎の先に稲穂がついてさ。その穂にできる種子――籾の外側の殻を取り除いた、粒状のやつを、俺らのところでは『米』って呼んでた」

手振りを交えて、稲の高さや穂の垂れ方を示す。

「乾燥させて、精米して、研いで、水と一緒に炊いて食べるんだ。味は……そうだな……小麦よりももっちりしてて、でもくどくなくて、味を吸いやすくて」

言えば言うほど、自分で自分の腹を減らしている気がする。

「カレーライスってのは、その米の上にカレーのソースをかけて食べる料理でさ。カレーといえば米、米といえばカレーってぐらい、セットみたいなもんで」

ここまで説明して――。

『ああ、あの子らか』

女帝の口から、あっさりとした声が出た。

『確かにこの付近には無いな』

「え?」

有羽の眼が、ぱちくりと見開かれる。

日本人的には、ここは命が懸かっていると言っても過言ではない。

「まさか知ってるの!? ねえ、どうなの女帝さん!!」

女帝は、さらりと言葉を継いだ。

『西部には無い』

そこで、指先を東に向ける。

『東部の湿地帯に生えておる。ほら、東の「蛇」めが縄張りとしとる、あそこに――』

そこまで聞いて、有羽はぐったりと項垂れた。

「やーだー!」

声が、オアシスの木々にこだました。

「それ、もう無理ってことじゃんかー! やだよー、アイツの縄張りに行くのー!!」

両手で頭を抱えて、ぐるぐるとその場で回る。

東の「蛇」。

有羽の脳内には、魔境東部の主の姿が広がっている。

見た事があるのだろう。言葉の端々に、拒絶の色が濃く出ている。

関わりたくない――そんな感情が、容易に想像つく。

『うむ。我も嫌だ』

女帝も、あっさり同意した。

『近づかなければ問題は無いがな……そもそも、あやつに近寄りたくはない』

女帝の声に、オアシスの木々がざわざわと揺れる。

それは、尊敬でも恐怖でもない、「関わりたくない相手」への本能的な距離感だった。

森の西の主と南の主が、揃って同じ顔をする。

――げー、アイツのところー? やだー。

そんなニュアンスが、空気に滲んだ。

「……米のためだけに、あいつの縄張り突っ切るとか、正気の沙汰じゃないからな……」

有羽は、しばらく「やだやだ」言い続けて――やがて、息が切れたように、ぺたんと地面に座り込んだ。

肩で息をしながら、空を仰ぐ。

「仕方ない。カレーは、パン……あるいはナンで食べよう。うん。そうしよう」

諦めるしかない。

「ああ、さようならカレーライス……」

胸の前で、そっと掌を組む。

ささやかな、哀しみの祈りを捧げる。

女帝は、その様子を黙って見守っていた。

しばらくして、有羽の顔つきが、ほんの少しだけ真剣なものに変わる。

「でも、そうか……」

視線が、森の外側――東のほうへ飛んでいく。

「東のアイツは、今も、まんじりともせず陣取ったまま?」

『うむ』

女帝は頷いた。

『あやつは動かぬだろう。そも、あやつが動けば、我かお主、どちらかが動かねばならん』

その声には、先ほどの軽さはない。

『あやつは、ただ動くだけでも、森に影響を及ぼしてしまう』

風向きが、ほんの少しだけ変わる。

オアシスの葉が、一斉にざわりと鳴った。

有羽も、同じことを理解している。

「面倒くせぇ……」

額に手を当てる。

「うん、そうだね。アイツは東で、じっとしていてもらおう。それが平和……じっとしてくれる分には、無害だし」

『うむ。違いない』

女帝も、しみじみと言う。

『静かに丸まっていてもらいたいものよ』

二人にしか分からない会話。

だが、その「面倒くささ」の規模だけは、森じゅうがうすうす感じ取っている。

そして――有羽の表情が、少しだけ険しさを増した。

東の話をしている時よりも強い……嫌悪感。

「……北の『アレ』は?」

今度は、別方向。

森の北方。

「今も変わらず?」

その問いに、女帝は一瞬、言葉を選んだ。

『……少なくとも、今は大人しくしておる。暴れる様子は無い』

慎重に、言葉を置いていく。

『これは、お主のおかげでもある、隠者。四年前、よくぞ『アレ』を抑えてくれた』

「……二度とゴメンだけどな」

有羽は、露骨に顔をしかめる。

四年前。

森の北方で、「何か」が暴れた。

地面が裂け。

空が軋み。

北の空が、血のような色に染まった。

その惨状を知っている者は、森に住まう者達だけ。

森の外には、一切知られていない。

王国も、魔国も、帝国も、神聖国も知らない。

森の内部の存在だけが――四年前の悪夢を知っている。

詳細は語られていない。

語りたくないのかもしれない。

ただ、その結果として――北の一帯が、他の三方とは質の違う「危険地帯」になったことだけは、事実だ。

そこには、東の蛇とも、西の女帝とも違う「何か」がいる。

名を呼びたくないほどの、「アレ」。

「面倒通り越して『嫌だ』」

有羽は、吐き捨てるように言った。

「『アレ』の相手はしたくない」

女帝も、静かに同意する。

しばし沈黙が落ちた。

オアシスの水音だけが、さらさらと聞こえる。

だが――その静けさの奥には、二人だけが共有する「約束」が潜んでいた。

『もしも次――』

女帝が、ぽつりと言葉を紡ぐ。

『『アレ』が動くような事態になったら』

有羽は、その続きを、当然のように引き取った。

「分かってる。その時は俺と女帝さんで――『アレ』を迎え撃つ」

南の主と、西の主。

人間の賢者と、樹神女帝。

森の中で、唯一「それを口にしていい者」達だけの、静かな取り決めだった。

もしも北が暴れれば、東も大人しくはしていないだろう。

森そのものが、崩れる。

それを防ぐための、最後の盾。

外の人間達が知らないところで、大森林の均衡は保たれている。

女帝は、わずかに視線を落とした。

『……願わくば、その時が来ぬことを』

「同感」

有羽も、息を吐く。

「マジで、平和に腐ってたいんだけど、俺。カレー作ってさ。天ぷら揚げてさ。王女さん達に食わせてさ。それだけでいいんだけど」

『ふふ』

女帝の喉奥で、微かな笑いが弾けた。

『ならば、今は存分に「腐るがよい」』

樹皮の指先が、スパイスの群れを示す。

『お主がここで料理をこしらえ、人の子と笑い合うことが――この森のどこかを、確かに穏やかにしているのだから』

「……買いかぶりすぎだろ」

照れくさそうにそっぽを向きながらも、有羽は立ち上がった。

「とりあえず、今日は『腐る第一歩』として――」

両手をぱん、と打ち鳴らす。

「このスパイス達を、丁重に持ち帰らせてもらいますよ!」

そして腕まくり。

何せ、お宝が山のようにあるのだ。全てを丁寧に採取し、出来るだけ多く持ち帰る。

もう、北や東のことは、彼の頭の中に無い。

今、有羽を支配しているのはスパイス達。そしてそのスパイスから生まれるカレーだけ。

面倒事は取りあえず投げ捨てて――有羽は採取作業に移った。

◇◇◇

しかし、物事はそう上手くいかないもので。

帰り支度を整えるはずの有羽の足は、なかなかオアシスから離れなかった。

それもそのはずで――。

「……入らん」

肩から提げた鞄の口を、これでもかと広げていた。

中には、既にいくつもの小袋が詰め込まれている。

乾燥させたクミンもどき。

ホールのコリアンダーもどき。

砕いたターメリックの根。

少量のサフランもどき。

それに、試し用に少しずつ分けてもらったカルダモンやクローブ、シナモン、タイムやら何やら――。

袋という袋がぱんぱんで、今にも縫い目がはじけそうだった。

「どんだけ豊作なんだよ……」

有羽は、半ば感嘆、半ば悲鳴混じりに呟く。

足元には、まだ「これも持っていきたい」と選別した袋がいくつか残ったままだ。

ゲームなら、インベントリが無限にあるタイプ。

現実では、そんなありがたい仕様は存在しない。

「えー……ここ削るか? いやでも、こいつはこいつで使い道あるし……」

唸りながら、袋を出したり入れたり。

見た目は完全に、旅行前に荷造りで苦しむ人である。

そこへ、女帝の声が落ちた。

『ふむ』

ささ、と足元の土が蠢く。

有羽のすぐ後ろで、樹の根と蔓がぐんぐん伸びていく。

『見ておられよ、隠者』

マネキンのような白木の手が、空中でふわりと舞う。

それに呼応するように、蔓が複雑に絡み合い、編み込まれていく。

太い蔓が、しなやかな骨組みを形づくり。

細い蔓が、それを縫うようにして網目を作る。

わずか数十秒で――。

「……おお?」

有羽の目の前に、一つの「形」が立ち上がった。

蔓で出来た、背負い袋。

背板に当たる部分には、柔らかな苔と葉がふんわりと張られ、クッションのようになっている。

肩に掛ける紐は太めで、重さが一点に集中しないよう、幅広く編まれている。

中央の袋部分は、しっかりとした網目で囲われていて、多少の衝撃ではほどけそうにない。

ところどころに、小さな木の実や花が飾りのように編み込まれていて、妙に洒落てすらいた。

『即席の 背嚢(はいのう) だ』

女帝は、さらりと言う。

『我の庭では、重き荷を運ぶ者など居らぬが……お主は人の子ゆえな。枝葉に頼る術を持たぬならば、代わりの枝葉を与えよう』

有羽は、しばし言葉を失った。

ぱちぱちと瞬きを三回したあと――。

思いきり頭を下げた。

床に額を打ちつける勢いで、ぺこりどころではない。

「ありがとう! マジでありがとう! 女帝さん、マジで女神、いや樹神だけど! ほんと助かる! ありがとう!」

異世界に来てから、有羽は割と「礼」は言ってきたほうだ。

しかし、ここまで全力で感謝を表明したのは、そう多くない。

それくらい、今は嬉しかった。

だって――。

スパイスが、もっと持てる。

『ふふ』

女帝の喉奥から、くすりと笑いが洩れる。

『喜んで貰えたなら、何よりだ』

蔓の背嚢をそっと持ち上げると、不思議なほど軽かった。

外見はがっしりしているのに、手に伝わる感触は、空気を掴んでいるようだ。

「すげ……軽っ。何これ。強度大丈夫?」

『我が織ったものだぞ?』

女帝は、少しだけ得意げに胸を張るような仕草をする。

『この森の風圧にも、あの「蛇」の息吹にも耐えられる。人の子が担ぐ荷など、露ほどの重みもあるまい』

「さらっと恐ろしい耐久テスト出てきたなぁ……」

ぶつぶつ言いながらも、有羽はさっそくスパイスの小袋たちを、蔓の背嚢に詰めこんでいく。

まるで、底がないかのように入る。

形が変わるたびに、蔓が自動的にきゅっと締まり、荷の形に合わせて微妙に調整されていく。

気づけば、先ほどまで鞄に入りきらなかった袋たちが、すべて背嚢へ収まっていた。

「……夢の装備だ……」

ちょっと、本気で涙ぐみそうだった。

背負ってみると、重さはある。

だが、不思議なほど「肩にこない」。

重さが背面全体に分散されているのだろう。

植物の繊維が、揺れに合わせて微妙に伸縮し、衝撃を吸収してくれる。

「これ、俺が死んだあと、絶対遺品として争奪戦起きるやつだよな……」

一瞬、遠い目になりかけたが、すぐに軌道修正する。

「いや、死ぬ気ないけどね!? まだ! カレー作って食うし!」

その様子を、女帝は静かに見ていた。

マネキンのような顔に――ほんの少しだけ、目元の柔らかさが増している。

『さて』

女帝が、ふと切り出した。

『カレーなるものの、試作品が出来たのなら』

有羽の視線が、ぱっと向く。

『是非、持ってきてくれ』

「え?」

有羽は首をかしげた。

「それはいいけど……女帝さん、食えないでしょ?」

女帝は、平然と頷く。

『うむ。我が食うわけではない』

「じゃあ、誰が?」

『少し、考えがあってな』

マネキンの顔に、意味ありげな笑みが浮かぶ。

口角が、じわり、と上がる。

目元は変わらないのに、どこか愉快げな気配だけが、じわじわとにじむ。

『詳しくは、次来た時に話そう』

「……」

はっきり言って、怖い。

真っ暗な夜道でこの顔に出会ったら、間違いなく全力で逃げ出すレベルだ。

(なんで笑顔ってこんなホラーになるんだろ、この人……)

心の中でだけ突っ込みながらも、有羽は頷いた。

「ま、まあ、いいけどさ。どうせ試作は作るし。持ってくるよ」

『うむ。楽しみにしておる』

女帝は、そこでふと、付け足すように言った。

『ああ、それと』

「ん?」

『その子らだが』

ぎっしり詰まったスパイスたちを、ちらりと見やる。

『もしや南部で栽培するつもりもあるのか?』

「え? 駄目? 駄目なら諦めるけど」

有羽の様子から、南部に帰った後の行動を読み取ったのだろう。

女帝は軽く諫める。

だがそれは、栽培の許可を出さないという訳では無く。

『栽培するのは構わんが……おそらく、我の庭ほどよく育たんぞ?』

「う……やっぱり?」

有羽は、予想はしていたものの、改めて言葉にされて肩を落とした。

ここは、女帝が何百年、何千年もかけて手をかけてきた地だ。

土も、水も、風も、光も。

全てが、スパイス向きに調整されている。

雑草は、ほとんど見当たらない。

あるとしても、スパイスと共存できる種ばかりだ。

病害虫の類も、近くには寄ってこない。

この環境そのものが、一つの巨大な温室装置のようなものだ。

『ああ』

女帝は、あっさり肯定する。

『お主も「中々やる」が、我には及ばん』

さらっと、口にする。

『南部の土と水であれば、「それなり」の子に育つだろうがな』

「それなり、かー……」

有羽が、微妙な顔になる。

日本人的感覚で言うところの「それなり」は、「まあ悪くはないけど、別にわざわざ褒めはしない」というニュアンスだ。

『ふふ』

女帝は、ほんの少しだけ首を傾けた。

『果たして、我の育てた子らを使ったカレーを食べて――』

わずかに間を置く。

『お主が、「それなり」のスパイスで満足できるのか否か……楽しみだ』

にやぁ、と。

木の唇が、ぐい、と大きく裂けるように笑う。

真意を知らなければ、完全に邪悪な笑みだ。

闇夜に浮かんでいたら、悲鳴を上げて逃げる自信が有羽にはあった。

「うわぁ、性格悪い」

思わず、有羽の本音が漏れた。

『誉め言葉と受け取っておこう』

女帝は、悪戯が成功した子供のように、少しだけ肩を揺らして笑う。

「……でもまあ、確かに、ここまでのスパイス味わったあとで、南部の畑で育てたやつで我慢できるかって言われると……」

目を伏せる。

「……多分、無理だな」

食う前から、試す前から、答えは出ていた。

この香りと、鮮烈さを知ってしまった。

ここで作るカレーの味を知れば――。

(……また来る羽目になるのか)

空を仰ぐ。

「……どっちにしろ、またここに来なくちゃいけないのかー……いや、まあ、良いんだけどさー」

言葉はぐったりしているが、完全に嫌がっているわけではない。

面倒なのは事実だ。

南から西へ抜ける道は、上位魔物だらけの地獄みたいな渓谷だ。

だが、女帝との会話は嫌いではない。ただ距離感が掴み辛いだけ。

それに――。

『ふふふ……』

女帝が片手を胸に当て、くすりと笑う。

『その時は、また例の「魅惑の蜜」……あの「栄養剤」なるものを頼むぞ』

木の指先が、さっき空になった瓶を軽く弾く。

瓶の内側には、栄養剤の名残がほんのり光っていた。

『あれは実に善き。根も葉も喜ぶ』

「りょーかい。次はもうちょっと量多めに持ってきますよー」

有羽は、少しげんなりしながらも笑った。

「こっちもカレーの材料もらってるわけだしね。等価交換ってことで」

『うむ。その精神、悪くない』

――有羽は、知らない。

女帝が有羽の野菜栽培や畑の管理について、「中々やる」と評したことを。

それが、この樹神女帝にとって、どれほどの賛辞であるのかを。

森と共に生きるエルフたちですら――。

『未熟』

女帝から見れば、その程度の評価でしかない。

彼らの畑。

彼らの森の手入れ。

細やかなつもりでいて、全体の流れを読めていないところが多々ある。

厳しい眼で見れば、まだまだ幼い。

そんな女帝が、「お主も中々やる」と口にした。

これは、彼女なりの「合格点」だ。

日本の農業技術の知識があるから。

勿論それもある。先人たちの知識は偉大だ。

超常の魔法能力のおかげ。

それだって原因のひとつ。人知を超えた力があってこその結果。

だが、それだけで、今の評価が生まれたわけではない。

この異世界で。

誰もいない森の中で。

何年も、何年も、失敗してはやり直し。

土を変え。

水の流し方を変え。

肥料の配合を変え。

季節を見て。

日照を見て。

虫の出方を見て。

そうやって積み上げてきた試行錯誤の時間は――決して、虚無ではなかった。

今、有羽の畑に実っている野菜たち。

有羽自身は「まあまあ」としか言わないかもしれないが。

樹神女帝という、森の絶対評価者からすれば。

『なかなか、見どころのある畑よ』

そう認めざるを得ないレベルに、達していた。

その事実を、今、知る者は二人だけ。

森の主と。

森の、少し変わった隠者。

有羽は、蔓の背嚢の紐を、きゅっと握り直した。

「……よし。とりあえず、今日はここまで。早く帰って、スパイスの下処理しないと」

振り返れば、オアシスの緑が揺れている。

「じゃ、女帝さん。また来るよ」

『ああ』

女帝は、樹皮の手をそっと上げた。

『次は、香る料理を携えて来るがよい、隠者』

有羽は軽く手を振り、渓谷へ向かって歩き出す。

背中には、蔓で編まれた背嚢。

中には、ぎっしりと詰め込まれた、香りの宝物たち。

その一歩一歩が、魔境の大森林に、新たな始まりを連れてくる第一歩になることを――このときの彼は、まだ知らなかった。