軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第137話・カレーライス

カレーライス。

それは、皿に盛られた白米の上へ、熱々のカレーを惜しげもなく注ぎかけるという、実に単純明快な料理。

単純明快――なのだが、だからといって侮ってよいものではない。むしろ逆だ。単純であるがゆえにその破壊力は絶大。香辛料の暴力的な香り、煮込まれた具材の旨味、そして米という受け皿。その全てが真正面からぶつかってきて、食べる者の理性を真正面から殴り飛ばしてくる。

起源がどうとか、どこの国でどう変化しただとか、そんな話は、この異世界では本当にどうでもよかった。

ここにいる者たちにとって重要なのは、ただひとつ。

美味い。

その一点だけである。

「…………っ!!」

アウローラ一行は、全員が無言だった。

行儀が悪いわけではない。そこは流石に王族とその傍仕えである。椅子に座る姿勢は綺麗で、スプーンの運び方にも乱れはなく、口元を汚す者もいない。見た目だけなら、実に上品な食事風景だ。

だが、その実態は少々違う。

誰一人として、口を開く余裕がない。

万魔図書館はすでに解除され、庭には有羽が用意した大きなテーブルが置かれている。日の光が差し込む穏やかな空間で、皆が皿の上のカレーライスと真剣勝負を繰り広げている。

無言で。

一心不乱に。

ひたすら米とカレーを口に運び続けている。

アウローラの青い瞳は、曇りなく輝いていた。

(すごい……すごいすごい、これはすごいぞ!!)

一口ごとに、胸の内で歓声が上がる。

辛味が舌を打つ。だが痛いだけではない。すぐ後ろから、肉と野菜の濃い旨味が押し寄せてくる。そして、それを受け止める米の存在感。ふっくらと炊き上がった粒立ちの良い白米が、カレーの重みを丸ごと抱きしめて、次の一口を強烈に欲しくさせる。

(カレーが米を引き立てて、米がカレーを受け止める! な、何だこれは!? 最強ではないか!!)

アウローラの脳裏に浮かんだのは、歴戦の英雄だった。

鋭いだけではない剣。硬いだけではない鎧。互いが互いを引き立て、欠けることなく噛み合った、最強無敵の戦士。

それが今、皿の上にいた。

勝てない。

これは理性が勝てる相手ではない。

スプーンが止まらない。

口が、次を求め続ける。

その様子は、アウローラだけではなかった。

カレーライスを食べたスキエンティアが、目を丸くしている。

最初の一口を食べた瞬間、彼女は本気で言葉を失ったらしい。唇の前にそっと手を添えて、声が漏れるのを堪えているような仕草をしていたが、それでも目の輝きまでは隠しきれていなかった。

「……この組み合わせ、すっごい。ほんとに美味しいねぇ……」

ようやく絞り出された声は、すっかり蕩けていた。

ふにゃ、と頬を緩めて微笑むその顔に神としての威厳はなく、ただただ美味しいものに心を奪われた美しい女性のもの。

その笑みを真正面から見てしまった護衛隊の男たちのうち、何人かは案の定というべきか……咽せた。

「げほっ、ごほっ!?」

「お、おい大丈夫か」

「だ、大丈夫だ……だが今のは危険すぎる……!」

カレーの刺激で咽せたのか、女神の微笑みで気を失いかけたのか、本人たちにも判別がつかぬまま、慌てて水に手が伸びる。

侍女たちは呆れ顔を向けたかったが、正直なところ彼女たちだって他人事ではない。女神の無防備な微笑みは、同性から見ても反則級の破壊力を持っていた。

「……うめぇな、これ」

白い青年、ニクスもまた、同じ卓でご相伴に預かっている。

彼はアウローラたちほど露骨に夢中ではない。食べる速度も特別早いわけではない。だが、一口ごとに淡々と、確実に皿の中身を減らしていく。

感情を派手には出さないが、止まる気配がない。

そして、有羽も。

彼もまた、スプーンでカレーライスをすくい、口に運び、ゆっくりと咀嚼する。

(……美味いな)

しみじみと、素直にそう思う。

ずっと追い求めていた味だった。

何度も夢想した。何度も脳裏で再現した。米の上にかかったカレーを、ただ思い出すだけで腹が減るほどに、恋い焦がれた味だった。

だから、本来なら……本当に本来なら……今ごろ有羽も、アウローラたちと同じように、もっと露骨に、もっと必死に、貪るように食べていたはずなのだ。

だが。

(……俺の記憶じゃ、ないんだよな……)

その事実が、すうっと氷のように入り込んでくる。

この懐かしさも。

この「ようやく辿り着いた」という感覚も。

全ては、本物の世渡有羽の記録に由来するものだ。

自分のもののようでいて、自分のものではない。

確かに今この舌で味わい、今この心で美味いと感じているのに、その奥にある郷愁だけが、少しずつ遠ざかって見える。

笑顔は浮かべられる。

美味しいのだと、ちゃんと思える。

けれど、手放しで歓喜するには、何かが足りない。

その「少しだけ遠い」感覚が、胸の内で静かに残り続けていた。

幸運だったのは、誰も有羽を見ていなかったことだろう。

あまりにもカレーライスが強すぎた。

アウローラも、侍女隊も、護衛隊も、スキエンティアも、ニクスでさえ、自分の皿と向き合うのに忙しい。

だから、有羽の顔に浮かんだ笑みが、ほんの少しだけ寂しかったことに誰も気づかなかった。

庭には日の光が満ちている。

風が吹けば、畑の葉が揺れてさらさらと鳴る。

穏やかな日差しの中で、皆が美味い美味いと無言で食べ続ける、その平和な時間の中――有羽の胸の奥には、まだ癒しきれない傷痕が小さく残っていた。

◇◇◇

「――ご馳走様でした」

それはほとんど全員の口から、ほとんど時間差もなく落ちた言葉である。

大きな木のテーブルの上には、つい先程まで激戦区だった皿や鍋が並んでいる。まだほのかに、香辛料の余韻を含んだ匂いが漂っていた。

ちなみに――カレーは完食。

もう一滴も残っていない。

鍋の底にへばりついた分すら丁寧に浚われ、炊いた米も綺麗さっぱり空である。

もちろん、アウローラ達が持ち込んだ米の在庫そのものはまだある。

だが、有羽としては当初、流石に人数分出しても多少は余るだろうと思っていたのだ。何しろ初めての米料理。好みも分からない。念のため多めに用意してはおいたが、それでも少しは残るものだと。

結果は、予想を大きく裏切ることに。

(いや、ほんとに……どんだけ食うのよ)

流石に、有羽の顔が軽く引き攣る。

具体的に誰が何杯食べたのか、あるいは総量としてどれだけ消えたのかを、あえて口に出す気はない。誰も触れたがらない話題だった。

特に侍女隊にとっては、体重的な意味で色々と死活問題になりかねないのだから。

そんな空気をまるで気にした様子もなく、アウローラは満面の笑みを浮かべたまま、ぐっと拳を握る。

頬はわずかに赤い。カレーの熱と香辛料で身体が温まったのもあるのだろうが、それ以上に興奮の色が表に出ている。いつものお日様のような明るさに、さらに熱気が足されたような顔。

「有羽。私はここに約束するぞ」

その声音には、確信がある。

食後のぼんやりした幸福感ではない。王女として何かを見定めた者の声だった。

「必ず、このカレーライスを王国内にも流行らせてみせる。うん。これは絶対だ。絶対に国の力が増す」

言い切る。

力強い断言。

有羽は目を瞬かせる。

だが、すぐにその意味も分かった。

ただ美味しいから広めたい、というだけではないのだ。

アウローラの頭の中では、もう米という食材の可能性が、カレーライスという完成形を通して、一気に展開している。

「カレーライスは、恐ろしく単純だ。炊いた米の上にカレーをかけるだけ。なのに、破壊力が凄い」

アウローラは、手振りを交えて語る。

まるでカレーライス啓蒙派の演説。

「作り置きができる。量も出せる。しかも腹持ちが良い。カレー単体でも鍋料理のように扱えるし、そこへ米が加わることで料理の格がひとつ上がる。炊き出しにも向いているし、遠征帰りの兵たちにも喜ばれるだろう」

侍女隊の何人かが、深く頷いた。

護衛隊もまた、うんうんと真顔で同意している。彼らにとっても、この満足感はかなり明確な実感として、腹に残っている。

「それに、米だ」

アウローラはそこで少しだけ得意げに、有羽を見る。

「米そのものは味が薄い。だが、味の濃いものと合わせると……いや、受け止めると言った方が正しいか。これは新しい主食になり得るぞ」

「へえ」

有羽が、少し感心したように声を漏らした。

食べてすぐそこに至るのは、やはりこの王女の嗅覚の鋭さだろう。

美味しいで終わらない。美味しさの先にある「使い道」まで即座に見ている。

「これ、備蓄にも使えるのだろう?」

アウローラが更に言葉を継ぐ。

そこまで見るか、と有羽は内心で驚いた。

だが、確かにその通り。長期保存可能な主食というのは、それだけで強い。麦が強いのは収穫量や加工のしやすさだけではない。備蓄に耐え、飢饉や戦時に命綱になり得るから強いのだ。

有羽は満足げに頷く。

「すごく使える。ただし、保管はちゃんとね。虫が湧いたり、湿気で駄目になったりするから」

「その辺りは安心していい!」

アウローラが、ぐっと胸を張る。

「食料の管理には魔導師の力も借りている! 少なくとも王都の備蓄倉庫に関しては、そこそこ入念に対策をしているつもりだ!」

水系魔導師による氷室の作成。

王都規模でなら、それは既に珍しい技術ではない。無論、貴重な魔導師を継続的に確保運用する必要があるため、国中どこでも使えるわけではないが……少なくとも王都周辺では、穀物や肉類の保管にかなり気を使っている。

とはいえ。

「……まあ、有羽の家のほどじゃないんだけどな」

アウローラは、恨めしげにログハウスの方を見やった。

庭先から直接その内部は見えない。だが彼女の脳裏には、しっかりと有羽作成の「魔導冷蔵庫」の姿が刻み込まれている。

凍らせるのではなく、一定温度で安定して冷やし続ける箱。しかもサイズが小さい。せいぜい本棚一つ分ほどの容積に、意味の分からない高性能さが詰め込まれている。

今の王国の技術では、到底再現できない代物だ。

「本当に詳しい技術、教えて欲しい……」

その声音には、純粋な羨望と、少しばかりの恨みが混ざっている。

しかし有羽は苦笑するばかり。

教えないのではなく――教えたところで、たぶん意味が薄いのだ。今必要なのは答えではなく、そこへ至る道筋だと、有羽はずっと思っている。

「トライ&エラーだよ。完成形は見せた。なら、いつか必ずそこに辿り着く。そうすれば――」

――そうすれば、たとえ自分がいなくなって大丈夫。

そんな言葉が喉元まで浮かびかけて、咄嗟に呑み込む。

なぜかは分からない。けれど、今それを口にしたら、まるで未来を決めてしまうような気がして。

「……有羽?」

アウローラが、心配そうに顔を覗き込んでくる。

「どうした? 米の味が、有羽の知っているものと違ったのか?」

相手を労わる感情が、そのまま顔に出ていた。

有羽は慌てていつもの笑みを浮かべ、視線を返す。

「いや、そういう訳じゃないよ。そりゃあ、完全に同じかって言われると違うけどさ」

そう言って、改めて先ほどの味を思い返す。

記憶の中の米と、寸分違わぬ同一かと問われれば、それは違う。

地球の、それも日本で長い年月をかけて品種改良されてきた米とは、やはり異なる。粒の印象も、香りも、甘みの出方も微妙に違う。

けれど。

「そもそも、米って色んな種類があるから。用途によって使い方も全然変わるし」

有羽はそこで、少しだけ表情を和らげた。

「そういう意味じゃ……うん。この魔国産の米は、実に俺好みだ。凄いね、リザードマン」

素直な感嘆。

誰も主食にしなかった米を、彼らは細々と守り続けた。

魔国へ亡命してからも諦めず、湿地で試行錯誤を重ねて、ようやく形にした稲作文化。

その血と汗の結晶が、今こうして自分の前にある。

脱帽するしかない。

異世界の米は、有羽にとってただ懐かしいだけの材料ではなかった。

きちんと、この世界の誰かが育ててきた命の味。

アウローラはそんな有羽の表情を見て、ほっとしたように微笑む。

「なら、よかった」

「うん。すごく良かったよ」

短いやり取り。

だがそこには、柔らかな安心がある。

庭には、食後の穏やかな空気が満ちていた。

侍女たちは余韻に浸り、護衛たちは腹をさすりながらも幸せそう。スキエンティアはまだ味に浸ってふわふわしているし、ニクスでさえ静かな顔で満足げに皿を眺めている。

有羽はそんな皆の顔を見渡して、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。