軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第134話・出会い

一通り話を終えたあと、スキエンティアは大きく息を吐いた。

考えることが多すぎる。

有羽のこと。女帝のこと。森の本質。番人の役割。北の黒竜。

頭の中でぐるぐる回る情報を一旦追い出すように、彼女はその場で、んーっと小さく声を漏らしながら背筋を伸ばす。両腕を高く上げ、指先までしなやかに伸びていく。

「ちょっと一息入れようよ。わたし、外の空気吸ってくるねー」

「おう。りょーかい。……俺も何か、お茶でも飲むかな」

有羽も机から身を起こした。

考えても考えても、今はこれ以上答えが出ない。ならば一度意識を切るしかない。そういう気持ちが、有羽の声からも滲んでいる。

台所へ向かう彼の背中を眺めながら、スキエンティアはくるりと踵を返す。

有羽の家には茶の類がいくつもある。

この森に自生する葉や実を調べ、乾かし、煎じ、時には妙な組み合わせまで試して、あれこれ作り上げた自家製の茶葉だ。中でも麦茶めいたもの――というより麦茶そのものは有羽のお気に入り。暑い日にも寒い日にも、何だかんだ飲んでいる。

『……我もあれだ。お主の「魅惑の蜜」を久々に摂取したいぞ』

宝玉の向こうから、女帝が横槍を入れる。

映像の中の樹人形は、実に恨めしそうな顔をしていた。木でできた顔なのに、どうしてそこまで「欲しい」と分かる表情ができるのか。

「魅惑の蜜? ……ああ、あれね。そういや最近全然作ってなかったなぁ」

最初は何のことかと首を傾げた有羽であったが、すぐに思い至る。

以前、西部のオアシスに赴いた際、手土産代わりに調合した植物用の活性液。

有羽にとっては、地球知識を混ぜ込んだ実用的な液肥の一種でしかない。だが、樹木そのものに近い女帝からすると、あれはどうやら恐ろしく美味な滋養らしい。

『隠者よ。今度、あの蜜の作り方を魔国の女王にも教えておけ。飲みたくて仕方ない』

「……まあ、教えてもいいけど……作れるかなぁ。あれ、俺だから簡単なだけで、実際は結構難しいぞ?」

『難しくともやらせればよい。出来るまで試行させれば、そのうちできよう』

「うわぁ……メトゥスさん、ご愁傷様」

本人のいないところで、魔国女王に妙な追加業務が発生した。

有羽は半ば本気で同情しつつ、棚から茶器を取り出し始める。

そんな二人のやり取りを背に、スキエンティアは玄関の戸へ手をかけた。

木の扉を押し開けると、外の光がふわりと流れ込んでくる。

朝だった。

清々しい、よく晴れた朝。

有羽の居住空間は、魔境の大森林の中とは思えないほど穏やかだ。結界が張られ、空気は澄み、瘴気の気配は薄い。手入れの行き届いた地面には余計な雑草も少なく、家の周囲には小さな畑や、井戸など、簡素ながら整った生活の痕跡がいくつもある。

その中には、有羽が作ってくれたスキエンティアの家――コンテナハウスもある。

風が、柔らかく頬を撫でた。

草の匂いと、湿った土の匂いがする。少し離れた場所では、小さな花が揺れている。

スキエンティアは、その景色をしばらく黙って見つめた。

(……頑張って、作ってきたんだよね)

その思いに触れるたび、胸の内側がちくりと痛んだ。

見知らぬ異世界に落とされて。

理由も分からぬまま力を与えられて。

挙句の果てに、一度死んで、それでも終わらせてもらえず、作り替えられて。

あまりにも惨い。

無意識に、スキエンティアの手が胸元へ上がっていた。

衣越しに、自分の心臓の位置を押さえるように拳を握る。

怒り。

悲しみ。

やるせなさ。

理不尽への苛立ち。

そして――護りたいと願う心。

神がひとりの人間へ向けるには、感情の振れ幅があまりにも大きくなりすぎていた。

だがスキエンティアは、それをまだ知らない。気づいていない。

気づけていないまま、ただ「苦しいな」と感じるだけの、淡い想い。

「……?」

その時だった。

視線の先。

南の方角。

何かが近づいてくる気配がある。

ごく僅かなもの。魔物のような濁った圧はない。瘴気も、殺意も、獣じみた飢えもない。

むしろ逆だ。

清浄な何か。

純白に近い、穏やかな護りの気配。

優しく、誰かを包むような、柔らかな力の流れが、樹々の向こうから近づいてくる。

スキエンティアは目を細める。

敵意がない。

あまりにも害意から遠い。

だからこそ、彼女は身構えなかった。

家の中へ向かって有羽を呼ぶこともせず、その場に立ったまま、じっと気配の接近を見守る。

やがて、木々の隙間の奥で、葉擦れの音が少しだけ大きくなった。

複数人分の気配。足音は慎重だが、迷いがない。ここを知らぬ者の歩き方ではない。少なくとも、この場所を目指して来ていることだけは確かだった。

風が吹く。

枝葉が揺れて、朝の光が森の地面へ落ちる。

その揺れる光の向こう側に、人影が差し込む気配があった。

◇◇◇

木々のざわめきが、頭上でさらさらと鳴っている。

朝の魔境の森は、夜とは違う顔をしていた。冷えた湿気を孕んだ空気は澄んでいて、葉の一枚一枚に光が宿っている。差し込む陽光は細く長く、枝葉の隙間からいく筋もの線となって地面へ落ちる。

そんな森の中を、アウローラたちは進んでいた。

昨日までとは違い、今日は戦闘が一度も起きていない。

いや、正確には――起きようとしていない。

一行の周囲を覆うように展開された白い結界が、森に潜むあらゆる害意を遠ざけていたからだ。触れれば浄化されそうなほど清澄で、柔らかな光をたたえた障壁。見た目は控えめだが、その密度と質はアウローラの知るどの防御魔法とも明らかに異なっている。

これを張っているのはアウローラではない。

同行する白髪の青年――ニクスの術である。

魔物の気配さえ遠ざかる静かな道を歩きながら、アウローラはほんの少し口を尖らせた。

「まさかニクス殿が、ここまで優れた結界術を使えるとは……むぅ。昨日の段階で使ってくれれば、ずっと楽に進めたものを」

「いや、何言ってんだよ」

白髪の青年は、半眼でアウローラを見た。

「俺のことなんて目にも入れず、ひたすら前に爆進してたんじゃねぇか」

「う」

言い返せない。アウローラは思わず声を詰まらせた。

周囲の侍女隊も護衛隊も、そろって視線を逸らす。誰も彼も、昨日の自分たちを思い出したくないらしい。理性を置いてきた集団が、怒りを燃料に魔物を蹴散らしながら進軍した、あのひどい有様を。

ニクスはそんな一同を見回し、呆れ半分に苦笑した。

「ま、今日は全員ちゃんと正気みたいで何よりだ」

「……面目ない」

アウローラが渋い顔で答えると、侍女の一人がこほんと咳払いした。

まるで「この話題はここまでに」という合図だ。

護衛の一人も小さく頷いている。全員、昨日の醜態に触れられたくないらしい。

そんな空気の中、ニクスが前方を視線で示した。

「で、王女さん。そろそろなのか?」

「ああ」

アウローラは気を取り直して前を向いた。

「もうすぐ有羽の居住空間だ。そこまで行けば、有羽の家があって……お茶があって、ご飯があって」

「どんだけ餌付けされてんだよ」

「ち、違う! 餌付けではない!! 有羽のご飯が美味しいのが悪いんだっ!!」

両手を握って、アウローラが真っ赤になって抗議する。

その反応に、侍女の何人かが肩を震わせた。護衛隊の方からも、くぐもった笑いが漏れる。

そんな周囲の気配をよそに、ニクスはふっと目元を和らげた。

その眼差しの柔らかさは、ただアウローラを見ているものではなかった。もっと個人的で、もっと静かな何かを含んでいる。

まるで、眩しいものでも見るように。

アウローラは、その視線に気づいて口ごもる。

「な、何だ? その変な視線は?」

「いや、別に。ただ……」

ニクスは一度視線を前へ戻した。

森の先にある、有羽の住処の方へ。

「楽しくやってんだなぁって思ってさ」

その言い方は、妙に柔らかかった。

ぶっきらぼうな口調なのに、どこか懐かしいものを遠くから見るような、奇妙な温度が滲んでいる。ひどく優しい声色。

しかも、顔立ちが有羽に似ているせいで余計にたちが悪い。

その何気ない表情が、有羽の面影を強く思わせて――アウローラは思わず息を呑んでしまう。

「……ニクス殿は、結局教えてくれなかったな」

「うん?」

「有羽に会いに行く目的だ」

アウローラは真面目な顔になった。

「姉上も信用しているし、私も一日同行しただけだが、あなたに害意がないのは分かる」

それは本心だった。

礼儀はできていない。言葉もぶっきらぼうだ。だが、それと人間性は別だとアウローラは知っている。むしろこの白髪の青年は、不器用なだけで、根の方はずっと真っ当だ。

「だけど……だけど万が一にも、有羽に危害を加える気だったら――」

「安心しな」

ニクスの声が、そこで被さった。

きっぱりとしていて、だが荒くはない。

むしろ年下を宥めるような、妙に落ち着いた声音。

「王女さんの大事な人を、どうこうする気は俺にないよ」

「だっ、だいじっ!?」

直球だった。

アウローラの顔が一気に熱を持つ。

頬どころか耳まで赤くなり、言葉が喉の手前でこんがらがった。

ニクスはそんな彼女を見て、逆に呆れた顔になる。

「……何あたふたしてんだ? 一目瞭然だっての。王都であんだけ取り乱しておいて、違うとか言うわけじゃないよな?」

念のためとばかりに、ニクスが周囲を見れば、侍女隊も護衛隊も揃ってこくこく頷いた。

当然である。

そこを否定する余地など、この一行の中には誰一人持ち合わせていない。

「あぶぶぶぶぶぶぶ……」

アウローラの口から意味を成さない音が漏れた。

顔を真っ赤にしたまま、視線を下に落とす王女様。

侍女たちが口元を押さえる。護衛たちも、あからさまに笑いを堪えている。公の場では絶対に見せられない、内輪の空気。

そんな和んだ空気の中、不意に視界が開けた。

木々の間から、素直な日差しが地面へ落ちる。

清潔に整えられた小さな空間。ログハウス。畑。石の井戸。見慣れた、有羽の住まう場所。

そして――そこに、ひとり。

「あ――」

アウローラの喉から、思わず声が漏れる。

ログハウスの前。

差し込む朝の光の中に、ひとりの女性が立っていた。

空の色をそのまま掬い上げたような、澄みきった蒼い髪。

眼鏡の奥で光る瞳は、宝石みたいに透き通っている。

鼻筋はすっと通り、唇の形も整いすぎていて、そこに立っているだけで周囲の空気が一段上品になったかのように見える。

王都で何人もの令嬢を見てきた。夜会で着飾った貴婦人たちも見てきた。

その上でなお、アウローラは息を呑む。

(――綺麗だ)

それは装飾で盛った美しさではない。

もっと根源的で、もっと生き物として完成された類の美貌。

美しい。

ただその一言が、胸の中に落ちる。

そして同時に、昨日クロエの映像で見た眼鏡美女の姿が鮮やかに脳裏へ蘇る。

あの時は一瞬だった。

だが今、こうして改めて見ると分かる。

あれは誤認でも、角度の悪戯でも何でもなく、本当に、恐ろしく整った女性なのだと。

日の光の中で、アウローラの足が、一瞬だけ止まる。

森の奥。

有羽が築いた静かな居場所の前で。

王国の第二王女と、探求の女神が、ようやく同じ景色の中に立ったのだった。