軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第116話・リュムノワールの夜

ミスリル求めて鉄捨てる。

それはこの世界で広く知られる諺だ。

ただの戒めではない。学者が捻り出した綺麗な言葉でもなければ、詩人が好んで口にする洒落た比喩でもない。

もっと泥臭く、もっと実務的で、もっと切実な――血の混じった叫び。

ミスリル探しに人足を取られて、畑が耕せない。

鉄の在庫が減って、釘が足りず、家が直らない。

鋸が欠けて木材加工が止まり、鎧の留め具が割れて兵が戦場に立てない。

街門の金具が壊れて盗賊が入り、最後には、ミスリルどころではない飢えが来る。

結局のところ、物流の血液はミスリルではなく鉄なのだ。

家屋にも、農具にも、調理にも、医療にも、治安にも、軍事にも。

文明を支える骨と筋は、鉄でできている。

そんなことは、誰だって分かっている。

分かった上で――。

「それでもミスリルが欲しい……それが皆の本音」

静かな呟きが、貴賓館の執務室に落ちる。

レジーナは書類から目を離さずに言った。

窓の外はもう暮れ始めており、街の空気に夜が姿を見せる。

机の上には、王国側と魔国側、双方の資金の流れを示した資料が積み上がっていた。

王国側商人の資産推移、魔国側商人の事業失敗、関係先の記録、債権の移動、担保の差し替え……普通なら、王国の第一王女が魔国側の帳簿を眺めることなどあり得ない。

だがリュムノワールは例外だった。

王国と魔国が、胃を削り合って作った共同管理都市。

その性質上、緊急時には一定以上の権限を持つ者に限り、双方の物流と金の流れを確認する権利が与えられている。

最低でも侯爵位相当。

国家の中枢に指を掛ける者だけに認められた、極めて限定的な権利。

レジーナは、その権利を生涯使わずに済むのが理想だと思っていた。

少なくとも、そう願っていた。

「一番怪しいのは……やっぱり闇ギルド関連よね。本当に野垂れ死んでくれないかしら、あいつら」

「……何度も言うけど、言葉遣いは気をつけようね、レジーナ」

「うっさいわね。文句は今回の事件の黒幕に言ってちょうだい」

向かいに座るラディウスへ、レジーナはぷりぷり怒りながら返した。

紙を捲る指先が少し荒い。

だが、荒くなるのも無理はない。

闇ギルド。

それは組織名ではない。

国が便宜上まとめて呼んでいるだけの、後ろ暗い連中の寄せ集めの総称。

密輸団。

非合法奴隷売買。

危険薬売買。

武具の横流し。

暗殺請負。

禁制品の仲介。

戦場の死体から装備を剥ぎ取って流すような、唾棄すべき輩まで含めれば切りがない。

国家を運営する以上、その撲滅は必ず議題に上がる。

そして、一度として完遂したことがない。

なぜなら――戦争があるからだ。

貧困があるからだ。

腐敗があるからだ。

魔物素材という巨大市場があり、禁制の魔法を欲しがる人間が必ず生まれるからだ。

この世界の「悪」は、首を落とせば終わる化け物ではない。

せいぜい規模を抑え込み、管理し、増えすぎないよう刈り続けるしかない。

口で言うのは簡単。しかし実行する側は、毎回胃に穴を開ける。

レジーナはよく知っていた。

王都の宮廷にだって、利権に溺れた愚か者はいる。

高貴な服を着て、上品な言葉で毒を吐く手合いなら、むしろその辺の路地裏より王城の方が多いとすら思うくらいに。

「この街の監査は、王都基準でも厳しい方よ」

レジーナは資料を追いながら言った。

「そう簡単に奴らの手が届くとは思えない。けれど……今回みたいに、遠回りで「金の巡り」そのものを弄られたら、街の監査がどれだけ厳しくても、どうにもならない」

悔しさが滲む声だった。

リュムノワールそのものがどれだけ清廉であっても、商人がこの街だけで生きているわけではない。

むしろ大商家になればなるほど、複数の街をまたぎ、複数の国に足場を持ち、別の商売の儲けと損失を複雑に組み合わせて回している。

ならば、街の外からその商流を揺らされた時、リュムノワールの内側だけを締めても発火を防げない。

向かいでは、領主もまた同様に書類をめくっていた。

深く刻まれた皺の間に、疲労と焦燥が見える。

「狙いが採掘権の売買なら、それに付随する坑道への立ち入り……あるいは関係者の買収。そこが本命でしょうか」

「おそらくね。そこが一番可能性が高いと思うわ」

レジーナは短く頷いた。

「坑口に入れる口実を作る。端材でも高純度塊でも、記録に乗らないものを抜ければ十分儲かる。あるいは封蝋職人、書記、監視側――流通の土台をいくつか買う。そこまでは筋が通るわ」

「他には?」

「……単純にミスリル目的、という最悪に頭の悪い可能性も、ゼロとは言い切れないのが困るのよ」

領主が思わず苦い顔になる。

「流石に短絡的では?」

「分かってるわ。半分は冗談よ」

苦笑しながら言って、レジーナは椅子の背にもたれた。

だが、その苦笑は半分までしか冗談ではなかった。

ミスリルの恐ろしいところは、性能そのものだけではない。

人の欲を、短絡へ引きずり落とすところにある。

鉄が文明の骨格なら、ミスリルは文明の神経と装飾と保険だ。

量は少ない。だが一つの価値が高すぎる。

ミスリルの価値は、大きく三つ。

ひとつは、性能価値。

軽く、丈夫で、魔力の乗りが良い。

次に、象徴価値。

見栄えが良い。つまり、権威と信用そのものになる。

最後に、生存価値。

刺客対策、事故対策、戦場での致命傷回避。つまり保険だ。

特に貴族や高位の官僚にとって、後ろ二つは極めて重い。

ミスリルを編み込んだマントや礼装は、ただ美しいだけではない。

光の加減で織り目が微かに煌めき、一目で上質と分かる。

しかも軽い。着る者の負担が少ない。

そして、暗器や短刀程度なら容易に通さない。

外交の場で、見栄えと命が両立する。

着用者が生き残れば、その家が生き残る。

そういう政治的価値もある。

実際、レジーナ自身もミスリルを編み込んだドレスを持っている。

軽く、美しく、そして生存性の高い最高級の礼装。

夜会では令嬢達の羨望を集め、同時に腹の探り合いの中で彼女の命を守る服。

「だから困るのよ」

レジーナは、書類から目を上げずに言った。

「ミスリルの性能を考えると、どこかの馬鹿が短絡的に「単純にミスリルが欲しい」って考えで動いたとしても、一定の説得力を持っちゃうのが」

「……そんな馬鹿が相手なら、むしろ楽なんだけどね」

「ええ。残念ながら、違うでしょうね」

ラディウスのぼやきに、彼女はすぐ答えた。

「今回の件は、あまりにも周到すぎるもの」

そこでレジーナは黙った。

思考が潜る。

机の上に散らばる紙が、ただの紙ではなく、誰かの意図の断片に見えてくる。

金の流れ。

事業の失敗。

担保の引き上げ。

資金繰りの悪化。

裏売買。

その先にある坑道。

そして協定。

(考えなさい、レジーナ)

自分の内側で、自分に命じる。

社交の華。外交の刃。そう呼ばれる自分の価値は、こういう時にこそ試される。

(今回の件で何が起こる? 何が発生する? 王国と魔国の信頼が崩れて、何を得る?)

ひとつひとつ、駒を並べるように置いていく。

王国は得をしない。

魔国も得をしない。

闇ギルドはどうか。

いや、薄い。

確かに奴らは寄生虫だ。旨味のあるところに群がる。だが、旨味そのものを消し飛ばしてまで喜ぶ類ではない。

吸うための蜜を、自らぶちまける必要はない。

(なら、損だけを狙ってる?)

そこで、帝国の顔が脳裏をよぎった。

だが即座に消える。

遠い。

この街から帝国は、ほとんど大陸の反対側だ。

手としては遠すぎる。

そして何より、帝国は野蛮ではあるが、理を破る国ではない。

条約破りの報を、レジーナはこれまで一度も聞いていない。

多くの兵を、妹の伴侶を殺した許しがたい敵国。

だがそれでも、一定の信用がある。

理を守らない国。

理ではなく、独自の信仰と熱で動く国。

王国でもなく、魔国でもなく、帝国でもない国。

――北。

「……神聖国」

かすかな呟きだった。

しかしラディウスは聞き逃さなかったらしい。視線を上げる。

「そこに行く?」

「可能性はあるわ」

レジーナは資料の一点を見つめたまま答えた。

「時折魔国を攻めていた過激派……あれが単独の暴発ではなく、もっと長い手の先端だったら? この街に直接兵を入れられないから、闇を経由して協定を揺らす。採掘権売買を隠れ蓑にして、坑道へ入り、流通を汚し、信頼を壊す」

「そして王国と魔国の間に亀裂を入れる」

「そう」

レジーナの瞳が細くなる。

「もしそれが成立したら、得をするのは誰? 王国でもない。魔国でもない。闇ギルドですらない。北の連中だけよ」

信仰のためなら街ひとつ壊しても構わない。

神の名の下なら、均衡を崩すことすら善行と言い張れる。

そういう国だ。

「……時折の侵攻は隠れ蓑。表で騒ぎを起こしつつ、裏では別の手を伸ばしていた……そういうことかい?」

ラディウスの声音も低くなる。

レジーナは、ようやく顔を上げた。

「まだ断定はしない。でも、線としては綺麗すぎるのよ」

窓の外は、もうほとんど夜だった。

鍛冶場の火だけが、ところどころで赤く灯っている。

この街の人間たちは、きっと今も鉄を打ち、釘を作り、鍋を直し、留め具を整えている。

そういう地味で重い実務の積み重ねが、文明を支えている。

その上にミスリルの煌きが乗る。

順番を間違えてはならない。

それを間違えた時に何が起こるかを知っているからこそ、人は「ミスリル求めて鉄捨てる」と言うのだ。

だが今、誰かがその順番をわざと狂わせようとしている。

レジーナは、北の見えない地平を思った。

雪と山脈の向こう、閉じた箱庭のような宗教国家。

あそこから伸びた手が、王国と魔国の境目にまで触れているのだとしたら――。

「……嫌な話ね」

ぽつりと、彼女は言った。

「本当に嫌」

「君がそこまで露骨に嫌がるの、珍しいね」

「そりゃそうでしょう。私はね、頑張って苦労してようやく作った均衡を、横から訳の分からない理屈で壊されるのが大嫌いなの」

ラディウスは苦笑した。

レジーナは、そこで初めて少しだけ肩の力を抜いた。

だが目の鋭さは消えない。

「……過去に出入りした商人の記録も洗う必要があるわね。私の推測が正しければ、逆に目立つものがあるはずよ」

「闇ギルドと神聖国の線を?」

「ええ。見つからないなら、それでもいい。でも「あるかもしれない」のに見ないのは、怠慢だもの」

そう言って、レジーナは再び書類へ視線を落とした。

王国は得をしない。

魔国も得をしない。

帝国も違う。

闇ギルドだけでは薄い。

ならば残るのはどこか。

王女の思考は、見えざる北の国へと静かに伸びていく。

冴えわたる刃のような直感が、まだ姿を見せない敵の輪郭をなぞっていた。

◇◇◇

――その頃。

リュムノワールの夜の裏路地は、表通りの喧噪から切り離された別世界のようだった。

五年前に国際管理都市となったこの街は、制度だけ見れば丁寧に作り上げられている。

監査は厳しい。記録は細かい。共同監視区の巡回も怠られず、傭兵や冒険者を雇って見回りを強化している区域さえある。

王国と魔国、両国が胃を痛めながら築き上げた街であることに疑いはない。

だがそれでも、まだ「たったの五年」しか経っていない。

制度は新しく、秩序は若い。

そして若い秩序には、必ず継ぎ目がある。

歴史が浅いということは、それだけで闇の手が潜り込む隙間を意味していた。

無論、簡単ではない。

レジーナが見立てた通り、この街で闇ギルドが幅を利かせるのはとても困難だ。

下手な真似をすれば即座に監査に引っ掛かる。街の中だけで商いを完結させる限り、そうそう思い通りには動けない。

だが、それでも皆無ではない。

闇は、確かにある。

そして――その闇の一端に、今夜、商人とニクスが足を踏み入れていた。

大通りから二度折れた先、建物と建物の隙間にできた死角のような裏路地。

昼間は荷車の車輪が擦れるだけの狭い通りも、夜には別の顔を見せる。

湿った石畳。積み上げられた樽。壁際に溜まった煤と泥。

人の気配は薄いのに、誰かの視線だけはありそうな路地。

その路地の一角に、壁へ背を預けた男がいた。

背丈は並。体つきも、よく見れば鍛えていると分かる程度。

街に馴染む地味な上着に、よく使い込まれた革靴。どこにでもいるような男だ。

それが逆に、この街では目立たないための技術。

その男へ向かって、商人はにこやかに口を開いた。

「――はい。そんな訳なので、あなたに幾つか伺いたいのですよ」

あまりにも自然な問いかけ。

「今回の件、どこまであなた達「闇ギルド」が関わっていますか?」

問われた男は答えなかった。

というより、まず意味が分からなかった。

なぜ。

どうして。

こうも簡単に自分の居場所を突き止められたのか。

男の目が細くなる。

「お前……何者だ?」

男は壁に背を預けたまま、ゆっくりと言った。

警戒はしている。だが抜こうと思えばいつでも抜ける位置に刃があり、逃げるべき路地の角度も頭に入っている。

それでも声の底に滲んだのは、剥き出しの警戒よりも困惑だった。

「ただの商人じゃねぇな」

「いえ? ただの旅商人ですよ?」

商人は肩を竦めてみせた。

「流れ流れてこの街に辿り着いた、ごく普通の行商人です」

「ふざけるな。単なる商人が、どうして俺のことを知ってる? 素性を晒すような間抜けはやってねぇぞ」

男は路地裏の壁に肩を預けたまま言った。

その声音に、露骨な敵意はない。

だが警戒は変わらず濃い。

確かに男は、この街に潜む闇ギルドの一員だった。

武器の横流し。

薬の密売。

ミスリル端材の裏売買。

表に出せば即座に首が飛ぶような仕事を、隙間を縫うようにこなしてきた男だ。

だが目立つ真似はしていない。

そうせざるを得ないのだ。この街の規制は本当に厳しい。

「この辺りでは見ない顔だ」

男は商人を見た後、その隣に立つ白髪の青年へ視線を移した。

「そっちの白髪もな」

「…………」

「だんまりか。別に構わねぇが」

ニクスは何も言わない。

白い神官風の衣の中に、ただ静かに立っている。

街灯も届かぬ薄暗がりの中、その白さだけが妙に浮いて見えた。

「それで? 話を聞きたいならタダって訳にはいかねぇよ」

男は鼻で笑った。

「お前も商人名乗るなら、それくらいは分かるだろ?」

「ええ、それは勿論」

商人はにこやかに頷いた。

そして懐から硬貨を一枚取り出し、男の手元へ差し出した。

「なので、はい」

「……は?」

たった一枚。

それだけを見れば、ふざけているようにしか見えない。

だが男は、次の瞬間に顔を引きつらせた。

硬貨は確かに一枚だった。

だが、銅貨でも銀貨でも金貨でもない。

白金貨。

王侯貴族、あるいは大豪商が、大口取引の時だけ使う代物。

国家予算級の金が動く時にようやく顔を出す、常人には縁のない硬貨。

金銭価値だけで言えば金貨百枚を優に超える。

だが本当に厄介なのは、その価値そのものではない。

白金貨を持っている、という事実が、その人間の立場をある程度保証してしまうのだ。

一介の旅商人が、持っていていい代物ではない。

「てめぇ……本当に何者だ?」

さっきまでの警戒とは別種の冷えが、男の背を撫でた。

表と裏、両方の嗅覚が告げている。

深入りしてはならない相手だ、と。

「ですから」

商人は薄く笑みを深めた。

その笑い方が、妙に静かで寒かった。

「 た(・) だ(・) の(・) 旅(・) 商(・) 人(・) で(・) す(・) よ(・) ? そ(・) う(・) い(・) う(・) 体(・) で(・) お(・) 願(・) い(・) し(・) ま(・) す(・) ね(・) ?」

「……」

男は白金貨を見たまま数秒黙った。

それから小さく舌打ちし、懐へしまう。

「分かった。深くは聞かねぇ」

「助かります」

「で、今回の件ってのはアレか? ミスリル原鉱の品質検査についてか?」

「まさか」

商人は即座に否定した。

「そんな建前の話ではなく……採掘権の裏取引についてですよ」

「……なるほど。ある程度は掴んでるって訳か」

男は溜息を吐いた。

もう誤魔化しても仕方がない、という顔だった。

「結論から言う。ギルド内の上層部の一部が、勝手に動いた結果だ。全員が全員、今回の件に賛同してる訳じゃねぇ」

「おや?」

商人が、わざとらしく小首を傾げる。

「もしかして結構、割れてる感じですか?」

「ああ。むしろ反対の方が多い」

男は吐き捨てるように言った。

「俺たちは別に、この街を壊したい訳じゃねぇんだよ。王国と魔国、両方の商人を巻き込んで採掘権を弄るなんざ、流石に揺れすぎる。この街が戦場になる可能性だってある」

「へぇ。てっきり戦争も望むところ、みたいな組織だと思ってましたが」

「限度があんだよ」

男の声が一段低くなる。

「得るもんのねぇ戦争なんざ、こっちだってお断りだ。俺は確かに悪党だし、ドブネズミみてぇな商売で食ってるがな……寝床や餌場を壊してまで戦争始める趣味はねぇ」

その言葉は、妙に真っ直ぐだった。

闇ギルド。

そう呼ばれる連中の中には、確かに筋金入りの屑もいる。

だが同時に、戦災孤児や、元奴隷や、法の枠からはじき出された者たちの巣穴でもある。

綺麗な場所ではない。胸を張れる場所でもない。

それでも、生きるための場所ではあり、その巣穴そのものを燃やす趣味はない。

男の言葉には、そういう現実があった。

商人は一瞬だけ、その男を見つめた。

それから柔らかく頷く。

「……となると、今回の件を止めたい勢力は、闇ギルド内にもあるのですね?」

「ああ。だが、動いた連中は古株でな」

男は眉をひそめた。

「ギルド内じゃ相当権力を持ってる。そう簡単にこっちも動けねぇよ。下手に歯向かえば、こっちの命が危ない」

「なるほど」

商人は、今の情報を頭の中で並べ替える。

闇ギルド内の派閥。

街を壊してでも利を取る派。

街という住処を残したまま、蜜だけを吸いたい派。

そして権力が大きいのは、前者――古株の上層部。

「それで? こんなもんでいいか?」

男は眉間に皺を寄せたまま言う。

「一応、バレたら首を切られるどころじゃ済まねぇ情報を渡したつもりだが」

「ええ、十分ですよ」

商人は穏やかに笑った。

「それにしても、よく教えてくれましたね。てっきり持ち逃げされるか、誤情報でも掴まされるかと思っていたのですが」

「冗談がきついな、おい」

男は苦い顔をした。

「勘弁してくれよ――俺は命が惜しいんだ」

「…………」

その言葉は、筋が通っているようで、どこかおかしい。

上層部に知られれば殺される。

なら黙っていればいい。

それでも喋った。

つまり男は――上の古株よりも、今ここで下手を打つ方を恐れている。

目の前の商人ひとりに恐怖している。

商人は何も言わない。

ニクスも、やはり何も言わない。

ただ、その沈黙が男には十分だった。

「じゃあな」

男はそれ以上、余計なことを言わなかった。

路地裏のさらに奥、建物と影が重なる方へ身体を滑り込ませる。

靴音もほとんど立たない。数歩も進めば、もう夜の街の闇に溶けて見えなくなった。

その背を見送りながら、商人がぽつりと呟く。

「いやはや、世の中にはちゃんといるんですね」

声音は柔らかい。

いつもの、胡散臭い、にこやかな笑みのまま。

「――身の程というものを、分かっている人が」

ぞくりとするような響きだった。

胡散臭い笑顔のまま放たれた、寒気を覚えるような言葉。

ニクスは頭を掻いた。

商人の言葉に引っかかる様子もない。最初からそういう男だと認識しているかのように、さらりと次の問いを投げる。

「それで? これからどうする」

白い青年の声は平坦だ。

「闇ギルドの上層部のところに、このままカチ込みでもかけるか? お前なら大体の居場所は掴んでるだろう?」

「うーん」

商人は少しだけ考えるふりをした。

だがその目は、もうほとんど結論を決めている人間のそれだった。

「まあ、それでも構わないのですが……どうせなら、もう少し派手にやりましょう」

「派手に?」

「ええ」

にこり、と。

場違いなほど清々しい笑みが浮かぶ。

その笑みに、ニクスは露骨に嫌な予感を覚えたらしく、眉をひそめる。

商人はその反応を見て、いっそう楽しそうに言った。

「せっかくですし、街全体を巻き込みましょう」

「ろくでもないこと言ってる自覚あるか?」

「ありますとも」

悪びれもせず、胸を張るように答える。

「裏路地に潜り込んだ獲物は、穴の中で一匹ずつ捕まえるより、街ごと騒がせて逃げ道を塞いだ方が早いでしょう?」

「要するに」

「鼠退治です」

商人は、満面の笑みで言い切った。

「それも、できるだけ盛大なやつを」

「……お前、仮にも商人を名乗るならそれらしく動けよ」

「心外ですね。商人ほど、効率と収支を重んじる生き物はいませんよ」

言いながら、商人は外套の襟を整える。

その仕草ひとつにも無駄がない。

商人は楽しそうに肩を揺らし、そのまま路地の出口へ向かって歩き出す。

大通りの明かりが、石畳の上に細く差し込んでいる。

遠くではまだ酒場の笑い声が聞こえた。鍛冶場の火も、かすかな赤を残している。

街は表向き、何も知らない顔で夜を続けている。

だがその足元では、鼠が走っている。

採掘権。

坑道。

封蝋。

金の流れ。

協定。

街そのものを揺らそうとする手。

それらを、裏路地のさらに奥に押し込めておくには、少し事が大きくなりすぎていた。

ニクスは数歩遅れて、その背に続く。

「……で、具体的にどうする気だ?」

「そうですね」

商人は振り返りもせず答えた。

「まずは、正しい人たちに騒いでもらいましょう。幸い、今この街には優秀な王女殿下がいらっしゃる」

「人を使う気満々だな」

「使える駒を使わないのは、商人として三流ですので」

「お前、絶対その理屈で色々やらかしてきただろ」

「褒め言葉として受け取っておきます」

夜風が抜ける。

鍛冶の街の裏路地は、昼の熱を失って冷え始めていた。

その中を、二人の男が並んで進んでいく。

白い神官風の青年と、胡散臭い旅商人。

まともな名も、まともな身分も名乗らない二人が、国境都市の夜の真ん中で、平然と街ひとつを巻き込む相談をしている。

王女の思惑。

闇ギルドの内輪揉め。

北から伸びてきた異物の手。

そして、それを面白がりながら利用しようとする得体の知れない商人。

鍛冶の街はまだ眠らない。

むしろ今夜は、眠っている暇などなかった。