軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第105話・衝突

気がついた時、クロエには命が与えられていた。

最初にあったのは光。

眩しさと、白さと、目に入る痛さと――ただそこにあると解る光。

瞼を開ければ、膨大な情報が体の中に入ってくる。

薄い緑。青い空。温かな大地。

世界が色で出来ていると、クロエはその時に知った。

次に気付いたのは音。

ざわざわ。

さらさら。

何かが伸びる音。芽吹く音。遠くで葉が触れ合う音。

最後に、自分。

手があった。

小さくてまるい手。

ふわふわしているようでいて、ちゃんと握れる両手。

足。

短い両足。

頼りない――けれど、立とうとすれば立てる脚。

体。

軽く小さい。

けれど、中には奇妙なほど大きなものが詰まっていた。

その奇妙なものは目だった。

遠くまで見える瞳。

とても遠くまで見通す視界。

目の前の草や土だけじゃない。もっと先。もっと広く。山の向こう。河の向こう。街の中。知らない国の、知らない部屋の隅まで、手を伸ばせば届きそうな硝子玉の目。

力がある、とクロエは思った。

その思考自体、生まれたばかりの幼い心には不釣り合いなほど明確だった。

強い。

広い。

負けない。

たぶん、自分は何者にも負けない。

たぶん、自分は何処へでも届く。

たぶん、自分は何でもできる。

そんな、根拠のない万能感。

――けれど同時に、幼かった。

どうして生まれたのか、わからない。

この力を何に使うのか、わからない。

自分が何者なのか、わからない。

そんなわからないことだらけの中で、ただひとつだけ、はっきりわかること。

それは顔を上げた先にいた創造主。

黒髪。少し気だるげな目。

呆けたような、信じられないものを見たような顔。

その人を見た瞬間、クロエは理解した。

言葉ではない。もっと深いところで。

この人が、自分を生み出した者だと。

この人が、自分の親なのだと。

どうしてそうわかったのかは説明できない。

説明できないけれど、それは空が上にあるのと同じくらい自然に、胸の中へ落ちてきた。

だから、クロエは歩こうとした。

近づきたかった。

聞きたかった。

教えてほしかった。

自分は何なのか。

どうしてここにいるのか。

何をすればいいのか。

どうして、胸の中にこんなに大きな力が入っているのか。

歩けば、きっと教えてくれると思った。

小さな足を前へ出す。

一歩。

ぽてり、と。

もう一歩。

ぽてり、と。

世界は、想像していたよりずっと大きかった。

足の長さより地面の方が広い。草は思ったより高い。空気は重い。自分の体の動かし方が、思うようにわからない。

力はあったのに。

遠くを見る力も、広く探る力も、自分の中には渦巻いていたのに。

けれど「歩く」という、たったそれだけのことが難しかった。

前へ行きたいのに、足がついてこない。

体がふらつく。

手を伸ばしたいのに、重心がわからない。

そして、転んだ。

べちゃりと、転んだ。

地面が近い。

痛い、というほどではない。

けれど、驚いた。

ショックだったのだ。

さっきまで「なんでもできる」気がしていたのに、たった一歩で倒れた。

顔を上げる。

創造主がいる。

こちらを見ている。

でも、すぐには来なかった。

助けてくれなかった。

あの瞬間の気持ちを、クロエは今でもうまく名前にできない。

悲しかったのだと思う。

寂しかったのだと思う。

捨てられたと、ほんの一瞬だけ思ったのだと思う。

生まれたばかりだった。

何も知らなかった。

何もできなかった。

なのに世界だけはちゃんとあって、創造主だけはそこに立っていて、自分だけが地面に転がっていた。

どうすればいいのかわからなかった。

何をすればいいのかもわからなかった。

このまま一人で、置いていかれるのだろうか、とさえ思った。

目の奥が熱くなった。

何かが溜まって、震えて、ぽろりと落ちそうになる。

あの時、零れそうになったもの――それが涙だと、クロエは後で知った。

最初の涙だった。

世界に生まれたばかりの自分が。

生まれたばかりなのに、急に一人にされたような気がして。

――赤子のように泣きそうになった。

その時だった。

ふわり、と光が差す。

金色の髪。

蒼空のような瞳。

あったかい匂い。

ひとりの女性が、駆け寄ってきた。

「――大丈夫」

たぶん、そういう意味の声だった。

言葉はまだ細かくわからなかった。

でも、声音が全部を教えてくれた。

心配している。

急いでいる。

助けたいと思っている。

その人は、ためらいなくクロエを抱き上げた。

やさしかった。

手が。

腕が。

胸元のあたたかさが。

頬に触れる体温が。

頭を撫でる指先の動きが。

全部が、あまりにもやさしかった。

さっきまで大きすぎて怖かった世界が、その腕の中だけ急に小さくなった。

冷たかった地面が遠くなる。

揺れるけれど、怖くない。

高いのに、落ちる気がしない。

あったかい。

安心する。

ここにいたい。

それが、アウローラだった。

アウローラは、創造主とは違う匂いがした。

土と風と花の匂い。

少しだけ鉄の匂い。

でも、それよりも強かったのは、お日様みたいな匂いだった。

抱き上げられたまま、クロエはその顔を見上げた。

綺麗だった。

きらきらしていた。

でも眩しすぎるわけではなくて、目を閉じなくても見ていられる光だった。

好き、という感情を、クロエはその時たぶん初めて知った。

創造主への感情は、もっと別のもの。

深くて、大きくて、根に近い――根源的な本能。

しかしアウローラへのそれは、もっとまっすぐで、もっと熱かった。

好き。

大好き。

この人のそばにいたい。

泣きそうだった気持ちが、撫でられるたびにほどけていった。

小さな体に入っていた見えない棘が、ひとつずつ抜けていく。

だから、創造主がそのあと命じたことは、命令というより『願い』に近かった。

アウローラのそばにいろ。

そういう意味の意志が、自分の中に落ちてきた時。

クロエは心の底から、それを受け入れた。

うれしかった。

命じられたから、ではない。

自分がそうしたかったからだ。

このあったかい人のそばにいたい。

このあったかい人を見ていたい。

この人が笑うところを、もっと見たい。

この人に、泣いてほしくない。

幼い心に、はじめて『明確な意志』が宿った。

守る。

その言葉もまだ知らなかったかもしれない。

でも意味は知っていた。

この人に、傷をつけさせない。

この人を、奪わせない。

この人から、あったかさを取り上げるものを、許さない。

小さい体の、もっと小さな胸の奥に、その意思は宝石のように輝く。

透明で。

硬くて。

きらきらしていて。

けれど、とても切実なものとして。

それがどれほど強い感情なのか。

最初に抱き上げてくれた相手を、どれだけ大切に想っているのか。

きっと、誰も気づいていない。

有羽も、アウローラも、誰も知らない。

自分が抱いた小さなゴーレムに、そこまで深い意味を刻みつけたことを。

創造主は、命じた。

女帝も、役目を与えた。

王国側は、可愛がった。

皆それぞれにクロエを見ている。

けれどクロエの中には、それら全部とは別に、ひとつだけ確かなものがある。

それはアウローラのために動く、という意志だ。

命令があるからではない。

役目があるからでもない。

たとえ何も命じられなくても。

たとえ送受信の役がなくても。

たとえ、戦うなと言われても。

もしアウローラに危害を加えようとするものがいるなら。

クロエはきっと迷わない。

――躊躇なく迎え撃つ。

その時に自分の中からどんな力が出るのか、クロエ自身にもまだ完全にはわからない。

石杭を生やすこと。

遠くを見ること。

情報を繋ぐこと。

そういう で(・) き(・) る(・) こ(・) と(・) は知っている。

けれど、それ以上の何かが、自分の中にはまだ眠っている気がしていた。

アウローラが泣くとき。

アウローラが傷つくとき。

アウローラが奪われそうになるとき。

その時だけ開く扉が、胸の奥にもうひとつある。

クロエは、それをまだ言葉にできない。

ただ本能だけが知っている。

アウローラのためなら、自分はもっと怖いものになれる、と。

一切の躊躇なく。

一片の迷いもなく。

――自分の中にあるものを、全部使ってでも。

◇◇◇

河の上を渡る風が、ほんのわずかに温度を変えた。

エルム大河の水音が遠のき、旗のはためきが薄くなる。騎馬の鼻息も、鎧の擦れる金属音も、誰かの唾を飲む喉の鳴りも――すべてが一瞬、舞台袖へ押しやられる。

アウローラとウィルトスは、互いに向けた笑みを崩さないまま、同時に理解していた。

潮時だ、と。

今ここで戦う意思はない。

帝国は北の神聖国という、別の敵に集中したい。

王国は可能なら、帝国を視界から排除したい。

感情は違う形で燃えている。

帝国は王国を、いつか雌雄を決さねばならない宿敵として見ている。

王国は帝国を、できることなら存在ごと消し去りたい怨敵として見ている。

だが共通しているのは、いざ戦になれば血で血を洗う地獄が再開されるという確信と、どこかで決着をつけねばならないという諦めに似た理解だった。

だからこそ今回は、舌戦で終える。

互いの手の内を少しだけ確かめ、釘を刺し、次の局面へ持ち越す。

それが、国家の戦争のやり方だ。

ウィルトスは肩をすくめ、わざと大げさにため息をついた。

「まあよい。余も暇ではない。鼠退治に割く時間はないからな。……稲妻の王女よ、精々その雷を大事に抱えて眠るがいい。銃の悪夢を見ないようにな? 漏らしても誰も助けてくれんぞ?」

アウローラも鼻で笑い、同じ温度で返す。

「心配するな。私が見る夢は、決まって帝王が泣いて逃げる夢だ。……次に来るときは、銃ではなく 弔鐘(ちょうしょう) を忘れるなよ? 帝国兵の葬儀などしてやる暇は無いのだからな?」

兵の顔が両側で凶悪に歪む。

だが、動かない。動けない。動いてはならない。

ウィルトスは踵を返した。

その動作は、戦場の号令よりも重い意味を持つ。

帝王が背を向けるということは、「今日はここまで」と宣言するに等しい。

そして、その瞬間。

入れ替わるように、一歩前へ出る影がひとつ。

軽い足取り。

まるで散歩の途中で花を見つけた子供のように、ふらりと。

星髪の少女――アギト。

ウィルトスの背中に、嫌な寒気が走った。

戦場の嗅覚が叫ぶ。「危うい」と。

「……アギト? おい、お主、どうした?」

呼び止める声は落ち着いていたが、内側には怖気がある。

帝王は知っている。目の前のこれは、命令で止まる類の存在ではない、と。

アギトは振り返らない。答えない。

笑みだけを唇に残したまま、河向こうを見ていた。

第二王女アウローラ。

そして、その背後の小さな影。

セシリアの腕に抱かれた、子猫サイズのぬいぐるみ。

アギトの目が、細くなる。

虹色の瞳が、底のない水底のように冷えていた。

「……ねぇおじさん」

鈴を転がすような声が、河を越えて届く。

言葉遣いは軽い。

だが、その軽い言葉で空気が締まり、兵の背筋が勝手に伸びる。

「あれだよ。あの、ちっこいのが覗いてた奴だよ」

右手がすっと上がり、指先が河向こうを指す。

狙いは明確だった。

芽姫――クロエの姿。

その指差しに、王国側の空気が一斉に変わる。

アギトの瞳が微塵も笑っていない。

抑えきれない激情の瞳。

(……あれは)

アウローラは直感する。

あの目は、挑発の目ではない。交渉の目でもない。

怒りの目だ。

しかも、抑え方を知らない怒り。

戦場で初めて血を見た新兵が、狂乱のまま刃を振り上げるときの色。

そして、その背後。

セシリアの腕の中で、クロエが震えた。

「……クロエちゃん?」

セシリアが異変に気付いた。

抱いている腕の中で、柔らかいはずの小さな体が振動している。

クロエの内側で、魔力が集まる。

水を吸い、光を浴び、眠り、循環させるはずの穏やかな流れが、今は逆巻いている。

一本の川が、滝になる前のように。

集中している。

圧縮している。

セシリアには理屈は分からない。

だが、それは、今まで何度も見せた「探知」のための魔力とは明らかに違う。

もっと鋭く、もっと攻撃的な――牙の形を探しているような波。

アギトはその波を感じ取り、口元を歪めた。

「……へぇ?」

楽しそうでもあり、気に入らないようでもある声音。

両方の温度が混ざって、どちらにも転べる危うさ。

「お前は、そっちなんだね?」

ぎしり、と空気が鳴った。

握った指先が、何かを噛むように軋む。空気そのものが、薄く裂けるような感覚。

境界を噛む――世界の縫い目に爪をかける所作。

「……おい蛇娘。貴様、まさか――」

背後から、低いハガネの声が届く。

剣聖は、空気の変化だけで察した。

戦場を渡ってきた者が持つ、最悪を最速で掴む嗅覚で。

アギトはそれでも止まらない。

止まる理由が、彼女の中にはない。

王国側でも、同じことが起きていた。

アウローラは河向こうから、アギトの目を外さぬまま背後の気配を感じ取る。

なにか暴れ出しそうな……海洋国家だからこそ言語化できる気配。

これは、大波が来る直前の危機感。

「クロエ、お前、何を――」

その異変を感じた――感じ取ってしまったからこそ。

アウローラはほんの僅かだけ視線を逸らした。

背後のクロエを確認する。

その、ほんの一瞬。

指先一本分の刹那。

その一瞬で――アギトは跳んだ。

爆音。

大地がえぐれ、砂利が弾け、大気が裂ける。

アギトの姿が、橋も渡らず、舟も使わず、ただ「距離」を踏み潰して消える。

次の瞬間、王国側の目前に現れていた。

「っ――!」

アウローラが視線を戻したとき、既にアギトは目の前にいた。

近い。

近すぎる。

反射で剣柄に手がかかる。

だが、剣を抜く速度より、アギトの右手が爪牙へ変わる速度の方が早い。

理解が追いつくより早く、アウローラの胸元へ伸びてくる。

空間そのものが削られていくような音。触れられたら、鎧ごと裂かれる。

その爪が、アウローラの喉元を引き裂こうとした――その瞬間。

声なき声が響いた。

【 根護(ルート・ガード) 】

地面がうねった。

耳ではなく、脳に直接落ちる宣言。

大河の川岸、草の下、土の奥――そこから巨大な樹の根が一斉に伸び上がる。

縄ではない。柵でもない。生きた意志の壁。

根は絡み合い、編み上がり、瞬時に盾となってアウローラの前に張り巡らされた。

アギトの爪が、衝撃と共にその根の壁に突き刺さる。

火花が散った。

木が焼ける匂い。だが決して燃えない。

根の表面を走る緑の光が、焼け焦げを押し戻す。

境界を噛む牙と、世界に伸びる根がぶつかり合う。

衝撃が遅れて周囲に広がり、両軍の兵がよろめいた。

騎馬が嘶き、槍の穂先が揺れ、盾がぶつかる音が連鎖する。

帝国兵と王国兵。双方が同時にざわつく。

アギトの目が、根の向こうへ向く。

狙いはアウローラではなくなっていた。

壁を作った者。

自分の爪を止めた者。

――クロエ。

女帝と隠者の匂いが混じった小さき者。

「――邪魔、するんだ」

言葉は幼く、感情は生々しい。

怒りの理由が正しいかどうかなど関係ない。

ただ、邪魔をされたという事実だけを燃料にして――その瞳は毒蛇のように。

根の壁の上、空中に小さな影が浮かび上がる。

クロエが、セシリアの腕から飛び出していた。

ふわり、と軽い動き。ぬいぐるみが宙に舞うような不自然さ。

だがその浮遊は玩具ではない。術式の上に立っている。

――硝子玉のような瞳が、静かにアギトを見据えていた。

いつもの、幼い可愛さはない。

撫でたくなる愛らしさもない。

そこにあるのは、宝石を奪われるかもしれない子どもの目――ひたすらに切実な敵意。

アウローラが叫ぶ。

「――下がれ、クロエ! 前に出るな!!」

ウィルトスも叫ぶ。

「――やめんかアギト! お主、何を考えておる!?」

どちらの声も、本気だった。

どちらも理解している。

ここでこの二体がぶつかり合えば、兵の理性や条約など簡単に吹き飛ぶ。

停戦がどうこうではない。国境線という薄氷は砕ける。

だが――届かない。

今のアギトもクロエも、敵しか見えていない。

認識してしまったのだ。

互いを、敵だと。

アギトが歯を剥きだしにして笑った。

「いいよいいよ。じゃあ、まずはお前から片付けてやるよ――女帝と隠者のお人形ちゃん」

声は軽いのに、空気が重く沈む。

アギトの周囲で、世界がきしむ。世界の『枠』が組み替わる音。

一方でクロエも、無言のまま何かを展開する。

【―― 苗界(ナーサリー・ゾーン) 】

言葉はない。

だが宣言があった。

世界がそれを受け入れる。

地面から芽が走る。

芽は根になる前に枝になり、枝は葉になる前に幹になる。

成長の順序が省略され、結果だけが現れる。

苗の領域。

守るために増える世界。

奪われないために絡みつく世界。

両者が睨み合う。

クロエの周囲に根と蔓が渦を巻き、空中に足場を作る。

アギトは河岸に立ったまま、空中の苗を見据える。

クロエの瞳は、アギトしか映していない。

アギトの瞳も、クロエしか映していない。

大好きな人を守りたい。

邪魔者を噛み砕きたい。

幼い理由が、世界を壊すのに十分な力を伴っている。

そして――次の瞬間。

衝突。

まず、音が遅れて来た。

見えない圧がぶつかり、河の水面が叩かれ、飛沫が真横に吹き飛ぶ。

風が巻き上がり、砂が舞い、旗が千切れそうに鳴る。

兵たちが思わず身を伏せる。馬が嘶く。

根が伸びる。

牙が噛む。

星髪の少女が大地を蹴る。

音が遅れてくる速度で、彼女はクロエへ迫る。

右手が爪牙となり、根ごと切り裂かんとする。

芽姫の周囲で苗界が脈打ち、根が空へ伸び上がった。

根は壁になるのではない。

槍のように、茨のように――攻撃のための形へ変わる。

二つの超常が、空中で衝突する。

火花が散る。

緑の光が迸る。

河風が裂け、空気が鳴った。

そして、その瞬間から。

人間の理性が積み上げてきた「戦の作法」は、無残に置き去りにされた。

――止められない戦闘が始まったのだ。

◇◇◇

空が割れる音が、何度も続いた。

裂けたのは雲ではない。雷でもない。風でもない。

大気そのものが、薄紙みたいに引き裂かれて、縫い目もないまま元に戻っていく。戻っていくたびに、遅れて轟音が来る。轟音が来るたびに、河の水面が跳ね、土が震え、兵が立っていられなくなる。

アギトの爪が裂空を作り、クロエの根がそれを塞ぐ。

塞いだと思った次の瞬間に、また別の場所が裂ける。

裂けた場所から風が噴き、風の中に砂と水飛沫が混じり、鎧の隙間へ振動となって突き刺さる。

兵の叫び声は、聞こえなかった。

誰かが怒鳴っている。誰かが号令を出そうとしている。誰かが慌てている。

だが、音が届かない。耳に入る前に、衝撃と爆音に押し潰される。

ようやく聞き取れるのは、自軍のすぐ隣で叫んだ声だけ。唇の動きで察するしかない距離感。

ウィルトスとアウローラは、ほとんど同時に「拙い」と感じていた。

ここで戦争を始めてはいけない。

どちらの国も、準備が整っていない。整っていないというより、整えていない。

特に帝国は北――神聖国に専念したい。今ここで南王国と噛み合えば、二正面の地獄になる。

戦争は手段だ。

結果――落としどころがないまま火を点ければ、ただ燃え広がり焼け野原になる。

三年前の停戦が「うやむや」で終わったからこそ、余計に危うい。感情の落とし前がつかないまま、火種だけが燻っている。ここで燃えれば、簡単には消えない。

だが、声が届かない。

アギトもクロエも、我を失っている。

敵を倒すこと以外、何も見えていない。

ウィルトスは、汗が背中を伝うのを感じた。

焦燥の汗だ。

(止めねばならぬ。だが、どう止める)

あの激戦の中に入れるとはウィルトスは思っていない。

あそこに足を踏み入るのは勇気ではなく無謀の領域。噴火中の火口に向かう愚か者。

だが、黙って見ている訳にもいかない。このままでは冗談抜きで国が割れる。

どうするべきかと悩んでいると――いつの間にかハガネが来ていた。

帝王の隣。声が届く距離まで。

ハガネの表情は真剣だった。

怒ってはいない。慌てもしていない。

ただ、判断を終えた顔。

「――帝王」

ハガネの声は小さい。

だが低く、硬く、轟音の隙間を縫って届く声。

「儂は今から、あの馬鹿娘を止めてくる」

「お、おい! お前まで何を考えている!」

ウィルトスの声も、爆音に削られながら届く。

ハガネは視線を向けた。視線の先には、暴れる星髪と緑の苗界。

超域の戦い。

「このまま国境線で暴れさせては、王国と神聖国と同時に戦うことになるぞ。それは貴様とて解っているだろう?」

その言葉に、ウィルトスは歯を噛む。

帝王の脳裏に、北の要塞線と、神聖国の加護兵と、補給線と、国境線が一斉に並ぶ。

ここで王国と再戦すれば、帝国は死ぬ。

どちらか片方なら勝ち目はある。だが北と南に挟まれれば、必ず国が死ぬ。

ハガネは静かに腰を落とした。

膝を曲げ、重心を沈め、右手を柄に添える。

呼気は小さく……だが深い。

次の一歩が、ただの跳躍ではないことが分かる。

矢のように飛ぶだろう。

戦場の中心へ。あの神域の殴り合いへ、一足で入る気概。

「この刀なら、あの馬鹿娘の肌も斬れる。多少痛い目に遭わせてでも正気を取り戻させる」

漆黒の鞘。妖刀「夜叉」。

空気が冷える。呪いの黒金が、鞘の中で眠っている。

ウィルトスは口を開いた。

「……止むを得んか。では余の兵も――」

ハガネは首を振った。

「儂一人で行く。悪いが、他の者は足手まといだ――儂ですら、 指(・) 先(・) に(・) 手(・) が(・) 掛(・) か(・) る(・) 程(・) 度(・) なのだからな」

ハガネが言う「指先に手が掛かる」は、剣聖の尺度。

それはつまり、帝国の精鋭が束になっても邪魔にしかならない、という宣告。

ウィルトスは、舌打ちしたくなるのを飲み込む。

帝王として、ここで「行くな」と言ってもハガネは止まらない男だ。

そして止めていいのかどうかすら、分からない。

帝王が逡巡している間に――ハガネが、跳んだ。

爆音の中へ、剣聖が溶けるように飛び込む。

背後から制止するウィルトスの声が、途中で轟音に溶けた。

届かない。すでに届く距離ではない。

そもそも聞こえていない。聞く余地がない。

ハガネの全神経は、アギトの動きに向いていた。

僅かでも緩めれば、視ることすらできない領域。

夜叉の柄を握り込む。

妖刀が勝手に前へ出ようとする。

斬りたいという衝動が、鞘の中で暴れている。

多少痛い目、とは言ったが、ハガネが夜叉を本気で振るえば――痛い目では済まない。

剣聖はそれを押さえ込みながら、アギト目掛けて跳んだ。

――だがこの時、不運があった。

戦いの轟音。

あまりに激しい衝突音。

――声が通らない。

ハガネの言葉は、ウィルトスにしか届かなかった。

ハガネが何をしに行くのか。

何を止めようとしているのか。

それを理解できたのは、帝国側ですら帝王ただ一人。

王国側は、何も分からない。

見えたのは、 帝(・) 国(・) 側(・) の(・) 老(・) 剣(・) 士(・) が(・) 、 抜(・) 刀(・) の(・) 構(・) え(・) で(・) 戦(・) 場(・) に(・) 踏(・) み(・) 込(・) ん(・) だ(・) という事実だけ。

その切っ先が向く先を、把握できない。

できるのは予測することだけだ。

帝国側にいた剣士。

抜刀。

戦場への介入。

その刃が向かう自然な対象は――。

自然な予測は、妥当な判断はたったひとつ。

それ故に。

「―― 稲妻(ライトニング) !」

ハガネに向けて稲妻が迸った。

直線。

雷速。

風が道を作り、火が励起し、雷が一本の線になる。

常人なら視界に入った瞬間に貫かれている。

だが、ハガネは常人ではない。

「――ぬぅ!?」

視覚の外から迫る稲妻を、勘で避けた。

身を捻り、肩を落とし、雷の線を半身でやり過ごす。

焦げた匂いが一瞬だけ鼻を刺す。髪の一房が焼けた感触。

避けた瞬間――迫るのは、アウローラの剣閃。

王女は跳ぶ。

雷を撃ったその勢いのまま踏み込み、間合いを詰める。

剣と魔法を同時に扱う将の剣。

ハガネは反射で抜いた。

夜叉の黒い刃が閃く。

光を吸うような黒。

刃が「斬りたい」と鳴る。

そして――ぶつかった。

金属の衝突音が、轟音の隙間を縫って耳に刺さる。

火花が散る。黒い刃の圧に、アウローラの剣が負けない。

アウローラの振るう片手半剣は、薄い光膜を纏っていた。

魔力付与(エンチャント) 。

剣身の強度を増し、切断に対する抵抗を上げる、純粋な技術。

夜叉の切れ味を真正面から受け止めるための、即席の結界術。

アウローラは戦場でそれを使える。剣に纏わせながら――妖刀に対抗する程の絶技。

――そして鍔迫り合いに。

火花が散る。

黒い刃と光膜が擦れ合い、空気が歪む。

足元の土が沈む。二人の踏ん張りが、地面に跡を刻む。

「――油断も隙も無いな。だが、クロエは斬らせんぞ老人」

アウローラの声は冷たかった。

怒鳴ってはいないが、切り裂かれそうなほどに鋭い。

それは、前線で部下を殺させない将の声。

ハガネは小さく息を吐く。

反論はできる。だが状況が悪すぎる。

「……勘違いするな、王国の姫」

ハガネは、低い声で言う。

「儂は、あの星髪の馬鹿娘を止めようとしただけだ」

「……それを信じろと? この状況で? そんな危険な刀を持つ貴様を?」

アウローラの瞳は緩まない。

信用の余地を与えない目だ。

前線の将は、希望で判断しない。最悪を基準に動く。

ハガネの眉が、ほんの僅かに動く。

怒りではなく、諦めに近い。

(確かに、信じる方が愚かだ)

この場で、帝国側の剣士が戦場へ跳び込もうとした。

しかも刀は妖刀。

それだけで「危険」が成立する。

王国側が防御に動くのは、当然だ。

そしてハガネは悟る。

(誤算はひとつ)

自分の踏み込みに反応して、この間合いまで詰め寄れる者がいると思わなかった。

王国側で反応できたのはアウローラただ一人。

それはつまり、彼女が「剣聖の領域」に足を掛けているということでもある。

夜叉の刃と光膜の剣が、激しく火花を散らす。

魔力と魔力がぶつかり、周囲の空気が歪む。

アウローラの全身に魔力が宿る。

剣を振るいながら、魔法の構成を組み上げている。

剣と魔法の高次元両立。軽業ではない。死線を越えた者だけが辿り着く使い方。

その戦い方が、ハガネに現実を突きつけた。

(手加減できぬ)

可憐な姫君に見えても、手加減した瞬間にハガネが死ぬ。

アウローラはその領域にいる。

純粋なレベルでは剣聖が上でも、けして届かない差ではない。

アウローラが、さらに一段魔力を上げた。

空気が熱を帯びる。雷の前兆が、皮膚の上でちりちりと鳴る。

「――まだ帝国と戦う気は無かったのだがな」

声色は淡々としている。

だが、含んでいるのは明確な覚悟。

「お前達がその気なら是非もない。まずは貴様から片付けて、クロエの加勢に行かせてもらおうか……!」

言い切る瞬間、アウローラの剣が押し込む。

光膜が硬くなる。夜叉の刃が軋む。

ハガネは歯を食いしばった。

「……ぬぅ……!」

最悪の形で、局面がずれた。

止めるために飛び込んだ剣聖が、王国の王女に止められた。

このままでは「止める」どころか、別の死闘が始まる。

だが、言葉は届かない。状況は最悪だ。

そして――目の前の王女を押し返さねば、こちらが押し切られる。

ハガネは、鍔迫り合いの中で静かに決めた。

(……突破して、アギトを止めるしかない)

この姫を倒す必要はない。

だが退けなければ、終わる。

緊張が崩れ、何もかもご破算になる。

人の理性が、正しく働くほどに噛み合わない――そんなすれ違い。

帝王の最善が王女の最悪に見え、剣聖の最善が王女の敵意を呼んでしまった。

アギトとクロエの衝突がさらに激しくなる。

爪牙と根の壁がぶつかり合い、轟音が地上の言葉を消す。

火花が飛び、蔓が散り、空間が削れ、苗界が膨らむ。

幼い超常が本能で噛み合い続ける。

誤解から生まれた刀と雷が鍔迫り合う。

――誰も望んでいないはずの開戦の形が、ゆっくりと輪郭を持ち始めていた。