軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 何もしなくていい、が一番難しい

何もしなくていい朝が、こんなに落ち着かないとは思わなかった。

目が覚めたのは日が昇る前だった。癖だ。王太子府では毎朝、陽が差す前に書斎に入り、前日の外交文書の未処理分を確認するのが日課だった。

ここには書斎がない。いや、ユリウスの書斎はあるけれど、私のための書斎はない。当たり前だ。私は客人であって、補佐官ではない。

起き上がって着替える。窓を開けると、薬草園から朝露の匂いがした。湿った土と、少し苦い緑の匂い。王都の朝は馬の蹄と荷車の音で始まるけれど、ここでは鳥の声だった。

旅行鞄の奥に、小さな布袋が残っている。ユリウスが去年の冬に送ってくれた乾燥薬草だ。手紙に「風邪の季節だから」とだけ書いてあった。半分使って、残りはお守りのように鞄に入れたままだった。この領地に来て、もう要らなくなった。本物の薬草園が窓の外にある。

階下に降りると、オットーがもう台所にいた。

「おはようございます、お嬢様。朝食はもう少しお待ちくださいませ」

「何かお手伝いできることは」

「とんでもない。お客様にそのようなこと」

断られた。

居間に座る。テーブルの上には何もない。昨夜の薬草茶のカップは片付けられていた。手持ち無沙汰で窓の外を見る。丘の斜面に朝日が当たって、薬草の葉が光っている。

綺麗だと思う。

思うのだけれど、綺麗だと思う余裕が自分にあることのほうが気になった。王太子府にいた頃は、景色を見ている暇なんてなかった。見ていたら、その分だけ仕事が遅れる。遅れた分は誰も肩代わりしてくれない。

今、私は窓の外を見ている。何分でも見ていられる。

それが怖い。

朝食の後、ユリウスの書斎を訪ねた。

扉を叩くと、少し間があってから「入れ」と声がした。

書斎は思ったより狭かった。壁際に本棚が並び、机の上に帳簿と書簡が積まれている。窓辺にインクの瓶が三つ。一つは蓋が少し緩んでいて、乾きかけていた。

ユリウスは机に向かっていた。杖は椅子の横に立てかけてある。

「その帳簿、手伝うわ」

「いい」

「でも、領地の——」

「イレーネ」

名前を呼ばれて、手が止まった。

ユリウスは椅子ごと振り返った。動作がゆっくりだ。急に動くと心臓に障るのだと、昔の手紙に書いてあった。

「今は何もしなくていい。休むのが仕事だ」

そう言って、私が伸ばしかけた手から帳簿を引き取った。

仕事を取り上げられたのは初めてだった。王太子府では逆だった。みんな私に仕事を渡したがった。処理が早いから。正確だから。文句を言わないから。

取り上げられて、私は何をすればいいのかわからなくなった。

「……散歩でもしてこい。領地の南に小さな村がある。林檎園の横を通ると近い」

ユリウスはそれだけ言って、帳簿に目を戻した。

追い出されたのだ、と思った。丁寧な追い出し方だったけれど。

林檎園を抜けて、村に出た。

小さな広場に井戸がある。石畳が少し傾いでいて、端のほうに苔が生えていた。家々の軒先に洗濯物が揺れている。

子どもが三人、広場で遊んでいた。

追いかけっこをしていた一人が、私に気づいて立ち止まった。六つか七つくらいの女の子だ。赤い髪を二つに結んで、膝に泥をつけている。

「おねえちゃん、だれ?」

「……お邸の、お客様よ」

「ユリウスさまのお客さま?」

「ええ」

「ユリウスさま、お客さまなんて初めて。すごいね」

初めて、という言葉が引っかかった。十四年間、この領地にはほとんど客が来なかったのだろうか。

女の子は広場の隅に走っていって、何かを摘んできた。小さな白い花だ。名前は知らない。野の花で、花弁がほんの少しだけ青みを帯びている。

「はい、おねえちゃん」

花を差し出される。

「ありがとう」

受け取ると、女の子がじっと私の顔を見た。

「おねえちゃん、笑わないの?」

不意を突かれた。

笑っていなかったのだ。花をもらって、ありがとうと言ったのに、顔は笑っていなかった。

いつから笑わなくなったのだろう。覚えていない。正確には、社交界の微笑みならいくらでもできる。口角を上げて、目元を少し細めて、声を少し高くする。そういう笑顔はこの六年間、何百回と作ってきた。

でもあれは笑顔ではない。仕事だ。

「……ごめんね。笑い方、少し忘れちゃったみたい」

「へんなの」

女の子は首を傾げて、それからにっこり笑った。歯が一本抜けていた。

「またおいでね、おねえちゃん」

うん、と頷いた。

花を握ったまま、来た道を戻る。林檎園の枝が風に揺れていた。花はまだ蕾で、咲くのは来月だろう。

六年間、やめたいと思わなかったわけではない。

何度も思った。朝、書斎に入るたびに。夜会で一人で立っているたびに。殿下とマリエル嬢が並んで歩いていく背中を見るたびに。

でも、やめたら負けだと思っていた。

ここで投げ出したら、父の言う通り弱い人間だったことになる。「強い子だ」と言われ続けて、それが褒め言葉だと信じ込んで——信じないとやっていけなかったから——走り続けた。

止まったら壊れると思っていた。

いいえ。

走っている間に、とっくに壊れていたのだ。笑い方を忘れるくらいには。

邸に戻ると、玄関に使者がいた。

王都からだった。王太子府の封蝋がついた書簡を、オットーが受け取っていた。使者はすでに帰ったらしい。

「お嬢様宛でございます」

差し出された封書を見た。殿下の字だ。少し大きくて、少し雑で、いかにも自分で書くことに慣れていない字。外交文書は全部私が清書していたから、殿下が自分で筆を持つのは珍しい。

わざわざ自分で書いたのか。六年間、誕生日の一筆すら寄越さなかった人が。

封を、切らなかった。

居間の暖炉に火はなかったけれど、燠がまだ赤く残っていた。朝、オットーが火を落とした後の残り火だ。

手紙を燠の上に置いた。

封蝋が溶けて、紙の端が茶色くなって、やがて小さな炎が上がった。

何が書いてあったのだろう。「戻ってこい」だろうか。「お前がいないと困る」だろうか。たぶん、そういうことだ。六年間言わなかったことを、いなくなってから言う。

未練があるかと自分に聞いてみた。

ない。

あると思っていたかもしれない。馬車の中で、もしかしたらと考えた瞬間はあった。でも三日経って、ユリウスの薬草茶を飲んで、子どもに花をもらって——いや、違う。未練がないことは、もっと前からわかっていた。たぶん十七の冬、父に退けられた日から。

紙が灰になっていくのを見ていた。

封蝋の赤が最後に一瞬だけ明るく光って、消えた。

夕方、テラスに出た。

ユリウスが先にいた。テラスの椅子に座って、膝の上に毛布をかけている。夕方の風は少し冷えるのだろう。手元にカップが二つ。

「座れ」

言われるまま座った。カップを取ると、また薬草茶だった。昨夜とは少し違う配合で、柑橘に似た香りがする。

「ユリウス」

「ん」

「なぜ私を受け入れてくれたの」

ユリウスはカップの縁に唇をつけたまま、少し考えているようだった。

「受け入れたというか……」

言いかけて、やめた。カップを置く。指がカップの取っ手に引っかかって、少しだけ陶器が鳴った。

「十四年間、手紙をくれたのは君だけだ」

テラスの向こうに、夕焼けが広がっていた。丘の稜線が暗くなり始めている。

「病弱で社交界に出られない伯爵子息に、毎月欠かさず手紙を書いてくる人間は、この世界に君しかいなかった」

毎月。

そうだ。毎月書いていた。最初は父に言われたからだ。「エーレンベルク家の子息に見舞いの手紙を書きなさい」と。でも見舞いの文面はすぐに書くことがなくなって、そのうち今日あった出来事や、読んだ本の感想や、夜会で見た変な帽子の話を書くようになった。

ユリウスの返事はいつも丁寧で、少しだけ皮肉が混じっていて、時々ぽつりと本音が書いてあった。寂しいとか、退屈だとか、そういうことは書かない人だった。でも行間から滲んでいた。

——今日は窓から見える楓が赤くなった。昨日より三枚多い。数えるくらいには暇だ。

そういう一文で、伝わった。

「暇だったのね」

「暇だったから、君の手紙が宝だった」

ユリウスは夕焼けのほうを見ていた。目が少し細くなっている。眩しいのだろう。

宝、という言葉の重さを、今の私はうまく受け取れない。六年間、自分の価値がわからなくなっていたから。強くて便利だから必要とされていた場所から来た私には、「宝」という言葉は大きすぎる。

でも——嫌ではなかった。

虫の声が聞こえる。昨夜より少し多い。

白い花を、部屋の窓辺に置いてきた。ラベンダーの隣に。水を入れた小さなコップに差しただけだけれど、明日の朝も咲いているだろうか。

咲いているといいと思った。