軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 書けない手紙

紙が、机の上で白いままだった。

宿舎の部屋の机は、領地の書斎より少し低い。椅子の座面が高いせいで、書く時に腕の角度が合わない。ペンを持つと手首が変な位置になる。それが書けない理由では、もちろんない。

オットーに手紙を書こうとして、三日経っている。

ペンは持参したものだ。インクは研究棟から借りた。公国のインクは王国のものより少し青みが強い。紙は研究所の備品で、質は悪くないが手触りが違う。繊維が粗い。王国の紙のほうが滑らかだ。

そういうことは、どうでもいい。

問題は、何を書けばいいか分からないことだ。

——オットーへ。無事に着きました。

ここまでは書ける。書いた。乾いている。三日前に書いた一行だけが、紙の上に残っている。

続きが書けない。

「ユリウスの最初の処置は無事に終わりました」と書けばいい。事実だ。嘘ではない。でも「無事に」のあとに、何を書くのか。「数値は悪くないそうです」。先生の口癖をそのまま伝えて、オットーは何を思うだろう。「悪くない」は「良い」ではない。その違いが分かる人だ、オットーは。

「元気です」と書けば嘘になる。

ユリウスは元気ではない。処置の翌日から三日間、起き上がるのがやっとだった。顔色が白くて、朝の面会に行くと寝台に横たわったまま天井を見ていた。薬草茶を飲む力はあったが、カップを持つ手が少し震えていた。ヴァルター先生は「予想された経過です。身体が処置に反応しているのは良い徴候です」と言った。良い徴候。そう言われても、白い顔を見ていると、良いという言葉が入ってこない。

「心配しないでください」と書けば、オットーは余計に心配する。心配しないでと言う人間は、心配な状況にいる人間だ。オットーはそれくらい分かる。

「心配です」と正直に書けば、領地の人たちが不安になる。オットーは口が堅い人だが、顔に出る。リーザが「オットーさん、なんかへんな顔してる」と言うだろう。リーザは観察力がある。石を三つ積んで待っている子に、余計な心配をさせたくない。

ペンを置いた。

インクが乾きかけていた。ペン先を拭いて、蓋を閉めた。公国のインクの蓋は、王国のものより少し硬い。ぎゅっと押し込まないと閉まらない。ユリウスの書斎の、蓋の緩い瓶のことを思い出した。あの瓶は今、引き出しの中だ。オットーが管理している。

窓の外を見た。早春の光が白い壁を照らしている。昨日より少しだけ暖かい。風の匂いが変わり始めている。冬の乾いた匂いから、土の湿った匂いが混じるようになった。

手紙の続きは、今日も書けなかった。

午前の面会時間に、ユリウスの部屋に行った。

四日目だった。処置から四日。ユリウスは寝台に起き上がっていた。壁に背を預けて、膝の上にノートを置いている。現在進行形のノートだ。ペンは持っていなかった。読み返しているだけらしい。

私が入ると、ノートを閉じた。

「顔色、少し戻ったわね」

「ああ。今朝は自分で起き上がれた」

「昨日は?」

「マティアスに手を借りた」

正直に言う。この人は、自分の身体のことだけは嘘をつかない。嘘をつく意味がないことを知っているからだ。医師に嘘をつけば治療に支障が出る。私に嘘をつけば、後でもっと心配される。合理的な正直さだ。

椅子を寝台の横に持ってきて、座った。足が床につく。こちらの椅子は宿舎のものより低い。

「ユリウス」

「ん」

「手紙が書けないの」

言ってから、自分でも唐突だと思った。オットーへの手紙の話を、ユリウスにする必要があるのかどうか。でも口が動いた。

「オットーに手紙を書こうとして、三日書けない。何を書けばいいか分からない」

ユリウスは私を見た。それから、少しだけ——笑った。

笑った、というのは大げさかもしれない。口の端が動いた。あの、いつもの不器用な動き。

「僕が十四年間やっていたことだ」

「え」

「書けないことのほうが多い」

ユリウスは膝の上のノートに、手を置いたまま言った。

「十四年間、君に手紙を返した。でも書けなかったことのほうが多かった。好きだと書けなかった。会いたいと書けなかった。来てくれと書けなかった。書いたのは、楓が赤くなったとか、蜂蜜が切れたとか、そういう——」

「どうでもいい話ばかりだった、って前に言ったわね」

「どうでもいい話しか書けなかった、が正しい」

ノートの表紙を指でなぞった。革表紙の角が少し擦れている。

「書けないことがある、というのは普通だ。書ける人間のほうが珍しい。君は六年間、外交文書を書き続けた。何でも書ける人間だった。だから、書けないことがあると、壊れたように感じる」

「壊れた、とまでは」

「でも違和感はあるだろう」

違和感はあった。ペンを持って紙に向かえば何かが書ける、という前提が崩れていた。六年間、条約の条文も、財務報告も、覚書も、何でも書いた。書けないものはなかった。書けないと思ったこともなかった。

オットーへの手紙が、書けない。

「オットーには、着いたとだけ書けばいい」

「それだけ?」

「それだけでいい。オットーは、それだけで分かる人だ。長い手紙が来ないことで、君が書けない状態にいることを察する。察した上で、待つ。あの人はそういう人だ」

「……あなたの手紙も、そうやって読んでいたの?」

「たぶん」

ユリウスは窓のほうを見た。

「短い手紙が来たら、忙しいか、疲れているか、書けないか。長い手紙が来たら、少し余裕があるか、どうしても書きたいことがあるか。手紙の長さのほうが——内容より……いや、うまく言えないな。短い手紙は、短い理由がある、ということだ」

短い手紙は、短い理由がある。

ユリウスが出さなかった手紙の束の中に、一行だけの紙があったことを思い出した。「死にたくない」と書かれた紙。あれは手紙ではなかった。手紙にできなかった一行だった。

「分かったわ。着いた、とだけ書く」

「それでいい」

「ユリウスも、書く? オットーに」

「僕は書かない。書くと長くなる」

「長くなる?」

「薬草園のことを書きたくなる。公国の薬草の品種のこと。この研究所の設備のこと。書き始めたら止まらない」

「それは——書けないのとは違うじゃない」

「書けないのと、書きすぎるのは、同じ病気だ。どちらも、ちょうどいい分量が分からない」

可笑しかった。笑いそうになって、笑わなかった。代わりに、ユリウスのカップに薬草茶を注ぎ足した。今日の茶は、昨日より少しだけ甘くしてある。蜂蜜を気持ち多めに入れた。ユリウスは気づかなかった。気づかないふりをしたのかもしれない。

午後、エミールがユリウスの部屋に来た。

私がまだいるところに、ノックもそこそこに入ってきた。上着の前は今日も留まっていない。

「ユリウス、生きてるか」

「生きている」

「よかった。最初の処置の後、俺も三日寝込んだから。四日目で起き上がれたならまあまあだ」

エミールは部屋の隅にある椅子を引っ張ってきて、寝台の反対側に座った。私と向かい合う位置だ。

「二回目からは楽になるぞ。身体が慣れる。最初が一番きつい」

「そうか」

「先生は”予想された経過です”って言うんだよな。毎回言う。最初の時も言われた。予想されてたなら先に教えてくれよって思ったけど」

「先に言うと、身構えすぎて逆に悪くなる場合がある、と先生に聞いた」

「へえ。お前、ちゃんと聞いてるな」

エミールは感心したように頷いた。

「俺は聞いてなかった。姉ちゃんに怒られた」

「ルイーゼさんに」

「そう。“あんた、先生の話をちゃんと聞きなさい”って。俺、人の話を聞くの苦手なんだよな。商売の話は聞けるんだけど、医者の話は眠くなる」

エミールは腕を組んで、椅子の背にもたれた。

「でもまあ、四割だろ。コイン投げより悪い。俺はあんまり考えないようにしてる。考えると怖くなるから」

考えると怖くなるから、考えない。

エミールの言い方には、陰がなかった。陰がないのは強さではなく、性質なのだと思う。この人は、暗い場所に長くいられない人なのだ。明るいほうに自然と歩いていく。

ユリウスとは正反対だった。ユリウスは暗い場所にいることに慣れている。窓の中にいた十四年間で、暗さの中で呼吸する方法を覚えた。

「じゃあ俺、行くわ。あ、イレーネさん」

「え——イレーネさん?」

「姉ちゃんがそう呼んでたから。駄目?」

「いえ、いいわ」

「じゃあイレーネさん、廊下にルイーゼがいるよ。何か話があるみたいだった」

エミールは手を振って出ていった。扉の閉め方が少し雑だった。

廊下に出ると、ルイーゼが壁に背を預けて立っていた。

「イレーネさん」

「ルイーゼさん。何か——」

「いいえ、大したことじゃないの」

ルイーゼは壁から背を離した。

「エミールの二回目の処置が、明日なの。それで——あなたのご主人のことを少し聞きたくて」

「ユリウスのこと?」

「最初の処置の後、どうだったか。先生の”悪くない”だけじゃ分からないから、家族の目で見てどうだったか」

「四日目で起き上がれたわ。三日間は顔色が悪くて、カップを持つ手が震えていたけれど」

「エミールと同じくらいね」

ルイーゼは頷いた。それから、少し黙った。

黙ってから、廊下の窓のほうを見た。窓の外に、研究棟の白い壁が見える。壁の影が少し短くなっている。日が伸びてきている。

「あなたのご主人は、怖がっている?」

「怖がって——」

「処置のこと。四割のこと。自分の身体のこと」

私は考えた。

ユリウスは怖がっているのだろうか。怖いとは言わなかった。痛かったとは言った。「痛いと怖いは、違うところにある」と言った。それは、怖くないという意味ではなかった気がする。

「たぶん、怖がっていると思う。口には出さないけれど」

「そう」

ルイーゼは、少しだけ息を吐いた。

「エミールは怖がらないの。怖がらないほうが心配なのよ、実は」

「怖がらないほうが?」

「怖がっている人のほうが、身体が備える。——これは私の持論で、医学的な根拠はないわ。でも三ヶ月ここにいて、何人か見てきた。怖がらない人は、身構えない。身構えないと、身体が不意打ちを受ける」

根拠のない話だ。医師が聞いたら眉をひそめるかもしれない。

でも、ルイーゼは三ヶ月ここにいた。待合室で何人もの家族の隣に座って、処置室の扉が開くのを待った。その三ヶ月から出た言葉には、数字にはない重さがあった。

「ルイーゼさん」

「ん」

「エミールのこと、心配でしょう」

「心配よ。ずっと」

ルイーゼは笑った。

「慣れたけどね。慣れたくなかったけど」

またあの言い方だった。慣れる。慣れたくない。両方が本当。

廊下の窓から差す光が、ルイーゼの横顔を照らしていた。影が短い。日が、少しずつ伸びている。

部屋に戻って、机の前に座った。

三日間白いままだった紙を手に取った。

ペンを持った。インクの蓋を開けた。ぎゅっと押さないと開かない公国のインク。

書いた。

——オットーへ。無事に着きました。ユリウスは元気です。私も元気です。

——春になったら、また書きます。

それだけだった。

ユリウスの言う通り、それだけでいい。着いた。元気だ。春になったら書く。三行で、オットーには伝わる。伝わらない部分は、帰ってから話す。

ペン先を拭いた。蓋を閉めた。封をした。研究所の封蝋は赤ではなく緑だった。公国の封蝋の色は違うのだ。

緑の封蝋を指で押さえた。乾くまで待った。

乾いた頃に、窓の外が暗くなり始めていた。