軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 白い壁の向こう

建物が三つ、丘の上に並んでいた。

白い壁。平屋に近い低い造り。窓が小さい。屋根は灰色の石板で、端のほうに苔がついている。周囲には低い石壁が巡らされていて、門は開いたままだった。門柱に「王立薬草医療研究所」と、公国語で彫ってある。その下に共通学術語で同じ意味の銘板がついていた。

思っていたより、小さかった。

王都の病院を想像していたわけではない。でもヴァルター先生が「王立」と名乗っているからには、もう少し大きな施設を——石段があって、回廊があって、受付の係がいて——と思っていた。王太子府で六年、「王立」のつく建物は大きいものだという癖がついている。

馬車が門の前で止まった。御者が馬を繋いでいる。ユリウスが先に降りた。新しい杖をついて、ゆっくりと。私がそのあとに降りた。靴の底に小さな石が挟まっていた。昨夜の宿の砂利道のものだ。歩くたびにじゃりっと鳴る。

三つの建物のうち、正面の一棟の扉が開いた。

中から出てきたのは、ヴァルター先生ではなかった。

若い男だった。私たちより少し年上に見える。栗色の髪を後ろで雑に束ねていて、上着の前を留めていない。シャツの裾が少し出ている。朝起きたばかりのような格好だ。午後だというのに。

「新入り?」

声が大きかった。

「——あ、伯爵殿か。聞いてるよ、王国の。心臓の」

「新入り」とか「心臓の」とか、ずいぶんな紹介の仕方だと思った。

ユリウスが杖を握り直した。

「ユリウスでいい」

「じゃあユリウス。俺はエミール。エミール・クラウス。商家の息子。ここには先月から入ってる。同じ心臓だ」

エミールは、ユリウスの杖を見て、それからユリウスの顔を見て、それから私を見た。

「奥さん?」

「妻です」

ユリウスがそう答えた。「妻です」と言うときの声が少し硬かったのは、人前で言い慣れていないせいだと思う。結婚してまだ半年だ。

「へえ。綺麗な奥さんだ」

「ありがとう」

「ユリウスが言うんだ、そこは」

「ああ……ありがとう」

エミールはからっと笑った。ユリウスはどう反応していいか分からない顔をしていた。公国の距離感は王国と違うのだと、昨夜の宿で感じたばかりだった。ここではもっと近い。

「荷物、運ぶの手伝おうか。いや、俺も心臓だから重いもの持てないんだけど」

「結構です。御者と一緒にやります」

「じゃあ俺、先に中で待ってる。茶を淹れておくよ。ここの茶はまずいけど」

エミールは振り返って、建物の中に戻っていった。上着の裾がひらひらしていた。

ユリウスが私を見た。

「……賑やかだな」

「賑やかね」

ヴァルター先生が、正面の棟の奥から出てきた。

「お待ちしておりました。旅路は——」

「悪くなかったです」

「それは何よりです。さっそくですが、施設のご案内を」

三棟のうち、正面が研究棟。左が患者用棟。右が家族用の宿舎。

患者用棟と宿舎は、渡り廊下で繋がっているが、棟自体は別だった。部屋も別。寝台も別。

「面会時間は朝の八時から夕方の六時までです。それ以外の時間は、患者棟への立ち入りはご遠慮いただいております」

ヴァルター先生が、宿舎の鍵を私に渡しながら言った。

「夜は、別々ですか」

「はい。治療中の患者には、睡眠の質が大事です。同室の場合、付添人が気を遣いすぎて、双方が眠れなくなるケースがありましてね」

理屈は分かる。分かるけれど、息を吐いた。吐いてから、もう一度吸うのが少し遅れた。

結婚してから今日まで、同じ屋根の下にいなかった夜はない。テラスで寝落ちした夜も、書斎のソファで二人で眠った夜も、屋根は同じだった。

今日から三ヶ月、夜は別の棟で眠る。

ユリウスは何も言わなかった。先生の説明を聞いて、軽く頷いただけだ。気にしていないのか、気にしていることを見せないのか。この人は、自分の身体のことになると表情を消す癖がある。病弱であることに慣れすぎているのだ。慣れていることが、時々、少し腹が立つ。

宿舎の部屋は、想像より広かった。

寝台が一つ。窓が一つ。机と椅子が一つずつ。壁に棚。棚の上に水差し。窓からは、患者棟の壁が見える。白い壁。窓が三つ並んでいて、手前から二番目がユリウスの部屋だと、先生が教えてくれた。

旅行鞄を開けた。着替えを棚に入れた。薬草茶の缶を机の上に置いた。「無理するな」の紙片二枚は、ポケットに入れたままにした。

荷解きをしていたら、扉を叩く音がした。

「はい」

開けると、女の人が立っていた。

三十前くらいだろうか。茶色の髪を低い位置でまとめていて、目が少し細い。顔立ちは穏やかだが、立ち方がまっすぐだった。揺れない立ち方。何かを待つことに慣れた人の立ち方だった。

「ルイーゼ・クラウスです。エミールの姉」

「あ——さっきの」

「弟がご迷惑をおかけしていなければいいのですが」

声が落ち着いていた。エミールの声の大きさとは真逆だ。

「イレーネです。ユリウスの——妻です」

自分でも「妻です」がまだ少しぎこちないことに気づいた。ユリウスと同じだ。

「お隣の部屋にいます。何かあれば、声をかけてください」

「ありがとうございます。ルイーゼさんは、どのくらいここに」

「三ヶ月になります。エミールの治療に合わせて」

三ヶ月。私がこれから過ごす時間と同じだけ、この人はもうここにいる。

「慣れますよ」

ルイーゼは微笑んだ。

「慣れたくないけど」

その言い方が、耳に残った。慣れる。慣れたくない。両方が本当なのだろう。

ルイーゼは軽く頭を下げて、隣の部屋に戻っていった。扉が閉まった。廊下に足音が消えた。

窓の外を見た。患者棟の白い壁が見える。手前から二番目の窓。ユリウスの部屋。

まだ明るい。夕方の六時にはまだ早い。面会に行ける時間だ。

でも、今は行かなかった。

ユリウスも荷解きをしているはずだ。新しい部屋に慣れようとしているはずだ。一人の時間が要る。私だってそうだ。知らない部屋の、知らない寝台の、知らない枕の硬さを確かめる時間が。

机の上に薬草茶の缶を見た。この缶があれば、朝、お茶を淹れて面会室に持っていける。面会時間は朝の八時から。あと——十四時間くらいだ。

十四時間。

十四年、手紙だけで繋がっていた二人が、十四時間を長いと思っている。おかしい。笑えるくらいおかしい。

笑えなかったけれど。

夕食は研究棟の小さな食堂でとった。

ユリウスとエミールとルイーゼと私、それからヴァルター先生と助手のマティアス。六人で、四人がけのテーブルが二つ並んだだけの部屋だ。

スープと黒パンと、何かの漬物。漬物は王国では見ない味だった。酸っぱくて、少し甘い。

エミールがスープをすすりながら言った。

「ユリウス、お前、四割って聞いてるだろ」

「聞いている」

「コイン投げより悪いよな」

ユリウスがスプーンを止めた。

「コイン投げは五分五分だ。四割はそれより低い」

「だよな。俺、コイン投げで勝ったことないんだけど」

エミールは笑った。笑っている顔に、陰がなかった。こういう冗談を、本気で明るく言える人間がいるのだ。

ルイーゼがエミールの肩を軽く叩いた。何も言わなかった。叩いただけだ。エミールは叩かれて、少し肩をすくめた。姉弟の空気だった。

ユリウスはスプーンを持ち直して、スープの残りを飲んだ。

何も言わなかった。

食事の後、面会時間ぎりぎりまで患者棟のユリウスの部屋にいた。

部屋は宿舎の私の部屋とほぼ同じ造りだった。寝台の向きが逆で、窓の位置が左右反転している。鏡像のようだ。壁の向こうにエミールの部屋がある。

ユリウスは寝台に腰をかけていた。旅の疲れが出ている。顔色が少し白い。杖は壁に立てかけてある。新しい杖の木の色が、白い壁に映えている。

「明日の朝、来るわ」

「ああ」

「お茶、持ってくる」

「ああ」

「おやすみ」

「おやすみ」

二回「ああ」と言って、最後に「おやすみ」。ユリウスの返事はいつも短い。でも今日の短さは、いつもとは少し違う気がした。疲れているのか。それとも——

考えすぎだ、と思った。考えすぎるのは私の癖だ。外交文書を六年読んでいると、相手の返事の裏を読む習慣がつく。ユリウスの「ああ」に裏はない。たぶん。

部屋を出た。渡り廊下を通って、宿舎に戻った。渡り廊下は屋根があるが壁がない。風が吹き抜ける。冷たい。公国の早春は、王国の冬の終わりより寒い。

自分の部屋に入った。扉を閉めた。

窓のそばに立った。

患者棟の白い壁。手前から二番目の窓。

灯りがついていた。ろうそくの灯り。揺れている。

ユリウスがまだ起きている。寝台に座っているのか。本を読んでいるのか。ノートに何か書いているのか。

灯りを見ていた。

見ているだけだった。他にすることがなかった。知らない部屋の、知らない寝台に座って、白い壁の向こうの灯りを見ている。

どれくらい見ていたか分からない。

灯りが消えた。

ユリウスが眠ったのだろう。ろうそくを吹き消して、枕に頭を預けて、目を閉じたのだろう。新しい部屋の、新しい枕の硬さに、少しだけ顔をしかめたかもしれない。

壁の向こうで、ユリウスが眠っている。

同じ屋根ではない。同じ建物でもない。白い壁が一枚と、夜の空気が少し。それだけの距離なのに、手紙で繋がっていた十四年間より近いのに、妙に遠く感じた。

寝台に入った。枕は昨夜の宿よりましだった。少し硬いけれど、厚みがある。背中は痛くない。

目を閉じた。

明日の朝八時、薬草茶を持って、面会室に行く。それだけのことだ。それだけのことを、頭の中で二回確認した。

それだけのことを確認しないと、眠れない夜だった。