軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 父の伝言

「君が勝とうと負けようと、僕は明日も茶を淹れて待っている」

そう書かれた手紙を、私が読んだのは、夜の遅い時間だった。

その手紙のことは、後で書く。順番に書く。

朝、馬車で王太子府に向かった。

公爵邸からは、馬車で十五分の距離だ。半年前は徒歩で通っていた。父の馬車を使うこともできたが、私は使わなかった。徒歩のほうが、頭が冷える、という理由で。今思えば、頭を冷やしたかったのは、たぶん別の理由だ。あの場所に着く前に、自分を整える時間が欲しかった。

今日は、馬車だった。

ユリウスがいる。歩いて行ける距離ではない。ヴァルター先生が同乗するほどの距離でもないので、先生は公爵邸で待機している。何かあったら、戻る。それくらいの近さだ。

馬車の中で、ユリウスは黙っていた。

私も黙っていた。

何も話すことがないわけではなかった。話すと、たぶん、ユリウスが先に何かを言ってしまう。「やはり君だけ行くか」とか、そういうことを。だから、話さなかった。

王太子府の正門の前で、馬車が止まった。

正門の脇の柊の木が、半年前と変わっていなかった。地味な花が今年もついていた。剪定されたばかりらしく、形が整っている。誰が頼んだのだろう。半年前は、私が頼んでいた。私がいなくなった後、誰かが私の代わりに頼んだのだろう。あるいは、私が頼んだ最後の年の剪定が、まだ続いているだけかもしれない。

馬車から降りた。

ユリウスは、杖をついて、ゆっくり降りた。御者と私が両側から支えた。ユリウスは「大丈夫だ」と言ったが、両側からの支えを断らなかった。それは、賢明な選択だった。階段が三段ある。

正門を入ると、見覚えのある回廊だった。

ハインリヒが、回廊の途中に立っていた。

「レーヴェンシュタイン嬢」

ハインリヒは、頭を下げた。

「お久しぶりです」

「ハインリヒ殿。お忙しいところを」

「いえ。お待ちしておりました」

それから、ハインリヒはユリウスのほうに目を移した。一瞬、視線が止まった。半年前のあの応接間で、ユリウスを見た時のことを思い出しているのかもしれない。あの時、ユリウスは「お引き取りを」と二度繰り返した。ハインリヒは、その声を覚えているはずだ。

「エーレンベルク伯爵閣下」

「ハインリヒ殿」

ユリウスは、頭を下げた。

「先日は、お引き取りを、と申し上げて、失礼いたしました」

ユリウスは、そういうことを、最初に言う人だ。

ハインリヒは、わずかに驚いた顔をして、それから、頬の筋肉だけを動かして笑った。

「あれは、私が当然受けるべき扱いでした」

「いえ」

「お話があるとのことで、ご足労いただきました。執務室にどうぞ」

執務室は、半年前と変わっていた。

机の配置が、違う。私が使っていた机は、もうそこになかった。壁際に押しやられて、書類置き場になっていた。書類が積まれていて、もう机として使われていないのが分かった。

代わりに、ハインリヒの机の隣に、新しい机が一つ増えていた。誰かが、そこで仕事をしているようだ。机の上に、若い字で書かれたメモが置かれていた。私の知らない筆跡だ。

「新しい補佐官を、二人雇いました」

ハインリヒが、私の視線に気づいて、言った。

「お一人だけでは、回らなくて」

「お二人」

「はい。それでも、まだ手が足りていない場面があります」

ハインリヒは、自分の机の前に座った。私たちにも、椅子を勧めた。ユリウスは、座ってから、目立たない程度に小さく息を吐いた。歩いてきた疲れだ。

「殿下は、今日は」

私は聞いた。

「会議で、別の棟に。お顔を出されるかもしれませんが、貴族院の審議までは、レーヴェンシュタイン嬢——失礼、お名前は」

「まだ、レーヴェンシュタインで構いませんわ。今は」

「では、レーヴェンシュタイン嬢に、お会いになる予定はないと仰っていました」

「殿下のご判断でしょうか」

「はい」

ハインリヒは、それ以上、何も言わなかった。

ルドヴィク殿下が、私に会わない、と決めている。それは、たぶん、半年前にあった謝罪の、その後の判断だ。これ以上、自分が私の前に出ない、と決めている。介入しない、と決めている。それを、ハインリヒは知っていて、伝えてくれた。

「お話、というのは」

ハインリヒが、本題を切り出した。

「ヴィルヘルム男爵の件です」

ユリウスが答えた。

「貴族院での審議に向けて、書類の準備をしています。ハインリヒ殿に、確認をお願いしたいことが、二つ」

ハインリヒは頷いた。

「一つ目は、王太子府の財務記録から、男爵が関わっている取引の有無を、確認していただきたい。三年以内のもの」

「具体的に、どんな取引を」

「薬草の取引、もしくは、隣国との通商に関わる取引」

ハインリヒは、書類を出した。

「実は、すでに調べております」

「すでに?」

「グレーフェン殿から、レーヴェンシュタイン嬢の意向が伝えられていました。私の独断で、王太子府の財務記録を遡って確認しました」

ハインリヒが、書類をユリウスのほうに回した。

ユリウスは、書類を読んだ。

「王太子府を経由しない、王国内の薬草の取引が、男爵領で発生している」

「はい。三年前から、規模が増えています。本来であれば、王国の通商管理局を経由するはずの取引です」

「これは、男爵が、王国内の薬草を、王国の管理外で動かしている、ということですね」

「はい」

ユリウスは、頷いた。

「グレーフェン殿が入手した契約書と合わせると、ヴィルヘルム男爵は、王国産の薬草を、王国の通商管理局を通さずに、隣国に売却している。三年前から、継続的に」

「不忠案件として、十分です」

ハインリヒは、平らな声で言った。

「不忠案件の証拠としては、契約書の現物の照合と、王太子府の財務記録の不一致、この二つで成立します。貴族院で、当事者の弁明の余地はほぼありません」

私は、ユリウスの横顔を見ていた。

ユリウスは、書類を膝の上に置いていた。手の指が、書類の縁を、軽く撫でていた。

「もう一つの確認は」

ハインリヒが、聞いた。

「男爵が、王太子府に、後見人選定の書類を提出した経緯です」

「経緯」

「王家への提出は確認されていますが、その前に、王太子府に何か根回しがあったのではないか、と」

ハインリヒは、しばらく口を開かなかった。

何かを言おうとして、言葉を選んでいた。

「……ありました」

「ありましたか」

「半年前、男爵は王太子府を訪ねました。その時、ヴェルデン公国との通商の件で、王太子府への協力を申し出ています。具体的には、公国への薬草の輸出ルートを、男爵領経由で開設する、と」

「殿下は、それを?」

「お断りになりました。理由は、レーヴェンシュタイン嬢の起草された通商条約の枠組みから、外れるから、と」

私は、その言葉を、二度聞いた。

ハインリヒが、私の顔を見た。

「殿下は、お別れの謝罪をされた後から、レーヴェンシュタイン嬢の起草された条約を、根拠として使われています。ご自分のお言葉で」

「そう」

「半年前と、今では、全く違います。殿下が、です」

私は、頷いた。

頷いた後、もう何も言わなかった。何かを言うべきだったかもしれないけれど、言葉が見つからなかった。

執務室を出る時、ハインリヒは廊下まで送ってくれた。

「レーヴェンシュタイン嬢」

「はい」

「貴族院の審議の日、私は傍聴席にいると思います」

「殿下のご指示で?」

「いえ。私の意志で」

ハインリヒは、頭を下げた。

そのまま、しばらく頭を上げなかった。

「あの時、止められなかった分を、今度こそ——」

途中で、言葉が途切れた。

「いえ、違うな」

ハインリヒは、頭を上げた。

「あの時の分を、今、取り返せるとは、思っていません。取り返せるなら、もうやっているはずですから」

「ええ」

「ただ、整理がつかないまま、それでも——」

ハインリヒは、続きを言わなかった。

私は、続きを聞かなかった。

ハインリヒの整理が、いつつくのかは、ハインリヒ自身が決めることだ。私が「気にするな」と言って、つく類のものではない。

「お待ちしております」

そう言って、頭を下げた。

公爵邸に戻ったのは、昼過ぎだった。

ユリウスは、長椅子で休んだ。ヴァルター先生が脈を取った。「悪くない数字です」と先生は言った。先生が「悪くない」と言う限り、ユリウスは大丈夫だ。それは、私の中の小さな安心の基準だった。

昼食を、居間で取った。

父も同席した。父は、午前中、ヴィルヘルムの自領帳簿の取り寄せ手続きを進めていたらしい。「明日には、王家から男爵領に通達が出る。男爵領が抗弁するなら、貴族院の審議に間に合うかどうかは、男爵側の対応次第だ」と言った。

「お父様、ありがとうございます」

「礼を言われることではない」

父は、いつも通りの返事をした。

それから、父は、ユリウスのほうに目を移した。

「エーレンベルク殿」

「はい」

「お身体の具合は」

「今日は、悪くないです」

「それは何より」

父は、それ以上、何も言わなかった。

スープを飲む音が、しばらくテーブルの上で続いた。

食事の後、父は私を、書斎に呼んだ。

公爵邸の書斎は、私が八歳の頃から知っている場所だ。樫の机が中央にあって、壁の三面が本棚で埋まっている。窓から差す光が、午後の角度になっていた。

父は、机の前に立っていた。座らずに。

「イレーネ」

「はい」

「これを、預かっている」

父は、机の上に、一通の手紙を置いた。

封蝋は、エーレンベルクの紋章だった。割れていない。私の名前が、ユリウスの字で書かれていた。

「いつ?」

「お前たちが王都に着く前に、別の早馬で届いた。エーレンベルク殿から——」

そこで、父は、口を止めた。

「いや」

父は、もう一度、言い直した。

「ユリウスから」

そう言った。

父が、自分が何を言ったのか、自分で確認するような顔をしていた。「エーレンベルク殿」と言いかけて、「ユリウス」と言い直した。それは、父が、自分の中で何かを決めた瞬間だった。決めて、それから言った、というよりは、口が先に動いて、後から父自身がそれに気づいたような順番だった。

「お父様」

「うん」

「お父様、今、ユリウスって——」

「ああ」

父は、頷いた。

それから、もう一度。

「ユリウスから預かった。お前が王都に着いてから、渡してくれと頼まれた」

「はい」

「お前が王都での仕事に集中できるように、と。だから、出発前ではなく、王都に着いてから渡してくれ、と」

私は、手紙を取った。

封蝋を、指で軽く押さえた。割れていない。中は、まだ読まれていない。

「お父様、ありがとうございます」

「うん」

父は、机の縁に、片手をついた。

「あの男は——いや」

父は、また言い直した。

「ユリウスは、お前のことを、よく考えている」

「はい」

「お前を泣かせる男、と前に言ったが、訂正する」

「訂正?」

「あの男——いや、ユリウスは、お前を泣かせるだけではない。お前が泣いていない時のことも、よく考えている」

私は、父の顔を見た。

父は、本棚のほうを見ていた。私のほうを、見ていなかった。たぶん、私の顔を見ながら、こういうことを言いたくなかったのだ。

書斎を出て、自分の部屋に戻った。

寝台の縁に座って、手紙を開けた。

封蝋を割った時、紙の繊維が少し乾いていた。書かれてから、数日経っているのだろう。私たちが王都に着く前に届いた、ということは、ユリウスは、私たちが出発するよりも前に、別の早馬で送らせていたことになる。

紙を開いた。

イレーネへ。

君が王都に着いた頃、この手紙が届いているはずだ。お父上に、預けるかたちで送る。お父上が、君のお手元に渡してくださると思う。

君が王都で、貴族院の審議に向けて動いているあいだ、僕にできることは多くない。だから、こうして手紙を書いている。

書くべきことは、たぶん、たくさんある。でも、書くと長くなる。長く書いて、君を疲れさせたくない。だから、一つだけ書く。

君が勝とうと負けようと、僕は明日も茶を淹れて待っている。

君が貴族院で勝てば、それは素晴らしいことだ。でも、もし負けたとしても、君は何も失わない。家督は、最悪の場合は王室の管理になる。それでも、僕の領地は、僕の領地だ。男爵が後見人になっても、男爵が常駐するわけではない。僕と君は、領地で暮らす。茶を淹れて、君の手紙の続きを書いて、君と話して暮らす。

君が、勝つために、自分を追い詰めないでほしい。

負けた場合のことを、僕は受け入れている。それは諦めではない。受け入れた上で、それでも勝てるなら勝ちたい、と思っている。それが、君に頼んでいることだ。

これは「無理するな」と書いた紙の続きの言葉だ。

君を待っている。

ユリウス

私は、手紙を膝の上に置いた。

膝の上で、両手で押さえた。

何かを、強く押さえないと、紙が震えてしまう気がした。実際は、紙は震えていない。震えていたのは、私の指のほうだ。

胸のポケットから、「無理するな」の紙片を取り出した。

机の上に置いた。手紙の隣に。

筆跡が同じだった。同じ人が、同じインクで、同じペンで書いている。違うのは、書いた量と、書いた状況だ。

「無理するな」は、戦場へ向かう私への、短い祈りだった。

この長い手紙は、戦場で勝てなくても君を失わない、という長い宣言だった。

二枚並べると、どちらも、ユリウスの「待っている」という気持ちが、形を変えて書かれていた。

「無理するな」のほうは、「待っているから、無理しないでくれ」。

長い手紙のほうは、「勝っても負けても、待っている」。

形が違う。

強くなっている。

窓の外が、暗くなっていた。

街灯が点いていた。王都の夜は、辺境とは違う。星より、街灯のほうが多い。半年前まで、私は毎晩、この街灯を見ていた。今夜は、客人として、また見ている。

明日が、貴族院の審議だ。

紙を畳んで、引き出しに入れた。三枚の紙が、引き出しに入っている。半年前の「無理するな」、王都に発つ前夜の「無理するな」、そして、今日の長い手紙。

引き出しを閉めた。

明日、勝つために、何をするか、頭の中で確認した。書類の最終整理。証言者の確認。グレーフェンとハインリヒへの最終連絡。証拠書類の現物の状態確認。

それから——勝てない場合のことを、初めて、ちゃんと考えた。

勝てなくても、ユリウスは私を待っている。

それは、私の心を軽くするはずだった。

でも、軽くなった分、別の重さが乗った。

——勝てなくても、ユリウスは待っている。だから、私は、ユリウスのために勝ちたい。

それは、ユリウスが望んでいる思考の方向ではない。ユリウスは「自分のために勝とうとするな」と書いてきた。でも、私の頭は逆方向に動いていた。「あなたが許してくれるなら、私はもっと勝ちたい」と。

これは、ずるい話だ。

ユリウスがずるいのではない。私のほうが、ずるい。

ずるいまま、明日、貴族院に立つ。

廊下で、誰かの足音がした。

軽い足音だ。父ではない。侍従の誰かでもない。

「お嬢様」

ヴァルター先生だった。

「明日のことで、一つだけ、お伝えしたいことが」

「どうぞ」

「貴族院の審議は、長くなる可能性があります。エーレンベルク伯爵には、無理をさせないように、休憩を挟むよう、議長にお願いしておきました」

「議長に」

「私が直接、依頼の手紙を出しました。医師の診断書つきで」

「ありがとうございます」

「医師としての務めです」

ヴァルター先生は、それから、少し言葉を選んでから、続けた。

「お嬢様。明日、勝てるといいですね」

「はい」

「ですが、勝てなくても、伯爵は生きています。私が、生かします」

私は、頷いた。

ヴァルター先生は、頭を下げて、廊下を戻っていった。

寝台に入って、目を閉じた。

引き出しの中の、三枚の紙のことを考えた。

ユリウスは、領地で、今夜、何をしているだろう。書斎で、たぶん、新しい茶葉を試している。蜂蜜の量を、また間違えている。自分のカップだけ、甘くなりすぎている。

そう思いながら、目を閉じた。