軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 君は強いから大丈夫だろう?

「殿下。本日は、婚約の解消をお願いに参りました」

言い終えてから、自分の声が思ったより平坦だったことに気づいた。

六年間、何度も頭の中で練習した台詞だ。泣くかもしれないと思っていた。声が震えるかもしれないと。けれど実際に口にしてみると、朝の挨拶とそう変わらない温度で出てきた。

執務室の窓から差す午後の光が、ルドヴィク殿下の金髪を照らしている。その横で、マリエル嬢が小さく息を呑んだのが聞こえた。

殿下は書類から顔を上げた。

「……何だって?」

「婚約の解消です」

私は用意しておいた書類を机に置いた。角が少し折れている。馬車の中で何度も確認したせいだ。

殿下は書類に目を落とし、それからゆっくりと私を見た。困惑しているのではない。面倒くさそうな顔だった。

「急にどうした、イレーネ。何か気に障ることがあったなら——」

「急ではございません」

遮ったつもりはなかった。でも、口が勝手に動いた。

「六年間の夜会出席記録を添付してございます。殿下が私をエスコートなさった回数は、記録上、零です」

マリエル嬢が扇の陰で口元を隠した。殿下の眉がわずかに動く。

「それは……俺にも事情が」

「ええ、存じております。お忙しかったのでしょう」

忙しかったのだと思う。夜会の夜にマリエル嬢と庭園を歩くのは、さぞお忙しかったのだろう。

言わなかった。言っても仕方のないことだ。

十年前のことも、覚えている。

十二の春に、父の書斎に呼ばれた。重い樫の机の向こうで、父は背筋を伸ばしたまま言った。

「王太子殿下との婚約が決まった。お前は強い子だ。殿下をお支えしなさい」

強い子。

父がそう言うとき、口元は笑っているのに目は笑っていなかった。母が亡くなってから、父の目はいつもそうだった。寂しいのだと思う。でも父は、寂しいとは言わない人だった。

だから私も言わなかった。

嫌です、とは。

十七の冬に、一度だけ言ったことがある。

「お父様、婚約を——」

父は私の言葉を最後まで聞かなかった。

「公爵家の面目が潰れる。お前は強い子だろう。我慢しなさい」

書斎の暖炉が爆ぜた音を、今でも覚えている。乾いた薪が割れる、あの短い音。

あの日から、やめたいと言ってはいけないのだと学んだ。

口にしたところで何も変わらない。それなら黙って働いているほうがずっと楽だ。帳簿を開いて数字を追っている間は、考えなくて済む。外交文書の言い回しを推敲している間は、自分が何を感じているか、忘れていられる。

王太子府に出仕して六年。そうやって走ってきた。

走るのをやめたら崩れると思っていた。実際は、走っている間にとっくに崩れていたのだけれど。

「困るのは君だろう?」

殿下の声で、意識が戻る。

「婚約を解消して、レーヴェンシュタイン家はどうなる。お前の立場は。社交界での——」

「ですから、困らないように致しました」

私は二枚目の書類を差し出した。

婚約解消の正式書類。王室への仮提出は済ませてある。六ヶ月以上の放置を証明する出席記録も添えた。違約金の支払い義務が生じるのは、非のある側だ。六年分の記録は、その点について十分すぎるほど明確だった。

殿下の表情が変わった。

笑っていた顔が——いや、正確には、笑いが消えたのではない。笑い方が変わったのだ。余裕のある微笑から、戸惑いを隠すための笑みに。

「……準備がいいな」

「六年もございましたので」

言ってから、少しだけ意地が悪かったかもしれないと思った。でも訂正はしなかった。

マリエル嬢が殿下の袖をそっと引いた。小さな声で何か囁いている。「イレーネ様は強い方ですから、きっとお一人でも——」

聞こえている。いつも聞こえていた。

強いから大丈夫。強いから一人でいい。強いから放っておいていい。

そうやって六年間、私はこの場所に置かれていた。花瓶のように。割れないと思われている花瓶のように。

殿下が立ち上がった。

「イレーネ。考え直さないか」

「考え直す必要がございません」

「行く宛はあるのか?」

ほんの少しだけ、声に心配の色があった。本気かどうかはわからない。六年間、誕生日を一度も祝わなかった人の心配が、どこまで本気なのかは。

でも答えた。

「ええ。ずっと昔から」

殿下が何か言おうとした。私はもう、振り向かなかった。

廊下を歩きながら、ポケットの手紙を取り出した。

角が擦り切れている。何度も読み返したからだ。

ユリウスの字は、昔から少し右に傾いている。寝台に横になって書くことが多いからだと、ずっと前に教えてくれた。

——薬草茶の新しい配合ができた。君の好きな甘い花の香りのやつ。早く試しにおいで。

馬車の扉を閉める。

窓の外に、王太子府の白い壁が見えた。六年間、毎朝通った場所だ。正門の脇に植えられた柊の木が、今年も地味な花をつけている。去年、私が剪定を頼んだのだ。誰も気づかなかったけれど。

もう来ることはない。

不思議と、悲しくはなかった。

悲しくなる分の何かは、とっくに使い切ってしまったのだと思う。

手紙を膝の上に置き直す。

甘い花の香りの薬草茶。

馬車が揺れ始める。王都を出て、東へ。三日かかる道のりだ。

ユリウスは知っているだろうか。私がこの手紙を読んだとき、六年間で初めて笑ったことを。

笑ったというか——口の端が、少しだけ上がった、という程度だけれど。

それでも。

六年ぶりだった。