作品タイトル不明
第七話 夫が初めて読んだ薬帳
ギルベルトがリュシーの薬帳を手にしたのは、ノエリアが出ていって三日目のことだった。
本来なら、その薬帳はノエリアが持ち出している。侯爵家に残っていたのは、古い控えだった。南翼療養室の戸棚の奥、使われなくなった薬草箱の下に、薄い布で包まれて置かれていた。
見つけたのはメイドのエイダだ。
「奥様は何でも書き残していらしたようです」
彼女は少し嫌味を混ぜて言った。
ギルベルトは返事をせず、帳面を開いた。
日付、体温、食事、睡眠、咳の回数、暖炉の温度、窓際の冷え、薬の配合、医師の診察結果。細かな字が、整然と並んでいた。
『二月十三日。夜半に発熱。北翼客間。暖炉の火は十分だが床下から冷気。呼吸浅い。医師を呼ぶ。ギルベルト様には執務の妨げになるため知らせず』
ギルベルトの手が止まった。
執務の妨げになるため知らせず。
そんなことを言った覚えがあった。たしか、王都の会議が翌朝早く、ノエリアが寝室の扉を叩いた。リュシーの熱が下がらないと言った。自分は「医師を呼べ」と答えた。
そして眠った。
眠ったのだ。
娘が息を苦しそうにしていた夜に。
次のページには、さらに細かな記録が続いていた。
『二月十四日。明け方、熱下がる。ギルベルト様、朝食時に「大げさだったな」と発言。リュシーは父の声に反応せず。疲労が強い』
ギルベルトは帳面を閉じかけた。
読みたくなかった。
けれど、閉じられなかった。
『三月二日。リュシー、父に花を見せようとする。ギルベルト様、来客中のため通り過ぎる。リュシー、花を落とす』
『四月十七日。食事量少ない。父の誕生日用に描いた絵を持つ。ギルベルト様、帰宅遅く確認できず』
『六月三日。リュシー、「おとうさま、リュシーのおなまえ、しってる?」と質問。答えに詰まる』
ギルベルトは息を呑んだ。
そんなことがあったか。
あったのだろう。ノエリアが書いている。彼女の記録は過剰なほど正確だ。自分に不利なことですら、感情を足さずに残す女だった。
彼は初めて、娘の名前を声に出した。
「リュシー」
言い慣れない音だった。
自分の娘の名なのに。
執務室の扉が叩かれた。家令ボルクが入ってくる。
「旦那様、法院から面会条件が届きました。医師同席、短時間、温室館内。さらに、お嬢様が拒否した場合は即時終了とのことです」
「子どもの気分で父親との面会を切るのか」
ギルベルトは反射的に言った。
だが、声に力がなかった。
ボルクは淡々と続ける。
「こちらとしては、母親が子に悪感情を吹き込んでいると主張できます」
「悪感情を?」
「ええ。幼児が父親を拒むのは不自然です」
ギルベルトは薬帳を見た。
花を見せようとして通り過ぎた日。
絵を持って待っていた夜。
名前を知っているかと尋ねられた日。
本当に不自然だろうか。
「ボルク」
「はい」
「リュシーは、私を好きだと思うか」
家令は一瞬だけ黙った。
その沈黙が答えだった。
ギルベルトは椅子に深く座った。暖炉の火が燃えているのに、背中が寒い。
彼はノエリアに腹を立てていた。妻のくせに出ていった。夫を支えず、屋敷に恥をかかせ、法院まで巻き込んだ。
そう思っていた。
だが、薬帳の中のリュシーは、何度も父を見ていた。
彼が見なかっただけだった。
南翼の療養室から、リリアの咳が聞こえた。使用人が慌てて走る音がする。
ギルベルトは薬帳の最後のページを開いた。
『娘を守るためには、いずれ決断が必要かもしれない。願わくば、その日が来ないことを』
それは、ノエリアが前世を思い出す前に書いたものだった。
彼女はずっと、迷っていた。
ギルベルトはその日、初めて自分からリュシーの面会申請に署名した。
だが、署名の隣に書いた理由は「父として娘の健康状態を確認するため」であり、「娘に謝るため」ではなかった。
彼はまだ、謝り方を知らなかった。