作品タイトル不明
第十八話「白石澪の居場所を作る」
「佐伯くん、少しお願いしたいことがあるんだけど」
高村先生の手には、プリントの束があった。
その時点で、俺は少しだけ身構えた。
褒められるだけなら、先生はたぶん手ぶらで来る。
期末テストで順位が上がった。提出物も全部出した。最近は授業中も寝ていない。そういう分かりやすい変化があったから、先生の中で俺の扱いが少し変わっているのは感じていた。
ただ、学校でも会社でも、評価のあとに来るものはだいたい似ている。
仕事である。
「何でしょうか」
俺が聞くと、高村先生は手元のプリントを胸のあたりで揃えた。
「テスト直しと提出物の確認を、もう少し分かりやすくしたいの。今回、点数は悪くないのに、提出物で損している子がけっこういて」
心当たりがありすぎて、俺は返事が一拍遅れた。
田端の顔が、ものすごく自然に頭へ浮かぶ。
あいつは今回は出した。出したのだが、それは俺と白石が横で何度も確認したからであって、油断するとすぐ「家に置いてきた」とか言い出す側の人間だ。
「先生が表を作ってもいいんだけど、どう書いたらみんなが見やすいかなと思って。佐伯くん、最近、勉強する順番を考えていたでしょう?」
「はい。まあ、できるところから、という感じです」
「そういう視点で少し手伝ってもらえないかな。放課後、時間があれば」
頼まれごととしては、悪くない。
先生の信用は積めるし、クラスの中で勉強の話をする口実にもなる。なにより提出物で点を落とすやつを減らせるなら、田端みたいな人間が少し救われる。
ただ、俺が一人で作ると、たぶん固くなる。
提出済み。未提出。再提出。期限。
いかにも管理する側の表だ。中学生に見せたら、何人かは見た瞬間に机へ伏せる気がする。
そこで思い浮かんだのは、白石のノートだった。
余白の取り方、見出しの位置、線の引き方。あれは単に字がきれいという話ではなく、見る人が迷わないように作られている。
「俺も手伝えますけど、表を見やすくするなら白石のほうが得意だと思います」
高村先生は少しだけ目を丸くした。
「白石さん?」
「ノートの整理がうまいので。ただ、本人が嫌ならやめておきます。勝手に名前を出すのも違うので」
言ってから、少し硬かったかもしれないと思った。
先生に釘を刺すみたいな言い方になった気がする。
けれど高村先生は、怒らなかった。
むしろ、少し考えるようにプリントへ視線を落とす。
「そうね。無理にお願いすることじゃないわね。白石さんがやってみたいと思えるなら、先生は助かる」
その言い方に、俺は少しだけ安心した。
先生も前より、白石を「配慮する相手」ではなく「意思を聞く相手」として見ようとしている。
たぶん、まだ手探りだ。俺だって偉そうに言えるほど分かっていない。
それでも、前に進もうとしている大人がいるのは、悪くなかった。
「あと、田端も呼んでいいですか」
「田端くん?」
「提出物を出せない側の気持ちが分かるので」
高村先生は一瞬、先生として笑っていいのか迷った顔をした。
結局、少しだけ笑った。
「本人には、もう少し優しく言ってあげてね」
「努力します」
約束はできなかった。
田端相手だと、どうしても雑になる。
◇ ◇ ◇
放課後の教室には、テスト後特有の妙な緩みが残っていた。
部活へ行くやつ、すぐ帰るやつ、机の中からようやく提出物を発掘しているやつ。窓際では、男子が返ってきた答案を見せ合って騒いでいる。
榊原は、教室の前のほうにいた。
取り巻きの女子と話しているが、前ほど声は大きくない。こちらを見ているのか、たまたま視界に入っているだけなのかは分からない。
どちらにしても、白石が動けば必ず見るだろう。
俺は白石と田端を教室の後ろへ呼んだ。
「提出物の確認表?」
白石が聞き返す。
声は小さいが、逃げるような響きではなかった。
「先生に頼まれた。テスト直しとか、ワークとか、自分が何を出せばいいか分かる表を作りたいらしい」
「それを、私が?」
「白石のノート、見やすいから。俺が先生に言った。ただ、嫌なら断っていい。先生にもそう言ってある」
白石はすぐには答えなかった。
ノートを胸に抱えたまま、教室の前のほうへ一度だけ視線をやる。
榊原がいる。
取り巻きもいる。
教室全体が敵ではなくなってきても、あの方向だけはまだ少し温度が低い。
俺は、やめておくか、と言いかけた。
そのほうが楽だ。傷つかない。目立たない。白石が余計な視線を受けることもない。
でも、それを俺が先に言うのは違う気がした。
白石はノートの角を指で押さえた。
少しだけ、力が入っている。
「……やってみたい」
小さいけれど、聞き返す必要のない声だった。
「分かった」
「でも、うまくできるかは分からない」
「それは俺も分からない。だから三人でやる」
田端がそこで手を上げた。
「俺、何係?」
「提出物を出せない側の気持ちが分かる係」
「言い方」
「先生には少し柔らかく言った」
「言ったのかよ」
「必要な人材だとは伝えた」
「そこだけ聞くと格好いいな」
田端は不満そうにしながらも、椅子を持ってきた。
帰る気はないらしい。
「まあ、俺が分かる表なら、だいたいみんな分かるよな」
「そういうことだ」
「俺、基準が低いみたいじゃん」
「低いんじゃなくて、現実に近い」
「もっと嫌だ」
白石が、ほんの少し笑った。
田端は気づいていない。俺は気づいたが、わざわざ言わなかった。
こういう小さい笑いは、下手に拾うとすぐ消える。
◇ ◇ ◇
高村先生が持ってきたプリントの束は、想像よりも手強かった。
各教科のテスト直し。
ワーク。
ノート提出。
授業プリント。
名前のない紙。
最後の山を見た瞬間、田端が真面目な顔になった。
「俺、今後は名前書く」
「急にどうした」
「名前ないプリント、見てるだけで怖い」
「その怖さを忘れるな」
田端は神妙にうなずいた。
たぶんこの先三日くらいは覚えているだろう。
白石はプリントの山を見て、少し考え込んでいた。
俺は先に項目を決めようとしたが、白石の手が動くまで待った。
こういう時、俺はすぐ枠を作りたがる。大人になってから身についた癖だと思う。
だが、今回は白石の見方を借りたかった。
「まず、教科で分けるより、状態で分けたほうがいいかも」
白石が言った。
「状態?」
「出したものと、まだのものと、先生に確認するもの。教科はその後でいいと思う。教科から見ると、結局どれをすればいいのか分かりにくいから」
なるほど、と思った。
俺は無意識に、先生側が確認しやすい表を考えていた。
白石は、見る生徒が次に何をするかを考えている。
「それでいこう」
「いいの?」
「いい。たぶんそっちのほうが見やすい」
白石は少しだけほっとした顔をした。
それから、鉛筆で紙の端に小さく枠を描き始める。
「あと、『未提出』って書くと、ちょっと嫌かも」
田端が言った。
俺と白石が同時に田端を見る。
田端は珍しく、ふざけた顔をしていなかった。
「いや、出してないのは悪いんだけどさ。そこに名前あると、もう見たくないってなる」
「お前、経験者の言葉が重いな」
「重いだろ。提出物に関しては俺、負けてきたから」
勝ち負けの問題ではない気もするが、言いたいことは分かる。
白石は表の端に書きかけた文字を消した。
「じゃあ、『もう一度出すもの』は?」
「それならまだ見られる」
「甘くないか?」
俺が言うと、白石は少し迷ってから首を横に振った。
「甘くするためじゃなくて、出してもらうためなら、そのほうがいいと思う」
その言葉が、妙に胸に残った。
前の人生で、何度も見た。
誰かを詰めるための表。
進捗が赤く塗られて、遅れている人間をさらに黙らせる表。
ああいうものは便利そうで、肝心な人ほど見なくなる。
白石はたぶん、そんな会社員みたいなことを考えて言ったわけではない。
ただ、自分が見た時に怖くない言葉を選んだのだと思う。
だから、余計に正しい気がした。
「白石案でいこう」
俺が言うと、田端が親指を立てた。
「白石さん案、採用」
「いちいち言わなくていい」
「採用されたら嬉しいじゃん」
田端の言葉に、白石は少しだけ目を伏せた。
照れているようにも、困っているようにも見える。
でも、表の線は止まらなかった。
◇ ◇ ◇
作業をしていると、残っていたクラスメイトが少しずつ近づいてきた。
自分の名前が載るかどうか気になるのだろう。
特に提出物に心当たりがあるやつは、机の距離が妙に近い。
その中に、 小野美咲(おのみさき) がいた。
榊原のグループとは少し距離を置いている女子だ。真面目で、授業中に変な茶々を入れない。俺の記憶では、目立つタイプではなかったが、誰かに流されすぎる感じでもなかった。
小野は白石の作った表をのぞき込んで、素直に言った。
「これ、見やすいね」
白石の手が止まった。
褒められることに慣れていないのだと思う。
俺や田端に言われるのとは、また違う。クラスの女子から、まっすぐ言われた言葉だ。
俺は反射的に口を開きかけた。
白石が考えたんだ、と言えば簡単だ。
だが、ここで俺が全部説明したら、白石はまた俺の後ろに隠れることになる。
白石がこちらを見る。
目が少し揺れていた。
俺は何も言わず、小さくうなずいた。
大丈夫、という顔ができていたかは分からない。たぶん、少し変な顔だったかもしれない。
それでも白石は、表へ視線を戻した。
「えっと……出したものと、もう一度出すものを分けたほうが、自分が何をすればいいか分かりやすいかなって」
声は、途中で少しだけ細くなった。
でも、消えなかった。
「あと、先生に聞くものは別にしておくと、名前がないプリントとかも探しやすいと思う」
小野は表を見ながらうなずいた。
「たしかに。私、理科のプリントまだかも」
「理科は、こっち」
白石が指で欄を示す。
小野は「あ、本当だ」と少し困った顔をした。
「白石さん、こういうの得意なんだね」
白石は一瞬、何かを否定しそうな顔をした。
得意じゃない、と言う準備をしたのが分かる。
田端も俺も、黙っていた。
たぶん、ここが大事だった。
白石は指先で紙の端を押さえた。
ほんの少しだけ息を吸う。
「得意かは、まだ分からないけど」
そこで一度、言葉が切れる。
教室の前のほうで、椅子を引く音がした。
榊原がこちらを見ている。
白石も気づいたはずだ。
それでも、視線を戻さなかった。
「こうしたほうが、見やすいと思って」
小野は笑った。
「うん。見やすい。ありがとう」
それだけだった。
大げさなことは何も起きない。
誰かが拍手するわけでも、教室の空気が一気に変わるわけでもない。
けれど白石は、ちゃんと自分の言葉で説明した。
小野はそれを聞いて、普通に受け取った。
その普通さが、たぶん今は大きかった。
榊原の取り巻きの一人が、何か小さく言った。
聞き取れなかったし、聞き取る必要もなかった。
榊原は笑っていない。
面白くなさそうに、けれど何も言わず、こちらを見ている。
勝った、とは思わない。
ああいう視線は、消えたように見えて別の場所へ回ることがある。
俺はそれを、会社でも学校でも見てきた。
それでも、今日のところは白石が一歩前に出た。
俺の後ろではなく、表の前に立っていた。
それだけは、はっきり分かった。
◇ ◇ ◇
作業が終わる頃には、教室の窓が夕方の色になっていた。
部活の声がグラウンドから聞こえる。黒板の端には、誰かが消し忘れた数式が薄く残っていた。
出来上がった確認表は、思ったよりちゃんとしていた。
白石の字は見やすいし、田端の「これだと分からない」という雑な指摘も意外と効いている。
俺は項目の順番を少し整えただけだ。
高村先生は表を見て、目を細めた。
「すごく見やすいね」
「白石が中心になって作りました」
俺が言うと、白石が少し慌てる。
「佐伯くんも、田端くんも手伝ってくれました」
「うん。でも、この整理は白石さんの力だと思う」
高村先生はそう言って、白石のほうを見た。
「白石さん、ありがとう。助かる」
白石は背筋を少し伸ばした。
「はい」
短い返事だった。
でも、朝の教室で机の中を確認していた時の声とは違う。
少しだけ、前に出ていた。
田端が横で伸びをする。
「先生、俺も役に立ちました?」
「もちろん。田端くんの意見も助かったよ」
「聞いたか、悠真」
「聞いた」
「俺、助かったって」
「明日も提出物を出せたら本物だな」
「急にハードル上げるじゃん」
田端は文句を言いながらも、少し嬉しそうだった。
こういう時、こいつは空気を軽くするのがうまい。
本人に言うと調子に乗るので、言わないが。
◇ ◇ ◇
帰り際、廊下で白石が俺の横に並んだ。
田端は高村先生に何かを聞かれて、少し後ろにいる。たぶん提出物の件で釘を刺されているのだろう。
廊下には、部活帰りの生徒の声が響いていた。
窓から入る夕方の光で、床が少しだけ赤い。
「佐伯くん」
「ん?」
白石はノートを胸の前で抱え直した。
いつもの癖なのに、今日は逃げるためというより、何かを落とさないように持っているように見えた。
「私、自分で言えた」
小さな声だった。
ただ、さっき小野に説明した時より、少しだけ確かだった。
俺はすぐに褒めそうになった。
よくやった、とか、すごかった、とか。
それはたぶん間違いではない。
でも、白石が欲しいのは、子ども扱いの花丸ではない気がした。
少し考えてから、俺は言った。
「聞こえてた。ちゃんと伝わってた」
白石が顔を上げる。
「本当?」
「本当。小野も分かってたし、先生も見てた」
「そっか」
白石は、ほっとしたように息を吐いた。
それから、ほんの少し笑う。
その笑顔を、俺は見すぎないようにした。
嬉しい。
それはもう、どうしようもなく嬉しい。
けれどその嬉しさに、勝手な名前をつけるのはまだ早い。
「佐伯くんが、待ってくれたから」
「俺は何もしてない」
「ううん。何も言わないで待ってくれた」
そう言われると、返す言葉が少し難しい。
何もしていない、というのはたしかに嘘かもしれない。
口を挟みたいのを我慢するのも、たぶん一つの行動だ。
「じゃあ、待ってよかった」
俺がそう言うと、白石はまた小さく笑った。
後ろから田端の声がした。
「おーい、二人とも置いてくなよ」
「置いてない」
「いや、今完全に置いてた。距離じゃなくて空気で」
「余計なことを言うな」
「俺、今日役に立ったから発言権ある」
白石が少し慌てて視線を落とす。
でも、その口元にはまだ笑みが残っていた。
田端が追いついてきて、いつもの調子で隣に並ぶ。
廊下のざわめきに、三人分の足音が混ざった。
白石はまだノートを抱えている。
けれど、さっき「自分で言えた」と言った声は、ノートの陰に隠れるようなものではなかった。
少なくとも俺には、ちゃんと聞こえていた。