作品タイトル不明
閑話「白石澪は自分の席に戻る」
白石澪(しらいしみお) は、答案用紙が回収されていくのを見ながら、そっと息を吐いた。
期末テスト初日。
朝からずっと、肩のあたりに力が入っていた。
国語の問題用紙をめくった時も、社会の用語を思い出そうとした時も、数学の途中式を書いている時も、気を抜くと鉛筆を握る指が少し痛くなった。
それでも、思っていたより手は動いた。
漢字は、昨日確認したところが出た。
社会の用語も、暗記カードで見たものがいくつかあった。
数学は少し迷ったけれど、途中式だけは飛ばさなかった。
佐伯くんが、何度も言っていたから。
『面倒くさいことを省くと点が消える』
その言い方を思い出すと、少しだけ笑いそうになる。
真面目なことを言っているのに、言葉の選び方が少し変だ。
大人みたいなのに、時々ちゃんと中学生みたいでもある。
テスト前、私は佐伯くんに「落ち着いて」と言った。
本当は、自分に言いたかった言葉だったのかもしれない。
でも、佐伯くんは「ありがとう。助かった」と返してくれた。
言っただけなのに、そんなふうに返されると、どうしていいか少し分からなくなる。
答案用紙が回収された後も、耳の奥にその声が残っていて、私は意味もなく消しゴムの角を指で押した。
教室は、テストが終わった後のざわめきに包まれていた。
答え合わせをする声。
悲鳴みたいな声。
机に突っ伏す音。
田端くんは、机に顔を伏せたまま佐伯くんと話していた。
佐伯くんは少し笑っている。
その横顔を見つけて、ほっとする自分に気づいた。
すぐに目を逸らす。
見すぎだと思った。
ただ同じクラスの人を見るだけなのに、どうしてこんなに意識してしまうのだろう。
助けてくれたから、というのはたぶんある。
普通に話してくれるから、というのもある。
私を、ただかわいそうな人みたいに扱わないから。
そこまでは分かる。
でも、それだけで全部説明できるかと聞かれると、違う気がした。
何が違うのかは、自分でもまだうまく言えない。
その時、高村先生が教卓の前で声を上げた。
「佐伯くん、田端くん。ちょっとプリント運ぶの手伝ってくれる?」
佐伯くんが顔を上げる。
田端くんは一瞬だけ「今ですか」という顔をしたけれど、すぐに立ち上がった。
「行くぞ、田端」
「俺、数学で体力使い切ったんだけど」
「プリントは数学より軽い」
「心が重い」
二人のやり取りに、近くの男子が笑った。
佐伯くんは教卓へ向かい、答案用紙とは別のプリントの束を持つ。
教室を出る前、彼はこちらを一度だけ見た。
目が合う。
大丈夫か、と聞かれたわけではない。
でも、そう言われたような気がした。
私は小さくうなずいた。
佐伯くんも、少しだけうなずいて廊下へ出ていった。
田端くんがその後を追う。
教室から二人がいなくなると、少しだけ空気が変わった。
さっきまで普通だった場所が、急に広く感じる。
佐伯くんの席のほうを見そうになって、私は途中でやめた。
見たところで、そこには誰もいない。
分かっているのに確認したくなる自分が、少し嫌だった。
私は机の上に次の教科のノートを出した。
帰るわけではない。
席を立つわけでもない。
ただ、自分の席でノートを開く。
それだけのことなのに、指先に少し力が入った。
「ねえ」
教室の前のほうから、小さな声が聞こえた。
榊原さんの近くにいる女子の声だった。
「白石さん、最近ずっと佐伯くんたちといるよね」
「勉強会してるんでしょ」
「いいよね。守ってくれる人がいると」
名前を呼ばれたわけではない。
直接言われたわけでもない。
でも、聞こえる距離だった。
心臓が、嫌な鳴り方をする。
前なら、ここでノートを閉じていたと思う。
何も聞こえなかったふりをして、鞄を持って、早く教室を出ていた。
自分がいるから空気が悪くなる。
自分が何かをしたから言われる。
そう考えていた。
今も、少しだけそう思いかける。
でも、その時、佐伯くんの言葉を思い出した。
『嫌だったなら、嫌でいい』
その言葉は、私の中でまだ消えていない。
嫌だと思っていい。
怖いと思っていい。
そう言われた時、すぐには信じられなかった。
今だって、完全に信じられているわけではない。
私はノートの端を押さえた。
紙が少しだけ震えている。
それでも、閉じなかった。
嫌だと思った。
怖いとも思った。
それでも、ページを開いた。
次の教科の範囲を確認して、暗記カードの束を鞄から出す。
輪ゴムが少し引っかかって、カードの角が一枚だけ浮いた。
私はそれを指でそろえた。
視線はまだある。
気づかないふりをするのは難しい。
でも、視線だけで席を立たなくてもいい。
私は、小さく息を吸った。
「白石さん」
急に横から声がして、肩が跳ねた。
振り向くと、田端くんが立っていた。
いつの間に戻ってきたのか、手にはプリントの束を持っている。
佐伯くんはいない。
まだ先生に何か頼まれているのかもしれない。
「ご、ごめん。驚かせた?」
「ううん。大丈夫」
大丈夫、と言ってから、自分で少し驚いた。
本当に、そこまで大丈夫ではなかった。
でも、声に出したら、少しだけ大丈夫に近づいた気がした。
田端くんはプリントを机に置き、私のノートをのぞき込まないように少し距離を取った。
こういうところは、意外とちゃんとしている。
「これ、何て読むんだっけ」
田端くんが暗記カードを一枚見せる。
そこには、少しゆがんだ字で化学変化の用語が書かれていた。
「質量保存」
「しつりょうほぞん?」
「うん。質量保存の法則」
「それ、漢字だけ見ると強そうだな」
「強そう?」
「必殺技みたい」
思わず、笑ってしまった。
さっきまで胸の奥で固まっていたものが、少しだけほどける。
田端くんは真面目な顔でカードを見ていた。
「つまり、反応の前と後で、全体の質量は変わらないってやつだよね」
「うん」
「よし。今なら言える」
「テスト中にも言えるといいね」
「白石さんが佐伯みたいなこと言う」
田端くんが大げさに肩を落とした。
その言い方が少しおかしくて、また笑いそうになる。
あ、会話になっている。
そう思った途端、少し変に緊張した。
佐伯くんが隣にいるわけではない。
誰かが間に入ってくれているわけでもない。
それでも、田端くんに聞かれたことへ答えられた。
たったそれだけなのに、さっきまで冷たかった指先が少し戻ってきた。
「白石さんのカード、見やすいよな」
田端くんが言った。
「え?」
「いや、俺の字だとさ、自分で書いたのに読めない時あるし」
「それは、少し困るね……?」
「少し?」
「……かなり」
「そこは優しくない」
田端くんは笑いながら、自分の席へ戻ろうとした。
その途中で、教室の前のほうをちらりと見る。
「変なこと言われたら、佐伯に言えばいいと思うけど」
声は軽かった。
でも、目は少しだけ真面目だった。
「佐伯がいない時なら、俺でもいいし」
私は返事に迷った。
助けてもらうことは、怖い。
また迷惑をかける気がする。
また大ごとになる気がする。
でも、田端くんの言い方は大げさではなかった。
ただ、忘れ物を貸すみたいに言った。
それが少し、ありがたかった。
「ありがとう」
そう言うと、田端くんは少し照れたように鼻の下をこすった。
「まあ、俺、記録係らしいし」
「記録係?」
「悠真に任命された。地味な部活」
何だろう、それ。
よく分からないけれど、少し笑えた。
田端くんが席に戻る。
私はもう一度ノートを見た。
教室の前のほうからの視線は、まだ少しある。
でも、さっきほど怖くない。
田端くんとの会話が、少しだけ周りの音を薄くしてくれた。
教室のざわめきも、前のほうから向けられる視線も、なくなったわけではない。
でも、ノートの文字を追えるくらいにはなった。
佐伯くんが廊下から戻ってきたのは、その少し後だった。
手には何も持っていない。
先生に何か言われたのか、少しだけ考え込んだ顔をしている。
目が合う。
私は、反射的に安心しそうになった。
でも、その安心に沈み込む前に、自分の机を見る。
開いたままのノート。
手元の暗記カード。
田端くんに説明した用語。
私は、その間ずっと席に座っていた。
佐伯くんがいない間も、ノートを閉じずにいられた。
誰かに言うようなことではない。
でも、ページの端を押さえている自分の指を見た時、少しだけ変な感じがした。
恥ずかしいような、ほっとするような。
佐伯くんは私の机の上を見て、ほんの少し目を細めた。
何かを言うわけではない。
大丈夫だったか、とも聞かない。
ただ、分かったように小さくうなずく。
その距離が、やっぱり心地よかった。
全部を聞かれたら、たぶん答えられなかった。
でも、何も見ていないふりをされても、きっと少し寂しかった。
佐伯くんはたぶん、そういう聞き方をしない。
そこがずるいと思う。
少しだけ。
私は暗記カードを一枚めくった。
まだ、怖い。
視線も気になる。
榊原さんたちの声を聞けば、胸の奥は固くなる。
それでも、さっき私は席を立たなかった。
ノートも閉じなかった。
田端くんに、質量保存の法則を説明した。
そんなことをわざわざ思い返している自分が少しおかしくて、私はカードをめくるふりをした。
チャイムが鳴った。
次のテストの準備をするため、教室がまた少し静かになる。
私は鉛筆を机の上に置いた。
消しゴムを横に並べる。
暗記カードを鞄へしまう。
そして、自分の席に座り直した。
ここは、まだ少し怖い場所だ。
けれど机の上には自分のノートがあって、鞄の中には暗記カードがあって、前の席からは田端くんのぼやきが聞こえる。
怖さ以外のものも、ちゃんとあった。
佐伯くんが前の席に戻る音がした。
田端くんが小さく「次、理科か」とつぶやく。
私は鉛筆を握り直して、机の端に置いていた消しゴムを少しだけ真っすぐにした。
次の問題用紙が配られるまで、ノートは開いたままにしておいた。