作品タイトル不明
第十四話「大人でも、数学は普通に忘れる」
「佐伯くんって、ほんと調子乗ってるよね」
榊原の声は、小さかった。
廊下のざわめきに紛れれば、すぐに消えるくらいの音量だ。
だが、俺にははっきり聞こえた。
足が少しだけ止まりかける。
振り返って、今のどういう意味だ、と聞くこともできた。
聞こえなかったふりをして、そのまま流すこともできた。
面倒なのは、たぶん後者のほうが正解だと分かってしまうことだった。
三十二歳の中身なんて、こういう時だけ余計に役に立つ。
気持ちよく言い返す未来と、その後に教室で面倒な空気になる未来が、ほぼ同時に浮かんでしまう。
俺は足を止めなかった。
「悠真?」
田端が横から顔をのぞき込んでくる。
どうやら、田端には聞こえていなかったらしい。
白石も少し不思議そうにこちらを見ている。
「何でもない。図書室行くぞ」
「おう」
何でもなくはない。
ただ、今ここで反応したところで、こっちが損をするだけだ。
榊原の小さな一言に、わざわざ大きな場所を与える必要はない。
調子に乗ってる。
中学生の教室では、ずいぶん便利な言葉だった。
頑張っても、目立っても、誰かを助けても、とりあえずこれを貼っておけば相手を少しだけ下げられる。
理由を説明しなくていいから、使う側は楽だ。
大人になってからも、似たような言葉はいくらでもあった。
空気読めとか、出しゃばるなとか、波風立てるなとか。
言葉だけは少し大人っぽくなる。
中身は、あまり変わらない。
俺は図書室へ向かいながら、頭の中で雑にメモを取った。
放課後、廊下、すれ違いざま。
白石と田端には聞こえていない。
たぶん、あとでノートに書くとしてもその程度だ。
地味すぎる。
人生無双という言葉からは、だいぶ遠い。
でも今は、派手にやり返すより、こっちのほうがましだった。
今日の目的は、榊原と戦うことではない。
期末テストで点を取ることだ。
そして、白石が昨日より少し普通に図書室へ行けることだ。
廊下の先で、白石が少しだけこちらを見た。
何かを聞きたそうで、でも聞いていいのか迷っている顔だった。
「白石」
「え?」
「今日、数学を頼む。俺、たぶん思ったより忘れてる」
「佐伯くんでも?」
「俺でも」
白石は少しだけ目を丸くした。
それから、小さくうなずく。
「じゃあ、一緒に確認しよう」
白石は「教えてあげる」とは言わなかった。
俺を立てようとして「そんなことないよ」とごまかすこともしなかった。
一緒に確認しよう。
ただそれだけの言い方だったのに、肩に入っていた力が少し抜けた。
今の俺たちには、そのくらいの距離がちょうどいい気がした。
◇ ◇ ◇
図書室の窓際席は、今日も何とか空いていた。
期末が近づいているせいか、昨日より人が多い。
机の上には教科書、ワーク、プリント。
ただし、集中している顔と、教科書を見つめて魂が抜けている顔が半々くらいだった。
田端は席につくなり、数学のワークを開いた。
偉い。
開いたページが昨日と同じだった。
偉くない。
「田端」
「何でしょう」
「そこ、昨日やった」
「復習という言葉を知っているか?」
「復習なら解いてみろ」
「まだ心の準備が」
「心より手を動かせ」
田端は渋々シャーペンを持った。
白石は向かいの席で、自分のノートとワークをきれいに並べている。
その動作だけで、勉強できる人間の気配がする。
俺も数学の問題集を開いた。
範囲表に並ぶ文字を見た時点では、正直少し甘く見ていた。
連立方程式に、一次関数に、図形。
文字だけ見れば、どれも昔やった記憶はある。
中学数学なら、少し触れば手が思い出すだろう。
そんなふうに考えていた。甘い。かなり甘い。
そして、開始十分でその慢心は折れた。
「あれ」
俺は解答欄の前で手を止めた。
途中までは合っている。
考え方も間違っていない。
なのに、最後の答えが合わない。
もう一度やる。
また合わない。
計算用紙には、似たような式が三回並んだ。
だんだん字が荒れていく。
まずい。
これは仕事で資料の数字が合わない時の焦りに似ている。
「佐伯くん?」
白石が小声で呼んだ。
「ちょっと待ってくれ。今、俺の中の三十二歳が中学数学に負けかけてる」
「三十二歳?」
「気持ちの年齢」
「気持ちの年齢が高いんだ」
「高いというか、疲れてる」
白石が小さく笑った。
田端が顔を上げる。
「悠真、分かんないの?」
「分かる。分かるはずなんだ」
「その言い方、分かってないやつだ」
「うるさい。お前は昨日のページを進めろ」
「先生、こっちも分かりません」
「誰が先生だ」
田端は堂々と手を上げた。
図書室でやるな。
俺は自分の途中式を睨む。
白石が少し迷ってから、身を乗り出した。
「見てもいい?」
「頼む」
白石は俺の計算用紙を見る。
視線が上から下へ、ゆっくり動く。
そして、ある一行で止まった。
「ここ、符号が逆かも」
またか。
見れば、本当に逆だった。
移項した時に、きれいに符号を置き去りにしている。
未来知識どころではない。
符号すら未来に置いてきたらしい。
「……助かった」
「ううん」
「俺、符号に恨まれてるのかもしれない」
「たぶん、急いでるだけだと思う」
白石の言い方は柔らかい。
馬鹿にする感じはない。
ただ、ちゃんと見ている。
それがありがたかった。
国語や社会なら、三十二年分の経験でごまかせるところがある。
文章の流れを見たり、資料のどこが大事そうか当たりをつけたり、そういう小技は大人になってから嫌でも身についた。
数学は、そこをあまり許してくれない。
分かったつもりで手を止めると抜ける。
途中式を横着すると落ちる。
覚えている気がする、というふわっとした自信は、答案用紙の上ではほとんど役に立たない。
現実は、こっちが思っているより細かいところで殴ってくる。
「白石、悪い。もう一問見てくれ」
「うん」
俺は次の問題を解いた。
今度は慎重に書く。
式を一行ずつ残す。
符号を確認する。
それでも、途中で手が止まった。
一次関数のグラフだ。
傾きだの、切片だの、座標だの。
言葉は覚えている。
意味もだいたい分かる。
でも、問題文から式を作る時に、一瞬だけ迷う。
この一瞬が本番では怖い。
白石は自分のノートを開き、ページの端に小さな図を書いた。
「たぶん、先に表にすると分かりやすいと思う」
「表?」
「うん。いきなり式にしようとすると、どこを見ればいいか分からなくなるから」
白石は、問題文の条件を小さく整理していく。
どの数字が何を表しているのか。
どこから式が作れるのか。
どこを代入すればいいのか。
説明は少しぎこちない。
本人も、教えることに慣れているわけではないのだろう。
でも、整理の仕方は分かりやすかった。
「白石、これかなりいい」
「本当?」
「本当。俺、頭の中で処理しようとして詰まってた」
「佐伯くん、時々、途中を飛ばそうとするよね」
「痛いところを突くな」
「だって、考えるのが早いから」
「早いだけで間違えたら意味ない」
俺がそう言うと、白石は少しだけ安心したような顔をした。
自分の指摘が、ちゃんと受け取られたと分かったのかもしれない。
俺が白石を助ける。
白石が俺のミスを見つける。
田端が横で詰まり、ついでに場の空気を軽くする。
きれいな役割分担ではない。
でも、こういう雑な回り方のほうが、今は自然だった。
「俺も見て」
田端が自分のワークを押し出した。
ページを見ると、空欄が多い。……多すぎる。
「田端」
「はい」
「どこが分からない」
「分からないところが分からない」
出た。
中学生だけでなく、大人の研修でも聞くやつだ。
本人はふざけているようで、実はかなり深刻な状態である。
分からないところが分からない。
これを言われると、教える側はけっこう困る。
ただ、笑って済ませるほど軽くもない。
本人の中では、本当に全部が同じ色に見えているのだ。
「じゃあ、最初の問題から声に出して読め」
「え、音読?」
「音読。問題文の意味が分からないのか、計算が分からないのか、式を作れないのかを分ける」
「面倒くさ」
「面倒くさいことを省くと点が消える」
「昨日も言ってた」
「大事なことだから何度でも言う」
田端はしぶしぶ問題文を読んだ。
途中で一度つっかえた。
用語の意味を勘違いしていた。
「ここだな」
「え、そこ?」
「そこ。お前、計算以前に問題文を読み違えてる」
「数学なのに国語が敵なの?」
「全教科、最終的には国語が敵になる」
白石がこくりとうなずいた。
「問題文をちゃんと読むの、大事だと思う」
「白石さんまで」
「田端くん、ここを丸で囲むといいかも」
白石がワークの問題文の一部を指す。
田端は素直に丸をつけた。
その顔は、思ったより真剣だった。
田端はできないわけではない。
ただ、どこでつまずいているかを自分で分解できない。
そこを見つければ、少しずつ進む。
そこからしばらく、三人で問題を潰していった。
俺が雑に方針を出して、白石がそれを見える形に直す。
田端は途中で詰まり、俺が突っ込み、白石が横から補足する。
たまに田端が正解して、図書室だというのに顔だけで大騒ぎする。
静かな勉強会とは言いづらい。
少なくとも、図書室の隅でやるには少しだけうるさかったと思う。
それでも昨日よりは、ちゃんと勉強している感じがあった。
問題は、時間だった。
範囲は広い。
俺は大人の頭で少し有利だが、満点を狙って全範囲を完璧にするほど余裕はない。
田端に至っては、全部を救おうとすると全部沈む。
白石はちゃんとやろうとする。
そこが良いところでもあり、危ういところでもあった。
「一回、範囲を分けよう」
俺はワークを閉じ、白紙のページを開いた。
「分ける?」
白石が首を傾げる。
「必ず取るところ。練習すれば取れるところ。時間が余ったらやるところ」
「捨てるってこと?」
白石の声が少し不安そうになる。
真面目な人間ほど、捨てるという言葉に抵抗がある。
俺も昔はそうだった。
全部やろうとして、全部中途半端にして、提出期限前に白目をむく。
大人になっても同じことを繰り返した。
「完全に捨てるわけじゃない。順番を決める」
「順番」
「先に点になるところを固める。残った時間で難しいところをやる。逆にすると、基本問題を落とす」
「なるほど」
白石は納得したようにうなずいた。
すぐにノートへ三つの欄を作る。
必ず取る。
練習する。
余ったら。
相変わらず速い。
しかも見やすい。
「田端はまずここ」
俺は基本問題の番号を指した。
もちろん番号は口に出さない。
ワーク上の場所を指で示す。
「少なくない?」
「少なく見えるだろ」
「うん」
「でも、これを全部取れたら今よりかなり上がる」
「まじで?」
「まじで。今のお前は、取れるはずの問題を落としすぎてる」
「耳が痛い」
「数学で耳が痛くなるな」
田端は頭を抱えた。
だが、顔は少し明るい。
全部やれと言われるより、ここからやれと言われたほうが動けるタイプなのだろう。
白石は自分の欄を見ながら、小さく言った。
「私は、余ったらのところも少しやりたい」
「白石はやっていい。ただし、基本を落とさない範囲で」
「うん」
「あと、俺の符号ミス監視も頼む」
「それ、係なの?」
「重要職だ」
「じゃあ、ちゃんと見る」
白石が少しだけ楽しそうに言った。
その顔を見て、俺は胸の奥で息を吐いた。
榊原の言葉はまだ残っている。
教室の空気だって、全部元通りになったわけではない。
それでも白石は今、図書室で数学のノートを開いている。
俺のミスを見つけて、田端に丸をつける場所まで教えている。
守られているだけの子、という言い方はたぶんもう合わない。
◇ ◇ ◇
気づけば、窓の外は夕方の色になっていた。
田端は最後のほう、英単語ではなく数学に体力を全部吸われていた。
白石はノートをまとめ直し、明日やる範囲に小さく印をつけている。
俺は問題集を前に、同じ種類の問題をもう一度解いた。
今度は合った。
途中式を飛ばさず、符号を確認し、図を描いた。
それだけのことだ。
それだけのことを、さっきの俺は省きかけていた。
「合ってる」
白石が答え合わせをして言った。
「よし」
「佐伯くん、途中式きれいになった」
「字は?」
「字は……少し」
「少しか」
「少し」
そこは譲ってくれないらしい。
田端が机に突っ伏したまま、くぐもった声を出す。
「俺、今日ちょっと頭よくなった気がする」
「気がするだけで終わらせるなよ」
「明日には忘れてるかも」
「明日またやる」
「鬼」
「テストはもっと鬼だ」
田端はうめいた。
白石が笑う。
俺も少し笑った。
鞄に問題集をしまいながら、今日のことをぼんやり思い返す。
榊原の一言には乗らなかったし、田端は意外と記録係として使えそうだった。
白石は今日も図書室に残った。
ここまでは悪くない。
問題は、俺が中学数学を思ったより忘れていたことだ。
これが地味に痛い。
ビットコインが伸びることは知っている。
株で大きく勝てる企業があることも知っている。
スマホが当たり前になって、世の中の空気が変わっていくことも知っている。
それなのに、目の前の方程式には普通に詰まる。
未来を知っているとか言いながら、移項で符号を間違える。
我ながら締まらない。
ただ、その締まらなさが今の俺の実力だった。
俺は数学の問題集を鞄に入れる前に、もう一度だけ開いた。
赤ペンで直した途中式が目に入る。
思わず、声に出た。
「未来を知ってても、途中式は飛ばせないのか」
白石が不思議そうにこちらを見る。
田端は机に突っ伏したまま言った。
「何か深そうなこと言ってるけど、要するに数学やれってこと?」
「そういうことだ」
「現実、厳しいな」
本当に、厳しい。
人生二回目でも、計算ミスは普通にする。
大人でも、数学は普通に忘れる。
そこはもう、認めるしかない。
俺は問題集を鞄に押し込み、白石に借りたノートが折れないように少しだけ位置を直した。
明日もまた、この続きをやる。
たぶん田端は忘れてくるし、俺はまたどこかで符号を間違える。
それでも、まあ。
ひとりで間違えるよりは、ずっとましだった。