軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話「白石澪はノートを開く」

白石澪(しらいしみお) は、靴箱の前で一度だけ息を止めた。

何もない。

上履きは、昨日と同じ場所に入っている。

変な紙も、濡れた跡も、折られたメモもない。

それを確認してから、ようやく息を吐いた。

ほっとしたことに、少しだけ落ち込む。

何もされていないのが普通なのに、普通であることに安心してしまう自分がいる。

怖がりすぎなのかもしれない。

大げさなのかもしれない。

そう思おうとしても、足の先はまだ少し冷たかった。

廊下を歩く。

朝の学校は、いつも通りうるさい。

部活の朝練を終えた男子の声。

階段を駆け上がる足音。

教室から漏れてくる笑い声。

その全部が、前より少しだけ遠く聞こえる。

私は教室の前で立ち止まらないようにした。

止まると、入れなくなる気がしたからだ。

扉を開ける。

いくつかの視線がこちらを向いた。

すぐに逸らされる。

それだけのことなのに、胸の奥がきゅっと縮んだ。

榊原さんの席のほうは見ない。

見ないようにしている時点で、気にしているのは分かっていた。

でも、まだ見られない。

自分の席へ行き、鞄を置く。

机の中に手を入れる前に、少し迷った。

また、何か入っていたらどうしよう。

そんなことはない。

先生も動いてくれた。

佐伯くんも、田端くんも知っている。

もう前と同じではない。

そう思ってから、机の中を確かめた。

教科書。

プリント。

昨日入れたままのワーク。

それだけだった。

私は小さく息を吐き、椅子に座った。

机に額をつけたいくらい安心した。

でも、そんなことをしたら、誰かに見られる。

だから普通の顔をして、鞄からノートを出した。

普通にする。

普通に席に座る。

普通に授業を受ける。

それが、こんなに難しいことだとは知らなかった。

少しして、佐伯くんが教室に入ってきた。

彼はいつものように、少し眠そうで、でも周りをよく見ている顔をしていた。

目が合う。

「おはよう、佐伯くん」

「おはよう」

短い挨拶だった。

それ以上、何かを聞かれることはなかった。

大丈夫か、とも言われなかった。

昨日のことを蒸し返されることもなかった。

それが、少しだけありがたかった。

心配されるのが嫌なわけではない。

助けてもらったことを、なかったことにしたいわけでもない。

ただ、ずっと「助けられた子」として見られると、私はまたそこから動けなくなってしまう気がした。

佐伯くんは、不思議な人だった。

大人みたいに話す。

先生より落ち着いている時がある。

誰が何を言ったのか、何が問題なのかを、怖いくらい冷静に見ている。

それなのに、ときどき字が雑だ。

田端くんに突っ込まれると、少しだけ返事が子どもっぽくなる。

そのちぐはぐさが、見ていると少しおかしい。

放課後の図書室でのことを思い出す。

佐伯くんは、テスト勉強の方針を説明してくれた。

最初は少し難しかった。

点になるところから潰す。

優先順位を決める。

全部を完璧にしようとしない。

言っていることは分かるような、分からないような感じだった。

でも、田端くんがもっと分からなそうな顔をしていたので、私はノートの端に表を書いた。

今すぐやる。

毎日少しやる。

時間があればやる。

たったそれだけの表だった。

でも、田端くんは「分かる」と言ってくれた。

佐伯くんも「助かる」と言ってくれた。

その時、胸の中に小さな明かりがついたみたいだった。

助けてもらったから安心した、だけではない。

私も、少しは役に立てた。

そこが、うれしかった。

うれしいと思っていいのか、少し迷った。

こんなことで喜ぶのは変かもしれない。

でも、前は違った。

私はできるだけ目立たないようにしていた。

変なことを言わないように。

誰かの気分を悪くしないように。

余計なことをしないように。

そればかり考えていた。

なのに図書室では、私が書いた表を見て、二人が普通に話を進めてくれた。

私のノートを見て、佐伯くんが「すごい」と言ってくれた。

お世辞ではないように聞こえた。

それが、まだ少し信じられない。

授業が始まる。

先生の声を聞きながら、私はノートを取った。

日付。

単元名。

黒板の内容。

先生が口で言った補足。

いつも通りに書いているつもりなのに、今日は少しだけ余白が気になった。

佐伯くんに貸すなら、あとから見ても分かるほうがいい。

田端くんにも分かるようにするなら、もっと短い言葉のほうがいいかもしれない。

そんなことを考えている自分に気づき、鉛筆の先が止まった。

誰かに見せるためにノートを書く。

それは、少し怖い。

間違っていたらどうしよう。

分かりにくいと思われたらどうしよう。

調子に乗っていると思われたらどうしよう。

でも、それでも。

また見せたいと思っている。

放課後、図書室で勉強して、家に帰る頃には空が少し赤くなっていた。

玄関を開けると、母が台所から顔を出した。

「澪、今日は少し遅かったのね」

「図書室で勉強してた」

「期末前だものね。夕飯まで少し時間あるから、手を洗ってきなさい」

「うん」

それだけの会話だった。

母は、学校で何があったのかを全部は知らない。

私も、全部は話していない。

話せば心配される。

心配されれば、たぶん、私はもっと怖くなる。

部屋に入って、机の前に座る。

鞄からノートを出した。

国語。

社会。

英語。

数学。

佐伯くんに貸すと約束した国語と社会のノートを開く。

ページの端が少し折れていたので、指で伸ばした。

消しゴムの跡が薄く残っているところを、もう一度きれいに消す。

自分でも、少し変だと思う。

ただノートを貸すだけなのに。

明日返してもらうだけなのに。

でも、丁寧にしたかった。

佐伯くんは、私のノートを「大事に使う」と言った。

その言葉を思い出すと、胸の奥がくすぐったくなる。

助けてくれた人だから、特別なのだろうか。

それとも、普通に話してくれたから、特別に感じるのだろうか。

自分でもよく分からない。

分からないことが、前より怖くなかった。

それに、明日このノートを渡すことが、ほんの少しだけ楽しみだった。

そう思った瞬間、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。

私は新しい付箋を一枚出し、国語のノートの最初のページに貼った。

そこに、小さく書く。

漢字はここから。

読解のポイントは後ろ。

社会は地理から先に見ると分かりやすい。

書いてから、少し考えた。

説明が多すぎるかもしれない。

でも、佐伯くんはたぶん読んでくれる。

田端くんは、途中で飽きるかもしれない。

思わず、ふっと笑ってしまった。

図書室で見た佐伯くんのノートを思い出す。

考えていることはすごいのに、字は本当に雑だった。

線も少し曲がっていた。

書いてある言葉も、ところどころ中学生のテスト勉強ではなさそうだった。

未来のこと、と彼は言っていた。

期末の後のことだと思った。

でも、佐伯くんの目は、もっと遠くを見ている時がある。

私たちがまだ知らない先を、ひとりだけ見ているみたいな目。

それが何なのかは分からない。

ただ、今の私は、その遠さに置いていかれたいわけではなかった。

隣に並べるなんて思わない。

でも、せめて、ノートの一ページくらいは手伝えるかもしれない。

そう思えることが、少しだけうれしい。

私は国語のノートを閉じ、社会のノートを重ねた。

角を揃える。

鞄に入れる。

明日、忘れないように、机の上ではなく鞄の中へ。

それから、別のノートを開いた。

自分用の小さなメモ帳。

誰にも見せない、予定や忘れ物を書くためのもの。

鉛筆を持つ。

少しだけ迷ってから、端のほうに小さく書いた。

明日、ちゃんと渡す。

ただそれだけの予定だ。

でも、今の私には、少しだけ勇気のいる予定だった。

明日も教室に行く。

明日も席に座る。

明日も、普通にノートを渡す。

それができたら、たぶん私は、今日より少しだけ普通に近づける。

私はメモ帳を閉じ、机のライトを消した。