第一王子の婚約者は、男爵令嬢の戯れなど相手にしない。
作者: 有梨束
本文
第一王子の婚約者ブリジット様が、例の男爵令嬢を手にかけたらしい。
人目につかない場所で、階段から突き落としたそうだ。
とうとうクリストフォロ殿下も、彼女に心動かされたらしい。
あのミータ男爵令嬢に、今日も男たちは骨抜きにされている。
果たして、我が婚約者クリストフォロ殿下は、惑わされたのですかね?
いつものように定期的なお茶会のため、王宮の庭に着くと先にクリストフォロ殿下が座っていた。
「ご機嫌麗しゅう、殿下」
「…その呼び方は却下だ」
「あら、お気に召しませんでしたか?」
「召さない。普段通りにしてくれ」
「お待たせしました、クリス。それで、どうでしたか?」
同じテーブルにつくや否や、地獄から這いずり出てきたかのような低い声で唸った。
とても煌びやかな第一王子が出す声とは思えないものだった。
「黒だ。たった一週間で真っ黒だ、あの女」
クリスがいくらポーカーフェイスが得意だからといって、声と表情が合っていないとこんなにも不気味なのね。
「そう、よかったですね」
私は紅茶に口をつけて、優雅に微笑んだ。
「いいけど、よくない」
「あら、すぐに証拠が集まってよいではありませんか」
「こんなに真っ黒なら、僕がわざわざ囮になる必要がなかった。不愉快極まりない」
こんなに不機嫌そうにしているのは、はじめて見たかもしれない。
婚約者とはいえ、全部を知っているなんて烏滸がましいわね。
殿下の新たな一面だわ、こんな形で顕にならなくてもよかったけれど。
「もう少し骨のある子猫ちゃんかと思っていましたが、期待外れでしたね」
「可愛い猫なんかと一緒にするな。…ブリーは、僕がそばにいないのに楽しいというのかい?」
「あら、そんなこと申してませんよ。ただ、踊り狂ってくれるほどの娘ではなかったな、と」
「……僕以外に期待の目を向けるなんて、妬けるのだけれど」
不服そうな声に、自然と笑みが零れる。
「それで、ミータという男爵令嬢はどうされますの?」
「じきに処分を下すよ。まとまったら明日にでも」
「でしたら、クリスは囮続行ですわね」
「……ああ、本当に吐き気がする」
どちらかというと優しい男であるクリストフォロがこんなに露骨に悪態つくなんて、よっぽど手に負えない娘のようだ。
私の大事な人を疲れさせるなんて、あの娘どうしてあげましょうかね。
「愛しい人。明日まで、待っててくれるかい…?」
いつものように私の目を見るクリスに、私はもちろんだと頷いた。
「事がうまく運ぶよう、微力ながらお手伝いいたしますわ」
「僕はブリーに待っていてほしいんだよ」
「いくらでもお待ちしていますわ」
「そこは早く帰ってきてと駄々をこねられたいところだがな」
ようやくクリスも紅茶に口をつけたので、私も気持ちが楽になる。
「ああ、でもあの子、ちょっとは面白いものを見せてくれたんですよ。まさか、生きている間に見られるとは思っていなくて」
私が愉しげにそう言うと、クリストフォロの手が伸びてきた。
少しだけ頬を掠めて、切なげに私を見た。
「…怪我は無かったのかい?」
「あら、もうお聞きになりまして?」
「当たり前だ。すぐに報告させた。……僕の大事なブリーに手を出すなんて、あの恥知らず」
「まあまあよろしいではないですか。私はあれが見られて満足でしたのよ」
「ブリーに、何かあったらダメだ。それだけで万死に値する」
「あら、過激」
「本当に怪我などはしていないんだね…?」
揺れる瞳で問われるから、その手を取って綻ぶように笑ってみせた。
「傷ひとつありません、大丈夫です」
「……僕はヒヤヒヤして大丈夫じゃなかった」
どれだけ優秀な王子も、私の前ではいまだにこどものようなことを言う。
私はそれを好ましく思っている。
私にも、婚約者にしか見せない顔がきっとあるだろう。
「では、時を待ちましょう」
「ブリジット様ひどいです!クリストフォロ様を解放してあげてください!」
てっきり殿下の方が仕掛けてくるかと思いきや、自分から突っ込んでくるなんて、本当に気が短い娘だこと。
これでどうやって他の男子生徒を虜にできたのかしらね。
不思議でならないわ。
「あら、なんのことかしら?そもそも、あなたはどちら様?」
これぐらい煽ってやればムキになるだろうと思ったら、案の定顔を真っ赤にして怒り出した。
「ひどい…!人のことを覚えていないとか、最低ですっ!こんな非情な人、クリストフォロ様に相応しくありません!」
そうやってミータ男爵令嬢が喚けば、取り巻きの男たちがそうだそうだ!と騒ぎ出す。
周りも高みの見物よろしく、楽しそうにこちらを見ている。
彼女の隣で腕を組まれているクリストフォロ殿下は、顔はやはり変えないけれど、心底不機嫌そうだとここからでもわかる。
まあ、幼い頃から一緒の私にしかたぶんわからないだろうけれど。
あら、これではあの子猫ちゃんへのマウントかしら。
「そうは言ってもね、興味のない人の顔と名前を覚えるのって結構大変なのよ?」
そんなわけがない。
来賓の方とその家族、家系、爵位、順番など、貴族名簿の隅々までを網羅していないなんて、将来の王妃としてそんなお粗末なことはない。
覚える価値もない人間なら、指折りで足りないほどいるが、彼女ももうそのうちの1人となる。
「私を階段から突き落としておいて、よくそんなこと言えますね…!?この人殺しっ…!」
彼女の言葉に、周囲はざわざわし始める。
やっぱり噂は本当だったのかと、どこかから聞こえてくる。
死んでもないのに、よく回る口だこと。
「ああ、転げ落ちたのはやっぱりあなただったのね。ミータさん?」
にっこり笑ってあげると、ミータはうるっと瞳を潤ませて、儚げに俯いた。
「……あんなことしておいて、謝罪もないなんて。ブリジット様って本当に冷たい人なんですね」
よよよ、とクリストフォロ様に寄りかかるミータを取り巻きたちが支える。
「クリストフォロ様、私もう…、限界ですっ…」
可憐さを残しながら獲物を狙う目つきで上目遣いをしているのだから、もはやあっぱれである。
クリスがはああとわざとらしく深いため息を吐くと、ドンとミータ嬢の肩を突き飛ばした。
女は何が起こったのかわからない顔でよろめいて、取り巻きの腕の中へと収まった。
「僕ももう限界だ。貴様といるのは苦痛すぎる」
それが合図かのように、殿下の側近たちがミータ男爵令嬢とその取り巻きたちを床に押さえつけた。
あたりは一気に騒がしくなった。
「ミータ男爵令嬢、我が婚約者ブリジットの殺人未遂で地下牢行きを命ずる!」
クリストフォロ殿下の響き渡る声に、ざわめきの種類が塗り替えられるように変わっていく。
いろんな色の視線が男爵令嬢へと注がれる。
殺人と聞いて、さすがの取り巻きたちも息を呑んだり、オロオロし始めた。
あら、庇わないのかしら。
その程度の愛ってこと?
「なっ…!私が殺されそうになったんですよ!なんで、私が!何かの間違いです…!」
「いいや、何も間違ってはいない。貴様は僕の大事な人を殺そうとした」
はっきりとわかる侮蔑の色で令嬢を見下ろしているクリスは、私でも少し怖かった。
「大事な、人って…、それは私のことじゃ…」
「貴様など最初から眼中にない。気色の悪いことを言うな」
「だって、ブリジット様じゃなくて、私のそばにいてくれたじゃないですかっ!」
「監視と証拠集めのためだ。あと、気安く我が婚約者の名をその口で言うな。穢れる」
あまりにも冷たい言い方を受け、儚さはどこへいったのやらわなわなと口を震わせ、私のことを睨んでくる。
気概だけはあるのよね。
私は前へ出ると、クリストフォロ殿下の横に立って同じようにミータ男爵令嬢を見下ろした。
「あなた、さっき自分で自白したでしょう?階段から突き落とされたって」
「そうですよ!あなたのせいで、危うく全身骨折するところだったんですよ…!」
きゃんきゃん喚く声が耳障りで、私までため息を吐いてしまう。
「あなた、自分が特別だと勘違いしているのではなくて?」
「なに、が」
「ちょっと男性からちやほやされたからって、自分の価値まで上がったと思い込んでいる。あなたたちがしていたことは、底辺の、自ら上がってもこられない者たちの傷の舐め合いだったと、なぜ気づかないのかしら?」
侮辱されているということだけはわかったのだろう。
カッと熱くなって、暴れて、余計に取り押さえられた。
「それなのに、身分も違う殿下や私と同じだと思い込んでいる。本当に残念だわ」
「なんで、そこまで言われなきゃいけないんですか…!?ブリジット様は、特別だとでも言うんですか!」
私の名前を口にしたものだから、クリスが躊躇うことなく彼女の手を踏み付けた。
驚愕した様子で見上げてきたけれど、忠告も耳に入らないからそうなるのだ。
「そうよ、少なくともあなたより特別なの」
そう言ってにっこり微笑んだ。
さて、些細な種明かしをしてしまいましょう。
「あなたには、私が誰に見えているのかしら?」
「は…?そんなの、クリストフォロ様を縛る最悪な婚約者に決まって…」
妄言もここまで来ると、頭痛もしない。
「この国の筆頭公爵家の令嬢であり、第一王子殿下の幼き頃からの正式な婚約者であり、未来の王妃です。それがわからないの?…ああ、わからないからその振る舞いなのよね」
自分で言っていて、相手の馬鹿さに悲しくなる。
説明も何もかも、さっさと終わらせるに限る。
「私が殿下の婚約者に選ばれた時から、私の体にはたくさんの秘術がかけられているのよ。そのひとつが殺意を持って近寄ってきた人間を弾き飛ばすというものなの」
そう言えば少しは頭を使ったのか、怯えるように私を見てきた。
「王家に入る人間ですもの、危険と隣り合わせですからね。だからといって、この秘術が発動される日が来るなんて思わないじゃない?もっと遠くから狙えばよいのだし、巧妙に策を練る方が賢いじゃない?」
私の声だけが軽やかに響いて、隣にいるクリスだけが満足そうな気配がする。
「まさか体当たりしてくる者なんているわけないし、この術の発動は生涯ないのではと幼い頃に思ったのだけれど。でも、この目で見ることができたのよ、本当にびっくりしてしまったわ」
実際に見られるなんて、心躍ってしまったわ。
その点だけは、彼女に感謝している。
あんな素敵な術展開、見られてよかったわ。
「…そんなの、聞いてない」
「あら、当たり前じゃない。『秘術』なのだから、あなたが知るわけないじゃない」
あなたがくだらないことをしなければ、ずっと秘密のままだったのに残念だわ。
「殿下が近づいた翌日には私に殺意を持って飛び込んでくるんだもの。私を殺して、何が手に入ると思ったのかしら。間者でももう少し上手くやるでしょうに、雑なのよあなた」
「でも、でもっ、私がやったなんて、証拠ないですよね…!?」
この期に及んで食い下がるので、私はもう喉も渇いたし、殿下と交代しようと目線を送った。
クリストフォロ殿下は涼やかに続きを話し出した。
「その秘術は発動と同時に王の手元にある水晶に映像が映し出されるようになっている」
「…っ」
「貴様が弾き飛ばされる瞬間は、僕も王も記録で確認済みだ。以上だ、連れて行け!」
こうして呆気なく、男爵令嬢とその取り巻きによる恋愛ごっこ劇場は幕を閉じた。
「……クリストフォロ、何か怒っているの?」
「ブリーには怒っていない。ただやっぱり囮役だったのが納得いっていないだけ」
今日は王宮の一室で婚約者との2人きりのお茶会だ。
なのだけれど、クリストフォロはソファーに座る私の膝に顔を埋めて、その腕で腰を強く抱き締めてくる。
いつもはこんなことないのに、今日は様子が違う。
護衛や侍女だって部屋の中ではなく、扉を少し開けて外で待機している。
普段と違って、正真正銘、部屋で2人きりだ。
「陛下の命じゃなきゃあんなことしないというのに、あの人は扱いが乱暴なんだから…」
「王立学園の秩序を守るのも、王族の仕事のうちですからね」
「国を治める者、学園くらい治めて来いと囮だけ命じてあとは丸投げなんだから」
「それだけ、クリスは信頼されているのね」
そういっても気持ちは晴れないようで、珍しく拗ねている。
今回の事件は、男爵令嬢が一部で巻き起こしたただの恋愛ごとだった。
たくさんの男に声をかけては、あなたは素晴らしいと男を持ち上げて、あなたは悪くない、悪いのはあなたを理解しない周りだわ、と囁いて心を傾けた男子生徒数名によるミータ男爵令嬢を囲うハーレムのようなものだった。
そんなものに惑わされる者が多かったことが問題で、それらしい理由で停学か退学かに追い込めればよかった。
そのためにクリストフォロ自ら近づいて様子見をしようとのことだったのに、どういうわけか、かの令嬢は私に突進してきたのだ。
自分は第一王子に見初められたと本気で思ったらしい。
というわけで、停学どころか犯罪者となり、誑かしに加え、学園の備品を盗んで換金していた余罪まであって、修道院行きではなく終身刑となった。
強かなんだか、浅はかなんだか。
取り巻きたちは停学、多くは家から勘当されたそうだ。
「……あの女に魅力なぞ感じなかったがな」
「心酔していた男子生徒たちは、皆次男や三男ばかりでした。血や実力で一番に這い上がれなかった者たちには、甘い慰めに聞こえたのではないかと」
「そんな理由で、乱さないでくれよ」
「理解者が現れると、縋ってしまうのでは?」
「……それはなんとも耳が痛いな。僕はブリーに甘えてばかりだから」
くぐもった声が聞こえて、笑いに気づかれないように努めた。
私の婚約者がこんなにも可愛いだなんて、あの子猫ちゃんにはわからなかったでしょうね。
「幸い、嫡男は誰一人いなかったのは、まだ救いでは?」
「婿養子になる予定だった者が2人も交じっていた時点でアウトだ」
結局、責任ある者たちはそれ相応の判断をしていた。
それだけのことだった。
「いい抑止力ですわ。少なくとも我らの代は、気を引き締めますよ」
「ああ、そう願おう」
くるりと上を向いて、ようやくクリスと目が合った。
「もうよろしいのですか?」
「いや、今回僕は頑張ったからね。褒美が欲しいよ」
「あら、それでしたら何か贈り物をしますよ?何がよいですか?」
「ブリーからの口付けが欲しいな」
その意地悪さも含んだ声に、こちらが言葉を詰まらせてしまう。
きっと、クリスの前でしかしない顔をしているのだろう。
「ふふっ、可愛いブリジット」
「もう…!」
「君の一番は、僕のままかな?」
「一番ではありませんわ」
そう告げて、そっと唇を寄せた。
「私の唯一です、クリス」
クリストフォロは嬉しそうに目を細めると、優しく囁くのだった。
「それなら、君は僕の特別だ」
ようやく片付いた仕事の合間の休憩は、いつもより甘めで、とても和やかだった。
了