軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

5、ガブリエル・過去

一晩中ろくに眠れなかったセシルは、朝になるとようやく痛みも治まり、ガブリエルの少し眠るといいという言葉に安心したように目を閉じて、寝息を立て始めた。

泣き疲れたような幼い寝顔をしばらく見つめたあと、ガブリエルはセシルを抱き上げて、寝台にそっと寝かせた。

(セシルが泣いたところ、久しぶりに見たな)

セシルの母親が亡くなった時以来、ずっと彼女が泣くことはなかった。

辛いことがあっても快活に笑って困難を乗り越えるのが、セシル・フレイという人間だった。

「――えっと、大丈夫?」

セシルに初めて会った時、本人には決して言わないが、間近で彼女の顔を見た瞬間、天使が降ってきたのだと思って目を奪われた。

話し方と少年のような格好のせいで気づかなかったが、彼女は確かに女の子だった。

長い睫毛に縁どられた緑の目は夏の日差しを受けた新緑のようにきらめいていて、ずっと見ていたいような初めての気持ちに襲われる。そんな自分が無性に恥ずかしくなり、ついいつも以上にぶっきらぼうに接してしまったが、セシルは物怖じせずはきはきと自分が木に登っていた事情を説明する。

無鉄砲で考えなしの馬鹿だと思っていたが、話していくうちにどうやら違うみたいだと認識を改めた。自分と同い年なのに兄と接しているような、達観した雰囲気を纏っている。

「えっ、ほんと? ありがとう!」

かと思えば弾けるような笑顔を見せてくるので、まだ少年だったガブリエルは非常に落ち着かない気持ちになった。

セシルは母や兄たちから礼儀正しくしっかりした子だと褒められて、弟と妹からは非常に懐かれ、あっという間にガブリエルの家族に受け入れられた。使用人たちからの評価も高く、一緒に遊んでいると微笑ましい表情をされた。

「なんだ、その子は」

ただ一人、父だけはセシルがガブリエルの隣にいることをよく思わなかったが。

「ガブリエル。お前は侯爵家の人間だ。騎士としてご令嬢に親切に接するのはいい。だが、己の人生を捧げても構わないと思う相手は、もっと高貴な人間でなければならない」

威厳を纏った父が吐き出す高説は一見正しいように聞こえて、矛盾だらけの、気色の悪い言葉だった。父のような人間がセシルを評価すること自体、虫唾が走る。

「俺が誰と付き合おうが、あんたには関係ないだろ。セシルをあんたの歪んだ価値観で値踏みするな。不快だからどこかに行ってくれ」

「ガブリエル。そんな言い方――」

セシルが注意する前に、ガブリエルは侯爵に頬を叩かれた。

「目上に対する態度がなっていないな。私が課した稽古も疎かにしていると聞いている。来なさい。相応しい騎士になれるよう、躾し直してやる」

屈辱だった。セシルの前でこんなことをされて、意味のわからない騎士像を押し付けられて……どうしようもない怒りと恥ずかしさを覚える。

(相応しい騎士、ってなんだよ)

ガブリエルには父が押し付ける騎士像が誰か特定の人間を想定したものに思えて、強い反発心が生まれた。その人間は己の家族を深く傷つけ、父を狂わせた原因だからだ。

「俺は絶対にお前なんかに教わらない!」

腕を掴んで無理やり連れて行こうとする父にガブリエルは必死に抗う。不安そうな顔で様子を見守っていたセシルが父を止めようとしたところで、「父上!」と兄であるサンソンが仲裁に入る。

「ガブリエルが嫌がっています。お互いに少し落ち着いてください」

父は跡取り息子である兄の顔をちらりと見ただけで、「お前は口を出すな」と冷たく返す。そのどこか他人のような、素っ気ない態度に兄がどれだけ傷つくかも知らずに。

「……父上。私も、あなたから直接剣の稽古を教わりたいです。私にはご教示いただけないのですか」

「お前は騎士になる必要はない。どうしても必要ならば、師範に教えてもらえ」

「っ、このクソ親父!」

兄の泣きそうな、歪んだ表情を見て、ガブリエルは頭がかっとなる。

だが己がどんなに怒り狂っても、父の顔は全く変わらなかった。

「またそんな不快な物言いを……はぁ、いいだろう。お前には言葉よりも剣で指導してやる」

「っ」

「ラガルド卿!」

問答無用で自分を連れて行く父を、セシルが澄んだ声で堂々と呼び止める。

行く手を塞ぐ小さな存在を、父は冷たい目で見下ろしてどくように告げた。

「それはできません!」

セシルは笑顔を浮かべて元気よく断った。そして父が眉間に皺を寄せて何か発する前に素早く次の言葉を発する。

「わたしにも、ガブリエルと一緒に剣を教えてください!」

父も男装しているセシルが本当は少女であることは察しているはずだ。

だからこそ余計に驚き、初対面でいきなり剣術の稽古を頼まれて呆気にとられた。

父のそんな顔を初めて見たガブリエルは、この男もこんな顔をするのだなという意外な気持ちと、父を驚かせたセシルすごいなという称賛と愉快な気持ちが湧く。

「きみは一体何を言っているんだ」

「ラガルド卿は我が国において名のある騎士だとお聞きしております。ですから、そんな方からご指導いただければ、わたしも誰かを守ることのできる力が少しでも身につくと思うのです!」

(すげえ。この人が言葉を失っている)

いつも自分が何を言っても感情を宿さぬ人形のように表情を崩さなかった男が、今はセシルの言葉で非常に複雑そうな顔をしている。

「……いろいろ言いたいことはあるが、きみは女性だ。剣を取る必要はない。か弱い女性は何もせず、ただ男性に守られていればいいのだ。それが、私たちの役目であるのだから」

「頼もしいお言葉ですね。――ですが、か弱いからこそ、強くなれるよう、教えて差し上げるべきでは?」

「何?」

セシルは自分よりもずっと背の高い父に怯むことなく、まるで挑むような眼差しで笑みを深めた。

「どんなに大切な人でも、ずっとそばにいてあげることは難しいですから。だからたとえ自分がいなくても――もう隣で支えてあげることができなくなっても、恐怖や不安を抱かないように、一人でも前をきちんと向いて歩けるように、強さを授けるんです。それこそが、相手の幸せを一番考えた、強い方にできることだとわたしは思います」

セシルの言葉に何か響くものがあったのか、父は黙り込んだ。

サンソンも目を丸くしており、ガブリエルも同じ表情でセシルを見つめる。

彼女の今の主張は、まるで誰かを指しているように聞こえた。

そう。父と、父の心を今もなお掴んで離さない隣国の王妃――父が愛する女性を……。

「その考えは間違いだ。セシル・フレイ。私は断じてきみの考えを受け入れることはできない」

ガブリエルは掴まれた腕に痛みを覚え、呻いた。

セシルがそばに寄り、わなわなと震える父の手を引き剥がそうとする。

「はい。ラガルド卿の考えを否定するつもりは一切ございません。ただわたしがそう考えているだけです。理想の騎士というのは、互いの考えを尊重し合い、それもまた一つの考えだと示すのでしょう? ですから、今はまだお父上から剣の指導を受けるのは早いと断るガブリエルの気持ちも、どうか受け入れてください」

遠回りしてガブリエルの気持ちを大事にしろという要求をしたセシルに、父は気が削がれたようだ。あるいは、これ以上セシルと関わるのは避けたいとどこかで感じたのかもしれない。

「わかった。今日のところはお嬢さんの頼みを聞くとしよう。だが、ガブリエル。いつまでも逃げ回ることは許されない。お前は私の血を引いているのだから、私と同じ騎士になるのだ」

それがお前の運命だと告げるように父は命じて去っていった。……また、王都に戻るのだろう。ここにはいない女の影を追い求めて。

父が去ると、セシルがガブリエルたちの方を見て深く頭を下げた。

「ごめんなさい、ガブリエル。サンソン。親子の話し合いに図々しく割り込んでしまった」

「いや、助かった……というか、お前、うん……すごいな」

「ああ、ガブリエルの言う通りだ。……あんな父の顔、初めて見たよ」

「え、そうかな?」

気の抜けたように笑うセシルに、ガブリエルは父への怒りがどこかに行ってしまい、かわりに彼女への強烈な興味がわいた。セシルのことが知りたい。

彼女がなぜそんなにも強いのか。今でも十分強いのに、どうしてこれ以上強くなりたいなんて言うのか。

答えは、セシルの家に遊びに行った時にわかった。

「お姉さま。その方はどなた?」

セシルの異母妹であるフランセットは姉と一つしか年が違わないのに、ずいぶんと幼い印象を受けた。手には人形を持っており、フリルやレースのついた可愛らしいドレスを着ている。

「フランセット。彼はガブリエル・ラガルド。わたしの友達だ」

「お姉さまのお友だち? なら、こちらで遊びましょう!」

セシルから引き離すように、フランセットはガブリエルの手を無遠慮に引っ張った。すぐにセシルが注意すると、フランセットは泣きそうな顔をした。

「ひどいわ、お姉さま。ガブリエルの前で叱るなんて。私は彼と仲良くしてはだめなの?」

「そんなことは微塵も言っていないよ、フランセット。わたしがだめだと言ったのは、初対面の人間に軽々しく触れてはいけないということだ。ガブリエルも驚いているだろう?」

「どうしてだめなの? ガブリエルも、別に嫌ではないでしょう?」

ガブリエルは絡みつくような鬱陶しさを本能的に感じ、セシルが苦労していることを悟った。珍しく困った顔をしているセシルを目にして、それとなくフランセットから距離を取りながら答える。

「べたべたされるのはあまり好きじゃない。驚くから、次からはやめてほしい」

まだ幼い子どもならばわかるが、フランセットは今年で十歳になるとセシルから教えてもらっていた。ガブリエルがセシルと出会った時もそれくらいだった。セシルは今のフランセットよりもずっと大人びて、無鉄砲なところはあったが、礼儀は弁えていた。相手の気持ちを慮って嫌がることは決してしない。

そんな彼女と比較すると、どうしてもフランセットは幼稚だという印象が拭えなかった。

(あまり関わりたくない)

そう思って、セシルも同じではないかと気づいた。

実際彼女は、ガブリエルに母を紹介するから離れへ行くと言い、フランセットから離れようとしていた。

「いや! 私も一緒に行く! そうだ。私もセシルのお母様にご挨拶するわ」

「ごめんね、フランセット。それはできない」

愛人の娘が現れれば、身体が弱くなっているセシルの母を刺激するのは当然だ。

だがフランセットは不思議そうな顔をして、どうしてと無邪気に尋ねる。

ガブリエルにはその無邪気さが腹立たしくも、恐ろしくも思えた。

「ね、どうしてそんな意地悪をするの……ひどいわ。お父様にも以前、言われたじゃない。もっと姉として優しくしてあげなさいって」

「そうだね。でも、今回はどうしても聞いてあげられない。どうしても会いたいなら、お父様に直接頼んでごらん」

セシルは父親が会わせないことを承知でそう言うと、もう行こうとガブリエルに言った。

それでもフランセットは無理やりついて来ようとしたが、メイドたちに止められて、なんとか振り切ることができた。

「すまない、ガブリエル。変な空気になってしまった」

「お前は別に何も悪いことしていないだろ。……大変なんだな」

適切な言葉が見つからずそう言えば、セシルは年に似合わない苦笑を浮かべる。

「いつもはもっと素直ないい子だよ。たまに頑固な時があって……母親や父たちが甘いから」

母親というのはもちろんフランセットの母のことであり、セシルとは血の繋がりはない。

愛人が同じ屋敷で暮らしているというのは、どういう気持ちなのだろうか。

(自分の母親は離れに追いやられて……)

療養のため、移らないようにするため、というのが表向きの理由だそうだが、だからといって愛人とその娘を屋敷に連れてきて住まわせる理由にはならない。

ガブリエルだったら気持ち悪くて、顔を合わせる度に怒りを抱いただろうが……セシルの横顔はすでにどこか諦めたようで、ひやりとした。

何か声をかけようとしたところで、不意にセシルがこちらを見て悪戯を思いついたように微笑む。

「それより、ガブリエル。わたしの母上に挨拶する心の準備はできている? お母様は初対面の人にも容赦ない人だから、今からしっかり心構えしておいた方がいい」

「あ、ああ……そんなに厳しい人なのか?」

「厳しい、っていうより、好き嫌いが激しい子どもみたいな……いや、猫みたいな……まぁ、とにかく高貴な女性なんだ」

めったに緊張しないガブリエルであったが、セシルの言葉に、またセシルの母親に会うということで、珍しく心拍数が上がってきた。

(いきなり怒鳴られたりは、しないよな?)

戦々恐々と離れの一室に案内されたガブリエルは、窓際の寝台で外を見ていた女性の姿に目を留めた。セシルと同じ色をした目がゆっくりこちらに向けられると、息を呑む。

「初めまして。あなたがガブリエルね」

病気で弱っていると聞いていたので、もっと痩せた弱々しい姿を想像していたが、セシルの母・ヴィルジニーは上半身を起こし、背筋をピンと伸ばした状態で真っ直ぐガブリエルの目を見てきた。

かつては社交界の華と謳われたのが理解できる。今もなお、美しい女性だった。

そして、セシルに顔立ちがよく似ていた。……母親であるので当然なのだが、何だか動揺する自分がいた。

呆然としていたガブリエルはセシルに肘を突かれて我に返る。慌てて頭を下げて、挨拶した。緊張でどこかぼそぼそ話してしまう。ヴィルジニーはそれを見てくすりと笑い、いくつか質問してきた。ガブリエル自身のことであったり、侯爵家のことであったりした。

「本来ならばこちらから出向いて、その子の非礼を詫びなければならないのだけれど……こんな状態ですからね。どうか許してくれるよう、ラウラにも伝えて」

手紙も渡してほしいと白い封筒をガブリエルは受け取った。

母とセシルの母親は顔馴染みであったという。

「それじゃあ、いつまでもここにいるのはよくないから、もうお行きなさい。メイドにお菓子を用意させるから」

不自然なほどヴィルジニーはセシルを視界に入れなかった。セシルも極力言葉を発さず、それが当たり前だという慣れた態度で静観している。

(……お前は、この家で育ったんだな)

『たまに面倒な事を忘れて、何か別のことに思いきり集中したい時があるだろう?』

初めて出会った時に聞いた言葉を思い出して、胸が痛くなった。

あとでセシルから教えてもらったが、ヴィルジニーはガブリエルに会うために薬を服用して、きちんとした人間に見えることを意識したそうだ。

安定した日もあるが、それ以外の日が多いと、セシルはあくまでも明るい声で困ったように愚痴を零した。

何でもない振りをするのがセシルはとても上手だった。

「セシル! フランセットにもっと優しくしなさい! まったく。本当にお前はあの女にそっくりだ」

「セシル。ヴィルジニー様の調子はどう? 何かあったら、私を頼ってね? 血の繋がりはないけれど、フランセットとあなたは姉妹で、私もあなたをもう一人の娘のように思っているから」

「お姉さま。このドレス、素敵でしょう? お父さまとお母さまがプレゼントしてくれたのよ。今度これを着てお出かけするの!」

セシルの言うことに全く耳を傾けず悪いと決めつける父親、夫婦仲が悪くなった原因が自分にあるとは思ってもいない顔で優しく接してくる愛人、そんな二人に愛されている証拠を無邪気に見せつけてくる異母妹。

ここにセシルの味方は誰もいない。こんな環境で幸せに暮らせるはずがない。

ガブリエルはセシルがいつか壊れてしまうのではないかと怖くなり、母と兄に相談した。

母たちもセシルの置かれた状況を危惧して、セシルを行儀見習いと称して侯爵家でしばらく預かることを提案した。

こういう時、爵位が上だと助かる。

セシルの父(とも思いたくない)フレイ伯爵は、不満がありそうだったものの、厄介者でもあるセシルを一時でも追い出せると考え直したのか、承諾してくれた。

ガブリエルの母と定期的に手紙のやり取りをしていたセシルの母も、あっさりと娘を送り出してくれた。

こちらから望んだことだとしても、ガブリエルは二人の反応にむかむかした。

(それでもセシルの親なのかよ)

「今日からお世話になります」

侯爵家へ来たセシルは深々と頭を下げたのち、ガブリエルに安心させるように微笑んだ。

セシルを少しでも助けるつもりで引き取ったが、実際は逆だったように振り返って思う。

「セシルお姉さま、一緒に遊んで」

「セシル。先生に出された課題がわからないんだ。教えてくれないかな」

ガブリエルの妹と弟に甘えられてもセシルは嫌な顔せず、思う存分世話を焼いた。

自分もまた、セシルの明るさに救われていた。あの時も――

「ガブリエル。庭に来なさい」

父がまた剣術の稽古をつけるためだけに顔を出した。セシルは母や妹たちと行儀作法について学んでいてその場にはいなかった。

ガブリエルは言い争うのも面倒で、早く父が屋敷から出て行くことを望んでいた。だからおとなしく指導を受けようとしていたのだが、珍しく兄が父に話があると言って時間をくれるよう頼んだ。

父は聞く前から興味がなさそうな顔をして、ここで話すよう言った。

「……私も、騎士になりたいのです。ガブリエルはあまり剣の道に興味はありません。ですから、父上の志を継ぐ騎士は私がなります。これ以上、ガブリエルに無理に指導しないでほしい。お願いします」

(兄さん……)

頭を下げて頼むサンソンの姿にガブリエルは戸惑いや驚きを隠しきれない。

兄の頼みは、弟を心配する気持ちと、同じ息子である自分を見てほしいという気持ちがまざり合った懇願だったから。

「何を馬鹿なことを言っている。お前にはそんなこと全く望んでいない。……いや、騎士になりたければなればいい。この家を継ぎたくないのならば、継ぐ必要もない。好きにしなさい。――だが、ガブリエルの未来については、口出しすることは許さない」

「……どうして父上は、私を見てくれないのですか。私が母上に似ているからですか? ガブリエルの方が父上に似ているから、だから興味がわかないんだ。そうでしょう!」

「落ち着きなさい、サンソン。お前も私の大事な息子だ。幸せになってほしいと思っている」

近寄って肩を叩いた父を兄はやるせない表情で見ると、渇いた声で笑った。

「なんて心に響かない言葉なんだ」

父の手を乱暴に振り払い、兄は背を向けた。

「兄さん!」

ガブリエルは兄を追いかけようとした。彼の背中が傷つき、取り返しのつかない事態に陥った気がしたから。だから何か言わねばならないと思った。

「来るな!」

兄の鋭い制止に思わず足を止める。

「来るな。頼む。来ないでくれ……今、お前の顔を見たくない」

ガブリエルはサンソンの言葉に傷つく。

必死に考えないようにしていたが、兄は父が自分にばかり構うことを羨ましく思っている。父の愛情――とは決して言えないだろうが、執着心を独り占めするガブリエルを妬ましいと思っているのだ。

「兄さん、俺……」

ガブリエルにとってサンソンは心優しい兄だった。父の代わりに自分や母たちを支えて守ってくれる、頼もしく、尊敬できる人だった。

そんな兄に拒絶されて、どうしていいかわからなかった。

サンソンはその後部屋に引き籠り、母の呼びかけにも答えず、沈黙を破るように大きな物音を――部屋の中を滅茶苦茶にする破壊行動に出た後、また静かになった。

それから、兄は部屋から出てこなくなった。

長男の心が壊れたというのに、父は放っておけと言い、また屋敷を後にした。

(あんなやつ、死ねばいい)

母もショックを受けており、弟と妹も不安そうな顔をしている。

自分が父に似ているせいで、兄を傷つける羽目になった。家族みんなに迷惑をかけている。

(この顔があいつに似ているから、みんな不幸になった)

「俺の、せいだ……」

「ガブリエルのせいじゃないよ」

顔を上げると、セシルが怖い顔をして部屋の入り口に立っていた。どうしていいかわからず部屋に引き籠っていじけていたガブリエルのもとへ、彼女は恐れもしないでまるでこれから決闘でも申し込むような勇ましい雰囲気を纏って堂々と入って来る。

「サンソンがあんなふうになったのは、絶対にガブリエルのせいじゃない」

セシルはもう一度そう繰り返すと、ガブリエルに手を差し出した。項垂れるように寝台の縁に腰かけていた彼は意図が分からずセシルを見上げる。

「お腹空いたでしょ。だから食堂に行こうよ」

「……空いてないからいい」

食欲なんてない。……それに、母や弟たちと顔を合わせるのが気まずかった。

「わたしは空いたの! ガブリエルと同じで、何も食べていないから!」

だから行こうとセシルはガブリエルの返事を聞かずに手を掴むと引っ張り上げた。それから問答無用で部屋を退出させられ、食堂へ引きずられていく。

「……なんで、お前も食べていないんだよ」

「えー? なんでだろ。お揃い?」

自分が心配だから、とは言わず、頓珍漢な答えでセシルは誤魔化した。ガブリエルは何だか拍子抜けしたような気持ちになって、幼子のようにセシルに手を引かれて食堂に来てしまった。

「さ。たくさん食べよう!」

すでにテーブルにはたくさんの料理が用意されていた。どれも、ガブリエルが好きなものだ。さらに料理を運んでくる使用人たちは何も言わず、ただ淡々と接してくれて、逆に有り難かった。母や弟たちも気遣ってか様子を見せず、セシルと二人だけで食べることができた。

「食事が済んだら、リリアンと猫たちと一緒に遊ぼう。それから剣術の稽古にも付き合ってくれ。ああ、待って。夫人が使っていない部屋の後片付けを手伝ってほしいと言っていたから、まずはそれから取り掛かろう。そういえば、ジルが難しい問題を出されたと言っていたな。遊ぶ前にきちんとやったか確かめないと――」

セシルは器用に料理を食しながらずっと話し続け、ガブリエルは彼女の声を耳にしながら黙々と食べ続けた。

食欲がないと思っていたが、実際口にすると自分が空腹であったことに気づかされる。

「美味しかったな、ガブリエル」

すべての皿を空にしたガブリエルに、先に食べ終わっていたセシルが満足そうに言った。

「……ああ、すごく」

「空腹のあとにがっつり食べたから、あとでお腹壊すかもな」

「それ、もっと早く言え」

セシルは笑って謝る。

「たぶん痛くなるのはわたしもだから、同じだよ。ガブリエルが苦しんでいたら、わたしもとことん付き合うさ」

セシルは笑みを浮かべながらもどこか真面目な口調で語る。そんな彼女にガブリエルは心が揺れる。

「セシル。俺……これから、どうすればいい」

なんとも情けない声で縋れば、彼女はあっけらかんと答えた。

「今までと同じでいいよ。ジルやリリアンたちが遊んでとせがんできたら遊んでやればいいし、使用人たちに相談事をされたら適切な受け答えをすればいい。サンソンが休んでいる間、ガブリエルの負担が増すかもしれないけれど、夫人もいるし、わたしだっている。優秀な使用人もいる。ジルやリリアンだって、いつまでも子どもじゃない。だから、いつも通りのガブリエルでいいんだよ」

ガブリエルははきはき述べるセシルをぼうっと見ていたが、彼女は言うべきことは言ったからと椅子から立ち上がり、早速すべきことをしようと明るく言った。

この時、セシルがいなかったら、きっと自分はサンソンとはまた別の壊れ方をしていたと思う。だから本当にセシルがいてくれてよかった。兄が壊れた後の自分のあり方を示してくれたおかげで、ガブリエルはこれまで通り過ごすことができた。

もちろん、サンソンがこれまで果たしてくれていた役を代わりに引き受けることはなかなか大変だったが、セシルの言う通りみんな自分を支えてくれた。まだ幼いと思っていたジルやリリアンもずいぶんしっかりしていることに気づかされて、勇気をもらった。

「ガブリエル! 今度仮装パーティーしようよ。わたしが男装するから、きみは女性の格好をするんだ。手は抜くなよ?」

母の身体が弱くなり、横になることが次第に増えて屋敷の中が暗くなりかけると、きまってセシルが突拍子のない、愉快で面白いことをしようと提案した。

美しい少年の姿になりきって母やリリアンの掌に口づけを落としてダンスに誘うセシルは本当に様になっており、リリアンは頬を染めてキャーキャー騒いでいた。

ガブリエルの女装姿は綺麗であるもののどこか厳つく、ジルや飼い猫たちに怯えられて、使用人たちは笑いを堪えていた。

ぶすっとする己にもセシルは綺麗だと心から褒め称えて踊りに誘ってくる。馬鹿らしい気持ちからセシルの手を取って踊っているうちに笑いが込み上げて、気づけば声を出して笑っていた。

母が亡くなった時、ガブリエルは葬儀の準備や泣きじゃくる弟と妹たちを慰めるのに必死で、どこか実感が湧かなかった。いや、考えないようにしていただけかもしれない。

母が苦しんでいるのに父はそばにいなかった。死に際すら、あの人は夫婦の役目を果たしてくれなかった。母は最期までそんな父に失望して、この世を去った。

自分が母にできたことはなんだろうか。母は幸せだったのだろうか。

「こんなところにいたのか」

ぼんやり木の下に突っ立っていたガブリエルの隣に、セシルが来て並んだ。

「俺、何もしてやれなかった」

ぽつりと呟くと、セシルがこちらを見て、また前を向いた。

「ラウラ様、笑っていたよ」

ぶらんと垂れ下がったガブリエルの手にセシルが触れて、握った。

「悲しい顔をする時も確かにあったけれど、リリアンやジル、ガブリエルと一緒にいる時、優しい顔で笑っていたのを、わたしはきちんと見た。最期も、ガブリエルたちに見守られながら天国へ行かれた。不幸だなんて、わたしは絶対に思わない」

セシルはそう言いながら、指を絡めた手をきつく握りしめる。そのまま指を折るのではないかと思うほどの強い力を込めるので、ガブリエルは思わず「痛い」と呟いていた。それでセシルが力を弱めることはなく、同じ強さで、あるいはさらに強く握ってくるので、とうとうガブリエルの目から涙が零れた。

肩を震わせて嗚咽を噛み殺すガブリエルの隣で、セシルは手を繋いだままずっと前を見続けていた。

母が亡くなると、ガブリエルの仕事はますます増えた。だが忙しい方が悲しみやこれからの不安が紛れたのでちょうどよかった。

「ガブリエル。悪いが、わたしも一度家へ帰るよ」

実家から届いた手紙に目を通したセシルは母親の容態が悪いことを明かした。流行病はもともと弱っていた彼女の母親の肉体にも影響を及ぼしたらしい。

「わたしの顔を見たら、怒って案外元気になるかもしれない」

セシルはいつもと変わらぬ様子でそう言ったが、ガブリエルの目にはどこか怯えているように見えて、自分も一緒に行くと申し出た。セシルは最初断ったが、ガブリエルは譲らなかった。ジルやリリアンたちも、自分たちの代わりにセシルについていってあげてと留守を引き受けてくれたので、結局セシルはすまないと珍しく弱気な顔で謝りガブリエルと共に伯爵家へ帰った。

セシルの母親、ヴィルジニーは、今度はガブリエルの前でも気丈に振る舞えなかった。ぐったりとした様子で寝台に臥して、今すぐにでも迎えが来ようとしている状態だったのだ。

セシルはしばしそんな母の姿に言葉が出ないようだったが、ヴィルジニーが目を開けると「お母様、遅くなって申し訳ありません」とまるで主のもとへ帰還した騎士のように毅然とした態度で遅くなったことを詫びた。

「どうして……帰ってきたの。ここにはもう来るなと、言ったはず、よ……」

「ばあやが知らせてくれたのです。お母様のことを」

ヴィルジニーは舌打ちしてお節介なセシルの乳母を罵る言葉を吐いた。そうして気怠そうに目を瞑り、娘を追い払うように顔を背けた。

「どこかへ行って。お前の顔なんか、見たくないの」

「いいえ、お母様。今回ばかりはあなたの言うことは聞きません」

セシルはそう言うなり、母親の世話を焼き始めた。ガブリエルも手伝った。ヴィルジニーはそんなことするなと悪態をついて嫌がったが、セシルは笑って譲らなかった。

しかしセシルの看病も虚しく、ヴィルジニーは呆気なくこの世を去る。

この時はさすがにセシルも取り乱し、母親に縋りついて必死に呼びかけていた。ヴィルジニーが息を引き取ると、呆然とした様子でその場に座り込みそうになったので、ガブリエルがとっさに支えた。

初めて見るセシルの姿に、彼女の方が壊れてしまうのではないかと怖くなった。

わかっていたことだが、夫である伯爵が妻の最期に立ち会うことはなかった。さすがに葬儀は執り行ったが、最低限のものであった。

ガブリエルは参列者として加わることができたが、それ以上は踏み込めず、すべてが終わったあと、姿が見えないセシルを探した。

彼女は葬儀の間、目を涙で潤ませて赤くしていたが、父親たちと接する時は怒ったような表情で相手をしていた。荒れ狂う感情を――相手の無神経な態度が一々癪に触り、無防備に笑う顔の首に手をかけてやりたいという殺意を必死に抑え込みながら……。

(お前も、あんな目をするんだな)

相手が憎くてたまらない。自分の大切な人を傷つけてきたお前たちを殺してやりたい。

そんな憎悪に満ちた目で、セシルが伯爵や愛人のアナベルを見ていたことにガブリエルだけは気づいていた。

セシルの気持ちは痛いほどわかる。そして彼女が望むなら、自分が代わりに彼女の望むことを果たそうと思っていた。だが、セシルは自分で手を下したいかもしれない。

とにかく、彼女の気持ちが知りたかった。姿が見えないのがどうしようもなく不安で、離れのヴィルジニーが最期を迎えた部屋にもいない時は、セシルが後を追うつもりではないのかと青ざめ、他の使用人にも命じてみなで探し始めた。しかし彼女はどこにもいない。

(まさか)

時刻はもう夜でそんなところにいたら普通は怖いだろうと思ったが、ガブリエルが墓所に行くと、セシルはいた。

彼女は墓の前で蹲り、大声で泣いていた。

「お、お母様、おかあさまっ……なんで死んだの、ひどい、大嫌いっ……いやだっ、行かないで、帰ってきて!」

生前は決して言えなかったであろう恨み言を吐き出しながら、幼い子どものように泣きじゃくるセシルの姿は憐れであり、様々な原因が重なってうまく愛せなかった母親への最後の手向けにも思えた。

『お願い、ガブリエル……あの子を、ここから連れ出して……遠くへ連れていって……あの人やあの女……わたくしの、手が届かないところに……』

初めてセシルの母と会った時、手紙を渡された。セシルを侯爵家でしばらくの間預かり、礼儀作法を身につけさせてやってほしいという文面だった。

図々しい頼みだとは百も承知であるが、自分は病魔に侵された身体で、またセシルと一緒にいるとどうしてもヒステリーを起こして娘に迷惑をかけてしまう。愛人とその娘しか愛していない夫は当てにできず、他に頼れる人もいないため、どうか助けてほしい……そういったことが、丁寧な言葉で枚数をかけて綴られていた。

夫人は己が母親としてだめなことを、このままでは娘の将来が危ないことを、理解していたのだろう。セシルを愛していないわけではなかった。

でも、あまりにも不器用で、セシルの気持ちを考えると、もっと彼女と向き合って直接言葉にしてほしかったとガブリエルは思わずにはいられなかった。

聡いセシルも恐らくそうした母親の意図を察していたから、ガブリエルの屋敷に来た。心のどこかではずっと母親のそばにいて、彼女が自分を求めてくれることを願っていただろうに。

『おねがい、ガブリエル……あの子のそばに、ずっといてあげて……わたくしの代わりに……セシルを、愛して……』

夫人がセシルのいない時を見計らって最後に託した頼みを、ガブリエルは声を上げて泣くセシルを見ながら思い返す。胸が締め付けられて、セシルに駆け寄る。彼女は泣きじゃくった顔で自分を見上げると、顔をくしゃりと歪ませて笑った。

彼女が言おうとしている言葉が理解できて、ガブリエルは覆い被さるように地面に座り込む彼女を抱きしめた。

――お母様を助けられなかった。わたしでは、お母様の救いになれなかった。

ガブリエルが母親を亡くした時に思ったことをセシルもまた思ったのだ。

でも自分と違うのは、セシルは母親のそばにいることが許されなかった。一緒にいても、恐らくヴィルジニーはセシルにますます辛く当たって、取り返しのつかない傷をセシルに負わせたかもしれない。

だから何が正解かわからなかった。あの時セシルを伯爵家から連れ出さない方がよかったとは思わない。でも、もっと彼女と母親の間に入り、仲を取り持つことができたかもしれない。

(ごめん。セシル……)

ガブリエルは縋りついて泣くセシルをただ抱きしめ返すことしかできなかった。

墓場で一晩過ごしたあと、セシルは気まずい顔をしながらも自分から帰ろうと言った。

「情けないところを見せてごめん。もう大丈夫だからさ、ガブリエルは屋敷に帰りなよ」

「大事な人が亡くなって泣くことは当たり前のことだろ。それに俺もお前に散々かっこ悪いところを見せているから気にするな。……本当に大丈夫か」

セシルも一緒に侯爵家へ帰ろう、と言う前に彼女が答えた。

「大丈夫。まだお母様の部屋を片付けたり、することがあるから……落ち着いたら、改めて侯爵家に顔を出すよ」

「そうか……わかった。けど、無理するなよ」

「うん……」

じゃあ行こうかとガブリエルが歩き出せば、セシルが後ろから腕を引き、背中に額を当てたのでその場に立ち止まる。

「ありがとう、ガブリエル。きみがいてくれて、よかった」

「セシ――」

ガブリエルが振り返る前にセシルはぱっと離れ、かと思うと顔を見られまいとするように猛ダッシュしたので呆気にとられる。

だがすぐにガブリエルも走ってセシルを追いかける。途中から彼女が笑い出したので、つられるように自分も笑って深く安堵した。

「――お兄様。セシル、大丈夫だった?」

「もうここには来ない?」

リリアンとジルはセシルを心配して、屋敷からいなくなった彼女のことを何かと口にする。大丈夫だと安心する言葉をかけながら、セシルはこれからどうするのだろうかと考えていた。

セシルはもうすぐ十五になる。彼女の父親の性格を踏まえれば、適当な男を見つけて結婚させるだろう。……以前ぼやくように言っていた話では、跡を継ぐのはフランセットとその婿だと言っていた。伯爵にとって愛していない正妻の娘は邪魔な存在で、早くどこか余所にやりたいのだろう。

(なら、俺がセシルに求婚しよう)

侯爵家をセシルの居場所にすればいい。リリアンやジルも彼女が家族になることを喜ぶだろう。

ガブリエルはセシルが他の誰かと一緒になる未来が想像できなかったし、彼女の隣に自分以外の男が立つことも許し難かった。

夜が明けたらすぐにでも伯爵家に出向き、直接許しを得ようと思っていたガブリエルの耳にコツンと何かがぶつかる音が届いた。

(……?)

訝しみながら赤いカーテンを開け、窓を開ける。鳥がぶつかったのか思って辺りを見渡して下を見れば――

「ガブリエル!」

「セシル!?」

おーいと元気よく手を振るのは今しがた求婚しようと考えていた少女だった。

一体こんな時間に、しかも見たところ護衛も付けず来たようで、何事かとガブリエルは慌てる。とにかく下りて事情を聴こうとするガブリエルをとめて、セシルは朗らかに言い放つ。

「ガブリエル、わたし、騎士になる!」

「は? てか、よく見たらお前頬に怪我して――」

「クソ親父がお母様の悪口を言うから、我慢できず顔面に拳をめり込ませてしまった。これはその報復だ。部屋に監禁されて折檻されそうになったから窓から飛び降りて、馬に乗ってここまで来た。あの男のことだから気づいたら追手を向かわせて、ろくでもない男に嫁がせると思う。だからその前に王都の騎士団に入団する。以前、女性を募っていると聞いたから、うんと努力すればわたしでもなれると思う。ガブリエルにもしばらく会えなくなるから、どうしても別れの挨拶がしたくて来た!」

展開が急すぎる。苦労するであろう未来を選ぼうとしているのにセシルの顔には恐れや後悔は一片も見当たらない。

「ガブリエル、今までありがとう! きみと出会えたことがわたしの幸運だった! 遠くからでもきみの幸せを祈っている!」

「待て、セシル!」

言いたいことだけ言って去ろうとするセシルを窓から半分身を乗り出しながらガブリエルは待ったをかける。危ないぞと驚く彼女に気づけば言っていた。

「俺も騎士になる!」

セシルと共に騎士団に入る。だから俺をおいて行くな、とガブリエルは伝えた。

「後悔しないか?」

「ああ、しない」

不思議なことに、口にしてしっくりときた。そうだ。自分の道は彼女の隣にある。

それしか考えられなかった。

ガブリエルの覚悟の決まった表情をしばらくじっと見つめたのち、セシルはにっと笑った。

「わかった。でも、その前にきちんと家のことを整理してから来い。きみには守るべき家族がいる。別れもすませてから、王都に来た方がいい」

ガブリエルはわかったと頷き、セシルに護衛を付けさせて先に王都へ送り出した。

(リリアンたち、悲しむだろうな)

許してくれるだろうか。……いや、たとえ引き留められても、自分は王都へ行く。

「ガブリエル」

部屋を出て妹たちのもとへ向かおうとしていたガブリエルを呼び止めたのは、なんと兄のサンソンであった。母の葬儀の時も出席はしたもののろくに話さなかった兄に数年ぶりに話しかけられて、ガブリエルは夢を見ているような気がしてすぐに反応できなかった。

そんな弟に構わず、サンソンは落ち着いた口調で話す。

「王都へ行くんだろう?」

「あ、ああ……その、騎士団に入ろうと思って」

「わかった。うちのことは私に任せて、お前は自分の好きな道を歩みなさい」

「え」

ガブリエルが呆然としてサンソンの顔を見れば、彼は泣きそうな顔で微笑んだ。

「今まですまなかった。長男としてお前やリリアン、ジルたちを支えなければならなかったのに現実から目を背けて逃げ出した。母さんにも、ひどいことをした。お前一人に重荷を背負わせて……本当にすまなかった」

「そんな、俺こそ兄さんに……」

自分を責める言葉をサンソンはそっと抱きしめることで言わせなかった。

「お前がいてくれてよかった。ありがとう。セシルにも、感謝している」

「……ああ、それは、同感だ」

きっと兄の部屋までセシルの声が届いたのだろう。吹っ切れた様子の彼女に目の前が開けて、前を向く勇気が湧いたのだ。

(つくづくお前には敵わない)

「兄さん。リリアンやジルたちのこと、頼みます」

「ああ。身体に気をつけて、頑張っておいで」

懐かしい兄の優しい物言いにガブリエルは涙が出そうになる。

兄は父よりもずっと自分の心に寄り添って、家族を繋ぐ役目を果たしてくれていた。