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もう終わった恋だから

作者: 藍田ひびき

本文

「この先、俺が君を愛することは決して無い」

ラウルが婚約者へそう告げると、彼女は呆然とした表情になった。

「君と閨を共にする気はない。跡継ぎは親類から養子を迎える。君は愛人でもなんでも好きに作るといい。但し、子が出来てもアシュバートン家の籍には入れないからそのつもりで」

「なっ……何よ、それ……。貴方、どこまで私を馬鹿にする気なの!?」

怒りだした彼女に全く臆することなく、ラウルは続ける。

「分かっていないようだから、ハッキリ言おう。貴族令嬢として君の価値はゼロどころかマイナスだ。その証拠に、縁談の申し込みは全て断られたのだろう?そんな女を貰ってやるんだから、感謝して欲しいくらいだよ」

◇ ◇ ◇

ラウル・アシュバートン子爵令息にとってこの世の全ては二種類に分別される。

自分にとって得であるか、損であるか。それだけだ。

「平素から損得勘定を以って物事を見る目を養うのだ。それが商人にとって最も必要な事だからな」

アシュバートン商会長である父の教えだ。

ラウルは小さな商会だったアシュバートンを大商会へと躍進させた父を尊敬しており、その言葉を金言として胸に刻んでいる。

「賭場?そんな所へ行って俺に何の利があるんだ」

品行方正なラウルを「ちょっと遊ぶくらい、良いだろ」と悪い遊びに引き込もうとした相手にそう言い放つ。

「その指輪はチリアの宝石だね。最近は品質が悪化して値が下がっている。自分の価値を下げたくなければ、社交場に着けていくのは止めた方がいい」

見合いの場で要らない事を口にして、相手を怒らせてしまう。当然のことながら縁談の話は無くなった。

ラウルの見目は悪くないし、アシュバートン子爵家は裕福だ。人前では社交的に振る舞う甲斐性もある。

しかしある程度馴染んでくると表面化するこの性格が災いして、親しい人間は極端に少ない。友人と言えるのは同級生数人だ。

しかし二学年に上がってから、彼はこの損得という概念を根本から覆される経験をした。

クリスティン・ノーランド伯爵令嬢と出会ったのである。

光そのものを纏っているかのように美しい金色の髪。青い瞳は澄んだ湖のように美しく、薔薇色の唇から零れる澄んだ声は聴く者を魅了する。

クリスティンの美しさは学園中の誰もが認めるところであり、いつだって彼女は令息たちに囲まれていた。

それなのに彼女は下位貴族であるラウルにも気さくに接する。親しくなってみれば、表情豊かなごく普通の女の子だ。

高嶺の花と思っていた女性の飾らない笑顔。そのギャップに、ラウルはすっかり魅了されてしまったのである。

「ラウル!この宿題で分からない所があるの。一緒にやらない?」

「中央劇場で新作の『アデラとヴァジル』が公開されるんですって。アシュバートン商会のボックス席を使わせて貰えないかしら?」

クリスティンの頼みなら、とラウルは何でも聞いた。彼女が喜んでくれるなら、少々の手間くらいどうってことない。

「ノーランド伯爵令嬢は、高位貴族の令息ばかり侍らせてる女狐だって噂だ。距離を取った方がいい」と見兼ねた友人が窘めたが。

「そんなのはデマだ。噂が本当なら、彼女が子爵家の俺と親しくするわけはない」

「お前はいいように使われてるだけだって分からないのか?」

「彼女はそんな人じゃない。いいんだ、俺がやりたくてやってるだけなんだから」

「どうしちゃったんだよ、お前……。利益の無い行動はしないって、いつも言っていたじゃないか」

友人の言葉は、ラウルの耳を素通りしていった。

クリスティンにはたくさんの求婚者がいるのに、何故婚約者を決めないのかと尋ねたことがある。

「私は自分の力を試してみたいの。私自身で何かを成し遂げたい。だから、まだ結婚する気にならないの」

自信にあふれた彼女の瞳は引き込まれそうなくらい美しかった。

そんなクリスティンが、男を侍らせて喜んでいるわけはない。魅力的な女性だから、勝手に男が寄ってくるだけだろうと思っていた。

「お前あてに釣り書きが届いている。まだ次の見合いをする気にならないのか?」

最近、父が度々縁談を勧めてくるようになった。

いずれは家にとって利の有る相手と結婚しなければならないのは分かっている。

遅くなればなるほど、良い相手は売れてしまう。早く決めなければならないのに、ラウルにはどうしてもその気になれなかった。

クリスティンは無理だ。ノーランド伯爵は王家の傍系でもある由緒正しい貴族。しかも高位貴族から数多の求婚を受けている彼女が、ラウルを選ぶわけはない。

それが分かっていても、今は他の女性の事なんて考えられなかった。

この理不尽で不条理で、そして甘美な感情。これが恋というものなのだ。

「わあ、素敵!」

その週末、ラウルはクリスティンを実家の商会へ連れて行った。

アシュバートン商会は各国に輸入ルートを持ち、国内には無い品を扱うことで人気を得ている。ちょうどトアルース公国からの輸入品が届いたところで、売り出す前に見せて欲しいとクリスティンに頼まれたのだ。

店の奥には取り寄せた品々が並んでいた。トアルースは美術に造詣の深い国で、美しい装飾が売りの品が多い。

特殊な織り模様を組み込んだ絹織物、豪奢な装飾を施した鏡台やチェスト――。

「これ、懐中時計?綺麗ね」

「ああ。画家ティツィアーノに頼んで、彫刻を施して貰ったんだ」

「ティツィアーノ!」

クリスティンが目を輝かせる。ティツィアーノは世界的に有名な画家で、この国にもファンが多い。

「ねえ。私、これ買うわ。父の誕生日プレゼントにしたいの」

「うーん……俺の父の許可を貰えば売るのは構わないけれど。かなり値が張るよ」

有名画家が直に手掛けたものだ、令嬢とはいえ気軽に買える値段ではない。

「手持ちが足りないわ。金貨三十枚しか持ってきていないの……」

おねだりするような表情で見上げてくるクリスティン。何とかしてあげたいが、値引きは父から禁止されている。

誰かを特別扱いしてしまえば、不公平だからだ。どこからかその噂が漏れれば「自分も」と言い出す輩が必ず出てくる。

お得意様や商品の宣伝を請け負っている女優に対しては、年間契約を結んだ上で値引きしているが、それは商会にとってメリットのある相手だからだ。

「じゃあ、不足分は俺が立て替えるよ。後で返してもらえればいいから」

「本当?ラウル、ありがとう!」

借用書にクリスティンのサインを貰った上で、ラウルは自分の小遣いから足りない分を足した。『友人だろうが親族だろうが、金の貸し借りは証書を残せ』が父の教えなのだ。

サインを求めるとクリスティンは「友達なのに信用してくれないの……?」と渋る。彼女の哀しそうな表情に胸が痛んだが、そこだけは商人として譲れないと説得した。

その数週間後、ノーランド伯爵令嬢とエドワード王太子殿下が恋仲になったという噂が流れた。

どうせまたデマだろうと、ラウルは思っていた。

しかし昼休みに中庭で見た光景に、嫌でも信じざるを得なかった。

クリスティンとエドワードが、噴水のほとりで親し気に話している。その距離の近さが、二人の関係を物語っていた。

「エドワード殿下が相手なら仕方ないよな」と、クリスティンに群がっていた令息たちは肩を落とした。

エドワード王太子は金髪碧眼の端正な顔立ちに王族らしい気品の持ち主であり、令嬢にとても人気がある。

容姿に優れた二人が並んでいる様子は、まるで絵画のようで。お似合いだと、ラウルも認めざるを得ない。

しかしある日、ラウルは聞き捨てならない会話を耳にした。

「この懐中時計、何度眺めても飽きないな。流石はティツィアーノ、素晴らしい装飾だ」

「ふふ。殿下に贈ろうと、特別に取り寄せましたのよ」

「俺の為にそこまで……嬉しいよ、クリスティン」

エドワードの胸元に光る懐中時計は、間違いなくクリスティンがあの日購入したものだった。

「クリスティン!」

「あら、ラウル。何かしら?」

「あの懐中時計のこと、だけど。エドワード殿下が持ってたよね。御父上への誕生日プレゼントじゃなかったのか?」

「あ、ええ。よく考えたら、父よりもっと若い人が持っていた方が似合うかと思ったの」

嘘だということは、すぐに分かった。

クリスティンは相変わらず美しい笑顔を浮かべながらも、ラウルと目を合わせないからだ。

「……分かった。それと、立て替えたお金はなるべく早く返してくれると有難い。俺もすっからかんになっちゃったから」

「何を言っているの?貴方、あの時計を割引してくれたじゃない」

「君こそ何を言っているんだ。割引は断ったはずで」

「酷いわ!!」と突然、クリスティンが大声で叫んだ。

「私がエドワード殿下とお付き合いしているのが気に喰わないからって、そんな嘘を言うなんて」

「どうした、クリスティン!」

騒ぎを聞きつけたのか、エドワード王子がやってきた。涙目のクリスティンを見て、彼はラウルをキッと睨む。

「ラウルが、私がお金を借りたっていうの。そんなことしていないのに」

「貴様、クリスティンから金を騙し取ろうというのか!?」

「違います!ちゃんと借用書だって」

「どうせ偽物だろ。それともクリスティンを脅して書かせたのか?嘘まで吐いて金を巻き上げようとは、見下げ果てた奴だ。二度とクリスティンに近づくな!」

ドンっとラウルを突き飛ばし、エドワードは泣くクリスティンの肩を抱いて去っていった。

ラウルは呆然と立ち尽くした。ショックで頭の中はぐちゃぐちゃだ。

辛いのは失恋したからじゃない。

クリスティンがエドワードに本気で恋をしたのなら、それは構わない。

彼の気を引くためにあの懐中時計が欲しかったのなら、そう言ってくれれば良かったのだ。

クリスティンが望むなら、なんだってしてあげたのに。

だけど彼女は最悪の方法でラウルを傷つけた。

初恋の相手が、罪もない相手を騙し貶めるような人間だったということ。その事実が酷くラウルを苦しめる。

「若いうちに女で痛い目を見ておくのもいいだろうと、静観していたのだが……相手が悪かったな。まさかエドワード王太子殿下が関わってくるとは」

ラウルの父、アシュバートン子爵は溜め息を吐きながら眉間を指で押さえた。

あれからラウルの評判は悪くなる一方だ。

エドワードは声高にラウルを批難し、周囲がそれに同調したのである。噂には尾ひれがつき「か弱い令嬢を脅して金を巻き上げている」「金の力で入学した」などと言われる始末。

なお「損得しか頭にない冷血」という陰口もあったが、後半はともかく前半は事実なので如何ともし難い。

彼は悪くないと理解してくれたのは、友人たちくらいだ。

影響はアシュバートン商会の方にも広がり、やんわりと距離を置く顧客が増えたらしい。

「申し訳ありません。これ以上傷が広がらないうちに、俺を廃嫡して下さい」

「廃嫡などと簡単に言うんじゃない。ここまで育てるのに、どれだけ費用と手間を掛けたと思ってるんだ」

アシュバートン子爵は愛する息子を追い出すつもりは毛頭無かった。こんな言い方をしてしまうところは似た者親子である。

「商売には波があるものだ。今は谷底だとしても、いずれまた山が来るだろう。このくらいで潰れるほどうちの商会の土台は脆くない。古くからの顧客は我々を信用して下さっているしな。反省しているのなら、跡継ぎとして損を取り返すくらいの働きを見せろ」

「ですが、縁談の件が」

「ああ……それか」

ラウルへと持ち込まれていた縁談は、全て「今回の話は無かったことに……」と断りの連絡が来ていた。次代の商会長として配偶者がいないというのは大問題である。

「一件だけ、バークリー男爵家から話が来ている。コーデリア嬢がお前を気にいっているらしい」

コーデリア・バークリーはラウルの同級生だ。といっても話したことはほとんどなく、成績優秀だが大人しい女生徒というくらいの事しか知らない。

ラウルはこの話を受けることにした。

もう、相手が誰でも構わないという心持ちだった。恋なんて無駄なものはするもんじゃない。

コーデリアを愛することは無理かもしれないが、妻としてきちんと扱うことくらいは出来るだろう。

「ラウル様。話を受けて頂き、ありがとうございます」

顔合わせの場に現れたコーデリアは、緊張した様子だった。栗色の髪を後ろで束ね、深い茶色の瞳は穏やかな色を湛えている。華やかさはないが、清楚で落ち着いた佇まいにラウルは好感を持った。

「こちらこそ、俺にとってはとても有り難いお話です。コーデリア嬢、一つだけ教えてくれませんか。なぜ悪評の立っている俺と婚約を?」

「……私、以前ラウル様に助けて頂いたことがあるのです。その時から、あの、ラウル様を見ていて、真面目で良い方だと」

本が好きなコーデリアは学院の図書館によく通っている。そこで同学年の令嬢に絡まれた。

彼女たちは平素から『男爵令嬢のくせに成績が良い、生意気だ』と、コーデリアを目障りに思っていたらしい。

そこへ助けに入ったのがラウルだった。

言われてみればそんなこともあったな、とラウルは思い出す。

といっても「先生が呼んでるよ」と声を掛けて連れ出したという、たいして恰好良くもない話だ。

利の有る行為ではなかったけれど、道理の通らない悪行を見過ごすほどラウルは性悪ではなかったというだけのこと。

交流を続けるうちに、コーデリアが自分に好意を寄せていることは理解した。

政略とはいえ、仮面夫婦よりは好意を持ってくれる妻の方が良いに決まっている。そのくらいの考えでラウルはコーデリアと婚約を結んだ。

ラウルにとって想定外だったのは、コーデリアと過ごす時間が思ったよりも楽しかったことだ。

本好きなコーデリアは知識が豊富で、しかし決してそれをひけらかさない。ラウルの話をニコニコと聞いて、時折ハッとするような意見を述べたりもする。

栗色の髪に合うだろうと薄い水色の髪飾りを贈ったところ、彼女は顔を真っ赤にして喜んでくれた。しかも後日お礼だと手袋を贈られた。

そういえばクリスティンは何かをねだるばかりで、自分に何かを返してくれたことは一度も無かったなと自嘲する。

次のトアルース公国との商品取引に際し、ラウルはコーデリアが好きそうな本を幾つか自分の小遣いで購入した。

別にこんな手間を掛けなくても、街で買った本だって、いやそこら辺に咲いている花を贈ったって彼女は喜んでくれるだろう。

だけど自分が彼女にそうしてあげたいのだ。彼女の笑顔が見たい。

この理不尽な感情が何なのか、ラウルはもう知っている。

「聞いたか、ラウル!エドワード殿下が廃嫡されたらしいぞ」

学院中がその噂でもちきりだった。

エドワード王太子が突然オトゥール侯爵令嬢に婚約破棄を言い渡し、クリスティンと結婚すると宣言したらしい。

王命を勝手に破った息子に激怒した国王陛下は、エドワードを廃嫡し第二王子を跡継ぎにと決定した。

クリスティンも厳しい取り調べを受けたが、彼女が婚約破棄を唆したのではないとの結論になり、放免となったそうだ。

「ふうん」

「はは。気にもならないか」

友人は笑ってラウルの肩をぽんと叩いた。

本当に、全くもって興味が湧かない。

今のラウルは学院に通いながら父の仕事を手伝い、経験を積んでいる所だ。次の取引の準備、新しい事業の立案にコーデリアとの結婚式の準備もある。そんなことに思考を割く暇はないのだ。

「婚約を白紙……!?」

卒業も近づいたある日、コーデリアから突然に「婚約を解消したい」との手紙が来た。

訳が分からなかった。父にも問い詰められたが、怒らせたり仲違いするようなことをした覚えはない。

すぐにバークリー男爵邸へと訪れたが彼女に会うことは出来ず、男爵に「娘の事は諦めて欲しい」と言われ追い出された。

「実は先月、ノーランド伯爵令嬢から縁談の申し込みがあった。ラウルには既に婚約者がいると断ったのだが」

「は?クリスティンが、ですか?父上、何故それを教えてくれなかったのですか」

「お前とコーデリア嬢の仲は順調と聞いていたからな。今さらあの女の事など耳に入れる必要はないと判断した」

国王陛下はクリスティンの処分をノーランド伯爵家に任せると通告した。

ノーランド伯爵夫妻は領地の一部返上と隠居を決め、長男クレイグに爵位を譲って領地へ隠遁した。

しかし肝心のクリスティンは学院の退学及び自宅での謹慎処分のみ。

甘すぎる。

陛下が処分を伯爵に任せたのは、長年忠節を尽くした臣下への最後の温情だろう。ここでクリスティンを切り捨てれば、爵位だけは何とか保てただろうに。

もはやノーランド伯爵家に関わっても益はないのだ。即座に切り捨てたアシュバートン子爵の判断は間違っていない。

「では、クリスティンが」

「ノーランド伯爵かもしれん。確証はないが、タイミングが良すぎる」

父は伯爵の仕業と考えているようだが、ラウルはクリスティンだと確信していた。

彼女がコーデリアに 何(・) か(・) を(・) し(・) た(・) のだ。

「ラウル!久しぶりね」

顔合わせの場に現れたクリスティンは相変わらず美しかった。豪奢なドレスで着飾っている様は、とても謹慎中とは思えない。

「まさか君から婚約が申し込まれるとは思わなかった」

「あの時のこと、怒っているわよね?父に、あの懐中時計を使って王太子殿下の気を引けばいいって言われたの。本当にごめんなさい」

「じゃあ、その後悪評を広げたのは?」

「それはエドワード殿下なの!私も止めたけれど、逆らうことは出来なくて……ね、許して?」

白々しい嘘だ。嘘をついてラウルを貶めたのは、彼女自身なのに。

「私にはもうラウルしかいないの」と潤んだ瞳で見つめながら、クリスティンはラウルの手を握る。

以前のラウルなら、嘘だと分かっていても喜んで騙されただろう。

握られた手に胸を高鳴らせて、顔を赤くしただろう。

しかし今は何も感じなかった。彼女への恋は、もう終わったのだから。

そしてラウルは、初恋の女性へと告げた。

「婚約は し(・) て(・) や(・) る(・) よ。だけどこの先、俺が君を愛することは決して無い」

◇ ◇ ◇

「可愛い可愛いクリスティン。お前は将来、とびきりの美人になるぞ」

幼いクリスティンに、父や兄は何度もそう言った。

実際、彼女は容姿に恵まれている。鏡に映る自分を見るたび、神が特別に作り上げた傑作だと自画自賛するほどだ。

クリスティンは自分が価値の有る存在だと、信じるようになった。

容姿だけではない。学院に入学してからは常にトップクラスの成績を維持し、行儀作法も社交術も完璧。

令嬢たちとの交流にも手を抜かず、人脈を作ってきた。

多くの令息がクリスティンの虜となり、釣り書きを送ってくる。しかしその中にも、彼女を満足させる相手はいなかった。

自分はそんじょそこらの貴族の妻で収まる女ではない。クリスティンほどの能力があれば内政を掌握して家を富ませることも、あるいは夫人たちを傘下に収め社交界を牛耳ることだって出来るだろう。そのためには、権力のある高位貴族に嫁ぐべきだ。

「クリスティン様、今度の舞踏会にご一緒させて頂けませんか」

「僕の別荘に遊びにいらっしゃいませんか。景色が素晴らしいんです」

学院で言い寄ってきた令息には篩を掛け、力のある家の嫡男とのみ仲良くなった。宰相の跡継ぎや国内随一の領地を持つ侯爵家の嫡男、騎士団長の息子……。

といっても、決して不純なことはさせない。求愛ははぐらかしつつ、あくまで友人として付き合った。

下位貴族の令嬢には、男に身体を触れさせて篭絡する者もいるらしい。そんなものは下策としか思えなかった。

自分は価値の有る人間なのだ。身体を汚れさせて令嬢としての価値を落とすなど、もってのほかだ。

ラウル・アシュバートンもそんな男たちの中の一人だった。

子爵家の令息など、本来ならクリステインが相手をするようなではない。

だがアシュバートン商会は王国有数の貿易商。コネクションとして繋いでおけば便利だろう、と思っただけだ。

だからちょっと優しくしてやったら、犬みたいに尻尾を振って言いなりになった。

そしてクリスティンはついに、最高の男を吊り上げた。エドワード王太子だ。

取り巻きの一人が彼の側近だったから、王太子と共にいる際に話しかけるフリをして近づいたのだ。

いつものように知的な会話で興味を引き、時には無邪気に笑い、時には憂いを帯びた表情を見せる……あっという間にエドワードの心はクリステインのモノになった。本当に、男なんて単純なものだ。

エドワード王子が画家ティツィアーノの大ファンであることは知っていた。

だからあの懐中時計に目を付けたのだ。

誕生日の贈り物として「国内に入荷したのはこれ一品だけなの。手に入れるのは大変だったのよ」と渡したら、彼は大喜びで「俺の為にそこまで……」と感激していた。

これで益々彼はクリスティンへ夢中になるだろう。

足りないお金はラウルに出させようとしたが、「貸すだけだから借用書を書いてくれ」などと言い出した。

何てケチ臭いのだろう。心酔しているクリスティンの役に立てるんだから、それだけで満足すればいいものを。

だから腹いせに「彼に脅された」と騒いでやった。エドワード王子がそれを言いふらしてくれたから、ラウルはすっかり孤立した。いい気味だ。

「クリスティン。これからもずっと、僕の隣にいて欲しいんだ」

内心『来たわ!!』とガッツポーズだったが、クリスティンはしおらしい表情を浮かべて「でも……エドワード様には婚約者のベリンダ様が」と上目遣いに見つめながら答えた。

エドワードは婚約者のベリンダ・オトゥール侯爵令嬢が苦手らしく、「あんな陰気な女を正妃にしなきゃならないなんて」といつも愚痴っている。

ベリンダは地味で面白味のない女だ。男性ならば、美しく知性の高いクリスティンの方を選ぶに決まっている。

だがオトゥール侯爵家は権威ある貴族。それに王太子とはいえ、陛下が決めた婚約に逆らうなんて自殺行為だ。

「ベリンダとは政略結婚だ、愛は無い。俺が愛するのはクリスティン、君だけだ。君さえいいと言ってくれれば……いや、ダメと言っても俺は諦めない。君が欲しい」

「嬉しい、エドワード様……!私も、貴方を愛しております。貴方のそばに居られるなら、側妃でも構いませんわ」

「ああ、クリスティン。君は何て謙虚なんだ」

エドワードに抱きしめられたクリスティンはほくそ笑んだ。

侯爵家を敵に回すほど、クリスティンは馬鹿ではない。

最初は正妃を立ててやろう。しかしいずれは後宮を掌握し、影の正妃として君臨するのだ。全ての女たちが、クリスティンを羨みひれ伏すだろう。

完璧な計画だった。そのはずだったのに――。

「ベリンダ!俺はお前との婚約を破棄し、このクリスティンを妻に迎える!」

夜会という衆目の場で、エドワードがオトゥール侯爵令嬢へ婚約破棄を突き付けたのだ。

慌てて止めようとしたが遅かった。エドワードとクリスティンはその場で捕らえられ、国王の前に引き摺り出された。

クリスティンは王太子を唆した主犯として厳しい詮議を受けた。

しかしクリスティンが「側妃でいい」と言っていたという証言があったこと、またノーランド伯爵家が長年王家に忠誠を尽くしてきたことから赦免された。

「お兄様、お願い!私は領地になんて行きたくないの」

「仕方ないなあ。頼むから大人しくしていてくれよ」

長男ハインツに爵位を譲った両親はクリスティンを連れて領地へ隠居すると言ったが、あんな田舎に引っ込むのはまっぴらだ。

妹に甘い兄へ頼み込んで、何とか王都に残らせてもらったが、謹慎処分として外出は禁止された。

「引き籠ってるのも飽きたわ。ねえ、お兄様。来月はオルコット侯爵邸で夜会があるのでしょう?私も行きたいわ」

「今回の件で、お前は悪い噂の的だ。夜会になんて出せるわけないだろう」

「じゃあ、いつまでこうしていればいいの?ずっと謹慎なんてやってられないわ」

「うーん……力のある家へ嫁ぐことができれば、あるいは……」

ならばと過去の求婚者たちに声をかけたが、「関わらないでくれ」と断られた。

以前はしつこいくらい侍っていたくせに。

そこで思い出したのがラウルだった。

あの男なら、クリスティンが声を掛ければ喜んで迎え入れるだろう。

子爵家という点は不満だが、アシュバートン商会の力は大きい。いずれは商会長になって実権を握るのも悪くない。優秀な自分ならば商会をもっと大きくできる。

求婚を断った男たちも、王家も。クリスティンを逃したことを後悔するだろう。

しかしアシュバートン子爵からは断りの連絡が来た。ラウルはバークリー男爵令嬢と婚約しているから、と。

コーデリア・バークリーは大人しくて見た目も冴えない女だ。

美しく優秀なクリスティンよりあんな女を選ぶなんて、目が腐っているとしか思えない。

クリスティンは取り巻きだった令嬢たちを使って、コーデリアへ嫌がらせをした。

今さらクリスティンに関わりたくない令嬢たちは渋ったが、

「貴方、エイリー伯爵令息と 親(・) し(・) か(・) っ(・) た(・) わよね。今の婚約者が知ったらどう思うかしら?」

「貴方は以前、俳優にハマって手紙を出していたわねえ。『愛する愛するオーブリー様、私のこの想いが風に乗って貴方へ届けばいいのに~』だっけ?」

と彼女たちの黒歴史を持ち出して脅し、協力させた。

ほどなくラウルとコーデリアの婚約は解消され、クリスティンに会いたいという連絡がきた。

計画通りだ。クリスティンは自分を磨き上げ、お気に入りのドレスを着てラウルの前に立った。

美しいこの姿を見れば、彼は跪いて求婚をするだろう、と。

「婚約は し(・) て(・) や(・) る(・) よ。ただし、この先俺が君を愛することは決して無い」

「は……?」

「君と閨を共にする気はない。跡継ぎは親類から養子を迎える。君は愛人でもなんでも好きに作るといい。但し、子が出来てもアシュバートン家の籍には入れないからそのつもりで」

冷たい目で吐き捨てたラウルに、クリスティンは呆然となる。聞き間違いかとすら思った。

「酷いっ。どうしてそんな事を言うの?」

「そっちだって仕方なく俺と結婚するんだろう?俺は『君から金を巻き上げようとした詐欺師』らしいからな。嫌々なのはお互い様だ」

「あ……その件は謝ったじゃない。あのときは事情があったと話したでしょう?結婚したら、貴方ひとりを愛して、尽くすと誓うわ。商会の仕事だって手伝う。私と貴方が組めば、今の何倍も商会を大きくすることだって出来るわ」

「一つ聞くが。商人が借用した金を返せなかったら、どうなると思う?」

「どうって……」

「その商人は取引を切られるだろう。何故なら信用を失ったからだ。信用は商人にとって最も大切なものだからな。俺から金をだまし取った者に信を置くと思うか?まして共同経営者になんてするわけがない。いっそ商会に関わらず、家を守り子を育ててくれる妻の方がまだマシだ」

「それなら、私は妻として裏から貴方を支えるわ。社交なら得意だもの。貴族との繋がりが増えれば、貴方にも利があるでしょう?」

「君は社交界での悪評を知らないのか?『婚約者のいる男性に近づき、その婚約を破棄させたアバズレ』だ。そんな女が社交界を仕切る?笑わせないでくれ」

「なっ……何よ、それ……。貴方、どこまで私を馬鹿にする気なの!?」

数々の屈辱的な発言に、被っていた猫を脱ぎ捨ててクリスティンは怒鳴る。しかしラウルは全く動じなかった。

「分かっていないようだから、ハッキリ言おう。貴族令嬢として君の価値はゼロどころかマイナスだ。その証拠に、縁談の申し込みは全て断られたのだろう?そんな女を貰ってやるんだから、感謝して欲しいくらいだよ」

帰宅したクリスティンは「何なのよ!ラウルの癖にっ」怒り狂い、ガリガリと爪を噛んだ。

子爵令息と結婚なんて、自分だって不本意だ。そこを我慢して嫁いでやろうというのに。

「後悔させてやる……!私にひれ伏して謝罪させてやるわ!」

何よりも、自分に価値が無いと言われたことが頭に来ていた。クリスティンにとってそれは最大の屈辱だ。

自分がラウルにとって、必要な人材だと思い知らせてやらなければならない。

「貴族のお嬢様とお見受けしますが。我が商会に、何の御用ですかな?」

グレイソン商会の本店支店長ハロルドは、慇懃無礼な笑顔でクリスティンを出迎えた。

正体を隠すために今日のクリスティンは髪を後ろで縛り、眼鏡を掛けて地味なワンピースを着ている。しかし百戦錬磨の商人の目は誤魔化せなかったらしい。

彼のヒキガエルのような顔に嫌悪を覚えつつ、クリスティンは笑顔で切り出した。

「アシュバートン商会の新しい取引に関する情報を掴みましたの」

「ほう」

「アシュバートンは鉱山を持つトラレス伯爵家と専属契約を結び、宝石事業を拡大する予定ですわ。契約は二カ月後」

クリスティンは差し入れと称して、ラウルの執務室に日参していた。そしてお茶を入れるふりをして、机上の書類を盗み見た。

目を付けたのはラウルが立案した新しい事業計画だ。

グレイソン商会は国内中に販売網を持つ商会で、アシュバートンにとって謂わば商売敵だ。先んじてグレイソン商会がトラレスと契約を結べばラウルの計画はとん挫し、彼は大恥をかくに違いない。

「にわかには信じられませんな。なにせお嬢様とは初対面です。信頼に値するものがございませんと」

「そう仰ると思いましたわ」と、クリスティンは魔道具を取り出して起動した。壁に幾つかの書類が映し出される。

言葉だけでは信用されないだろうと、こっそり持ちこんだ魔道具で撮影しておいたものだ。

「ほう!これは確かに……」

「ご信用頂けましたかしら」

思い通りの反応を得られたクリスティンは、にんまりと笑った。

宝石の鉱山ならノーランド伯爵領にだってある。

採掘の専売ルートならば兄に頼めばいい。そうやってラウルの危機を颯爽とクリスティンが救えば、彼は自分に頭が上がらなくなるだろう。

土下座でもさせてやろうか。

ラウルの這いつくばった姿を想像し、クリスティンはぞくぞくとした愉悦を覚える。

「詳細を確認したいので、こちらの魔道具をお預かりしてよろしいですかな?」

「勿論。魔道具と情報の対価は……金貨20枚で如何かしら」

交渉は成立した。金が欲しかったわけではないが、金銭目当てだと言えば疑われないだろう。

商人如きを手のひらで転がすなど、自分にとっては朝飯前のこと。ご機嫌のクリステインは貰った金貨で悠々と買い物を楽しんだ。

しかしその数日後。

「クリスティン、君との婚約は破棄する」

応接間へ呼び出されたクリスティンが見たものは、婚約破棄の書類を携えたラウルと、頭を抱える兄の姿だった。

「え……?どういうことなの、ラウル」

「これに覚えがあるだろう。グレイソン商会から渡された」

ラウルが取り出したのはあの魔道具。

あの支店長が裏切ったのだ、とクリスティンはぎりぎりと歯ぎしりをする。ここは何とか切り抜けなければ。

「グレイソン……?何のことか分からないわ」

「ハロルド氏を訪れたと言う女性の容姿は、クリスティンと良く似ている。その前日に、君は俺のところに来ていたはずだ」

「そのハロルドとか言う人が嘘をついているのよ!ねえ、私は貴方の婚約者でしょう。私よりもその人を信用するの?」

「魔道具には 固有番号(シリアルナンバー) が刻印されているんだ。犯罪に使用された時のためにね。これは我が商会がノーランド伯爵家へ納入したものだ。記録が残っている」

魔道具に番号が振られていることは、一般的には知られていない。しかし秘匿されているわけではなく、商人や魔道具に興味を持つ者ならば知り得る情報だ。

「そ、それは……鉱石の取引なら、我が家と行えばいいでしょう?縁戚になるんだもの、互いに得なはずだわ。私はそれを分かって欲しくて」

「ノーランド伯爵領から産出される鉱石の品質は下がっている。鉱山が枯渇しつつあるのだろう。自分の実家のことなのに、そんなことも知らないのか?」

兄が力ない様子で頷き、クリスティンはそれが事実だと知る。

ラウルは婚約破棄と慰謝料の請求書を、叩きつけるように机上へと置いた。

「グレイソン商会に情報を流したことは、立派な商業妨害だ。婚約を破棄するには十二分な瑕疵だろう」

慰謝料と、婚約破棄という更なる悪評。もはやノーランド伯爵家の破滅は目前だった。

「何てことをしてくれたんだ!」

激怒したハインツに、クリスティンは頬を張り飛ばされた。

「ひどいわ、お兄様!殴るなんて」

「何とか財政を立て直そうとしていたところだったのに、慰謝料まで……もう破産するしかない。ああ……こんなことなら父上の言う通り、お前を領地へ送っておくんだった」

それからすぐに、クリスティンは北の修道院へと送られた。

行き先は修道院の中でも最も厳しいと言われる場所だ。到着した途端、クリスティンはその美しい金髪をばっさりと切り落とされた。

「何をするのよ!私の髪がっ」

自慢の髪を切られて暴れたものの、すぐにその理由は理解できた。

ここには使用人がいないから、自分で何もかもしなければならない。髪の手入れなど出来ないのだ。

凍るように冷たい水で掃除や洗濯をする内に、美しかった肌も手もあっという間にカサカサになった。

そして修道女は空いた時間で、採取した草を使って靴を編む。

それは北の地でよく使われるもので、貧しい修道院のささやかな収入源となっていた。

同じ格好をした修道女たちと同じ作業をもくもくと行う。まるで歯車の一つとして埋もれていくような、そんな毎日。

「こんなの、嘘よ……。私は国王に嫁ぐくらい、価値の有る人間のはず。きっと私は、悪い夢を見ているのよ……」

◇ ◇ ◇

ラウルは王立図書館を訪れていた。

書架をゆっくりと歩き回り、ようやく見つけた相手に声を掛ける。

「コーデリア!」

「え……ラウル様!?どうしてここに」

「バークリー男爵から、君がここで働いていると聞いたんだ。君に謝りたくて。俺と婚約したせいで、嫌な思いをしたのだろう?」

「いえ、それはもう……過ぎたことですから」

「クリスティンの事は片を付けた。もう君を苦しめる者はいない」

ラウルは元からクリスティンを許すつもりなど無かった。だからあの日、プライドの高い彼女を傷つけるような言葉をぶつけて煽ったのだ。

クリスティンに付けていた監視から、彼女がグレイソン商会へ駆け込んだと聞いた時は笑いが止まらなかった。あまりにも想定通り過ぎて。

商売は持ちつ持たれつだ。商売敵とはいえ、そこに一定のルールはある。グレイソン商会は世間知らずの令嬢よりも、アシュバートン商会へ義理を通すことを選んだのだ。

尤も、クリスティンの目に入るところへ置いていた書類は全て偽物だったから、情報が漏れた所で痛くも痒くも無かったのだが。

妹は修道院へ送ったと、慰謝料と共にノーランド伯爵が伝えてきた。

ただでさえ傾きかけていたノーランド家が、没落するにそう時間はかからないだろう。

「コーデリア。もう一度、俺と婚約してくれないだろうか」

ラウルとの婚約を解消した後、コーデリアは父の勧める縁談を断り、図書館へ勤めることを選んだそうだ。

当初は再婚約の申し出を渋っていたバークリー男爵も、ラウルがそこまで望んでくれるのなら……と了承してくれた。娘が望むならば、という条件付きだが。

「もしかしたら、また君を阻害しようとする者が現れるかもしれない。そこは否定しない。だけど次からは、俺が守ると約束する」

コーデリアの表情が固くなった。

商会長の妻という立場になれば、嫌な思いをすることもあるだろう。それを告げずに求婚するのは、フェアではない。

「勿論、無理強いはしないよ。君が望まないなら諦める」

「有難い話だと思います。ですが、私への同情なら不要ですわ。ラウル様にはもっと良い縁談があるでしょう?アシュバートン子爵家にとって、バークリー男爵家と縁を結ぶ利はありませんもの」

確かに、乏しい領地しか持たないバークリー男爵家と繋がることに意味はない。

王太子の廃嫡によりアシュバートン商会の悪評は消え、以前にも増して勢いがある。

瑕疵あり令息のラウルにも、山ほど釣り書きが届いていた。

その中には以前、縁談を断ってきた家も多く含まれている。 面の皮(フェイスレザ―) が辞書より分厚い連中を相手にする気はない。

「クリスティン様の嫌がらせに屈したのは、私が弱いからです。次期商会長の妻が私に務まるとは思えません。ラウル様にとって、私との婚姻を選ぶメリットは無いはずです」

コーデリアは一見気が弱そうだが、意外と芯が強いのだ。そこも好ましいと思う。

同情でもないし、損とか得とかでもないと伝えたところで、彼女は首を縦に振らないだろう。だけどラウルも諦めるつもりはない。

「俺はね、君と過ごす時間が本当に心地良いと感じたんだ。君は知識が豊富で、話していると知的好奇心がとても刺激される。この先何十年、配偶者と共に過ごす時間――そこから得られる精神的安寧は、仕事の効率を上げるだろう。つまり君は俺にとって莫大な価値があるんだ」

ラウル・アシュバートン子爵令息にとって、この世の全ては二種類に分別される。

自分にとって得であるか、損であるか。

彼にとっての得とは、商会で利益を得ること、そして妻コーデリアや子供たちと過ごすことだ。

帰宅すれば、笑顔の妻子が出迎えてくれる。それはラウルにとって何物にも代えられない喜びだ。

だから彼は愛する妻と子供のために、今日も仕事に精を出すのである。