作品タイトル不明
ラディンの救出
エドモンドはロープを強く握りしめていた。いつ合図が来ても即座に対応できるよう、全身を緊張させている。
その時、突然――二度、はっきりとロープが引かれた。
「来た……!」
エドモンドは即座に全力でロープを引いた。
重い。だが、ためらう暇はない。歯を食いしばり、腕に力を込める。
やがて、水面が大きく揺れ、ロープの先にラディンの姿が現れた。続いて、セラフィーネも泉から顔を出す。
エドモンドはラディンの身体を引き上げると、すぐに泉から距離を取った。
――息をしていない。
エドモンドは迷わず蘇生を始めた。胸部を一定のリズムで押し続ける。
「……頼む……」
しばらくして、「ごぼっ」と音を立て、ラディンの口から水が吐き出された。
しかし、それでも目は開かない。
エドモンドは、改めてラディンの顔を確認した。異様なほど青白い肌。浅く、速い呼吸。
……これは、本当に大丈夫なのか?
傍で見守っていたセラフィーネも、その様子に顔色を失った。
張りつめた沈黙が、その場を支配していた。
「リリアーナ、来てくれ」
エドモンドが切迫した声で呼んだ。視線の先には、ぐったりと横たわるラディンがいる。
「様子が、おかしい」
リリアーナはすぐに駆け寄り、ラディンの手を取った。脈は速く、そして弱い。胸の奥がざわつく。
……どうして、目を覚めないの?この顔色は……?とりあえず、そっと魔力を流し込むと、確かな違和感が伝わってきた。
……何かが、足りない?
「どう、思うの?」
セラフィーネが不安を隠しきれない声で尋ねる。
「……もしかしたら、貧血かもしれません」
確信には至らず、リリアーナは慎重に言葉を選んだ。
「とりあえず、城に急ごう」
エドモンドは即断し、ラディンを背負い上げた。動きに迷いはない。セラフィーネとリリアーナも素早く身支度を整え、彼の後を追った。
走りながら、リリアーナは何度も泉の方を振り返った。
……あの泉の底に、まだラニアが眠っている。その事実が、胸の奥にしつこく引っかかっていた。
リリアーナたちは城へ戻った。
エドモンドは素早くラディンを着替えさせ、ベッドに寝かせると、額に浮かんだ汗を拭いながら低く言った。
「……貧血なら、しばらく横になっていれば回復するはずなんだが……」
しかし、誰もその言葉に安心はできなかった。ラディンは冬のあいだ、ずっと泉の底にいたのだ。呼吸も脈も確かにある。だが、それが本当に“正常”だと言い切れる者はいなかった。
そもそも、リリアーナが泉から出た時は何事もなかった。それなのに、なぜラディンだけが、こんな状態に陥っているのか。理由は誰にも分からなかった。
青白い顔で横たわるラディンを見つめながら、セラフィーネは顔を強張らしたまま、静かに言った。
「……意識が戻るまでは、ここにいるわ」
その言葉に、誰一人として異を唱える者はいなかった。
セラフィーネが
「私が見ているから、各々必要なことをしていて」
と言ったため、エドモンドやリリアーナたちは、それぞれ自分のすべきことに戻ることにした。
ラディンの容体は気がかりではあったが、目立った外傷は見当たらない。
リリアーナが治癒を試みるという選択肢もあったものの、単なる貧血なのか、それとも別の原因があるのか判断できない以上、下手に手を加えるのは危険だと考え、ひとまず様子を見ることになった。
マルグリットは、リリアーナからラディンの話を聞き、思わず言葉を失った。
――まさか、本当に人が泉の中で眠っているなんて。
常識的に考えれば、とっくに命を落としていてもおかしくない。精霊の力とは、そこまで強大なものなのだろうか。
だが、ほんの一瞬目にしたラディンの姿は、重い病に伏した人そのものだった。血の気を失った顔色は、命を繋ぎ止めているだけで精一杯に見える。
……わからないことが、多すぎる。
泉から救い出すことはできた。それでも、セラフィーネの顔色が冴えない理由は、マルグリットにも痛いほど伝わってきた。
安堵と不安が入り混じった、この奇妙な状況は、まだ何一つ終わってはいないのだと。
その日、夜も更けかけた頃にラディンは目を覚ました。
「……ここは?」
毛布に身を包み、ベッドの傍でうたた寝していたセラフィーネは、その声に瞬時に目を開いた。
「気がついたのね。気分はどう?」
高鳴る胸を抑えながら、セラフィーネはできるだけ落ち着いた声で問いかける。
「……最悪だな。頭は痛いし、身体も重い」
ラディンは眉をひそめて答えた。
「……そう。まずは水でも飲んで」
差し出された水を、ラディンは喉が渇いていたのか一気に飲み干した。
「……駄目だ、起きていられない」
そう呟くと、再びベッドに身体を沈める。
「何か、食べられる?」
セラフィーネがそう聞くと、
「軽いものなら、食べられそうだ」
ラディンは短く答えた。
その言葉を聞いた瞬間、セラフィーネはほっと息をつき、「待ってて」とだけ告げて静かに部屋を出た。扉を閉めた、その瞬間――彼女は廊下を駆け出した。
何か食べ物を、少しでも身体に優しいものを。
今はそれだけが、彼女の頭を占めていた。