作品タイトル不明
イレーネの治癒の後
ラニアの声が部屋の外まで聞こえた。
その声に驚いた男が、慌てて扉を開けて飛び込んできた。
「どうしたんだ!?」
だが、目に入ったのは――包帯も何もなく、白くなめらかに戻ったイレーネの背中。
その一瞬で、男の顔は真っ赤になった。
「し、失礼した!!!」
勢いよく扉を閉める音が響く。
その様子に、イレーネは顔も動きも固まり、年配の女性は、あきれたように天井を見上げ、言葉を失っていた。
リリアーナは、おずおずと口を開いた。
「……あの、良かったのですか? あの人……急に入ってこられましたけれど」
イレーネは、ゆっくり服を整えた。
「彼は、私をこの世界に救い出してくれた人なの。恩人よ」
その声には、優しさと深い信頼が滲んでいた。
「奥様に引き取られたあとも、時々様子を見に来てくれたの。いつも、お菓子とか、絵本とか、服とか……何かしら持って。本当に優しい人なの」
イレーネがそう語るのを聞きながら、年配の女性は小さくため息をつき、
「……単なる罪滅ぼしさ」とぽつりとつぶやいた。
けれど、その言葉は誰の耳にも届かなかった。
服を整え終えたイレーネが「もういいわ」と言うと、リリアーナは廊下に向かって声をかけた。
「どうぞ、中に入ってください」
扉が開き、エドモンドと男が部屋に入ってくる。
エドモンドはまずイレーネの様子を見てから、リリアーナに尋ねた。
「……治ったのか?」
リリアーナは少しはにかんだように頷いた。
「はい。思ったより、時間はかかりましたが」
「魔力不足とかはないのか?」
エドモンドが心配そうに聞くと、リリアーナは首をかしげた。
「それが……とても疲れてますが、魔力まだ残っている気がします」
エドモンドは少し驚いた顔をした。
ラニアが嬉しそうに言う。
「だって、リリー、毎日庭に魔力を注いでたから。魔力量、増えてるよ」
「……そうなんだ」
と言ってリリアーナは自分の手を見た。エドモンドは肩の力を抜いたように微笑んだ。
窓の外では、朝の光が柔らかく差し込み、穏やかな風がカーテンを揺らしている。
イレーネはその光を見上げながら、
「……本当に、ありがとう」
と静かに言った。
「……じゃあ、帰るとしようか。ラニアも満足しただろう?お邪魔しました」
エドモンドは深く頭を下げた。
リリアーナも、ラニアを抱きしめたまま静かに一礼する。
男は小さく頷き、「そうか。お礼をしたいと思うのだが……」と言葉を濁した。
その声には、イレーネの焼き印の跡が消えている事の驚きと、リリアーナの治癒能力の高さへの驚愕が混じっていた。
「お礼は、望んでいません。私は、彼女が治ったことで満足してます。……では、失礼します」
リリアーナははっきりと言った。
玄関を出て、三人が馬車に向かおうとした時、背後から男の声がした。
「……君は、イレーネの親族ではないのか?」
エドモンドの足が止まる。
振り返ると、男は真剣な眼差しで彼を見ていた。
「瞳の色が似ている。髪も銀色に近い。そして何より、面差しが――似ている。……違うのか?」
短い沈黙。やがてエドモンドは静かに答えた。
「……それが、何か関係してますか?」
男は一瞬言葉を探すように視線を落とし、
それからまっすぐエドモンドを見据えた。
「……もし、イレーネの家族に会うことができたなら――謝りたかったんだ。あの時、私は……何もできなかったから。」
その言葉には、深い悔恨が滲んでいた。
エドモンドは一瞬、何かを言いかけて……結局、静かに答えた。
「……そうですか。」
それ以上は、何も言わなかった。
エドモンドが再び歩き出そうとした時、
外に、一台の馬車が止まる音が響いた。
「誰か来たのか……?」
男が門に視線を向けた瞬間、門が開き、屈強な男が現れた。
「突然だが――遊びに来たぞ」
静かな声とともに、笑って門を通る。
その姿を見た男の表情が、一瞬でこわばった。
「……どうして、ここに」
その声は、さっきまでの落ち着きとは違い、焦りが混じっていた。
「俺たちは――帰りますね。」
エドモンドはその雰囲気を見て、やや困惑しながら言った。
しかし、その時。
屈強な男の隣に立つ小さな影が、エドモンドの目に入った。
少年――だが、彼の目には包帯が巻かれていた。
エドモンドは思わず言葉を失った。
「今ここには、病人と老人がいる。大変だと伝えたはずです。……どうか、帰って下さい」
男の声には、明らかな緊張が混じっていた。
しかし、屈強な男はまったく気にする様子もなく、少し笑って言った。
「そう言うなよ。ずっと家の中ばかりじゃ、息が詰まるだろう? 気分転換が必要なんだ」
そう言いながら、彼は隣に立つ少年へと視線を向けた。
「ほら、話し相手とかさ。怪我人同士なら……通じるものもあるだろう?」
その言葉を聞いた瞬間、男の顔色がみるみるうちに青ざめた。
――怪我人、という言葉。
もう、イレーネは怪我人ではない。
背中の傷は、きれいに治ってしまっているのだ。
エドモンドはそのやり取りを黙って聞きながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
この場に長く留まるのは、まずい。
「……客人のようですし、俺たちはこれで失礼します。」
静かにそう言って、リリアーナとラニアを馬車へと促す。
扉を閉め、御者に目で合図を送った。
馬車がゆっくりと動き出す。
遠ざかる家を見つめながら、エドモンドはわずかに息を吐いた。
――間一髪、だったかもしれない。
馬車の中は、静かだった。
外の風が窓を叩き、わずかに軋む音だけが響く。
リリアーナは、前に座るエドモンドにそっと問いかけた。
「……良かったのですか? 本当に、あのままで」
エドモンドはしばらく黙っていたが、やがて低く答えた。
「イレーネの傷は、もう治っている。これ以上、詮索されても困るだろう」
短く言い切った声の奥に、どこか割り切れない思いが滲んでいた。
包帯で目を覆った少年の姿が、頭を離れなかった。
気になる。しかし、関わってはいけない――そんな予感があった。
「……ラニア。もう、いいのか?」
エドモンドは向かいに座るラニアを見た。
ラニアはうつむいたまま、小さな声で答えた。
「……あの子、ぼくをわからなかった。本当は、一緒に帰りたいよ。笑ってほしいよ。でも……」
それきり、ラニアは口を閉ざした。
リリアーナは静かにラニアを抱きしめ、その髪を撫でた。
――ラニアは、何かを感じて、考えて、自分の中で答えを出したのだ。
馬車は再び静寂に包まれ、しばらく道を進んでいた。
突然の事だった。
「っ!?」
激しい衝撃が車体を揺らした。
御者の怒鳴り声が聞こえ、馬が嘶く。
「どうしたんだ!?」
エドモンドはすぐに扉を開け、外へ飛び出した。
冷たい風の中、馬車の前方には――
あの、屈強な男がいた。
彼は馬にまたがり、悠然と道を塞いでいる。
その口元には、どこか笑みのようなものが浮かんでいた。