作品タイトル不明
ローレル殿下からの呼び出し(アレックス・トスカナ視点)
僕はローレル殿下の執務室へと向かっていた。
とても憂鬱な足取りで。
トスカナ公爵家の嫡子である僕は現在、王城で働いている。
現公爵の父が健在であるし、人脈を得ることも兼ねて、現在は宰相補佐の任についていた。
本来ならローレル殿下の側近になる予定だった。
しかし、妹のローズマリーがローレル殿下の婚約者筆頭候補で、次期王太子妃はローズマリーで間違いないと思われていた。
だから、僕はローレル殿下の側近候補から外されたのだ。
ローズマリーが王太子妃になり、僕がローレル殿下の側近になっていたら、トスカナ公爵家は権力を持ちすぎてしまう。
いくら筆頭公爵家とはいえ、それは良くない。
政治的な均衡は必要であると理解していた。
しかし、僕が公爵位を継承するのは、どんなに早くても三十歳を超えてからだ。
それまで、領地経営をするわけにはいかなかった。
現在、トスカナ公爵家の領地には前公爵である祖父がいる。
そして、とても優秀な叔父が、祖父の補佐をしていた。
この状態でトスカナ領はとても良く機能している。
下手に僕が入ることで、領地の経営が混乱し、悪化してしまってはいけない。
だから、僕は魔法学園卒業後に王宮に勤めることにした。
最初は気軽に王宮で働き始めたが、三年でかなり出世した。
もちろん、筆頭公爵家の嫡男という肩書も大きいはずだ。
それでも王宮に勤めていると、仕事にやり甲斐を感じ始めてしまった。
今日はローレル殿下から直々に指名を受けて、宰相からの資料を持って行っているところだ。
ローレル殿下にお会いするのは、前回の夜会以来。
夜会の日、僕はローレル殿下の不興を買うことを口にした。
もちろん、殿下と妃殿下が不快になることを承知の上での発言だった。
急遽開かれた王宮での夜会は、ローレル殿下の結婚を知らしめるためのものだった。
仕事上、事前に聞いてはいたが、まさか本当にローレル殿下が結婚したとは。
誰もが驚いていた。
婚約ではなく結婚なのだから。
しかもローレル殿下のお相手は子爵家の末娘なのだから、夜会会場にいた貴族たちは驚きも倍増したことだろう。
名も聞いたことのない子爵令嬢が、王太子妃になってしまったのだから。
それでもローレル殿下の妃には、トスカナ公爵家のローズマリーが一番相応しい。
誰もがそう思っていたはずだ。
妹のローズマリー本人も、ローレル殿下の妃になることを望んでいた。
そして努力もしていた。
幼い頃から殿下を慕っていたからこそ、厳しい淑女教育にも一度たりとも弱音を吐くことなく耐え、磨かれていったのだ。
ローズマリーは筆頭公爵家の娘として、ローレル殿下の妃になるために。
優秀で、見栄えも良く、何一つ他の令嬢たちに後れを取ることはなかった。
慢心することもなく、黙々と努力を重ねていた。
だが、ローレル殿下はローズマリーを選ばなかった。
それまで婚約者候補として名を連ねていた令嬢たちではなく、良くも悪くも名前さえ聞いたことのない子爵家の末娘を選んだ。
何度も言うが、婚約ではなく、いきなり結婚である。
婚約を経ずに結婚した王族は、ベイリーフ王国建国以来初の出来事らしい。
他国の王族でも、そうそうない話だろう。
なぜ、しがない子爵家の令嬢が王太子妃に選ばれたのか。
最初に聞いた時、僕は自分の耳を疑った。
下位貴族の令嬢など、ローズマリーの足元にも及ばない。
ただ、気になったのはバウム子爵家という家名だった。
バウム子爵家は代々、表舞台に出てこないことで有名だ。
建国以来続く古い家門でもある。
我がトスカナ公爵家より古い家門ではあるが、それだけだ。
長く続く家門だが、何かを成し遂げたという記録は一切ない。
失態を犯した記録もない。
建国以来、ずっと子爵位のまま。
爵位が上がることもなければ、下がることも一度もない。
今、考えてみるとおかしな話であると気がつく。
なぜ、表舞台に出てこない?
バウム子爵家の人間が王城に勤めた記録さえないのだ。
そんな家門があるなんて、信じられない。
現当主も前当主も非常に優秀で、国王陛下の側近に選ばれるほどでありながら、それを辞退したという。
下位貴族が国王陛下の側近に選ばれること自体、稀な事例にもかかわらず、だ。
最近、仕事柄、バウム子爵家の名はよく聞くようになっていた。
有能な人間は昔から注目していたはずだ。
バウム子爵家のことを。
領地経営が著しく良くなっている。
異常なほどの伸び。
知る者は少ないが、もともとバウム子爵家は領地のインフラがこのベイリーフ王国で一番良い。
王都よりも、だ。
見た目は素朴な田舎の領地。
しかし民家も道も、とても頑丈な造りなのだ。
一見しただけでは分からない。
他国から攻め入られても、バウム領だけは無事なのではないか。
そんなことまで囁かれている。
ただ、やはり表舞台には決して出てこない。
バウム子爵家の次期当主であるレーモン卿とは、魔法学園で学んでいた。
僕は彼の後輩だったのである。
学年が違い、お互いの家の爵位も違うから接点もない。
とても優秀な先輩だということしか、僕には分からなかった。
ただ、彼が目立つことを嫌っていたのを僕は知っている。
そして、レーモン卿の双子の妹であるバウム家長女のリモネン嬢も。
レーモン卿は存在をギリギリまで消し、リモネン嬢は自身に認識阻害の魔法を使っていた。
そこまで徹底して、目立つことを避けていたのだ。
だから非公式に、レーモン卿に剣術の指導を願い出たことがある。
魔力量は多く、魔法の扱いも上手い。
そして剣術でも好成績を叩き出していると聞いたからだ。
僕はレーモン卿が、剣術で魔法を使っているのではないかと邪推したのだ。
上手く魔法を隠して使い、剣術の成績を上げる生徒は少なくない。
しかし、結果は。
レーモン卿は魔法を使っていなかった。
本当に剣技のみ。
手も足も出ないということを、僕は初めて実体験した。
剣術にはかなり自信があった。
筆頭公爵家の嫡男として、努力もしていた。
全てにおいて完璧だと自分でも思っていた。
だが、それは傲慢だったと思い知らされた。
剣術の腕も一流。
きっと剣術の教師では、レーモン卿の相手にならないのだろう。
そして、バウム子爵家の二人は首席と次席という高成績で魔法学園を卒業した。
下位貴族が魔法学園で首席と次席になるなど初めてのことで、大いに話題になった。
座学も、実技も、他者の追随を許さないほどの好成績だったらしい。
二人が優秀すぎて、教師陣も上限を測れなかったのだと宰相補佐になってから聞いた。
宰相本人から。
もちろん、王宮は二人を勧誘したとのこと。
優秀な人材は見逃せない。
だが二人は王宮への誘いをあっさり断り、自領へ帰っていった。
とにかく目立つことが嫌いな家系らしい。
そこまで目立ちたくない理由が分からない。
少し違和感はあったが。
今年、ローズマリーと共に魔法学園を卒業したバウム子爵家の次男も、第三席で卒業したらしい。
しかし宰相は、バウム子爵家の次男は目立ちたくないから試験で手を抜いたのではないかと推察していた。
ローレル殿下と、バウム子爵家の本家にあたるイーズ侯爵家の嫡男が同級生にいたことが原因ではないか、と。
兄と姉を見て、同じ轍は踏まないようにしていた可能性が高いとのこと。
実際、バウム子爵家次男の顔を知る者は、ほとんどいないらしい。
そう言えば、リモネン嬢も自分に認識阻害の魔法をかけていたから、彼女の顔を知っている人間は少ないはずだ。
僕は魔力量が多かったので、リモネン嬢の認識阻害の魔法を破ってしまっただけで。
とても綺麗な令嬢だった。
リモネン嬢が素顔を隠すことも頷けた。
あれほどまでの美貌なら、素顔をさらしただけで話題になる。
僕も見惚れてしまっていた。
その妹であり、ローレル殿下の妃となったメリッサ妃も、十位以内の成績で卒業したと聞く。
だが、成績が多少良いだけで王太子妃に選ばれるわけではない。
バウム子爵家の末子であるから、魔力量は少ないはずだ。
それでも、十位以内の成績が取れたことは評価するが。
他に勝っているところはないと聞く。
だが、宰相の話によると、メリッサ妃は教室にはいたが、授業はほとんど聞いていなかったとのこと。
授業中、ずっと小説を書いていたらしい。
……なんで、そんな令嬢を王太子妃に?
宰相はローレル殿下の結婚を止める権利があったはずなのに、なぜ止めなかったのか。
国王陛下と王妃様にもこの情報は上がっているはず。
なぜローレル殿下とメリッサ妃の婚姻を許したんだ?
疑問しかない。
しかし、授業を聞かずに魔法学園を上位で卒業した。
これが事実なら、無視できない。
魔法学園は完璧な実力主義。
忖度はない。
そして、実技を伴わないと上位クラスにさえ入れない。
魔力量が乏しい令嬢が、それでも上位で卒業した。
異例中の異例である。
僕は魔法学園時代のリモネン嬢を思い浮かべた。
とても綺麗で、気品もあった。
もしかしたらローレル殿下は、見栄えで妃を選んだのかもしれない。
あるいはメリッサ妃を妊娠させてしまい、だからこそ婚約ではなく即座に結婚だったのではないか、と下世話なことまで考えてしまった。
下位貴族の、名も聞かないような子爵家令嬢なら、殿下が手を出すには都合がよいのではないか。
遊び相手として、魔法学園の間だけの恋人だったのではないかと邪推したのだ。
だから、メリッサ妃の妊娠が分かっての今回の結婚ではないか、と。
そうでなければ、婚約もなしにいきなり結婚なんてありえないだろう。
他に説明がつかない。
それで夜会の時、嫌味を込めてそう伝えた。
ローズマリーがローレル殿下の結婚の話を聞き、落ち込み、食事も取れないほど憔悴していたのを間近で見ていたから、なおさらだった。
嫌味の一つでも言いたくなる。
だが、夜会で紹介された殿下の妃――メリッサ妃は、これでもかというほどコルセットを締めつけていた。
妊婦が着るようなドレスでは到底なかった。
その瞬間、妊娠の可能性はないと確信した。
分かった上で、あえて発言したのだ。
そしてメリッサ妃は、自分が王太子妃になったことに困惑しているように見えたのにも違和感があった。
ローレル殿下と結婚できて喜んでいるようには見えなかった。
ローレル殿下はメリッサ妃の腰をこれでもかと思うほど引き寄せ、二人の仲の良さを見せつけてきた。
ローズマリーの目の前で。
腹が立って仕方がなかった。
メリッサ妃は予想していたより、かなり平凡な容姿をしていた。
彼女の姉であるリモネン嬢とは似ても似つかない。
本当に同じ血が流れているのかと疑うほどだった。
……レーモン卿とは似ているとは思ったが。
この結婚は、ローレル殿下の意思を最大限優先した結婚だと国王陛下から説明があった。
その言葉に一番驚いていたのが、当のメリッサ妃本人だったのだから笑えない話だ。
僕の嫌味に、相当な怒りを覚えていたローレル殿下。
その殿下が、宰相補佐をしている僕に書類を持ってくるよう名指しした。
僕に会うための口実だろう。
憂鬱だった。
……まあ、僕が悪いのは分かっているが。
ただ、宰相はメリッサ妃を非常に高く評価していた。
あまり他人を褒めない宰相が認めているのだから、本当に優秀なのだろう。
そして最近のバウム領の繁栄。
目を見張るものがある。
宰相曰く、その功績の大部分はメリッサ妃にあるらしい。
なるほど。
彼女は本当に優秀なのだと、その時ようやく少し納得できた。
それでも、ローズマリーの方が王太子妃として相応しいと思うことに変わりはないが。
今日、ローズマリーはメリッサ妃のお茶会に呼ばれている。
王太子妃が主催する初めてのお茶会だ。
メリッサ妃なりに、ローズマリーを気遣ってくれているのが窺えた。
夜会の時もそうだった。
憔悴しているローズマリーを、彼女は確かに心配していた。
メリッサ妃は性格も悪くはないのだと、その時、確信した。
僕は殿下の執務室の前で大きく深呼吸してから、扉をノックした。