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聖女の過払い金請求~育ててもらった恩は三週間で完済していました~

作者: こじまき

本文

「もうできないだと?クラリス、お前は本当に感謝の足りない娘だ」

父であるベルトラン伯爵の、いつもの言葉。

「申し訳ありません、お父様。ですがこれ以上はもうマナの回路が…壊れそうです」

「鍛錬をサボっているのではないか?」

「そんなことは…」

もうかれこれ十時間以上、休みなく普通の水に神聖力を溶かし込んで、聖水に変え続けているのだ。

指先は震え、視界はチカチカと白くなり、限界が近いと身体が叫んでいる。

「口答えをするな。お前が聖女として生まれてこられたのは、誰のおかげだ?」

「お父様と、お母様です…」

「お前に食事を与え、辺境の伯爵領から王都に連れてきてやったのは?」

「お父様と、お母様です…!」

「お前が国で一、二を争う優れた聖女として国中の尊敬を集め、崇高な仕事ができているのは誰のおかげなんだ!!」

「お父様と!お母様ですっ…!」

私の返答に、父は満足げに笑う。

「そうだろう。食費、服代、神聖力の使い方を磨くための教育費…お前には多額の養育費がかかっている。それを考えれば、これくらいで音を上げられては困るんだよ。元を取る必要があるんだからな」

「はい…」

「わかったら、やれ」

私は小さく頷いて、重い重い腕を何とかあげて、水の入った小瓶に手を伸ばした。

育ててもらったのだから。

親の恩に報いるのが、子どもだから。

それが人間として当たり前で、みんなやっていることだから。

もう噛みしめすぎて味もしない、その言葉をまた噛みしめながら。

「ああ、そうそう。来週からは、汚染された土地の浄化だからな。公爵様のご依頼だから、断れないぞ」

「…はい」

その何十分後だろうか、私は力尽きて意識を失った。

――いつものことだ。

汚染された土地から帰ってきて疲れもとれないまま、今度は小さな教会兼孤児院に行かされる。

「聖人の日」には、無償で医療を提供するのがこの国の習わし。そして父は「慈愛に満ちた伯爵様」だから、私もその手伝いをしなくてはならない。

一般的な怪我や病気を癒すくらいなら大した神聖力は消費しないから、私にとっては嬉しい仕事だ。

患者の切れ間、ふっと顔をあげると、まだ顔にあどけなさを残した一人の青年が「シスター!シスター・モニカ!!」と初老のシスターに駆け寄るところだった。

「俺、初任給をもらったんだ。だからこれ、育ててもらった恩返しに。少ないけど使って!」

たった一枚の、少し汚れた銀貨。

シスターはそれを優しく押し返した。

「ハンス、これはお給料のほとんどじゃないの?とても受け取れないわ。あなたの生活を一番に考えなさい」

「でも俺、シスターにすっごく世話になったから…ここに引き取ってもらえたから、今も生きていられるんだし」

「子どもが大人に世話をされて守られるのは、当然でしょう。恩返しの必要なんてありません。そんなことを期待して、あなたを引き取ったわけじゃないのよ」

青年はそれでもまだ、納得できないような顔をしている。シスターは優しく笑った。

「もう恩返しは十分なのよ、ハンス。こうやって強く優しく育ってくれただけで…」

「その気持ちだけで本当に嬉しいわ。ありがとう」とシスターに抱きしめられて、青年の目が潤んでくる。

――私は、目を離せなかった。

《子どもが大人に世話をされて守られるのは当然で、恩返しの必要なんてない》

《優しく育ったことと気持ちだけで、恩返しは十分》

そんなことを言う人がいるなんて、信じられなかったから。

《お前には多額の養育費がかかっている》

《元を取る必要がある》

私にとって「育ててもらった恩」とは、自分のすべてを懸けて、倒れそうになりながらでも返さなくてはいけないものだから。

呆然としている私に、シスターが気づいた。

「聖女様、どうかなさいましたか?お加減が悪いのでしたら、奥で休まれますか?」

「…いいえ、大丈夫です。ただ…シスター・モニカに聞きたいことが」

「ええ、どうぞ」

「親への…育ててくれた人への恩返しは、やはりするべきなのでは…?」

シスターは驚いたように私を見つめ、少し笑った。

「したければすればいいのですよ?恩返ししたいと思う心は美しいですし、恩返ししたいと言ってくれるのはありがたいことです」

シスターは孤児たちに「ハンス兄ちゃん!」ともみくちゃにされているあの青年を、嬉しそうに見つめた。

「けれど私にとっては、恩を返してもらうことよりも、彼自身が幸せで健康でいてくれることが大切なので」

その優しい視線は、「恩返しを考えてくれただけで嬉しい」という彼女の言葉を、完全に裏付けているように思える。

「…育てた側が養育費や苦労を盾に恩返しを強要するのは、高利貸しのようなものではないでしょうか」

「そう、なのでしょうか」

「子どもをもったり引き取ったりする時点で、お金や苦労については、ある程度わかっていることですからねぇ。わかっていて育てることを選んだのに、恩を返せだなんて」

「生まれながらに借金を背負わされるなんて、納得できますか?」と当たり前のように微笑まれて、頭をがつんと殴られたような気がした。

《育てた側が恩返しを強要するのは、育児ではなく高利貸しのようなもの》

《生まれながらに借金を背負わされるなんて、おかしい》

シスターの言っていたことは、本当なのだろうか。

親が見返りを要求するのはおかしい?

育ててもらった恩は「返したければ返せばいい」程度のもの?

「でも…でも、せめてかかった養育費の分くらいは、恩返しして然るべきなのじゃないかしら」

だって私は、ずっとそう言われて、そう信じて、だから毎日倒れそうにながら恩を返し続けてきたのだから。

――そしてはたと気づく。

私の養育費は、一体どれくらいかかったのだろう。

そして私が生んだ収入は、どれくらいなのだろう。

どちらも、知らない。

父はいつだったか「土地の浄化は大金になる」と言っていた。私が作っている聖水も、貴族や裕福な商人への訪問診療も、それなりにお金になっていると聞いたことがある。

もし、私が働くことで得た収入が養育費を上回っているのなら…もう恩返しは済んでいるのではないだろうか。

――私は、執事にこっそり頼んで帳簿を調べた。

まずは支出となる、私の養育費。

食費、服飾費、王都滞在時の宿泊費、家庭教師代など。

計算してみると、十八年間で金貨約千枚程度。

次に、私が伯爵家にもたらした収入を計算する。

一日に五十本ほど作る聖水は一本あたり金貨一枚だから、年間金貨一万八千枚の収入。それだけでも、私の十八年間の養育費をゆうに超えている。

そして土地の浄化では、一年あたり金貨八千枚の収入が伯爵家にもたらされていた。さらに王侯貴族や富裕な商人への訪問診療などでも収入がある。

私は、莫大な収入をもたらしていた。

私に対する支出が「十八年間で金貨約千枚程度」なのに対し、私がもたらす収入は「年間で金貨二万六千枚」をゆうに超える。

信じられなくて、何度も計算しなおして。だけど毎回同じ答えで。

そして、天井を見上げて呆然として――

ふいにくつくつという笑い声が、自分の喉から漏れてくるのに気づく。

恩など、とっくに返し終わっていたのだ。

父の言う「元」など、とっくに取れていたのだ。

「ふふ…ふはははは!」

笑い声が大きくなる。

笑っているのに、目からは涙が溢れてくる。強欲な家族に騙され続けていた自分が、あまりに滑稽で、情けなくて。

恩。恩。恩。恩返し。

耳にタコができるほど繰り返して聞いてきた、誰にも否定できないような、尊い響きの言葉。

それが、まさかたった三週間程度、ただの水を聖水に変えるだけでも返せてしまうものだったとは。

私は涙を拭き、帳簿の数字を整理して、きれいに表にまとめる。

父が高利貸しだというなら、借金を背負わされた私は、利子を払い過ぎている。

「もう清算いたしましょう、お父様」

翌朝、まだ午前中だというのに、父は執務室で上機嫌にワインを口にしていた。

最高級だというワインも、私がもたらしたお金で購入されていることを、もう私は知っている。

「クラリス、夏に向けてお前のドレスや宝石を新調してやってもいい。よくよく感謝するんだぞ」

私が稼いだお金でドレスを新調するのだから、感謝も何もないことも、私はもう知っている。

「お父様」

私は、父の言葉を遮った。めったにしない無礼な振る舞いに、父の眉が跳ね上がる。

「何だ?また泣き言か。言っておくが親の恩というものは山より高く海より深く――」

私は彼の言葉には耳を貸さず、十八年分の帳簿と、自分で計算した養育費の一覧を並べた。

「お父様が私にこれまでかけてくださった養育費は、総額で金貨九百四十枚…多く見積もっても金貨千枚でお間違いありませんか?」

「…何?」

父の動きが止まる。

「食費、服飾費、王都での滞在費、家庭教師への謝礼などです。痩せた土地しかもたない伯爵家にしては、破格の待遇を与えてくださいましたね?」

父はふんと胸を張った。

「そうだ!金貨千枚と言えば普通の伯爵家には払えないような大金だぞ。だから言っているだろう、親の恩は…」

彼は数字を認めた。

そこで私は次の表を出す。

「対して、こちらが私が伯爵家にもたらした収入です。聖水の売上だけで一年あたり金貨一万八千枚。土地の浄化や個別の訪問診療を合わせれば、年間二万六千枚を超えています」

私は、椅子に座る父を、上から見下ろした。

「私にかかったお金は十八年間で金貨千枚にも満たない。一方私は年間で金貨二万六千枚も稼いで伯爵家に貢献してきました」

帳簿が明確にそう示しているのだから、否定はできない。

「養育費の元は十分取れていると理解しておりますが、いかに?」

父の顔が青くなって、それから赤くなる。

「ふ、ふざけるな!恩には、育児の苦労も含まれている…!」

「実際に育児をしたのは、お父様ではなく乳母や家庭教師や侍女ですわよね?」

「ぐ…っ!そもそも親子の縁や絆を、そんな金銭に換算して…!恥知らず!」

恥知らずは、どちらだ。

「始めたのは、お父様ではありませんか!!」

私の怒鳴り声が、父の肩を跳ねさせた。私の怒鳴り声など聞いたことがないだろうから、驚いたことだろう。

「恩を返せ、元を取る必要がある…そう仰ったのはお父様です!」

父が顔を真っ赤にして立ち上がる。だが、私は退かない。

「聖水を三週間作るだけで恩は返し終わっていたのに、その後も搾取し続けたのは、お父様です!!」

「子どもは…親の所有物だ!親の好きに使って何が悪い!この世に生を受けられたのは、誰のおかげだ!」

「…産んでくれと頼んだ覚えはありません。子どもをもつことを選んだのは、お父様とお母様でしょう」

どこまでも強欲な父に手を伸ばして、濃密な神聖力で威圧する。

神聖力には細胞の新陳代謝を過度に活性化させて、老化を早め、生物を死に至らせる作用もあるのだ。

当然そのような目的で使ったことなどないのだが、やらないのとできないのとは違う。

ああ…自分のために神聖力を使うのは、いつぶりだろうか。

「私は恩に対する利息を払い過ぎていました。世間では『過払い金』などと言うようですが…」

父がビクリと身体をこわばらせる。「過払い金を返せ」などと言われて、到底返せる額ではないと、わかっているからだろう。

「ご安心ください。金銭での過払い金請求はいたしません。代わりに私をこの家の籍から抜くことを要求いたします」

過払いした金の返還など求めない。ただし過払いした自由は、返してもらう。

「この請求が聞き入れられなければ、この帳簿と魔法医師の診断書を持って王宮に保護を求めます」

診断書には、「私が神聖力を使いすぎて、マナの回路を焼き切りそうになっている。このままでは廃人になりかねない」とある。

私はにっこり微笑んだ。

「金欲しさのあまり、娘を『恩返し』という言葉で酷使していた強欲な伯爵…どんな目で見られるでしょうか」

「っ…!」

「それに『育てた側が恩返しを強要するのは、高利貸しのようなもの』という言葉もあるようで。お父様は忌み嫌われる高利貸しだと、世間に暴露されますわね」

父の口が、金魚のようにパクパクと動く。

反論の言葉など、あるはずがない。

私が用意した「クラリスを勘当する」という書面に、父は震える手でサインした。

これで私は伯爵家の人間ではなくなり、自由の代償に、家からの保護を失う。

けれどそれが、何だというのだろう。

富などいくらでも自分で築けるとわかったし、もし保護が必要なら、保護してくれる人もごまんといるはずだ。

まあ実際、誰かに保護を求めるつもりはないのだけれど。どうせまた「恩」という言葉で搾取されるのだろうから。

私は背を向け、一度も振り返ることなく執務室を出た。

まとめてあった最低限の荷物とともに、門をくぐる。

朝日は驚くほど眩しく、清々しかった。

重かった腕が嘘のように軽い。マナの回路が、自分自身のために拍動しているのがわかる。

神聖力が身体に満ちていくのを感じながら、足を向けるのは…

「まずはシスター・モニカにお礼をしないとね。聖水をいくつかお分けしましょう」

だって私が、恩返しをしたいのだから。

数カ月後、私は海の見える場所にあるこぢんまりした屋敷にいた。

聖水づくりや訪問診療を個人で請け負っていれば、小さな屋敷くらいは十分維持できる。

かさりと、今日の新聞を開いた。

《聖女クラリスを失ったベルトラン伯爵家、資金繰りが悪化し多額の負債を抱え、爵位と領地を売り払う》

《過度の浪費と投資失敗か》

《聖女がいなくなったあと、豪奢な生活を改められなかった可能性も》

「ふふ」

思わず声が漏れる。

帳簿を見たときに、わかった。

父や家族は私が稼ぐお金のほとんどを、賭博や見栄のための贅沢品や怪しげな投資に回していて、蓄えらしい蓄えはなく、家計は火の車だと。

領地も辺境のさびれた土地。唯一の収入源である私を失えば、伯爵家は今をときめく成金貴族から、時を待たずして転落するだろう、と。

父からは何度も「助けてくれ」「一度だけでいい」と手紙が来て、直接ここへも訪ねてきたが、私はすべて無視した。

門前で「親不孝者」と叫び散らしていたようだけれど、私はもうあの人の子どもではないから、親不孝にはあたらない。

――愉快な気分だ。

「楽しいという感情も、取り返したものかもしれないわね」