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白い結婚だと言われましたので、旦那様の領地だけ幸せにして出ていきます

作者: Sophia Rose

本文

初夜の寝室で、夫は私に触れなかった。

豪奢な天蓋付きの寝台。銀の燭台。薔薇の香油。新婚の夜にふさわしいものは、すべて揃っていた。

けれど、私たちの間にある空気だけが、ひどく冷えていた。

「セレナ」

夫となった人、レオンハルト・グランベル辺境伯は、私の名を呼んだ。

低く、整った声だった。

美しい人だと思う。黒髪に、冬の湖のような青い瞳。戦場で功を立てた若き辺境伯。社交界では、寡黙で誠実な方だと噂されていた。

けれど今、彼の目にあるのは誠実さではない。

拒絶だった。

「先に言っておく。君を妻として扱うつもりはない」

私は、膝の上で重ねていた指先を、そっと握った。

「……はい」

「この結婚は、王家と君の実家が決めたものだ。グランベル家にとっても、断れない縁談だった」

「存じております」

「なら話は早い。君に不自由はさせない。衣食住も、地位も、奥方としての待遇も保証する。だが、それ以上は望まないでほしい」

夫婦としての情は与えない。

そういう意味だった。

私は小さく息を吸った。

泣くべき場面なのかもしれない。

怒るべき場面なのかもしれない。

けれど、不思議と涙は出なかった。

私はこの結婚に、夢を抱いていたわけではない。

公爵家の娘として生まれた以上、結婚が家のために使われることは知っていた。愛されるかどうかは、運のようなものだとも思っていた。

ただ。

「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「何だ」

「旦那様には、他にお心を寄せる方がいらっしゃるのですか」

レオンハルト様の眉が、わずかに動いた。

沈黙は、答えだった。

「……君には関係のないことだ」

「承知いたしました」

私はそれ以上、聞かなかった。

誰なのか。

いつからなのか。

その方を、今も愛しているのか。

問い詰めたところで、惨めになるだけだ。

「では、旦那様。私からもひとつお願いがございます」

「言ってみろ」

「この領地の内政に関する采配を、私に任せていただけませんか」

レオンハルト様は、思いがけない言葉だったのか、少しだけ目を細めた。

「内政?」

「はい。奥方としての待遇を保証してくださるとのことでしたので、その立場に伴う仕事をさせていただきたく存じます」

「君は公爵家の令嬢だろう。辺境の領地経営など、退屈で苦しいだけだ」

「退屈かどうかは、やってみなければ分かりません」

「好きにすればいい」

あまりにあっさりとした許可だった。

おそらく、彼にとってはどうでもよかったのだろう。

私が領地の帳簿を見ようが、孤児院を訪ねようが、使用人の配置を改めようが。

妻として望まれない女が何をしても、彼の心には関係がない。

「ありがとうございます」

私は深く頭を下げた。

その夜、私たちは同じ部屋で眠らなかった。

夫は書斎へ行き、私は寝室に残された。

白い結婚。

翌朝、侍女たちが私を見る目には、痛ましさが滲んでいた。

この城で、私が愛されていないことは、すぐに広まるだろう。

夫に拒まれた妻。

形ばかりの奥方。

いつか離縁される女。

それでも私は、鏡の前で髪を結い上げながら、静かに決めた。

愛されないなら、愛されないなりに生きればいい。

妻になれないのなら、奥方として働けばいい。

そして、いつかこの家を去る日が来た時、胸を張って言えるようにしよう。

私は何も奪わなかった。

けれど、私にできることはすべてした、と。

グランベル領の帳簿を初めて見た時、私は思わず沈黙した。

ひどい。

予想していた以上に、ひどかった。

収穫量は三年前から落ち続けている。

医療費の支出は増えているのに、診療所への納入品は足りていない。

孤児院への予算は計上されているが、実際に渡った形跡がない。

城の食材費は不自然に高く、冬支度の薪の購入量は少なすぎる。

「家令のバートンを呼んでください」

私が言うと、侍女長のマリーは少し戸惑った顔をした。

「奥様。本当にご覧になるのですか」

「ええ」

「その……旦那様は、細かいことをお気になさいません。これまでは、バートン様がすべて取り仕切っておられました」

「では、今日から私も確認いたします」

しばらくして現れた家令バートンは、私を見下ろすように礼をした。

「奥様におかれましては、このような数字ばかりの書類は退屈でございましょう」

「退屈ではありません」

「ですが、公爵家の姫君に辺境の実務など」

「孤児院への予算が、三か月続けて減額されています」

私が帳簿の一部を指差すと、バートンの表情がわずかに固まった。

「冬前です。むしろ増額すべき時期では?」

「それは、その……前年度の繰り越しが」

「繰り越し分は医療費に充てられていますね。ですが診療所の薬草在庫は、記録上の半分しかありません」

部屋が静まり返った。

マリーが、息を呑む気配がした。

「バートン」

私は彼の名を呼んだ。

「今日中に、孤児院と診療所の実支出記録を持ってきてください。それから、城の食材の納入業者をすべて変更します」

「奥様、それは」

「異論があるなら、旦那様の許可状を持ってきてください。私は昨夜、内政の采配を任されました」

バートンの顔から、笑みが消えた。

初めて、彼は私を“飾りの奥方”ではなく、邪魔な人間として見た。

それでいい。

邪魔だと思われるくらいでなければ、何も変えられない。

最初の一か月、城の中は冷たかった。

古参の使用人たちは、私に従いながらも距離を置いた。

騎士たちは、若い奥方の気まぐれだと思っていた。

領民たちは、どうせ都から来た貴族令嬢が少し視察して終わるのだろうと見ていた。

けれど、帳簿は嘘をつかない。

空腹の子供も、寒さに震える老人も、嘘をつかない。

私は毎朝、城の厨房に顔を出した。

納入された食材を確認し、無駄な中間業者を切った。

余った予算で、孤児院の暖炉に薪を入れた。

診療所には薬草畑を作らせた。

薬師が足りないと聞けば、王都の修道院に手紙を書いた。

雪で道が塞がる村には、騎士団の訓練を兼ねて補給路を整備させた。

「奥様、そこまでなさらなくても」

マリーは何度もそう言った。

けれど私は首を振った。

「私がこの領地にいられる時間は、長くないかもしれません」

「奥様……」

「だから、いる間にできることをしたいのです」

白い結婚。

夫に愛されない妻。

その噂は消えなかった。

むしろ城中に広まっていたと思う。

それでも、私を見る人々の目は少しずつ変わっていった。

厨房の下働きが、私のために温かいスープを残してくれるようになった。

孤児院の子供たちが、遠慮がちに花をくれるようになった。

騎士団の若者たちが、道で会うたびに背筋を伸ばして礼をするようになった。

そして半年が過ぎた頃、城下町の老婆が私の手を握って、こう言った。

「奥様が来てくださって、冬が怖くなくなりました」

その一言で、報われた気がした。

レオンハルト様と顔を合わせることは、ほとんどなかった。

彼は領境の警備や王都への報告で忙しく、城にいても書斎に籠もっていた。

食事も別。

寝室も別。

夫婦らしい会話など、数えるほどしかない。

ただ、ある晩だけは違った。

夜遅く、私は執務室で孤児院の改修費を計算していた。

扉が開き、レオンハルト様が立っていた。

「まだ起きていたのか」

「はい。少しだけ」

「無理をする必要はない」

私は顔を上げた。

その言葉に、思わず笑いそうになった。

無理をする必要はない。

妻としては必要とされず、けれど奥方として動くことだけは許された私に、彼は今さらそう言うのか。

「ご心配には及びません」

「……最近、領民が君の話ばかりする」

「そうですか」

「騎士団もだ。補給路の整備が進んだ。冬の巡回が楽になったと」

「皆様が真面目に働いてくださったおかげです」

レオンハルト様は、しばらく黙っていた。

そして、机の上の書類に目を落とす。

「君は、なぜそこまでする」

「奥方だからです」

「俺は君を、妻として扱っていない」

「存じております」

彼の表情が、わずかに歪んだ。

初めて見る顔だった。

痛みのようなものが、そこにあった。

「……恨んでいるか」

「いいえ」

「本当に?」

「恨んではおりません。ただ、傷つかなかったわけではありません」

言ってから、自分でも少し驚いた。

こんなことを口にするつもりはなかった。

けれど、夜の静けさが、余計な鎧を外してしまったのかもしれない。

レオンハルト様は、何も言わなかった。

「旦那様が私を望まないことは、もう理解しております。ですので、私は私にできることをしているだけです」

「セレナ」

「一年が経ちましたら、離縁を申し出るつもりです」

彼の息が止まったのが分かった。

「離縁?」

「はい。旦那様には、他に大切な方がいらっしゃるのでしょう。私はこの家に長く留まるべきではありません」

「それは……」

「ご安心ください。離縁までに、帳簿は整えておきます。孤児院と診療所の仕組みも、私がいなくても回るようにいたします。使用人の配置表も、次の奥方様が困らないように」

「次の奥方などいない」

低い声だった。

私は少しだけ目を見開いた。

レオンハルト様は、自分でも驚いたように口を閉じた。

その沈黙に、私は踏み込まなかった。

「夜も更けました。旦那様もお休みください」

私は書類を揃え、席を立った。

彼の横を通り過ぎようとした時、手首を掴まれた。

強い力ではなかった。

けれど、迷いがあった。

「待ってくれ」

「何でしょう」

「……君は、俺がいなくても平気なのか」

その問いは、少し残酷だった。

私は静かに彼を見つめた。

「平気になるしかありませんでした」

手が離れた。

私は礼をして、部屋を出た。

一年後。

グランベル領の冬は、穏やかだった。

大雪は降ったが、補給路は塞がらなかった。

診療所には薬があり、孤児院には薪と保存食があった。

城下町の市場には、去年よりも多くの品が並んだ。

私は離縁届を用意した。

署名欄には、すでに私の名前がある。

あとはレオンハルト様が署名すれば終わりだ。

執務室を訪ねると、彼は窓辺に立っていた。

「セレナ」

「お話がございます」

「分かっている」

彼は振り返った。

この一年で、レオンハルト様も少し変わった。

以前より城にいる時間が増えた。

領民の声を聞くようになった。

私の仕事にも、口を出すのではなく、耳を傾けるようになった。

けれど、それは情ではない。

少なくとも、私はそう思うことにしていた。

「こちらに署名をお願いいたします」

私は離縁届を差し出した。

レオンハルト様は、紙を見下ろしたまま動かなかった。

「セレナ」

「はい」

「俺は、君に謝らなければならない」

「必要ございません」

「ある」

彼は苦しげに言った。

「俺は最初から間違えていた。君を見る前に、この結婚を憎んだ。勝手に押しつけられたものだと決めつけて、君自身を見ようとしなかった」

「……」

「君がこの領地を変えていくのを、ずっと見ていた。最初は意地だと思った。次は義務だと思った。だが違った。君は、本当にこの地の人々を見ていた」

私は何も言えなかった。

「領民は君を慕っている。使用人たちも、騎士団もだ。城下の子供たちは、君を見つけると走ってくる」

「ありがたいことです」

「俺だけが、いちばん近くにいながら、君を見ていなかった」

レオンハルト様は、離縁届を手に取った。

そして、署名することなく、机の上に置いた。

「署名はできない」

「旦那様」

「都合がいいことを言っている自覚はある。許されないことも分かっている。それでも、今さらだとしても、君に行ってほしくない」

胸の奥が、静かに痛んだ。

一年前にその言葉を聞けていたなら。

私はきっと、簡単に泣いていた。

けれど今の私は、もう泣くだけの娘ではない。

「旦那様には、お心を寄せる方がいらしたのではありませんか」

レオンハルト様は、目を伏せた。

「幼い頃、確かに大切に思っていた人がいた。だが、それは過去だ。俺は過去への未練を、君を拒む理由に使っただけだ」

「その方は、今も旦那様を?」

「先月、結婚した」

私は瞬きをした。

彼は自嘲するように笑った。

「滑稽だろう。俺だけが昔の記憶に縋り、目の前の妻を傷つけた」

静かな部屋だった。

外から、城下の鐘の音が聞こえた。

冬の終わりを告げる鐘だ。

「セレナ」

レオンハルト様は、深く頭を下げた。

辺境伯が。

夫が。

妻として扱わないと言った相手に。

「すまなかった」

その謝罪は、遅すぎた。

けれど、嘘ではなかった。

私は離縁届を見た。

署名欄には、私の名前だけがある。

「私は、この一年で多くのものをいただきました」

私は静かに言った。

「領民の笑顔も、子供たちの花も、使用人たちの信頼も。最初は、離縁の日までの務めだと思っていました。けれど今は、この領地が好きです」

「なら」

「ですが、だからこそ、簡単には頷けません」

レオンハルト様が顔を上げた。

「私は、旦那様の後悔のためにここに残るのではありません」

「ああ」

「同情のためでも、罪悪感を薄めるためでもありません」

「分かっている」

「もし私に残ってほしいとおっしゃるなら、私を妻としてではなく、まず一人の人間として見てください」

彼はまっすぐ私を見た。

「約束する」

「すぐには信じられません」

「それでいい」

「離縁届は、私が預かります」

「ああ」

「一年です」

「……一年?」

「これから一年、旦那様を見ます。言葉ではなく、行動を。私を尊重してくださるか。この領地を共に支えてくださるか。過去ではなく、今を見てくださるか」

レオンハルト様の瞳が揺れた。

「その一年の後、私がここに残りたいと思えたなら」

私は離縁届を折り畳んだ。

「その時は、改めて夫婦になりましょう」

レオンハルト様は、泣きそうな顔で笑った。

「ありがとう、セレナ」

「まだお礼を言われる段階ではありません」

「分かっている」

扉の外で、小さな歓声が上がった。

私は振り返った。

隙間から、マリーと若い侍女たち、騎士団長、それから孤児院の子供たちまでが覗いていた。

「……皆様」

マリーが慌てて背筋を伸ばした。

「申し訳ございません、奥様。ただ、その、皆が心配しておりまして」

騎士団長が咳払いをした。

「我々は、奥様がこの城を去られるなら、全員で引き留める覚悟でした」

「仕事を放り出してですか?」

「その場合は、旦那様を説得するのも職務の一環かと」

レオンハルト様が苦笑した。

子供たちが私に駆け寄ってくる。

「奥様、行かないの?」

「まだ分かりません」

「じゃあ、お花また持ってくる!」

「ありがとう」

小さな手が、私のドレスを掴んだ。

その温かさに、胸が満ちていく。

私はこの領地を幸せにして出ていくつもりだった。

夫に愛されない妻として、せめて仕事だけは果たそうと思っていた。

けれど気づけば、私の方がこの領地に引き留められている。

愛とは、きっと、最初から燃え上がるものばかりではない。

凍った土の下で、静かに根を張るものもある。

春が来れば、芽吹くかもしれない。

芽吹かないかもしれない。

それでも私は、もう少しだけ見てみたいと思った。

この領地と。

この人と。

そして、私自身のこれからを。

机の上には、署名されなかった離縁届。

窓の外では、雪解けの水がきらきらと光っていた。