作品タイトル不明
392 月が満ちる (1)
その日の始まりは、激しいノックの音からだった。
ドンドンドン、と響く音にいったい何事と俺が身体を起こすと、ちょうどトーヤがベッドから立ち上がり、扉を開けるところだった。
「何だよ、い――」
「じ、陣痛が始まりました! は、早く来てください!」
扉を開けたトーヤの言葉を遮り、胸ぐらを掴むように部屋に押し入ってきたのはヤスエの夫、チェスターだった。
慌てて飛び出してきたのか、服は乱れ、髪型はボサボサ。
目は血走って、かなり狂気が入っている。
「お、おぅ、解った。すぐに行く」
「お願いします!」
気圧されるようにトーヤが頷くなり、チェスターは踵を返して部屋を飛び出し、階段を駆け降りていった。
「……嵐のような」
「必死さだったな」
俺なんか、布団から出る間もなかった。
外を見ればまだ薄暗い。
俺たちが借りている部屋は三部屋。知っていたのかどうかは判らないが、ハルカたちの部屋に行かなくて良かった、というべきか。
そもそもハルカたちなら扉も開けなかったと思うが、こんな時間にさして親しくない男に訪問されては困るだろう。
「取りあえず、ハルカたちに知らせに行くか」
「そうだな。準備もあるだろうし」
隣の部屋に行き、軽く扉をノックすれば、すぐに応えが返ってきた。
「聞こえてたわ。準備するから、少し待っていて」
「了解」
あそこまで騒げば、隣でも聞こえるか。
他の部屋の客から苦情が出なければ良いのだが……。
そんな不安を抱えつつ、俺はメアリたちの部屋にも声を掛けると、自分の部屋に戻って手早く身支度。
再度ハルカたちの部屋を訪れたのだが……部屋には入れてくれたものの、あまり焦っている様子もない。
見ているこっちが、少し心配になるほどに。
「なぁ、ハルカ、急がなくて良いのか? チェスター、こんな時間に呼びに来たんだが」
「大丈夫でしょ。陣痛が始まっても、産まれるまでにはかなり時間がかかるわよ。普通は」
陣痛が始まるまでは自宅にいて、酷くなったら病院に向かう。
普通の出産なら、それぐらいの時間的余裕があるらしい。
事前健診などの結果次第で、しばらく前から入院する場合もあるので、必ずしも全員がそうとは限らないようだが、どちらかと言えばそちらの方が例外のようだ。
「ですが、ハルカ。おばさんが呼ぶように言ったのなら、最終段階かもしれませんよ? ナオくん、他に何か言っていましたか? 例えば、破水したとか」
「いや、何も。『早く来てください』だけだな」
「なら、焦る必要はなさそうだね。陣痛が始まっただけなら、場合によっては一日以上かかるみたいだし」
「一日……それは、多少急いでも意味がない気はするな」
とはいえ、状況がはっきりしないままでは落ち着かない。
それなりにテキパキと準備を終えた俺たちは、朝食も食べずに宿を出ると、まだ半分寝ているミーティアをトーヤが背負って、ヤスエの所へ急いだのだった。
◇ ◇ ◇
チェスターが俺たちの宿に駆け込んできてから数時間。
臨時休業になった食堂にいたのは、俺とトーヤ、それにチェスターの三人だけだった。
治癒魔法の使えるハルカとナツキは当然として、ユキは手伝いとして、直接はあまり役に立ちそうにないメアリとミーティアも、後学のためとお産の現場にいる。
現代では夫も立ち会ったりするらしいが、この世界ではまずあり得ない。
こうして俺たちと一緒に、気を揉むことだけが仕事である。
「だ、大丈夫でしょうか……」
「解らん。だが、普通に出産するよりは余程安全だ。ハルカとナツキがいるんだから。少しは落ち着け」
「解ってます。解ってますが、落ち着かないんです!」
座っては貧乏揺すり、立っては食堂の中を歩き回り、再度座ってはまた立ち上がる。
心配なのは解るが、これを延々、数時間に亘って見せ続けられれば、ウンザリもする。
「……俺、ちょっとギルドにでも行ってくる」
俺がここにいても何の役にも立たない。
というのは半分建前で、狼狽著しいチェスターに付き合うのが疲れただけである。
これがまだ当分、下手したら一日近く続くとなると、気分転換でもしなければやってられない。
「あ、じゃあ、オレも」
トーヤも同じだったのか、俺に続いて立ち上がったのだが――
「ひ、一人にしないでください!」
すぐさまチェスターが縋り付いた。
これが可愛い女の子なら嬉しかったかもしれないが、相手がとうに成人を迎えた男となれば、ウザいだけである。
トーヤもちょっと嫌そうな表情を浮かべているが、力任せに引き剥がすほど冷酷でもなく、困ったように俺の方に視線を向けようとする。
だがしかし、そんな隙を俺は与えない。
面倒なので。
「そいじゃ、あとは頼むな~」
「あっ、ナオ、逃げるな!」
何も聞こえない。
俺はそういうことにして、食堂の扉をそっと閉めた。
◇ ◇ ◇
訪れた冒険者ギルドは、閑散としていた。
時間的には朝とお昼の中間ぐらい。
大抵の人は仕事に行っている時間で、酒を飲んで管を巻くには早い時間。
この時間にギルドを訪れるのは、泊まりがけで仕事に行っていた冒険者ぐらいで、深夜などを除けば一番人が少ない時間帯である。
当然、そこに入っていった俺はよく目立ち、すぐにケトラさんが声を掛けてきた。
「あ、ナオさん。先日はペトシーの討伐、お疲れ様でした」
「いえいえ。――その名前、採用されたんですか?」
「サイラスがそれで報告書を出しましたからね。それに、“大きいモンスター・イール”だと判りづらいので、固有名がついていた方が便利、ということもあります」
「確かに、あれを単に『大きい』と表現するのは違う気もしますね」
「はい。これで町の人も安心して川に行けます」
「結構訪れる人が多いのですか? ペトラス川って」
「いえ、冒険者を除けば、疏水の管理をしている農民が行くぐらいですね」
ペトシーは異常にデカかったが、元々ペトラス川にはモンスター・イールが生息している。
その関係もあるのか、ノーリア川に比べて魚の数が少ないし、一般人からすれば通常のモンスター・イールでもなかなかに危険な生物である。
そんなところで魚釣りや漁を生業にしていたら、命がいくつあっても足りない。
通常サイズでもニシキヘビよりも巨大といえば、その脅威度が解るだろうか。
ちなみに、ニシキヘビはあまり人を襲わないらしいが、モンスター・イールは普通に襲う上に、水の中は完全に相手のフィールドなのだから、危険性はかなり高い。
まともな神経をしていれば、近付こうとは思わないだろう。
「そんなわけで、すぐには影響がないですが、疏水の管理ができなくなれば、農業に影響が出ますから。サイラスだけでは対応できなかったようですし、助かりました」
「あぁ、大剣とは少し相性が悪い敵でしたね」
俺たちがエルダー・トレントに使ったように、油を用意して火を掛けるとか、槍を使うなど、他の方法で対処することはできるだろうが、それも相手を知って準備ができていればこそ。
もしサイラス一人であれば、あの場は一度撤退するしか方法はなかっただろう。
「ペトシーの身は無事に売れましたか? かなりの量がありましたけど」
「はい。問題なく。いくつかの飲食店が買っていきました」
サイズはちょっと非常識だが、モンスター・イールに違いはなく。
ヌルヌルの表面は炙って処理していた上に、その巨大さも、切り身にするなら逆に処理が簡単そうと、通常のモンスター・イールの重量単価よりも少し高めで売れたらしい。
「もし残っているようなら、ナオさんたちの物も引き取れますが?」
「場合によっては頼むかもしれませんが……知り合いの食堂で、出しているんですよね。残れば売ることになりそうですが」
通常よりも安い価格で販売されるペトシーを使った料理はなかなかに人気で、在庫は順調に消化されつつあった。
とはいえ、量が量だけに、まだまだ大量に残っている。
ヤスエの産後、どれくらいの期間この町に留まるのかは決まっていないが、かなりの量が残ることはほぼ確実。
その場合はやはり、売っておいた方が良いだろう。
マジックバッグにも限界はあるし、今の俺たちは旅の空、これまでのように家に置いておくことができないのだから。
場合によっては、それをギルドに売ってから町を離れても良いだろう。
「そのときには是非」
「はい、こちらこそお願いします」