軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話「八年分の、本当のこと」

朝の光が、見慣れた天井ではない場所から差し込んでいた。

目を開けて、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。漆喰の天井に、見覚えのある木目の梁。子供の頃、熱を出すたびに数えた、あの梁。

ああ、実家だ。アーレンフェルト侯爵家の、私の昔の部屋。

そう気づいた瞬間、昨日の朝食室の光景が、寝台の縁から這い上がってきた。エドガーの腕に抱かれたセレナ。砂糖を止まらずに入れた紅茶。指輪。流産。「お幸せに」と言って閉めた扉。

私は寝台の上で、ゆっくりと身を起こした。

奇妙なくらい、頭は冴えていた。八年間、いつも夜明け前に起きて領地の書類に目を通していた身体は、こういう朝を勝手に迎える癖がついている。

寝間着の袖を直しながら、窓辺に立った。庭の白薔薇が、八年前と変わらず咲いていた。

変わらないものも、あるのね。

そう思ったとき、扉が控えめに叩かれた。

「奥様。ミラでございます」

私は微笑んだ。八年間、私についてきてくれた古参侍女の声。昨日、彼女もまた、伯爵家を辞して私と共にこの実家に戻ってきた。

「入って、ミラ」

扉が開く。彼女は朝の支度を運んできていた。湯気の立つ薬草茶と、焼きたてのパン。それから、私の机の上に、一枚の紙片を置いた。

「先ほど、玄関に届きました。ヴァレンス家の紋章入りの封筒でございました」

私は紙片を取り上げた。エドガーの筆跡ではなかった。執事頭の、几帳面な書体。

『使用人一同、本日付けで暇を頂戴したく、屋敷を出ます。奥様の新たなお住まいに向かわせていただきます。 ヴァレンス家筆頭執事 ハロルド』

私は紙片を膝に置いた。

予想していたことだった。いや、仕組んでいたことだった。八年間かけて、ゆっくりと。彼らは「伯爵家の使用人」ではなかった。一人ひとり、私個人と契約を結んだ「私の使用人」だったのだ。執事のハロルドも、会計係のグリンも、農業顧問のオーランも、馬丁のテオも。

エドガーは知らなかった。八年間、毎月支払う給金がどこから出ていたかを。

ミラが私の前に膝をついた。

「奥様」

声が、震えていた。

「ミラ?」

「八年間、黙っていたことがございます」

私は薬草茶のカップから手を離し、ミラを見た。ミラは床に視線を落としたまま、両手を膝の上で固く握っていた。年老いた指が、白くなるほどに。

「あの……ハンカチのことでございます」

私はゆっくりと頷いた。

「セレナのこと、知っていたの?」

ミラが頷いた。涙が、皺の刻まれた頬を伝った。

「奥様が刺繍をなさるたび、私がお手伝いをしておりました。仕上がった夜、必ずセレナ様がお見えになっていたのです。お茶のお誘いだと言って、応接間に入られて、そして、奥様の机の抽斗から、ハンカチを抜き出して懐に入れて、お帰りになるのを、私、何度もこの目で見ました」

私は薬草茶の湯気を見つめた。鎖骨の窪みの内側で、何かが、ゆっくりと、温度を失っていった。

「何度?」

「八年間、毎月。少なくとも九十回は」

九十回。

私の指が刺した針の数。私が選んだ糸の色。私が彼の家紋の意匠を、寸分違わず布に写し取った夜の数。それが九十回。

そして九十回、セレナは私の家に来て、私の机の抽斗を開けて、私の手のひらの温もりを盗み出して帰っていったのだ。

「なぜ、言ってくれなかったの」

私は責めるつもりではなかった。けれどミラは、もう一度頭を下げた。

「申し訳ございません。申し訳、ございません。証拠が、なかったのです。私の言葉だけでは、奥様を傷つけるだけだと。それに、それに、奥様があの方を、本当に大切にしていらしたのを、私、ずっと見ていたから」

私は手を伸ばし、ミラの肩に置いた。骨ばった、痩せた肩。八年間、私の隣にいてくれた肩。

「いいのよ、ミラ。あなたの判断は、正しかった」

「奥様……」

「証拠は、これから揃う。私が揃えるわ」

ミラが顔を上げた。涙に濡れた目で、私を見た。

それから、もう一度、深く息を吸った。

「奥様。もう一つ、ございます」

私は黙って、続きを待った。

「昨年の、流産の夜のことです」

胸の奥で、何かが冷たくなった。いえ、違う。胸ではなかった。鼓膜の奥のもっと深いところで、何か小さな貝殻のようなものが、ぱきり、と割れた気がした。

「あの夜、エドガー様は隣のお部屋にいらっしゃいました。私は廊下で控えておりました。あの方は、お一人ではございませんでした」

私の指が、ミラの肩から離れた。

「セレナ様が、いらしておりました。お二人で、お話しになっておりました。私、そのお話を、ぜんぶ、聞いておりました」

ミラの声が、震えた。

「エドガー様は、こう仰いました。"セレナとの子じゃなくてよかった。あいつの子なら、面倒だった"と」

私は、何も言わなかった。

朝の光が、部屋の床に静かな四角を描いていた。窓の外で、白薔薇の上を蜂が一匹、ゆっくりと通り過ぎていく音が聞こえた気がした。たぶん聞こえてはいなかった。けれど、聞こえた気がした。

それくらい、部屋は静かだった。

「セレナ様は、笑ってらっしゃいました。"あら、優しいのね"と仰って。それから、エドガー様の腕の中で、お休みになりました。奥様が、お一人で、隣のお部屋で、シーツを握りしめていらしたあの夜に」

私はようやく、口を開いた。

「ミラ」

「はい」

「あなた、その夜のこと、書面に残せる?」

ミラは一瞬、目を見開いた。それから、はっきりと頷いた。

「いつでも。何度でも。神の前でも、王の前でも、お誓いいたします」

私は深く息を吐いた。

胸の奥に、何か熱いものがあった。怒りでも悲しみでもない、もっと静かで、もっと深い、八年分の何か。それは涙にはならなかった。代わりに、私の背筋を、まっすぐに伸ばした。

「ありがとう、ミラ」

「奥様……」

「下がっていいわ。ああ、それから」

ミラが扉の手前で振り返った。

「執事のハロルドが屋敷に着いたら、私の書斎に通して。それから、会計係のグリンと、農業顧問のオーランも。仕事を始めましょう」

ミラの目に、初めて、涙ではない光が宿った。

「かしこまりました、奥様」

扉が閉まった。

私は机に向かった。八年間、毎朝そうしてきたように。机の上には、昨夜届いた一通の手紙だけが置かれていた。

『次の本を貸します。 ユリウス』

私は手紙を手に取り、ゆっくりと開いた。封筒の中には、白い便箋が一枚。

そこに、もう一行だけ書き添えられていることに、私は今朝になって気づいた。

『もし、お時間が許すなら、次の月の終わりに、王立図書館の三階へ。いつもの席で』

いつもの席。

十年前、私が十五歳の頃、領地経営の論文を書くために通っていた、あの北窓の下の机のこと。十年前、地味な学者が私の論文を覗き込んで「この計算式は美しい」と呟いた、あの机のこと。

ユリウスは、覚えていたのだ。

私は手紙を胸に押し当てた。そうしないと、何かが零れてしまいそうだった。涙ではなかった。たぶん、もっと別のもの。八年間、誰にも見せられなかった、私自身の何かが。

窓の外で、白薔薇の花弁が一枚、風に運ばれて落ちた。

私は便箋を畳み、机の抽斗にそっと仕舞った。

そして新しい紙を一枚、広げた。羽根ペンを取り、インク壺に浸す。

書くべきものが、たくさんあった。執事ハロルドへの指示書。会計係グリンへの引き継ぎ書類の請求。農業顧問オーランに渡す、領地経営の現状把握表。それから、伯爵家の交易ギルドとの契約書の複写を、商人ギルドの本部に取り寄せる依頼。

私は最初の一文を書き始めた。八年間、毎朝書いてきたのと同じ筆跡で。けれど、八年間で初めて、自分自身のために。

三日後、ヴァレンス伯爵家の畑では、収穫の指示を出す者が誰一人いなかった。

けれど、それを今朝の私は、まだ知らない。知らないまま、私は次の一行を書き始めた。