軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話「八年間、ありがとう」

朝食の席に、夫が見知らぬ女のように親友を連れてきた朝のことを、私は一生忘れないだろう。

陽の差す朝食室。湯気の立つ紅茶。八年間、変わらず私が用意してきたこの席に、エドガーはセレナの腰を抱いて入ってきた。私の正面の椅子を引き、当然のようにセレナを座らせる。

「リネア、紹介するまでもないな」

夫は言った。私の親友の腰から手を離さないまま。

「今日からセレナがこの家の女主人だ」

紅茶のカップを持ち上げかけていた指が、宙で止まった。

セレナが扇で口元を覆い、ふふ、と笑う。十二歳の頃から数えきれないほど見てきた、あの愛らしい笑い方で。

「お久しぶり、リネア。八年間、お疲れ様でした、お姉さま」

そう言って彼女は手を伸ばし、私の紅茶のカップに砂糖を入れた。一度、二度、三度。視線を合わせたまま、止まらなかった。

私は微笑んだ。八年間、誰にも崩されたことのない微笑みで。

「セレナ。私の紅茶、お砂糖は要らないの」

「あら、そうだったかしら。ごめんあそばせ」

謝罪の言葉に、謝罪の温度は一滴も含まれていなかった。

エドガーが、まるで天気の話でもするように続けた。

「リネア、君には感謝している。俺の家を八年間、留守番してくれて。よく我慢してくれた。もうセレナが来たから、お役御免だ。実家に帰っていい」

留守番。

その言葉が、ゆっくりと胸の奥に降りてきた。

八年間、私が回してきた帳簿。八年間、私が結んできた交易契約。八年間、私が雇ってきた使用人たちの顔。八年間、私が作物の出来を見て回った領地の畑。八年間、私が文を書いた取引先の商人たち。

全部、留守番。

そう、彼の中ではそうだったのだ。八年間ずっと。

「ねえリネア、知ってた?」

セレナが囁くように言った。声は甘く、毒の粒のように細やかだった。

「あなたが刺繍したハンカチね、エドガー様、全部"セレナの愛が籠っている"って毎晩枕元に置いて寝てたのよ? 八年間ずっと。可哀想に、気づかなかったの?」

エドガーが鷹揚に頷いた。

「君の刺繍は不器用で見られたものじゃなかったからな。セレナの方が遥かに上手い。八年間黙って受け取ってやったのは、俺の優しさだ」

私の指が、カップの取っ手を握った。陶器の冷たさが、薬指の付け根の骨に染みた。

私は微笑んだまま、まだ何も言わなかった。

セレナが身を乗り出した。声を、私にだけ届くほどに潜めて。

「あ、それと、昨年あなたが流産した子ね。あれ、本当はエドガー様、ホッとしてたのよ。"セレナとの子じゃなくてよかった"って。廊下で言ってらしたわ」

世界が、音を失った。

奥歯の裏側が、痺れた。

いや嘘だ。違う。違う。あの夜の、シーツの、私が一人で握っていた、声も上げずに、誰にも告げずに、エドガーは隣の部屋にいて扉を開けなかった、開けないだけでも冷たかったのに、それなのに、廊下で、廊下で、セレナと、あの人は、廊下で、笑って、笑って、私の子を、私の身体から零れていった命を、ホッとして。

ホッと。

ホッとして。

私は紅茶の表面を見ていた。湯気が、真っ直ぐに、まだ立ち上っていた。それだけが、八年間の中で、唯一、何も嘘をついていない動きだった。

エドガーが、何にも気づかぬ朗らかさで続けた。

「あ、それと結婚五年目に君がくれた指輪、あれセレナにやった。君には地味すぎる宝石だったろう?」

セレナが手を差し出す。細い薬指の付け根で、ルビーが朝陽を弾いていた。

私が選んだ石。城下町の宝石商を三軒回って、彼の瞳の色に一番近い深紅を選んだ夜のこと。「五年、ありがとう」と書いた手紙を添えて、寝室の枕元に置いた朝のこと。彼が翌朝なんと言ったか、私はもう覚えていない。いや、覚えている。「ああ」と一言だけ言った。

その指輪が、今、親友の指で笑っている。

私は、ゆっくりと立ち上がった。

椅子の脚が、朝食室の床を撫でて鳴る。乾いた、けれどはっきりとした音だった。

「分かりましたわ」

私は言った。声は、自分でも驚くほど静かだった。

「離縁届をご用意ください」

エドガーが満足げに目を細めた。獲物を仕留めた狩人のように。

「物分かりがいいな、リネア。やはり君はそういう女だ。ああ、頼みがある。半年は別居婚を装ってくれないか。セレナとの結婚式までの体面のために。君はそういうの得意だろう?」

得意。

そう、八年間、私は得意だった。彼の体面を取り繕うことが。彼が酔って失言した夜会の翌朝、私が書いた詫び状で何度家名を救ったか。彼が忘れた商談の日取りを、私が前夜に「ふと思い出したように」夫に告げて、何度恥をかかせずに済ませたか。

得意ですとも。八年間、ずっと。

「ええ。もちろん」

私は微笑んだ。

そして、傍らの飾り棚に歩み寄り、抽斗から一枚の書類を取り出した。八年前、結婚式の朝から、ずっとそこに仕舞ってあったもの。

机の上に、署名を済ませた離縁届をそっと置く。

エドガーが眉を上げた。

「随分早いな……? 今、書いたのか?」

「いいえ」

私は答えた。

「三日前に書きました」

朝食室の空気が、わずかに揺れた。セレナの扇の動きが、止まった。

私はもう一枚の書類を、エドガーの前にすべらせた。

「ところでエドガー様。これにサインなさったこと、覚えていらっしゃいますか?」

エドガーが書類を覗き込む。羊皮紙の上の、八年前の彼自身の筆跡。若く、自信に満ちた、雑な署名。

「持参金……返還契約……?」

「結婚式の朝、父が"形式的なものだ"とお渡しした書類ですわ。あなたは中をお読みにならず、署名なさいました。こちらに記されておりますの。"離縁の場合、持参金及びそこから派生した全資産は妻に返還される"と」

エドガーの顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。

「派生した、全、資産……?」

「はい。エドガー様、ヴァレンス伯爵家の現在の資産のうち、私の持参金から派生していないものが、どれほどあるとお思いですか?」

彼は答えなかった。答えられなかった。なぜなら、彼は知らなかったからだ。八年間、自分の家の財がどこから来ていたのかを。

セレナの扇が、かたん、と床に落ちた。

私は、机の上に揃えた二枚の書類の縁を、指先で整えた。

「では、明日の朝までに、屋敷の私物をおまとめください。私の使用人たちと共に出ていきますので、その後はどうぞお好きに」

エドガーが椅子から半ば腰を浮かせた。

「リネア、待て、何を言っている……」

私は彼の声を遮らなかった。ただ、振り返らずに、朝食室の扉に向かって歩いた。

扉に手をかける直前、足を止めた。

振り向かないまま、私は告げた。

「お幸せに」

それだけだった。

扉を閉める音が、八年分の朝食室に、最初で最後の終止符を打った。

廊下に出た瞬間、私の膝の裏が、初めての方向に折れそうになった。けれど、倒れなかった。歩けた。一歩、また一歩、自分の部屋までの長い廊下を、自分の足で歩いた。

部屋の扉を閉め、背中を預けた。

そこでようやく、私は息を吐いた。長い、長い、八年分の息を。涙は出なかった。八年間、彼の前で泣かなかった私は、今夜も泣かないだろう。

机の上に、一通の手紙が届いていた。

質素な封筒。飾り気のない筆跡。差出人は、王立図書館の歴史学者。

『次の本を貸します。 ユリウス』

たった、それだけ。

私は手紙を胸に抱いた。

三日後、伯爵家から最初の使者が、私の実家の門を叩くことになる。

けれど今夜の私は、まだそれを知らない。知らないまま、この夜を、十年ぶりに自分のためだけに眠る。