軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

令嬢には、名前がある

婚外子として産まれ、六歳の頃に子爵家に引き取られたコーデリアは実の父親からは愛してもらえず、寂しい幼少期を過ごしたのだろう。

そんな彼女は今、女官として出仕している。基本的に後輩に厳しい彼女だが、やたらテレーゼにばかり辛辣に当たってきていた。

(それはもしかしたら……蹴落とされるのを何よりも恐れていたからじゃないかしら)

コーデリアは「大公妃付きの女官」の地位に異様にこだわっていた。

そして、リィナの姉であるテレーゼに小言を言っていたのは――テレーゼに「大公妃付きの女官」の地位を狙われるのを阻止するためだったのではないか。

彼女がそうまでして地位に執着する理由は、この父親にあるのではないか。

「コーデリア様が何をしてしまったのかは知らないけど、あんなに怯えるほど差し迫っていたのは、あなたが原因なんじゃないの? リィナの専属になれないなら勘当するとか言って脅していたんじゃないの!?」

「……コーデリア貴様、この小娘に何を話した!」

「ただの私の予想だから、コーデリア様は関係ないわよっ!」

娘が告げ口したと思いこんだ子爵が振り向いて、足を振り上げた。その仕草に、テレーゼの目の前がカッと真っ赤に染まったように感じられた。

子爵が、コーデリアの顔を踏みつけようとしている。

嫡子ではないけれど、実の子なのに。

わざわざ引き取った娘なのに。

女性の顔を踏みつける――それはいくら貧乏とはいえ、貴族としての教えを身につけているテレーゼにとっては許し難い行為であり、コーデリアと同じ女として看過できなかった。

「っ……やめなさいっ!」

とっさにテレーゼは動いていた。

素足のまま駆け出し、床を蹴って子爵の左側から思いっきり体当たりした。

(うっ……硬っ……!)

大柄な成人男性の体は重くて硬い。自分の方からぶつかったというのに肩がじんじん痛むし、一瞬視界もぐらついた。

テレーゼの軽い体重では全力でぶつかっても子爵を倒れさせることはできなかった――が、ほんのわずかバランスを崩した子爵はコーデリアを踏みつけようとした足で床を踏む。

(よかった、間に合った)

ずるずるとその場にへたり込んだテレーゼは子爵に睨み下ろされながらも、一番にそう思った。

「……子爵に体当たりを食らわせるとは。女官も落ちたものだな?」

「お、女の子の顔を踏もうとする人に言われたくないわ! 人間として最低よ!」

「くっ……もうやめなさい、テレーゼ!」

耐えかねたのか、コーデリアがしわがれた声で叫んだ。直後、けほっと咳き込みながらもテレーゼにきつい眼差しを送ってくる。

「これ以上お父様に逆らわないで! あなたは関係ありません!」

「今さらじゃないですか!? もう体当たりしちゃいましたし!?」

「お、お黙りなさい!……お父様、その小猿の不行き届きはわたくしが償いますので――」

「……テレーゼ、だと?」

子爵が、呆然と呟く。

コーデリアがテレーゼを制そうとし、テレーゼがややズレた反応を返している中、二人に挟まれている子爵は目を瞬かせ、ぽかんとしてテレーゼを見下ろしていた。

「……ま、まさか貴様――いや、あなたは、リィナ様の姉君――!?」

「そうだけど……」

だから何だ、と唇の端をひくっと引きつらせたテレーゼだが――

突如、目の前から子爵が消えた。

「……ん?」

「こ、これは失礼いたしました! 愚女がたいへんな無礼をはたらいた様子で!」

子爵はいなくなっていたわけではなく、凄まじい速度で頭を下げていた。

彼はぽかんとするテレーゼに頭頂部を向けたまま、同じく呆然としていたコーデリアの頭をひっ掴んで無理矢理下げさせた。コーデリアは鼻を床にぶつけたらしく、うぐっと小さくうめいている。

「まさか大公妃の姉君だとは思わず、失礼いたしました。娘の愚行を、父親である私が代わってお詫びします!」

――そう言われたとたん。

すっと、テレーゼの胸にくすぶっていた炎が消えていく。

怒り、焦り、驚き――様々な感情が消え失せた後に残っているのは、虚しささえ感じられる「失望感」。

(……コーデリア様の愚行? 子爵が謝っているのは、コーデリア様のこと?)

その場にひれ伏すフィリット子爵親子。

彼らを見ているとたまらず――

「失礼なのはコーデリア様じゃなくてあなたじゃないの?」

(あ、うっかり言っちゃった)

あまりにも衝撃的で、口が滑ってしまった。

父親のなすがままに頭を下げさせられていたコーデリアが顔を上げ、「……馬鹿なことを」と呟いている。

(で、でも。今の状況で「愚女が無礼をはたらいた」っておかしくない?)

テレーゼの真っ当すぎる指摘を受け、顔を上げた子爵はそわそわと視線を左右に動かす。

「い、いえ。娘が不用意な発言をしたのがそもそもの――」

「……確かにコーデリア様にはいろいろ注意されたけれど、それは先輩と後輩として当然のことよ。私はそれより、あなたの方が失礼だと思うわ」

「しかし、これは娘への教育でして――いえ、それもやりすぎであったことはお詫びします! これからのことは屋敷に戻り、親子で話を――」

「そっちじゃないの」

ゆっくりと、テレーゼは首を横に振る。

テレーゼが子爵のことを「失礼」と判断する理由は、そこではない。

テレーゼが失望している理由も、それが原因ではない。

……そのことに、子爵はまだ気付いていない。

「……あなたは私の名前を知ってから、態度を急変させた。私が『大公妃の姉君』だからあなたは私に対して謝ったし、そんな私に指摘されたからコーデリア様への仕打ちを反省した」

もし、ここに現れたのがテレーゼではなく――たとえば、リズベスだったら?

目の前にいるのが「大公妃の姉君」ではなくただの女官見習だったら、子爵はコーデリアへの暴行を続けていたかもしれないし、邪魔をしてきた見習にも手を出していたかもしれない。

割って入ってきたのがテレーゼ――リィナの姉だから、態度を変えた。

それが、テレーゼはたまらなく嫌だった。

子爵のみならず他の皆が、テレーゼがまるで「大公妃の姉君」という名であるかのように接してくるたび、テレーゼの胸は冷たくなっていた。

皆が見ているのはテレーゼという女ではなく、「リィナの姉」という肩書きだけなのでは。

「テレーゼ・リトハルト」というのはただの器で、「大公妃の姉君」が本体なのでは――そう感じられてくるからだ。

(親しい人たちだったら裏に込められた意味や気持ちも分かるし、初対面の人なら私を「大公妃の姉」と扱うのも仕方ないことだと思うわ。でも――)

「私は大公妃の姉君なんて名前じゃない。テレーゼ・リトハルトという十八年間付き合ってきた名前がある。それなのにあなたは私の肩書きだけで態度を変えてきた――だから私はあなたが失礼だと思うし……そんなあなたのことは、大公閣下もリィナも嫌いだと思うわ」

我ながらあまり格好いい台詞ではなかったと思うが、「大公閣下もリィナもあなたのことが嫌いだと思う」は、子爵にとって決定打となったようだ。

「なっ……!」

子爵の目が見開かれる。

星明かりに照らされた彼の目は――奇しくも、娘と同じヘーゼルだった。

子爵ががくっと膝を折った直後、遠くからバタバタとせわしない足音が近づいてきた。

そして廊下の角を曲がってきた近衛騎士の青年はテレーゼたちを見、手に持っていたカンテラを掲げる。

「……テレーゼ・リトハルト嬢、コーデリア・フィリット嬢発見! 保護いたします!」

リズベスが呼んだ騎士たちのようだ。

安堵のためか、コーデリアの体がふらっとぐらついたため、テレーゼは大柄な子爵の体を迂回して急ぎコーデリアの肩を支えた。

「コーデリア様!……あのっ、コーデリア様は負傷されています。すぐに医務室に運んで差し上げてください! 事情は私が代わりに説明しますので――」

「……それはいけませんよ」

分かりました、と言いかけた目の前の騎士の向こうから、低い声が聞こえてきた。

慌てて彼が道を譲った先。騎士たちが持つカンテラの明かりに照らされ、焦げ茶色の髪を持つ青年が佇み、テレーゼをじっと見つめていた。

――その凛とした姿を見、テレーゼの胸がとくっと脈動した。

「……ジェイド?」

「リズベス嬢の報告を受け、馳せ参じました。……テレーゼ様、あなたもお疲れのはずです。この場は皆に任せ、あなたも部屋に参りましょう」

テレーゼが肩を貸していたコーデリアが騎士たちに抱えられていく。

そしてテレーゼの前に跪いたジェイドもまた両手を差し伸べ、床に座り込んでいたテレーゼの体に腕を伸ばしてひょいっと一息で抱き上げてしまった。

「おわっ!?」

「私の首に腕を回してください」

「こ、こう?」

「……こ、これだと私が窒息しますので、首の後ろで手を組んで……そう、こんな感じです」

誰かにこんな姿勢で抱き上げられたことのないテレーゼは危うくジェイドを絞殺しそうになったが、正しい手の組み方を教えてもらってなんとか落ち着くことができた。

(……視線を感じるわ)

気絶してしまった様子のコーデリアが騎士に抱き上げられているのは仕方ないとして、ジェイドに抱えられたテレーゼは騎士たちの注目を浴びまくっている。騎士に縛られている子爵でさえうつろな目でこちらを見てくるものだから、なんだかとても申し訳ない。

「……あの、ジェイド。私、歩けるわ」

「そうですか」

「あの、だからね、下ろしてくれる?」

「嫌です」

「ええっ……」

「あなたは勇敢ですが、無茶をしすぎです。……本当に、俺はあなたが心配で心配でなりません」

そう言いながらぎゅっと抱きしめられると――テレーゼはもう、何も言えなくなった。

ジェイドはテレーゼを心配するだけでなく、注意してくれた。

甘やかすだけ、テレーゼを尊い人間だと敬うだけではない。

「大公妃の姉君」という目に見えない壁をぶっ壊し、素の姿の自分を案じ、気にし、叱ってくれる――そんなジェイドの思いが、今は痛いほど嬉しかった。

「……ご、ごめん、ジェイド」

「それでいいんです。こういうときくらい、俺にあなたを甘やかさせてください。……よく頑張られました、テレーゼ様。まずはゆっくり休みましょうね」

「いや、こんな状況で休めないからね!?」

結局テレーゼは医務室まで運ばれる道中、ずっときゃんきゃんと叫んだのだが、ジェイドからは「まあ、いいじゃないですか」「ああ、そうですね」「それはそれは」と、ホイップクリームにねじを打ち込んでいるかのように手応えのない反応しか返してもらえなかった。

そして医務室のベッドに寝かされ、「おやすみなさいませ」と掛け布団を掛けられて五秒後には、安らかに眠っていた。

テレーゼはよく動きよく寝る、健康優良児なのであった。