軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 「分かりました。受理します」

書き上げた謁見申請書を、封筒に滑り込ませる。

封蝋がまだ柔らかかった。指で押した家紋の縁が、ほんの少しだけ滲んでいる。やり直そうかと思って、結局そのまま蝋を冷ます。今日のわたくしは、滲んだ家紋のままで届けて構わない、と思った。

「お嬢様、馬車のご用意ができております」

マリーの声が扉の外から落ちた。

「ありがとう、すぐ参ります」

鏡の前で髪を結い直す。普段の侍女頭補佐としての登城と、何も変わらない装い。ただ、手元の封筒だけが、わたくしの四年分を抱えていた。

馬車の窓から、いつもの王宮へ向かう街路が流れていく。鈴蘭の鉢を出している宿屋の主人が、馬車の家紋に気づいて軽く頭を下げてくれた。わたくしも会釈を返す。昨夜、大広間の隅で立っていたわたくしを、街は知らない。それが少し、ありがたかった。

王宮の長い回廊を、いつも通り西側から入る。

途中で、王宮筆頭侍女マルグリットとすれ違った。朝の点呼を終えた直後らしく、手には侍女頭の名簿。年季の入った革表紙の角が、また少し擦れていた。

「ジゼル様」

マルグリットがいつもの礼の前に、わたくしの顔を正面から見た。

「本日のお茶は、私が」

短い言葉だった。普段は副侍女に任せている、王妃陛下の私室のお茶を、今日はマルグリット自身が運ぶという意味だった。

「ありがとう、マルグリット」

マルグリットの目が、いつもより柔らかかった。それから、何も言わずに通り過ぎて行った。背筋の伸ばし方は、いつも通りだった。

王妃陛下の私室は、廊下より一段、空気が静かだった。通された卓には、すでに紅茶が用意されている。マルグリットが自ら淹れたのだろう。湯気が、まだ立っていた。

「お座りなさい、ジゼル」

王妃クロディーヌ陛下が、御手ずから紅茶のカップをわたくしの前へ寄せてくださる。爵位の高い令嬢の前でも、陛下はこれをなさる。けれど今日は、いつもよりわたくしの右手の届く位置に置かれた。

「陛下、本日はお時間を頂戴いたしまして、誠にありがとうございます」

「昨夜のこと、聞きました」

陛下の声に、少し低い響きがあった。

わたくしは、卓の上に封筒を置く。

「陛下、わたくしは第一王子レオン殿下との婚約を辞退させていただきたく存じます。婚約契約書第七条、双方の名誉が公の場で守られない場合の解消権限に基づき、契約当事者として、解消を申し出いたします」

封筒の縁を、自分の指先がもう一度だけなぞった。ここまで来て、声が震えなかったことだけが、不思議だった。

陛下は、封筒に視線を落とされた。開封なさらなかった。ただ、ご自身の右手を一度、卓の上で軽く握っておられた。それから顔を上げて、わたくしを正面からご覧になった。

「――分かりました。受理します」

即答だった。カップの中の紅茶が、ほんの少しだけ揺れた。

陛下の声が、続けて落ちる。

「ジゼル、わたくしは過去四年で、レオンに三度、直接話しました。一度目は、あなたの婚約発表の翌週。二度目は、王太子候補発表の後。三度目は、昨年の冬。母として、ではなく、王妃として、息子に話しました」

陛下の指が卓の上で、数を数えるように動いた。

「三度とも、息子は『母上は分かっていない、ノエルは家族のようなものだ』と言いました。最後の冬は、わたくしと目を合わせさえしませんでした」

わたくしは、紅茶のカップを両手で包んだ。陛下の言葉の一つひとつが、自分の中で、知っていたはずの場所と、知らなかったはずの場所の両方に届いていく。

「婚約契約書第七条は、契約当事者本人にしか発動できません。これは王家の婚約においても同じです。我が国のこの慣習法を、わたくしも、息子も、その他誰一人として、覆すことはできない」

陛下が、ご自分の紅茶のカップに一度だけ目を落とされた。

「ですから、最後に動けるのは、あなただけだったのです」

紅茶の湯気が、まだ、ほんの少し立っていた。

「ジゼル、四年待たせてしまったことを、母として、王妃として、お詫びします」

陛下の頭が、わたくしへ向かって、ほんの僅か下げられた。王妃陛下のその所作を、わたくしは生涯、忘れないと思った。

「陛下、おやめくださいませ」

声が少しだけ早く出た。

「陛下に頭を下げていただくようなことは、わたくしの方こそ……」

「いいえ」

陛下の声は優しいけれど、譲らなかった。

「これは王妃の頭ではありません。母の頭です。あなたの母上に、いずれ改めてお目にかかります」

紅茶のカップを置く音が、わたくしの手元で、思ったよりも乾いていた。四年分の何かが、自分の中で本当に少しだけほどけた気がした。

陛下は、その一拍を待ってから、口調を少しだけ整え直された。

「それから、ジゼル。一つ、お願いがあります」

「はい」

「あなたが過去四年で整えてくださった、王宮茶会・夜会・宮中晩餐の差配記録――わたくしは、すべて手元に保管しております。月ごとの綴り、贈答記録の写し、席次表の控え、外交席次の決定書まで」

陛下が、卓の隅にある黒檀の小箱に一度だけ視線を落とされた。

「あれは、当家の社交史に残る記録です。婚約は解消されますが、あの記録の処遇は、いずれ別途、話し合わせてください」

「……承知いたしました」

それ以上、言葉が見つからなかった。陛下の手元の紅茶が、ようやく一口、口元に運ばれた。陛下がカップを置く動作は、いつも、本当に静かだった。

私室を辞して、回廊に出る。廊下の角を曲がる手前で、マルグリットがそっと立っていた。侍女頭の名簿を、もう胸元には抱えていなかった。

「ジゼル様」

マルグリットの声が、いつもより半歩だけ近かった。

「ようやくですね」

それだけだった。

わたくしは頷くこともできず、ただマルグリットの目を見た。四年間、共に王宮の茶会を整えてきたこの人は、わたくしが知っているよりずっと多くのものを、見ていたのだろう。

「マルグリット、わたくしは――」

「お話しになりたい時に、お話しくださいませ」

マルグリットの目元が、ほんの少しだけ緩んだ。それは四年間の中で、一度も見たことのない顔だった。

王宮の西側回廊を、馬車寄せに向けて歩く。

正午前の光が、回廊の柱の影を白い大理石の床に長く落としていた。その光の中を、向こうから、隣国の礼服を纏った長身の人物が歩いてこられた。

ヴァロワール王国の王弟、アルベリク・ヴァロワール殿下だった。

殿下はわたくしと目を合わせなかった。ただ、わたくしの少し後ろを歩いていた従者に、何かを低い声で告げられた。その声の中身は、わたくしには届かなかった。そのまま、殿下は回廊の角を曲がって行かれた。足音は、最後まで控えめだった。

馬車寄せに着いてから、わたくしの後ろを歩いていたマリーが、小さく口を開いた。

「お嬢様、今、隣国の王弟殿下が、従者の方に何か仰っていましたよ」

「何と仰ったの」

「お嬢様の通り道を、空けるように、と」

マリーは自分でも少し驚いているような顔をしていた。

「すれ違う前に、おっしゃっていたんです。だから、あの方、わざわざ柱の影に立たれて、私たちを先に通してくださいました」

わたくしは、回廊の方を振り返った。長い柱の連なりだけが、白い光の中に並んでいた。

二年前、隣国王妃陛下の御即位記念茶会で、わたくしは初めてアルベリク殿下のお顔を遠くから拝見した。けれどあの時、殿下とわたくしが直接、言葉を交わしたことは、なかったと思う。なかった、はずだった。

馬車に乗り込んで、扉を閉める。膝の上に置いた手の甲に、王宮の光がまだ少しだけ残っていた。

オルランド邸に戻ってすぐ、母が応接間で待っておられた。

何も聞かれなかった。ただ、母はわたくしの手を、両手で包んだ。

「陛下は、受理してくださいましたか」

「はい、お母さま」

「そう」

母はそれだけ言って、わたくしの髪をひと撫でなさった。それから、卓の上に置かれていた書状を、わたくしの方へ滑らせた。

「夕刻、王宮から早馬で届きました。レオン殿下から、本日中にお目にかかりたいと」

書状の封蝋は、まだ艶があった。わたくしは、その艶を一度だけ指でなぞった。

「お会いします」

「ジゼル」

「お母さま、わたくし、今日はもう、紅茶を冷ましたくないのです」

母は、わたくしの返事の意味を半分くらい掴んだ顔で、けれど何も問わずに頷いてくださった。

応接間の窓の向こうで、夕方の風が、庭の薔薇の葉を一度だけ揺らした。馬車寄せの方から、車輪の音が近づいてきていた。レオン殿下がいらっしゃる、二十分ほど早い到着だった。