軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

8. 進路相談

秋人を連れて美術室へ向かう。現在三者面談中で授業はないので部活をしている生徒が大半だ。

「こんにちわー」

気の抜けた挨拶を秋人がしながら美術室の扉を開けると、満面笑みの老紳士が振り返った。

「おお、秋人くん。今日はどうしたんだね?」

年明けに美大を受験する予定の学生を見ていたのだろう彼は、ニコリと笑って秋人を迎え入れた。その顔に思わず薫が一歩下がる。

「おや、これは神崎先生も。いらっしゃい。先日はどうも」

「いえ、こちらこそ。岩井教授」

薫が微妙な笑顔で答えると、相手は苦笑を返した。

「もはや教授ではありません。ただの臨時講師です」

岩井教授はおどけた顔でそう嘯くも、実は帝都美術大学からは戻ってきてほしいと矢の催促が送られている立場だ。もっとも、もうずっと断っているのだが。

例の偽岩井教授が勝手に辞表を出してしまったのだが、それは犯罪者のやったことであり、教授自体は誘拐され監禁されていた。

本物の岩井教授は偽物のような胡散臭さがない、温かみのある立派な教育者だったのだが、薫はどうもこの人が苦手だった。

流石に誘拐されておかしな要求を突き付けられた人物と同じ顔、同じ声の相手が平気かというと難しいところである。しかし、教授は気を悪くした風もなく、小さく頷いて、美術準備室の方を指さした。

「何か相談事ですね?あちらでお伺いしましょう」

優しく穏やかな笑顔でそう促した。

美術準備室は先日までは殺風景だったのが一変して、なにやらいろいろな美術品が置いてあったり、生徒の絵が飾られていたりして賑やかになっていた。座り心地のよさそうな椅子が数脚、飴色の大きなテーブルが一つ置いてある。上には誰かの鉛筆描きのスケッチブックが開かれていた。

「ははは、散らかっていて申し訳ない。居心地がよくて入り浸っていてね」

テーブルの上のスケッチブックを閉じる。

「はい、秋人くん。見せてくれてありがとう。素敵な絵だ」

教授が見ていたのは秋人のスケッチブックだったらしい。

「その…教授はこちらで美術の教師を続けられるのですか?」

すっかり岩井教授の巣のようになっている準備室の様子に薫が戸惑いながら尋ねると、彼は笑顔で頷いた。

「まあ、とりあえずは4月までは臨時講師ということになってます。私としてはこのままここで雇ってもらえないかなぁと願っていますがね。帝都美大が煩いんですよ」

トホホと彼は肩を竦めた。

岩井教授は自身が画家として大成している身でもありながら、人に教えたり、予算の計算などもできる稀有な人だった。概ね芸術家というのは一方向に尖っている人が多く、社会通念からはみ出している部分が多いほど才能が際立っている。彼は、その珍しい例外なのだ。

才能もあり人格もよく社会常識を心得ている年長者という極めて貴重な人材を、なんとか再雇用しようと帝都美大も必死である。毎日毎日准教授や学科長からの泣きのメールが入ってきていた。

「あれだけ大きな大学の教授やら学科長やらになると、権力闘争や金やなんだかんだと煩わしいことこの上なくてね。ここでのんびり生徒の才能を見ながら、余生を送るのは悪くないなぁと思っておるんですがねぇ」

そういっためんどくさい世のしがらみから一瞬でも離れることが出来た機会を、岩井教授は逃したくなかった。それに今は目の前の才能を伸ばす事に夢中である。

「ここのところ忙しかったからあんまり部活出られなくてすいません」

秋人が頭を下げると、教授はいやいやと首を振った。

「大変だっただろうに。よかったね。何事もなく済んで」

「はい」

教授は秋人が何者か知っている。何しろ薫と秋人は教授を助け出した張本人なのだ。ダンジョンから救い出す過程で教授自身は衰弱はしていたが、意識はあった。なので、二人が何者かということもその時知った。

先日の薫が週刊誌に書き立てられた時も、ひどく心配していたのだ。その後、自分の元教え子の不始末を聞いて、自ら臨時講師に名乗り出たという経緯だった。

「いやあ、ここは天国みたいに最高です」

教授は電気ケトルでお湯をわかして紅茶を淹れてくれた。二人はありがたくいただくこととなった。

「ところで、ご相談が?」

教授が水を向けてくれたので、薫は進路についての相談をすることにした。

「実は秋人の進路のことで。もしも、大学に進む場合はおそらく美大も候補に入ってくるでしょうから、どういう大学なのかとかどういう準備が必要なのかなどもしよろしければご教授願えないかと」

薫がそう言うと秋人は複雑な顔をしていた。

「秋人くんは、美大に行きたいのかね?」

「うーん、わかりません」

秋人は正直に答えた。

「大学に行くかも分からないし、美大じゃないかもです」

「そうだね」

うんうんと教授が頷く。

「神崎先生はどうしてその話を聞きにこられたのですか?」

「はい」

薫は一つ頷いた。もちろん、彼は秋人が積極的に美大を進路に選んでいるわけではない事を知っている。

「私は基本的に秋人が行きたい方向を全力でバックアップするつもりです。しかし、それと情報収集をしない、準備をしないは必ずしも一致しません。他の大学や専門学校はまだ私の守備範囲内にはあると思うのですが、芸術系だけはさっぱり管轄外なので、詳しい方にお伺いしておいた方がいいかと思いまして」

薫の言葉に秋人はぽかんと口を開いた。

「薫、流石にそこまで世話になるわけにはいかないよ。大学生になったら僕成人だし」

慌てる秋人に薫はきゅっと眉を寄せた。

「何言ってるんだい。別に成人過ぎだって俺が秋人の家族であることは変わりないわけだから、色々準備するのは当たり前だろ」

心外という表情で薫が言う。二人のやりとりを教授は笑って聞いていた。

「ふむふむ。先生の言い分もごもっとも。ということは、先生は秋人くんの心得というより美大受験の親の心得を尋ねに来られたということでよろしいかな?」

「はい」

薫がためらいもなく頷く。秋人は少しだけ目頭が熱くなった。最近涙腺が緩みすぎではないかと思う。

「それじゃあ、秋人くんはあっちで続きを描いておいで。私は神崎先生と話をしよう」

教授は有無を言わさず秋人を準備室から放出した。