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【電子書籍化】「結婚することになりました」と、好きな男に報告しましたところ

作者: ゼン

本文

(この背中を見ることができるのは、あと何回かしら? それとも今日が最後?)

サラ・マルティネスは、シャツを羽織る広い背中を眺めながら、そんなことを考えていた。

袖を通す一瞬、腕の筋肉が際立ち、その力強さに思わず目を奪われる。鍛え抜かれた背筋が動くたびに、肩甲骨がわずかに浮かび、滑らかな陰影を描いていた。

さすがは騎士。無駄のない、研ぎ澄まされた体つきだ。

彼の動きを追いながら、サラは枕元に散る自分の髪を指先で弄ぶ。

(別れ話を切り出すのなら、『今』が最適ですよ?)

肌を重ね、熱が冷め、心が満たされる幸福な余韻の中。

サラに痛手を負わせたいのなら、今が最も効果的だ。

そう、サラが確実に傷つくであろう、今が。

彼とサラが出会ったのは、王宮内に併設されている図書館だった。

天井窓から降り注ぐ光が梯子のように差し込み、舞い上がった埃をきらきらと照らしていた。

それを見て、今日は何かいいことがあるかもしれない、と思ったのを覚えている。

抑えられた人々の声。ページをめくる音。紙とインクの匂い。『知』が眠る空間の一角で、サラは目当ての書架にそっと手を伸ばし、指先が本の背に触れかけた。

……と、その瞬間。すっと差し込まれた別の手が、サラよりもわずかに早くそれを取った。

あっ、と声が重なり、低い声に驚いて顔を上げると、男は軽く眉を寄せ、本を差し出してきた。

昔、故郷の祭りで母にせがんで買ってもらった飴のような琥珀色の瞳に、青みがかった黒髪を持つ、端正な顔の騎士。

赤いマントと襟の黒狼の刺繍が、彼が第一騎士団の一員であることを示している。

その男の名前をサラは知っていた。

──ジスラン・ファルマン。

彼はメイドたちの間で、たびたび『素敵な騎士様』として挙がる常連だった。

だけど、それだけだった。

『どうぞ、騎士様がお読みください』

『いや、しかし──』

『私は何度も読みましたので』

会話は、これだけ。

サラはすぐにその場を離れた。

しかし、その日を境に、サラは彼と何度も顔を合わせることになる。

廊下を曲がった先。厨房に続く裏通路。中庭のベンチ。そんな『偶然の出会い』を何度も重ね、やがて言葉を交わし、そして二人で食事をする関係を経て、恋人同士になったのである。

けれど、サラは気づいていた。

ジスランとの『偶然』が謀られたものということを──

それは図書館の出会いの翌日に判明していた。

『ミシェルの義姉のサラって女は悪女なんだ!』

そんな声が耳に入ったのは、逃げてしまった王女の飼い猫を探して裏庭を歩いていた時だった。

茂みの陰に隠れながら、息をひそめて耳をすませる。

盗み聞きの趣味はないが、ふと聞こえた自分の名に足を止めざるをえない。

『ミシェルとその母君を虐め、領地ではやりたい放題。挙句、ミシェルの婚約者を誘惑して奪おうとしたんだ! それがきっかけで子爵家を追い出されてここで働いているって話さ!』

『……へえ』

唾を飛ばして怒鳴るように話す男と、興味なさげな男がそこにいた。

どちらも、赤いマント。第一騎士団所属の騎士である。

『だが、あの女は王宮での評判がいいだろ?』

『ああ、一年目から王女付きに抜擢されたメイドは五年ぶりらしいな』

『ミシェルはその評判が耳に入ってきたことで昔のことを思い出してしまったんだ。トラウマさ。可哀想に、ミシェルは心労で子を流してしまったんだ。……彼女からもらった手紙の文字は滲んでいた』

虐められていたのはサラなのに。

婚約者を誘惑したのはミシェルなのに。

すごい捏造だ。

……しかも、ミシェルは、熱弁男と文通中?

(それって……浮気、よね?)

──母が病でこの世を去ったのは、サラがまだ幼い頃のことだった。

父はそれから二か月後に新しい妻を迎えた。

若く美しい後妻との間に生まれたのが、ミシェルだった。

それから屋敷での暮らしは一変した。

ミシェルが転べば、突き飛ばしたと責められた。

ミシェルの服が汚れれば、汚したのはサラだと言われた。

ミシェルが涙を流せば、その理由を作ったと叱責された。

義妹(ミシェル) がどんな嘘を吐こうとも、それを否定したところで結果は変わらなかった。

継母はいつも何かしらの理由を作ってサラに『躾』をした。

鞭を手に取り、にいっ……と笑う継母の顔は、今もはっきりと思い出せる。

父は何も言わなかった。それどころか母と同じ色を持つサラを視界に入れなくなった。

家長がそんな態度を取るのだから、使用人たちも自然とそれに倣う。

継母譲りの美貌に、愛らしい笑顔。屋敷の誰もが、義妹を『可愛いミシェルお嬢様』と呼び、サラを『お嬢様』と呼ぶ人間は一人もいなくなった。

サラの婚約者であるジェロームも、例外ではなかった。

『すまない、サラ。……僕は、ミシェルを愛してしまったんだ!』

ジェロームは眉を寄せ、困ったような、悦に入ったかのような、どっちつかずな表情で宣った。

酒以外の何かに酔っているみたい。サラはそう思った。

その隣ではミシェルが勝ち誇った顔で満足そうに笑っていた。

『ごめんなさい、お義姉様。わたし、ジェローム様の子供を身籠ってしまったの』

その数日後、継母から『ミシェルと、お腹の子に害をなされてはたまらないわ』と、屋敷を追い出された。

後に、妊娠は虚言だったと分かるも、この時のサラには与り知らぬことである。

サラの十八歳の誕生日の出来事だった。

途方にくれているところ、王宮にて大量の使用人が募集されていると知って飛びつき、王宮メイド三年目を迎えた今に至る──

(それにしても……私をマルティネス子爵家から追い出すことに成功したのに、まだ満足できないのね)

そんなことを思いながら、二人の騎士の話の盗み聞きを続行する。

『……それで?』

『? それで、って……なんだよっ、ファルマンは可哀想だと思わないのか!?』

(ファルマン……って、昨日の騎士様……?)

『不憫だとは思うがな。前置きが長すぎて何が言いたいのか分からん』

(誰も彼もが、あの子の味方なのね)

『頼む、ファルマン! あの女を夢中にさせて盛大に振って、吠え面かかせてやってくれ!』

(……あらあら)

熱弁男の叫びにサラはただただ呆れた。

一方の言い分を鵜呑みにするなんて、それでも全騎士団の頂点に君臨する第一騎士団所属なのか? と。

そして、その場からそっと離れた。

あの時のジスランは熱弁男の話を適当に聞き流していた、と思っていたのだが、結局はこの話を断らなかったのだろう。

サラとこのような関係にあるのがその証拠だ。

つまり、サラは『偶然の出会い』の連続が、偶然ではないことを知っていたのである。

ジスランはサラを夢中にさせ、最高潮のところで振るつもりなのだ。劇的に、残酷に。

だからといって、サラは悲観していたわけではない。

……まあ、いつ別れ話を切り出されるのかと思うと、胃のあたりが少し重くなったけれど、彼の策略を知った上でサラは彼との時間をめいっぱい楽しんだ。

食事の誘いも、軽やかに交わされる会話も。触れ合う時間も。

どんなに心地よくても、いつか終わる。幸せは自分には続かないものだと、ずっと昔から知っている。

継母も義妹も、何度もそう言った。『お前が幸せになれるはずがない』と。それは呪いのようにこびりつき、サラの心を守る鎧にもなっている。

だから、終わりを恐れてはいない。

(そう、恐れてなんて……)

しかし、彼と過ごす時間が増えるほど、心は揺らいでいった。

気づけば、ジスランの言葉に笑い、触れられれば温もりを求めるようになっている。

告白された時は、胸が高鳴った。

恋人として過ごす時間は、心地よく、先ほどの触れ合いには幸福を感じ『次』を望んでいる。

つまり、サラは彼に夢中になってしまっていた。

だから、彼が別れを切り出すなら今なのだろうと構えていた。幸せの絶頂である今だ、と。

なのに。

「まだ頃合いではないの?」

小さく呟いた言葉は、音にならずに消える。

「──サラ」

不意に呼ばれ、サラが顔を上げると、額に少しかさついている唇が落とされた。

「名残惜しいけど、もう行くよ」

「はい、お仕事頑張ってくださいませ」

扉の閉まる音が、静かに響く。

サラはゆっくりと寝台に身を沈め、思う。

(別れ話をされるのは、いつになるのかしら?)

──なんて、つい十日前まで考えていたのに。

実際に『別れ話をする側』になってしまうとは、なんとも不思議な話である。

朝、自分宛に届けられた一通の手紙。送り主は父。

曰く、『結婚相手を決めたので、職を辞して帰って来るように』とのことだった。

同封されていた釣書を見れば、「そうよねえ」と言わずにはいられない男。

(分かっていたわ……)

あの父が。あの継母が。自分に良縁を持ってくるはずがない。

はあ、と大きな溜め息が漏れる。

手紙を読んだ瞬間から、サラが王宮を去る未来は決まった。

それはすなわち、ジスランとの関係が終わるということである。

(いつか来るはずだった『別れ話』を、まさか私の口から言うことになるなんて)

「結婚することになりました。二週間後、仕事を辞め、実家に戻ります」

サラは淡々と告げた。

前日、泣いたおかげで、『淡々と』と表現するにふさわしい口調で、「今日は一日中一緒にいられるね」と微笑んで、サラの髪を撫でる彼に淡々と告げることができた。

その瞬間、ジスランの顔が固まった。

「……は?」

笑顔を張り付かせたままの彼の声は、いつになく低い。

「結婚することに──」

「二回も言わなくていい。聞こえなかったわけじゃない」

遮るように告げた彼の顔は、先ほどまでの穏やかさとは打って変わり、どこか張り詰めていた。目だけが、じっとこちらを見据えている。

「……あの?」

「ねえ、どうして?」

静かな声が、肌を撫でる。

「俺がいるのに、誰と結婚すると言うんだ?」

まるで理解できない、とでも言いたげに。

「え? だって、ジスラン様は……」

言いかけて、サラは口ごもる。

「何? 言って?」

「あの……」

「うん」

ゆっくりと促され、サラは言葉を継ぐ。

「……実は、以前、裏庭でジスラン様と同僚の方が話している場面に居合わせていたのです」

「え?」

「盗み聞きなんてして申し訳ありません。同僚の方がジスラン様に『あの女を夢中にさせて振ってやれ』と頼んでいるのを聞いてしまいまして……。ジスラン様は義妹のことを『不憫だ』と仰っていましたよね? ですので──」

そういうことかと、と続けようとしたが、サラにはできなかった。

それは、ジスランが勢いよく起き上がり、寝台から飛び降りて床の上で平伏したからである。

「誤解だ!」

額を床につけたまま、彼の声が響く。

サラは目を瞬かせる。

「ポール──同僚の話は、その場で断った!」

顔を上げた彼の目は、切実なものだった。

「俺は最初から君を弄ぶつもりなんてなかった! 『そんなくだらないことに関わる気はない』と、きっぱり断った。……ただ、君のことが気になっていたのは事実だ。でも、それはポールの依頼とは関係なく、純粋に君に惹かれていたからだ。不憫だと思ったのは君のことだ。マルティネス子爵家の話は有名だったから。ポールや、あの義妹の話を信じるのは頭の悪い奴らだけで、大半の人間は君に同情的なんだ。だから、俺もあの時思ったんだ、『こんな風に家族に人生を狂わされるなんて不憫だ』って」

「……私を、ですか?」

「そうだ。あの話をポールから聞いた時も『何言ってんだ?』くらいにしか思ってなかった。だけど、それとは別に俺は君に近づきたかった。だから、偶然を装って接触した」

「では、図書館での出会いは?」

「偶然だ。……実はあれで一目惚れしたんだ。だから、好きになったのも、本当だし、告白も嘘じゃない。……ていうか、会うたびに言ってた言葉って……信じてもらえてなかったってこと? いや、待って? え? マジで?」

(リップサービスがすごいわ、と思っていたことは言わないほうがいいわよね?)

「……」

──沈黙は肯定である。

「サラ、俺は君を愛してる」

焦ったようなジスランの言葉に、サラは静かに瞬きをする。

「あらまあ」

思わず、そんな言葉がこぼれた。

「だから、俺以外の男と結婚するなんて言わないでくれ!」

切実な訴えが飛んでくる。

「でも、もう顔合わせの日取りも決まっていますし、継母がメイド長に私を辞めさせるように伝えてしまった後ですし……」

「大丈夫! 俺が何とかする!」

「『何とか』って……? そんなこと、できるものです?」

サラはここでようやく身を起こし、こてんと首を傾げる。今の今まで寝台に横になったまま話していたのだ。

「できる! だから! 俺と結婚してください!」

ゴンッ!!!

勢いよく頭を床にぶつける音が響く。

「まあまあっ、顔を上げてくださいな。……ああ、ほら、赤くなっていますよ?」

「……サラ……」

苦笑しながらジスランの横に並び、顔を覗き込むと、まるで雨に濡れた子犬のような目をして見つめてきた。

「あらあら」

これが本物のワンちゃんなら、サラは迷わず抱えて連れ帰っていただろう。

そして、暖かい部屋で水で薄めた山羊乳を与え、眠るまで背を撫でるのだ。

(それにしても……飄々とした方だと思っていたのに……こんな──)

サラの肩がふっと揺れる。

「うふふ……っ」

思わず笑いがこぼれた。

目の前の男が、愛おしくてたまらない。

「では『何とか』してくださいな、未来の旦那様」

「うん! 何とかする!」

──そして数日後。 ジスランは、本当に『何とか』してしまった。

まず彼が向かったのは、サラの上司であるメイド長のもとだった。サラを伴い、話をつけに行ったのである。

「サラを辞めさせないでください」

開口一番、そう言い放ったジスランは、立て板に水のごとく事情を説明し始めた。

……いや、説明というより、『サラの事情』を盛りに盛ったと言ったほうが正しい。

「彼女はずっと苦しんできたんです。幼い頃から家族に虐げられ、ついには婚約者まで奪われました。それでも耐えて、ここで必死に働いていたんです。それなのに、親が選んだのは彼女より二回りも上の男です。しかもその男は金貸しで貴族でもなんでもない男。……やっと得た平穏を身勝手な都合で奪われるなんて、あんまりです」

(あらまあ)

つらつらと語られる、壮絶なサラの過去。語られる内容は事実だったが、そこに込められる情熱は実にドラマティックだ。

実際のサラは、彼が言うほど心に傷を負っていない。

しかし、物理的な傷は残っている。サラのふくらはぎや背には、いまだに鞭の痕が残っているのだ。

それを聞いたメイド長は、ぎゅっと拳を握りしめ、はらはらと涙を流した。

どうやら、メイド長にはサラと同じ年頃の娘がいるらしい。

厳しいことで有名なメイド長が……? とこっそり思ったことは秘密である。

こうして、退職の話はあっさりと消えた。

次は結婚の問題だったが、こちらの解決も驚くほど早かった。

実は、ジスランは三か月前の遠征で武功を挙げていた。長らく追っていた組織の黒幕を捕らえたのだ。

その表彰式は二週間後に予定されていたそうで、当然、褒美が与えられることになっていたのだが、ジスランはそれを前倒しにするよう直談判した。

誰に、って?

次代国王であらせられる王太子に、である。

サラは、頭を抱えた。

が、どうやら王太子とジスランは学生時代からの友人らしく、話はすんなり通った。

その結果、サラ(との婚姻)が、ジスランの褒賞となった。

しかし。

「子爵令嬢との結婚の許しが褒賞ってのは……」

正統派イケメンの王太子のアルカイックスマイルが崩れる。

「サラは俺の宝だ」

真顔のジスラン。

「うう~~~ん? ……何かもう一つ考えておくから表彰式の時には受け取ってね」

「分かった」

──当然のように、もう一つ別の褒賞が用意されることになった。

無理もない。結婚しても大して旨味のない子爵家の、虐げられていた娘など、王国としても大きな褒美にはならない。

けれど、この話は思わぬ方向に転がっていった。

サラが仕えている王女が、この話に食いついたのだ。

「なんてこと……! ジスランとサラの関係、とっっっても萌え……じゃなくて、私付きのメイドを不当な理由で辞めさせるなんて、見過ごせないわね」

そう目を輝かせ、なんと後ろ盾を申し出たのである── 王女は、恋愛小説収集家(男女カプ厨)だった。

(そんな理由で姫様が動いてしまっていいのかしら……?)

サラが遠い目をしているその横で、それをいいことにジスランはさらに動く。

王女の後ろ盾を得た彼は、サラの実家──マルティネス子爵家の調査を進言した。

「前妻の娘を虐げるような家族が、清廉潔白であるわけがない。……何もなくとも、少し調べれば埃の一つや二つは出るはずだ」

悪い顔でそんなことを言っていたジスランのその読みは正しく、マルティネス子爵家は真っ黒だった。

調べが入ると、マルティネス子爵家はすでに破綻寸前であることが判明した。

継母と義妹の浪費によって財政は火の車。サラの父である子爵は、資金繰りのために領民への重税を課し、さらには王室に納めるべき税を誤魔化していた。

国の監査では、次々と帳簿の不備が見つかり、側近たちも次第に口を割った。

隠しきれなくなった子爵は、最終的に罪を認めるしかなかった。

そして、『国への背信行為』とされ、子爵は爵位を剥奪され強制労働施設送りとなった。

継母とミシェルも例外ではない。罪状は『虐待』と『虚偽報告』と『詐欺』。

さらに、調査の過程で決定的な事実が発覚した。

義妹・ミシェルの本当の父親は、子爵ではなかったのだ。継母は当初からそれを隠し、正当な後継者のように振る舞わせていたのである。

財産を没収され、行き場をなくした二人には、王女の慈悲(という名の趣味)によって行き先が決められた。

極寒の地にある労働修道院へ。

そこは罪を犯した貴族の娘や、問題を起こした者が送り込まれる場所だった。

サラにお咎めはなかった。

そもそもサラ自身に罪はない。

調査の結果、サラが家族の犯罪に関与していないことは明白だった。子爵家にいた頃のサラの立場は、実質的に使用人以下であり、家の財政にも、父の経済活動にも一切関与できなかったのだから。

こうして、サラは無傷のままこの騒動を見届けることになった。

だが、それで終わりではなかった。この時、サラは思いがけない事実を知った。

それは、ジェロームとミシェルが結婚して四か月で別居になったことである。理由はミシェルの浮気。

ジェロームはすぐに離婚を決めたが、ミシェルは泣いて縋ったらしい。

しかし、彼女の浮気相手もまた別の貴族令息であり、既にそちらの家にも出入りしていたことが判明。

もはや言い訳の余地もなく、彼女は正式に離婚され、実家に戻ったという。

家に興味が無さ過ぎて今まで知らなかったサラである。

加えてミシェルはこれまでに三度の堕胎をしていたというではないか。

サラが実家を追われた際に言われた『腹に子がいる』という話は、虚言ではなかったのだ。しかも、その子の父親はジェロームではなく、別の男。そして、それが三度も繰り返された。

その後、ジェロームから一通の手紙が届いた。一度、面会したいとか、会って謝りたいとか、そんな内容だった。

(別に会うくらい、いいかしら──)

手紙を手にしたサラがふと顔を上げると、すぐそばでジスランがじっとこちらを見ていた。

雨に濡れた子犬のような目で。「行かないで」と言い出しそうな、そんな顔で。

(なんなのかしら、この可愛い生き物は)

サラは手紙を破った。びりっびりに。

そして、以後、ジェロームと会うことはなかった。

ちなみに熱弁男ことポールとかいう男は、いつの間にか騎士団から姿を消していたそうだ。

どうやら、王宮内での問題発言が積もり積もっていたらしく、上官から『騎士に向いていない』と判断されたとか。

◇◇◇

「──あのような大々的な式、私にはもったいないと言いましたのに……姫様ったら……」

サラは寝台の上で、心の底からの溜め息をついた。

ドレスの重さがまだ肩に残っているし、華やかな髪飾りを外した今でも頭が重い気がする。

「いいじゃないか。王女様のご厚意だ。楽しまなくちゃ、もったいない」

ジスランは、にこにこ顔でシャツのボタンを外している。

「それにあのドレスはとても似合っていた。……教会で見た君は天使みたいだった。いや、女神か……。いいや、俺の嫁だな」

絶賛の嵐である。

「まあ、俺は今の格好が一番好きなんだけどね?」

今の格好とはジスランの趣味が全開になった煽情的な夜着姿である。

「仕方のない旦那様ですわね」

軽く睨んでみたが、彼にはまったく効いていない。

あの『お別れ事件』(※ジスラン命名)から一年。

サラの姓が『ファルマン』となり、本日めでたく結婚式となった。

(……疲れたわ)

式がとんでもなく盛大すぎたのが疲労の原因だ。

恐れ多くも王女プロデュースの結婚式は最初から最後まで規格外だった。

ドレスは、まさかの王国宝物庫から引っ張り出された伝説級。

王女のこだわりのベール。極上のレース。刺繍は職人の手縫い。スカートには信じられないほどの布が使われ、歩くたびに光を反射してまるで星空を纏っているかのようだった。

その結果、王族でもないのに戴冠式レベルの豪華絢爛な式が出来上がってしまったのである。

参列者に王妃がいた気がしたが、そんなわけがない。……そうだ、そんなことはありえない。サラは自分に言い聞かせる。

そういえば、来月、ジスランとサラをモデルにした小説が発売されるのだが……憂うつだ。

こちらも、そんなわけがないと断言したいところだが、これは本当の話である。

王女が何やら楽しそうに執筆家や画家たちとアレコレしていたのを、サラは見た。

(せめて、あのタイトルは変えてほしいわ。……変えてほしいです、と言ったら、姫様は変えてくれるかしら?)

そんなことを考えていたサラだったが、夜はまだ終わっていない。

これからが(ジスラン曰くの)一大イベントの初夜本番である。

「サラ」

抱き寄せられたサラは、夫となった男の首に手を回し目を閉じた。

──この夜。傷の残る体を「綺麗だ」と言うジスランの言葉を、サラは初めて信じることができた。

「はあ、しあわせ……」

「はいはい、嬉しいのは分かりましたから」

膝に乗ったジスランの頭をよしよし撫でながら、サラはふっと笑う。

「ん~」と喉を鳴らして甘えてくる彼は完全にワンちゃんである。

「ねえ、サラ」

「はい、なんですか?」

「けっこんしよ……」

「あらあら、もうしてますよ。私、本日、ジスラン様に妻にしていただきました」

「そうだった! ……ん~! しあわせすぎる!」

先程一大イベントが終わってからこんな感じになってしまったジスランは、今や正気の片鱗すらない。

しかし、そんな旦那様を可愛いと思うサラも大概だ。

でも可愛いものは、可愛いのだ。

今のところ、サラの中で世界で一番可愛いのはジスランなのである。

「私も幸せです、うふふ」

【完】