婚約式の誓約書から私の名前を消したのですね。では、王宮記録官として正式に無効処理いたします
作者: Sophia Rose
本文
婚約式の朝、誓約書から私の名前が消えていた。
王宮東棟、白百合の間。
歴代の王族と高位貴族が婚約の誓いを交わしてきた由緒ある広間で、私は銀盆に載せられた誓約書を見下ろしていた。
白い羊皮紙。
金の縁取り。
王宮法務院の透かし。
そして、すでに書き込まれた二つの名。
新郎欄。
レイモンド・クラウス・エルディア公爵令息。
新婦欄。
リリア・フォルン子爵令嬢。
私の名前は、どこにもなかった。
エレノア・セシル・アストレア侯爵令嬢。
本来なら、そこに記されているはずの名だ。
三年前、両家と王宮の承認を得て、私はレイモンド様の婚約者となった。
そして今日、その婚約を正式な誓約として王宮記録に残すはずだった。
にもかかわらず、誓約書の新婦欄には、私ではなく彼の幼なじみの名があった。
「……これは、どういうことでしょうか」
私が静かに尋ねると、父がわずかに眉をひそめた。
アストレア侯爵である父は、私を叱るときと同じ顔をしていた。
「声が大きい、エレノア。今日は祝いの席だ」
「祝いの席であるからこそ、確認しております。こちらの誓約書に、私の名前がありません」
「そのことなら説明する」
父の隣に立っていたレイモンド様が、面倒そうにため息をついた。
淡い金髪に青い瞳。
社交界では美しい公爵令息として名高い方だ。
三年前、初めてお会いしたとき、私はこの方と共に家を支えていくのだと思っていた。
けれど今、彼の腕には淡い桃色のドレスをまとったリリア様が寄り添っている。
病弱だと聞かされてきた幼なじみ。
レイモンド様が何度も私との約束を破り、彼女の見舞いへ向かった相手。
「リリアは身体が弱い。今日も本当は立っているだけでつらいんだ」
「それと、誓約書に私の名前がないことに、どのような関係が?」
「だから、リリアに安心を与えてやりたい」
あまりに自然な口調だった。
まるで、私が理解して当然だと言わんばかりに。
「今日の式は予定通り進める。ただし、誓約書上の名はリリアにする。お前は形式上、証人として控えていればいい」
「証人」
「ああ。お前は侯爵令嬢だ。場を乱すことの愚かさは分かるだろう?」
リリア様が不安そうに私を見上げた。
「エレノア様、ごめんなさい。私、レイモンドがいないと不安で……。でも、あなたから彼を奪うつもりなんてないんです。ただ、形だけでも……」
「形だけ」
「はい。私は長く生きられないかもしれません。だから、せめて一度だけ、レイモンドの隣に立ちたくて」
彼女の声は震えていた。
周囲の親族たちは同情の眼差しを向けている。
誰も、私を見ていなかった。
泣くべきはリリア様で、我慢すべきは私。
この三年間で、何度も繰り返された構図だった。
「式が終われば、あとで記録は直せばいい」
父が低く言った。
「王宮には我が侯爵家からも寄付をしている。多少の訂正など、問題にはならん」
「訂正、ですか」
「そうだ。今日だけは穏便に済ませろ。レイモンド殿も、公爵家も、それを望んでいる」
「お父様も、ですか」
「家のためだ」
その言葉を聞いて、私はようやく得心した。
私の名が消されたのは、今日この場で突然起きたことではない。
父も、公爵家も、レイモンド様も、事前に知っていたのだ。
そして私だけを、この朝まで知らされなかった。
「エレノア」
レイモンド様が苛立ったように言った。
「お前は昔から融通が利かない。書類だの規則だの記録だの、そんなものにばかりこだわる。今日くらい、リリアの気持ちを考えてやれ」
「私は、何度も考えてまいりました」
私は顔を上げた。
「お見舞いを理由に約束を破られた日も。王宮の茶会で私の席がリリア様の隣に移されていた日も。あなたが私への贈り物をリリア様に渡していたと知った日も。私はいつも、リリア様のお身体を考えるようにと言われてまいりました」
「だったら今日もそうしろ」
「いいえ」
広間の空気が止まった。
「今日だけは、そうするわけにはまいりません」
父の顔が険しくなる。
「エレノア」
「お父様。私は本日、アストレア侯爵令嬢としてこの場に来たのではありません」
私は左手の手袋を外した。
薬指には、婚約指輪ではなく、銀の印章指輪がある。
王冠を抱く羽ペン。
王宮記録院の紋章。
それを見た瞬間、白百合の間の入口付近に控えていた王宮職員の数名が、はっと姿勢を正した。
「私は王宮記録院第三室所属、正記録官エレノア・セシル・アストレアとして、この婚約式の記録監督を命じられております」
レイモンド様が目を見開いた。
「何を言っている」
「三か月前、私は王宮記録官の任官試験に合格いたしました。本日より、王宮儀礼における誓約書、証人署名、家門記録の確認権限を有しております」
「そんな話、聞いていないぞ」
「申し上げておりませんので」
「婚約者に黙って官職に就いたのか!」
「婚約者に何度手紙を送っても、病弱な幼なじみのお見舞いでお忙しかったようでしたから」
リリア様がびくりと肩を震わせた。
私は銀盆の上の誓約書を手に取った。
筆跡、印影、署名欄、証人欄。
すべてを確認する。
「この誓約書は、王宮法務院の正式用紙を用いております。新郎欄にはレイモンド様の署名。新婦欄にはリリア様の署名。証人欄にはエルディア公爵家、アストレア侯爵家、フォルン子爵家の署名がございます」
「だから何だ」
「本来、王宮誓約書は、事前に承認された婚約者同士の名のみ記載可能です。事前申請と異なる人物名を記入した場合、婚約誓約は無効。さらに、王宮記録への虚偽申請に該当いたします」
父が顔色を変えた。
「待て、エレノア。これは身内の事情だ」
「王宮用紙に記名し、王宮儀礼の場に提出された時点で、身内の事情ではございません」
「あとで直すと言っているだろう!」
「王宮誓約書は、後日訂正を前提として偽名を記入することを認めておりません」
「偽名ではない。リリア嬢は実在する」
「しかし、本日の王宮婚約式における新婦として承認された人物ではありません」
私は誓約書の右上を指した。
「こちらの受付番号をご覧ください。事前申請の番号は、アストレア侯爵令嬢エレノアとエルディア公爵令息レイモンドの婚約誓約に紐づいております。にもかかわらず、記載名はリリア・フォルン子爵令嬢。これは記録不一致です」
レイモンド様が苛立ちを隠さずに言った。
「細かいことを。お前は本当に可愛げがない」
「記録官に可愛げは不要です」
「僕はリリアを安心させたかっただけだ!」
「では、王宮記録を私情で書き換えようとしたということでよろしいですね」
「言い方が悪意に満ちている!」
「事実を記録しております」
リリア様がとうとう涙をこぼした。
「エレノア様、ひどいです……。私はただ、少しだけ夢を見たかっただけなのに」
「夢を見る場所を間違えられましたね」
「え……」
「王宮記録は、夢を書く紙ではありません」
その瞬間、広間の扉が開いた。
入ってきたのは、深緑の礼服をまとった壮年の男性だった。
胸には王宮法務院長の徽章。
その後ろには、王宮監査官が二名控えている。
「エレノア記録官」
「はい、法務院長閣下」
私は一礼した。
「事前の報告通りか」
「はい。誓約書に申請外の人物名が記載され、三家の署名が添えられております」
「証拠保全を」
「承知いたしました」
私は印章指輪を外し、赤い記録蝋の上に押した。
王宮記録官の封印。
これで、この誓約書は誰にも差し替えられない。
「な、なぜ法務院長がここに……」
父の声が震えていた。
法務院長は冷ややかに答えた。
「本日の婚約式について、記録改竄の可能性があると事前申告があった」
「事前申告?」
レイモンド様が私を睨んだ。
「お前、知っていたのか」
「昨日の夜、王宮記録院に提出された控えを確認しました」
「なら、なぜ昨日のうちに止めなかった!」
「本当に誤記であれば、今朝までに訂正申請が出るはずでした。しかし、出ませんでした」
「僕を試したのか!」
「いいえ。私は手続きを待っただけです」
昨日の夜、記録院で控えを見たとき、私は一瞬だけ息が止まった。
けれど、泣かなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、規定通りに異常報告書を書いた。
これが単なる事務担当者の誤記である可能性もあった。
だから私は、今朝の本書提出まで待った。
しかし彼らは訂正しなかった。
むしろ、私に黙って式を進めようとした。
ならば、これは誤記ではない。
意図的な記録改竄未遂だ。
「エレノア、やめなさい」
父が一歩近づいてきた。
「今ならまだ身内の不手際で済ませられる。お前が大ごとにしなければ、家も公爵家も傷つかずに済む」
「傷ついたのは、記録の信用です」
「家族を売るつもりか!」
「家族が私の名を売ったのでしょう」
父の足が止まった。
「三年前から、私の名前で届いた招待状にリリア様を同席させましたね。私宛ての王宮茶会の席を、リリア様に譲るよう命じましたね。アストレア侯爵家の寄付名簿に、私が作成した収支報告を妹の教育成果として提出しましたね」
「今その話は関係ない」
「ございます」
私は懐から数枚の写しを取り出した。
「すべて、王宮記録に残っております」
父の顔から血の気が引いた。
レイモンド様も息を呑む。
「エレノア……お前、まさか」
「王宮記録院に勤めるためには、過去五年分の自家関連記録も精査されます。そこで気づきました。私の名は、都合のよいときだけ利用され、不都合なときだけ消されていたのだと」
私は父を見た。
「お父様。私の名は、家の飾りではありません」
次にレイモンド様を見る。
「レイモンド様。婚約者とは、病弱な幼なじみを慰めるための予備席ではありません」
そして、リリア様を見る。
「リリア様。あなたの夢のために、他人の名前を使う権利はございません」
リリア様は泣き崩れた。
「私、知らなかったんです……。レイモンドが、全部大丈夫だって……」
「知らなかったことと、署名したことは別です」
「でも、私は身体が弱くて……」
「署名できる程度には、お元気だったようです」
リリア様の涙が止まった。
法務院長が監査官に合図した。
監査官の一人が誓約書を確認し、もう一人が三家の証人署名を写し取る。
「本婚約式は、王宮法務院の権限により即時停止する」
法務院長の声が白百合の間に響いた。
「レイモンド・クラウス・エルディア。リリア・フォルン。アストレア侯爵。ならびに関係証人は、王宮記録虚偽申請の疑いにより聴取を受けてもらう」
「そんな馬鹿な!」
レイモンド様が叫んだ。
「たかが婚約式だぞ!」
「王宮での婚約式は、家門間の契約であり、相続、持参金、爵位継承、王宮席次に影響する正式記録だ」
法務院長は容赦なく告げた。
「たかが、ではない」
レイモンド様は悔しげに唇を噛み、それから私を見た。
「エレノア、君は本当にこれでいいのか。僕との婚約がなくなるんだぞ」
「はい」
即答すると、彼は傷ついたような顔をした。
「三年だ。三年も婚約していたんだぞ。情はないのか」
「ございました」
私は静かに答えた。
「ですが、その情を何度も踏みつけたのは、あなたです」
「僕はリリアを放っておけなかっただけだ」
「私を放っておいた理由にはなりません」
彼は言葉に詰まった。
「では、こうしましょう」
私は封印済みの誓約書を指した。
「レイモンド様はリリア様と婚約なさればよろしいのです。私の名を使わず、私の席を奪わず、私の記録を汚さず、ご自身の名と責任で」
「それは……」
レイモンド様がリリア様を見た。
リリア様も彼を見返した。
その一瞬で、答えは分かった。
彼は、リリア様を愛していたのではない。
病弱な彼女を守る優しい自分が好きだったのだ。
正式に婚約し、子爵家の娘を公爵家に迎え、社交界の批判を浴び、相続や持参金の問題を背負う覚悟など、最初からなかった。
「リリアは身体が弱いから、公爵家の務めは……」
「できないと?」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味でしょう」
「君なら分かるだろう、エレノア。公爵家には公爵家の責任がある。だから、妻には君のような侯爵令嬢が必要で……」
「そして愛情ごっこにはリリア様が必要だったのですね」
広間に、誰かが息を呑む音が響いた。
レイモンド様の顔が赤くなる。
「言い過ぎだ!」
「記録よりは控えめです」
法務院長がかすかに咳払いした。
笑いを堪えたようにも見えたが、気のせいかもしれない。
その後の処理は早かった。
婚約式は中止。
誓約書は証拠として押収。
レイモンド様、リリア様、父、そして関係した三家の証人は、王宮法務院へ連れていかれた。
白百合の間に残ったのは、散らばった花弁と、使われなかった祝杯と、私だけだった。
いえ、正確にはもう一人いた。
「見事な処理でした、エレノア記録官」
声をかけてきたのは、黒髪に灰色の瞳をした青年だった。
王宮記録院第二室長、ユリウス・グレイ伯爵。
私の任官試験で面接官を務めた方でもある。
「グレイ室長。ご覧になっていたのですか」
「記録監督官の補佐として控えていました。もっとも、あなたに補佐は不要だったようですが」
「職務を果たしただけです」
「その職務が難しいのです。特に、自分の婚約式では」
私は少しだけ目を伏せた。
「……難しくなかったと言えば、嘘になります」
昨日、控えの誓約書を見つけたとき。
手が震えなかったわけではない。
胸が痛まなかったわけでもない。
三年。
たしかに三年だ。
私は彼と家族になるつもりで努力してきた。
公爵家の領地収支も、社交関係も、王宮儀礼も学んだ。
彼がリリア様のもとへ向かうたび、私は自分に言い聞かせた。
病弱な人に嫉妬するなんて、恥ずかしいことだと。
けれど、今なら分かる。
私が感じていたのは嫉妬ではない。
軽んじられる痛みだった。
「泣いてもよかったのですよ」
ユリウス様が言った。
「王宮記録官は、涙を禁じられておりません」
「泣いたら、父に場を乱すなと言われたでしょうから」
「もう乱れていましたよ、十分に」
思わず小さく笑ってしまった。
「では、あとで泣くことにします」
「その際は、記録院の休憩室をお使いください。茶葉は良いものを用意してあります」
「職務中に私用で泣くのは問題では?」
「休憩時間なら問題ありません」
「では、規定に従って泣きます」
「あなたらしい」
ユリウス様は穏やかに笑った。
その笑みは、同情ではなかった。
私を哀れな令嬢として見るものではない。
一人の記録官として認める眼差しだった。
それが、ひどくありがたかった。
数日後、王宮法務院の裁定が下された。
エルディア公爵家は王宮誓約における虚偽申請未遂により、三年間の王宮婚約式申請停止。
レイモンド様は公爵家後継者としての適性を問われ、当面の社交活動を禁じられた。
フォルン子爵家は、事前承認のない王宮誓約書への署名により罰金。
リリア様は療養を理由に領地へ戻された。
ただし、後に聞いた話では、彼女は領地で元気に庭を散歩しているらしい。
そしてアストレア侯爵家。
父は、王宮記録への不当介入と親族記録の虚偽流用により、王宮出入りを半年間停止された。
さらに、私の名を無断で用いた過去の寄付名簿と推薦状が洗い直されることになった。
父からは、何通も手紙が届いた。
最初は叱責。
次は弁解。
その次は命令。
最後に、謝罪。
私はすべて記録院の規定に従い、私信として保管した。
返事は出さなかった。
謝罪は、相手が受け取って初めて終わるものではない。
謝る側が、失った信用をどう扱うかから始まるものだ。
それから一か月後。
私は王宮記録院第三室から第二室へ異動となった。
「昇進、おめでとうございます」
休憩室で、ユリウス様が紅茶を淹れてくれた。
あの日、本当に泣くために借りた部屋だ。
結局、私は一口目の紅茶を飲んだところで泣き、ユリウス様は黙ってハンカチを差し出してくれた。
「ありがとうございます。ですが、まだ見習いのようなものです」
「あなたを見習いと言うなら、記録院の半数が卵に戻ります」
「室長は大げさです」
「記録に残しますか?」
「残さないでください」
二人で小さく笑った。
そのとき、休憩室の扉が叩かれた。
入ってきた若い職員が、銀盆に載せた一通の封書を差し出す。
「エレノア記録官宛てです」
「私に?」
封蝋には、王宮舞踏会の紋章が押されていた。
私は開封し、中の招待状を確認する。
そこには、はっきりと私の名が記されていた。
エレノア・セシル・アストレア王宮記録官殿。
侯爵令嬢としてではない。
誰かの婚約者としてでもない。
王宮記録官としての、私の名。
私はしばらく、その文字を見つめていた。
「よい招待状ですね」
ユリウス様が言った。
「はい」
「欠席なさいますか」
「いいえ」
私は招待状を丁寧に畳んだ。
「今度は、私自身の名前で出席いたします」
「では、もしよろしければ」
ユリウス様が少しだけ真面目な顔になった。
「当日、私に一曲目の予約をいただけませんか」
私は目を瞬いた。
「記録院の室長が、部下にそのようなお申し込みをしてよろしいのですか」
「勤務時間外です」
「規定では?」
「確認済みです。記録院内の上下関係を利用した強制でない限り、問題ありません」
「ずいぶん準備がよろしいのですね」
「記録官ですので」
私は笑ってしまった。
そして、招待状の余白に小さく鉛筆で記した。
一曲目、ユリウス・グレイ伯爵。
「承りました」
そう答えると、ユリウス様はほっとしたように微笑んだ。
あの日、婚約式の誓約書から私の名前は消されていた。
けれど、消されたことで分かったことがある。
誰かに書かれる名前を待つ必要はない。
誰かの隣に置かれることを願う必要もない。
私の名は、私が記す。
王宮の記録にも。
これからの人生にも。
そしていつか、本当に誓約書に名を書く日が来るなら。
そのときは、誰かの都合で書き換えられる名前ではなく、私自身が選んだ名として。
私は、静かに印章指輪を撫でた。
王冠を抱く羽ペンが、窓から差し込む午後の光を受けて、淡く輝いていた。