軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

33.クラーケン戦1

クラーケンがついに姿を現した。

「……!」

その禍々しくも巨大な姿に、私達は戦慄した。

体長は五十メートル。

湾に近づいたクラーケンは、体の半分近くを水に沈めた状態で、四階建ての宿舎『紅の人魚亭』を遙かに超え、町で一番高い櫓をも見下ろす。

一本四十メートルはあろうかという触手が海面を薙ぎ払うたび、波は砕け散り、白い飛沫が空を覆った。

立ちつくす私の頬に、冷たいものが一滴落ちた。

空を仰ぐと、クラーケンの頭上に渦を巻く黒雲が瞬く間に膨れ上がり、太陽を飲み込んでいく。辺りはたちまち夜のような暗闇に沈んだ。

伝承通り、クラーケンが嵐を呼んでいるのだ。

黒雲から、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてきた。

雨からはひどく、嫌な匂いがした。

ただの雨ではない――そう感じさせる、不穏な気配が空気に満ちていた。

「リーディア様! 行ってください!」

デニスは私に向かって叫んだ。

「分かった! シェイン、ノア、行くぞ!」

私が転移魔法陣に向かって走り出そうとしたその時、横の路地から男がふらりと飛び出してきた。

「!?」

見知らぬ男――いや、違う。前に役場で見かけた、中央部から来た商人だ。

住民許可証を得ようとしつこく居座り、だが行商の仕事をしていたためうっとうしいが退去させられない状況だと報告を受けていた。

何故彼が町にいるのだ?

しかも様子がおかしい。生気がなく、顔は水を浴びたように濡れ、体はふらふらと揺れていた。

ふらつきながら男は、転移魔法陣へと歩み寄った。

転移魔法陣はその名の通り転移の魔法が刻まれた魔法陣だ。魔法陣には精緻に重ねられた転移の魔法が記され、力の源である魔石が埋め込まれている。

男は転移魔法陣のすぐ側にしゃがむ込むと魔石に向かって拳を振り上げた。

「やめろ! そこから離れろ!」

デニスが飛びかかり、男の腕を押さえ込む。

しかし男は獣のような力で彼を振り払い、埋め込まれた魔石へ拳を振り下ろした。

ガンッ――!

激しい衝撃音が辺りに響き、男は血に濡れた拳で躊躇なく魔石を殴り続ける。

硬度を誇る魔石にひびが走り、ついに石は粉々に砕け散った。

転移魔法陣が低く唸りを上げ、光を失っていく。

「……っ!」

男の様子は異常だ。

熟練の騎士デニスを一撃で投げ飛ばすなんて、一般人に出来る芸当ではない。

生気のない瞳、そして。

「デニス! 男の顔についているものを剥がすんだ!」

「はい!」

デニスは男の顔に手を伸ばすと、雨に濡れた跡のように見えていたものが、ぬるりと蠢いた。

「これは……!」

デニスが力を込めて引きはがすと、粘液が糸を引きながら男の顔から剥がれ落ちた。

半透明の塊――スライム状の化け物だ。

地面に落ちたそれは、ぐじゅりと形を変え、不気味な音を立てて蠢く。

「ウーズ……!」

魔物の名はウーズ。

クラーケンの眷属で、弱き者の心を侵し、操り人形に変える魔物。

それが雨に紛れて町へ忍び込み、転移魔法陣を破壊させたのだ。

「シェイン! 浄化だ」

「はい! リーディア様」

シェインは素早く浄化魔法を唱えた。ウーズは悲鳴のような音を立てて弾け飛ぶ。

粘液は煙のように霧散し、残されたのはぐったりと崩れ落ちる男の体だけだった。

職人達が転移魔法陣に近づき、損傷を調べる。彼らは一様に苦い顔で首を横に振った。

「駄目です、すぐには修理出来ません」

「リーディア様! 僕に掴まってください」

それを聞いたデニスが私に向かって腕を伸ばす。

彼は転移魔法が使える魔法騎士だ。

近くの転移魔法陣に転移し、そこから私を領都に送り届けようとしている。

ここから一番近い転移魔法陣は数百メートル離れた造船工房にある。

しかしそこは海に近すぎる。クラーケンの眷属が待ち構えている可能性が高く、危険な場所だ。

もう一つは、町から一キロ以上離れた草原にある緊急用の転移魔法陣。

こちらは遠いが、内部は魔物達が入り込めないよう、びっしりと壁に聖句が施されている。

デニスは一度安全な草原の避難所に転移し、そこからさらに転移魔法陣を使って私を脱出させるつもりなのだ。

だが私は言った。

「デニス、私は行けない」

「リーディア様! 僕の指示に従ってください」

デニスは叫んだ。

私は首を横に振る。

「転移魔法を短時間に二回は今の私の体では無理だ」

転移魔法は体調が優れないと酔いやすい。妊婦がそれを二度繰り返せば、胎児にも母体にも大きな負担となる。

「私は皆と共に造船工房へ向かい、そこから避難する。デニスはシェインとノアを草原の転移魔法陣へ送っていってくれ。シェイン、ノア、ルツに行って援軍を要請するんだ。分かったね」

造船工房周辺は確かに危険だが、浜辺には多くの兵が待機している。子供のことを考えるとそれが最良の選択だと私は判断した。

「リ、リーディアさん」

ノアは少し動揺しているが、横に立つシェインがしっかりと頷いた。

「はい、分かりました」

「仕方ない。お前達、リーディア様を頼む! 町長も、皆も、リーディア様をよろしくお願いします」

「はい、デニス様」

デニスの声に、私の二人の護衛役の騎士が答えた。

「任せてください!」

そして町長も力強く頷いた。

デニスはノアとシェインと共に、転移する直前、私に言った。

「リーディア様、僕は彼らを送り届けたら、そのままアルヴィン様のところに向かいます。リーディア様は皆と避難してください」

「はい。アルヴィンを頼みます」

私はデニスに頭を下げた。

***

デニス達と別れ、私達は造船工房に向かった。

海に近づくにつれ、嫌な匂いで胸がムカムカしてきた。

海からは湿り気を帯び、腐った匂いがする冷たい風が吹きつけてくる。

造船工房まであともう少しの距離。

だが、またあの雨が降り出した。

今度の雨は激しく、容赦なく降り注ぐ。

雨粒は地面に落ちるとうねうねと動き、互いにくっつき合い、粘体の魔物、ウーズへと姿を変えた。

ウーズは私達に襲いかかってきた。

「はっ」

かけ声とともに護衛騎士が前に出て、手にした槍でウーズを貫いた。ウーズはあっけなく消滅する。

一体一体はさほど強くない。

体にひっついたウーズも素人の力で簡単に引き剥がせるが、次から次に彼らは『落ちてくる』……!

ウーズの群れに、私達は行く手を塞がれてしまった。

その時、山から強い風が吹いた。

黒雲は風に押し流されるように海へ退き、町に降っていた雨は止んだ。

風からは春の山の匂いがした。

草と生き物達の匂いだ。

ウーズは風に触れると、プルプルと体を震わせ、消え去った。

「山の精霊様がわしらにお力を貸して下さっているんだ」

町長がそう、呟いた。

「今のうちに行きましょう!」

私は皆を促す。

町を通り抜け、建物に遮られていた視界が開けると、目の前に海が広がった。

そこにあったのは、クラーケンと、それに立ち向かう騎士達の姿だった。

クラーケンを八隻の船が円を描くように取り囲んでいた。

甲板には二十名の騎士が立ち並び、乗組員二名が舵を握る。戦闘員は、手に赤く燃える銛を握っている。

船の後方には 大型の弩砲(バリスタ) が据え付けられていた。弦を強く引き絞り、クラーケン目がけて銛を放つ。

銛は火の魔石を埋め込んだ特製の武器で、海水に濡れても消えぬ炎が先端で揺らめいていた。

クラーケンに対して我々に勝機があるとすれば、水深の浅い湾周辺に誘い込み、八方から一斉に攻撃をしかける作戦のみ。

我々は計画通りの陣形を敷いていた。

だが、クラーケンに対して、船はなんと小さいのだろう。

嵐のような雨と風を前に、船は木の葉のように翻弄され、今にも波に呑まれそうだ。

クラーケンは神から授けられた槍、海煌の使い手に狙いを定め、攻撃してくる。

槍の使い手であるアルヴィンが囮となり、その隙に騎士達が腕を切り落とす作戦だ。

アルヴィンが乗った船は『暁の人魚号』。

目立つように船体を赤く塗ったこの船が、クラーケンを挑発するように大きく旋回する。

残り七隻の船から次々炎の銛が飛んだ。

暗い空を裂くように赤い軌跡が走り、海面から伸び上がった触手に突き刺さる。轟音とともに黒い肉が焼け、クラーケンが低く唸った。

攻撃は効いている!

クラーケンは八本の触手を振り回し、怒りをあらわにした。

海が震え、船が大きく揺れる。騎士達は舷側にしがみつきながら、次の銛を構えた。

そして陸でも、クラーケンが放った眷属との戦いが繰り広げられていた。

人の背丈に匹敵する蟹やヤドカリの怪物が、続々海から陸地へと這い上がって来る。

待ち受けていた兵達が、果敢に立ち向かった。

「リーディア様、早く造船工房に!」

「行ってください!」

陸上部隊の騎士が叫び、私達を逃がそうと群れ寄る怪物を盾で必死に押しとどめていた。

だがその隙を突き、一匹の巨大な蟹の魔物が防壁をすり抜け、こちらへ襲いかかってきた。

魔物が、大きなはさみを振り上げた瞬間――。

ガツッという鈍い音と共に蟹は吹っ飛んだ。

「リーディア、大丈夫?」

トンカチでそいつを思い切り殴りつけたのは、スキプニッセだ。

「スキプニッセ!」

「おい、坊主、危ねぇぞ」

妖精が見える体質なのだろう。船大工の一人があわてて声を掛けた。

五歳くらいの子供にしか見えないスキプニッセはにっこりと微笑んだ。

「大丈夫、スキプニッセはブラウニー達みたいに家事は出来ないけど強いんだよ」

わらわらと他のスキプニッセも姿を現し、戦いに加わった。

「リーディア達は行って。この町は僕らが守るから」

「スキプニッセ!」

「リーディア、今まで一緒にいてくれてありがとう。でも早くっ、行って!」

「リーディア様、行きましょう!」

思わずスキプニッセに駆け寄ろうとした私の腕を護衛騎士が掴み、引き止める。

「彼らの厚意を無駄にしてはいけません」

転移魔法陣があるのは軒を連ねる造船工房の中でも一番手前の建物だ。

私達は、転移魔法陣に急いだ。

だが――。

海から禍々しい気配がほとばしった。

海と空を震わせる轟音とともに、クラーケンが八つの触手を天へ突き上げる。

集束した魔力は閃光となり、黒雲に呑み込まれた。

次の瞬間、稲妻が奔り、転移魔法陣が置かれた造船工房を直撃した。

「雷を操るなんて……!」

退路は完全に断たれた。

取り残された民間人は、私の他には船大工や職人、そして町の住人、四十名あまり。

皆の顔は青ざめていたが、

「仕方ねぇなぁ」

一人の職人――カシムの父親が背負っていたリュックサックを下ろすと、中から使い込まれた 半月包丁(ラウンドナイフ) を取り出した。

船大工達は愛用のハンマーを構え、町の人々は浜辺に落ちていた石を拾い上げる。

「さあ、俺達も戦おう」