作品タイトル不明
そんなわけでもう寝ます。
距離感と言う言葉を使う時、『俺』の場合は相手との心理的な距離を指すことが多い。だが実際には物理的な意味合いも含む。なのでこの場合二重の意味で距離感が近いと言うべきなのだろうか。いやそもそも物理的に近い距離を取ってくるということは、心理的な距離感も近いのだから別に一つの意味合いだけで十分か。
「何かどうでもいいことを考えているのかしら?」
「そんなところだ」
そうしないとこの空気に耐えられないのです。久々に会った『紫』は躊躇いもなく人の真横にくっつくように座り、こちらの顔をまじまじと見つめてきていた。せめてこう、何か作業をしながらとかならば大丈夫なのだが……これはなかなか辛い。
「相手を照れさせることができるというのも、甘露な経験よね?」
「照れさせられる方は一長一短ではあるけどな」
もう少し時間が経過すれば、煮込んでいる料理が仕上がるとのこと。それまで理性に耐えてもらうだけではあるのだが、決して楽なものではない。『紫』の魅力もそうなのだが、こちらを静かに見ているデュヴレオリの視線もなかなか辛かったりする。だからといってこの場から離れて欲しいわけではない、むしろ歯止めが効きやすいのでいてほしいのである。
「この空気に飲まれるのが嫌なら、お土産話の続きを話してくれてもいいのよ?」
「それなんだがなぁ……記憶がほとんどなくてだな……」
最初はトリンで起きた出来事を話していたのだが、トリンでは記憶を過去に遡らせられていた。肝心のソライド攻略などは記憶の片隅にもなく、一番の記憶に残っているのはトリン王くらいなものだ。
「ミクスも大変な役割をしたものね?私がいれば私が代わってあげても良かったのだけれど……」
「過去の自分と『紫』はあまり会わせたくはないかな」
「あら、私だと過去の貴方に唆されるとでも?」
「それはないだろ」
「ええ、ないわね。私が貴方を特別視しているのは、あの時あの場所で、私に手を伸ばしたのが貴方だったから。いくら過去の貴方が私のことを受け入れてくれると言ってきたとしても、その時の思い出を共感できないのは嫌よね?」
人が誰かを好きになる時、そこに関わるのは能力の優劣よりも機会の有無の方が大きい。『紫』の場合それがより顕著に現れており、安易な誘惑が通じることはないだろう。
「会わせたくない理由は、色々なことを吹き込まれてほしくないからだな」
ミクスは過去の『俺』から何かを吹き込まれ、その結果前以上に積極的になっていた。もしも『紫』がこれ以上積極的になってしまったら……それはもう精神的に耐えられるかどうか怪しいところですよ、はい。
「でも若い貴方には会ってみたかったわ?あと獣の耳や尻尾の生えた姿も見てみたかったし……写真は撮らなかったの?」
「あの技術はあまり外に持ち出したくないんだよな。知ればどの国も欲しがることになる」
誰でも手軽に視覚情報を持ち帰ることができるカメラ、この世界の文明レベルでは十分革新的な発明だろう。各国との仲は現在のところ良好ではあるが、それはあくまでも各国のトップとはと言う意味だ。
ガーネでは現在魔王である『金』を退位させようとしている動きがあるようだし、メジスではユグラ教としてのスタンスを重んじる者が多い。セラエスのように一線を越える者はいなくても、内心では『俺』を排除したいと思っている連中なんていくらでもいるだろう。
写真の技術が出回れば、『俺』の顔がそういった連中に正確に把握されることになる。足のつかない裏稼業の冒険者、脅して操った一般人に『俺』を襲わせるなどの手段が容易に取れるようになるだろう。まあ似顔絵でも危険ではあるが、そういったものからは容疑者を絞ることができるからな。
「『緋』との戦いでも使わなかったものね?せっかくの貴方が評価される成果なのに、勿体ないわね?」
「別にいいさ。少なくとも喜ばせたい相手は喜ばせることができたしな」
「――特別扱いされることは、いつだって嬉しいものね」
しまった。喜ばせようと言葉を選んでいたつもりだったが、少し喜ばせ過ぎた。さっきよりも密着される力が強くなっている。助けてデュヴレオリ、あ、目を逸しやがった。
「……そういえばエクドイクや『蒼』はどうしている?」
「あの二人なら邪魔だから追い出したわよ?もちろん今夜だけだけどね?」
よし、早く帰ろう。その為のプランを全力で練らねばならない。ここに空気をぶち壊してくれる救世主は決して現れないのだから。
「そいつはまた今度、『蒼』から嫌味を言われそうなことを……」
「あの二人だってそれなりに進展しているでしょう?『蒼』の方はそこまででも、エクドイクの方が大分『蒼』を意識していたわ?」
「そうっぽいな」
「露骨に話題を広げるのを嫌がっているわね?ルコの話でもする?」
やっぱり知っていたのか。『紫』には婚約とかの話題は避けなくてはとノータッチだったが、ここまでされるとなかなか言葉に詰まる。
「……悪い。それ以上は辛くなる」
「ふふ、優しいのね。貴方は私との勝負に勝った、だから貴方は私を好きにする権利があるのよ?いっそ私を遠ざけてしまえばいいのに、そういった線引をすることは貴方にとって簡単でしょう?それなのに、こうして私が寄り添えるような位置を許容してくれている。罪悪感すら抱いてくれている。貴方からすれば私の想いに応えてやれていないって思っているのでしょうけど、私はこれで十分なのよ?」
「人間ってのは思いの外欲深い生き物なんでな。相手が満足していると言っていたとしても、それ以上を提供する方法を知っていて抑えるってのはもどかしさを感じるもんだ」
満足しているからこれでいいだろう。そう思えれば気が楽なのだろうが、満足してもらっていると考えると罪悪感を抱いてしまう。これだけ想われているのに、その想いに応えきれていない。応えてやりたいという欲求は理性をじわじわと腐食させていく毒のように心から滲み出しているのだ。
「価値観の違いね?それはお互い様だと思うわよ?もしも貴方が色々なしがらみを無視して私の想いに応えてくれたのなら、きっと私は今以上に幸せになれるに違いない。だけど今度は私が今の貴方のようになってしまうわね。だって今のままでも十分なのに、これ以上見返りをもらったら一体どれだけ貴方を想えば良いのかしらって」
「そんなに難しいか?」
「ええ、とっても。だって私は今、目一杯貴方を想っているのだから。これ以上貴方を想う方法なんて考えつかないわ」
彼女の二つ名は『籠絡の紫』、ユグラに与えられた力を抜きにしたとしても相応しいものだと思う。油断していたら本当に籠絡されそうだ。それこそ今前にしている様々な問題を投げ捨てて、彼女だけとの世界を欲してしまうことになりかねない。
「できる範囲で精進させてもらいます……」
「ええ、そんな貴方に甘えられる分は存分に堪能させてもらうわね?」
料理の方が良い頃合いなのだろう、悪戯っぽく笑いながら『紫』は立ち上がった。手伝おうと思い、『俺』も立ち上がろうとしたのだがやんわりと制止させられてしまう。
「余韻を味わいながら料理を仕上げたいの。貴方はデュヴレオリで遊んでおいて?」
「どう遊べと……」
しかも『と』ではなく『で』って。そんな命知らずなことできるかっての。とは言え暇を持て余すことには違いなかったので、デュヴレオリと悪魔談義をして時間を潰すことにした。
◇
嫌な予感とは想像以上に当たるものだと、過去の経験で嫌というほど理解してきたはずなのだが……それでも実際にそれが起きた時の落胆は大きいものだ。長い間彼を待ち続けたが、結局ウルフェ達が食事を済ませて帰ってくる方が早かった。
ウルフェ達は食事を終える頃『犬の骨』でエクドイク、蒼の魔王と出会ったらしく、話によれば彼はデュヴレオリによって紫の魔王の屋敷へと夕食に誘われたとのこと。
「……はぁ」
ラクラはすっかり酔い潰れており、ウルフェは既に寝入っている。私は一人で夕食だ。ウルフェは『犬の骨』から食事を持ち帰ってきてくれていた。おかげでこうして一人寂しく食べる夕食ではあるが、舌はそれなりに満足してくれている。
彼も既に食事は済ませているのだろう。それでも帰ってこないということは泊まりということなのだろうか。家の広さも寝具の質も向こうにあるものの方が良いだろうし、それに紫の魔王は……。
「私がとやかく言う立場ではないのは理解しているのだがな……」
食事と片付けを済ませ寝ようかと思ったのだが、このままベッドに倒れ込んでもすぐには眠れそうにない。だからといって何かをして時間を潰したいとも思えず、特に意味もなく玄関を見張れる位置に座り込む。
この結果は私の思い込みによって生じたもの、彼に明確な落ち度があるわけではない。久々にターイズに帰ったのだから、家主である私への挨拶を優先するべきだとは少しくらいしか思っていない。
「少し思っているではないか、仕方のない奴だ」
一人で笑ってしまう。もっとも失笑に近いが。この様子をウルフェに見られたら白い目で見られそうだな。ラクラは……意外と心配してくれそうだ。
あれから随分と変わったものだ。ウルフェやラクラという同居人もそうだが、私を取り巻く環境が大きく変わった。いや、変わったのは私自身なのだろう。変わったというより、変えてもらったと言うべきか……色々あったからな。
「そろそろ寝るか……ん?」
立ち上がろうと思った時、玄関に人の気配を感じた。一人だけではなく、強い魔力を持った魔物――彼とデュヴレオリか。てっきり今日は帰ってこないと思っていたのに、そう考えていると微かに声が聞こえてきた。
「送ってくれてありがとうな、デュヴレオリ」
「わざわざ帰らずとも、一泊くらいならばすぐに用意はできたのだがな。主様もその方が喜んだだろう」
「『紫』が用意してなかったってことはそういうことだよ。『今日はこれくらいで勘弁してあげる』ってな」
「――今度機会があればまた、あの話の続きを所望する」
「ああ、わかった。それじゃあおやすみ」
その言葉と同時に彼が玄関の扉を開いて中に入ってくる。そしてこちらの方へと視線を向け、座っている私と目が合った。私もさっさと立ち上がっていれば良かったのだが、これでは以前のように拗ねて座っていたように見られてしまっただろう。久々の再会なのだが、互いに微妙に気まずさを感じているのがわかる。
「……おかえり」
「た、ただいま……ずっと待ってたのか?」
「食事を済ませ、寝る前に少しだけ座っていただけだ。もしかすれば君が帰ってくるかもしれないとな」
私がそう言うと、彼は一度だけ視線を逸したあと、呆れるように笑いながら私の横に座った。ほのかな酒の匂い、少しだけ酔っているのだろう。
「なるほどな。確かにこうして待っていたら、誰か帰ってくるかもって気持ちになるな」
「そうだろう。もっともそう思って待っていた時はたいてい待ちぼうけをくらったのだがな」
「あの時は随分と拗ねていたっけか。でもそのあときちんとフォローしただろ?」
その日のことは今でもしっかりと覚えている。彼が初めてこの家に来た時、私は山賊討伐の事後処理などで家を留守にしていた。丸一日以上彼を放置して、帰ったら今度は私が丸一日放置されたといった感じだ。待たされたことにわかりやすく拗ねていた私を、彼は強引に『犬の骨』へと連れて行ってくれた。
「そうだな。あの時は悪くなかった」
「今度も埋め合わせをするさ。と言っても今日はもう飯を食ったんだろ?酒って気分でもないだろうしな」
「本当に埋め合わせをしてくれるのだろうな?」
「守るつもりのない約束はしないさ」
そこは守れない約束はしない、だろうに。もっとも私も別に怒っていたり、拗ねていたりしているわけではない。そのくせに埋め合わせという言葉に期待を持とうとしている。これは彼の影響ということにしておこう。
「では期待しておこう。ただ私だけではなく、ウルフェのことも忘れないように。あの子も今日君に会えると少し前まで目を擦りながら起きていたのだぞ」
「わかったわかった。それじゃあ『俺』は暫くイリアスの代わりにここにいるとしよう。お前はもう寝ろ」
「もう誰も帰ってこないだろう。反省のつもりか?」
「いいや。ちょっとだけお前の気持ちを体感してみたくなっただけだ」
そう言われると少しだけ気恥ずかしい。このままこの場所にいては細かく理解されてしまうのを真横で感じることになりかねない。色々と話したいことはあるが私も多少の疲れはある、それは次の機会にするとしよう。
「――そうか。それじゃあ……。いや、最後にもう一言」
「なんだ?」
「適当に言ってしまったが、もう少し気持ちを込めて言いたくなったのでな。……おかえり」
「ああ、ただいま」
うむ、悪くない。