軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

46.全ての清算

三つの馬車が、城門の前に並んでいた。

朝の光が石畳を白く染めている。風はなく、雲もなく、ただ穏やかな快晴だった。処刑の日でも嵐の日でもない。

それが――全ての決着の日だ。

最初の馬車は質素な黒塗りだった。王家の紋章はない。窓には格子。御者台に神殿の僧衣を着た男。行き先は――北の修道院。

衛兵に両脇を挟まれ、アレクシス・ロイ・グランディアが石畳を歩いてきた。

金の髪は手入れされていない。碧い目に隈が浮いている。夜会の華だった王子の面影は拘束の日々で削られ、簡素な灰色の衣服に王族の紋章はもうなかった。

エレノーラは城門の傍に立っていた。クラウスが隣に。数歩離れてルドルフが腕を組み、国王の名代として処分の執行を見届けている。

アレクシスが馬車の前で立ち止まった。衛兵が一歩引く。無言で与えられた、最後の時間。

碧い目が城を見上げた。生まれ育った場所。もう二度と戻ることのない場所。

そして――視線が動いた。城門の傍に立つ、深い赤みがかった茶髪の少女へ。

長い沈黙だった。

「――すまなかった」

掠れた声だった。虚勢も傲慢も言い訳もない。ただ疲弊した男の声。

前世では一度も聞けなかった言葉。

けれど。

「その言葉は、もう遅いですわ」

穏やかだった。冷たくはない。怒りもない。ただの事実。

アレクシスの目が揺れた。

エレノーラはそれ以上何も言わなかった。罵倒も、赦しも、説教も。

(もう、いい)

恨む気持ちはとうに消えていた。赦す気持ちも、ない。あるのは――ただ、終わったという感覚。

アレクシスは何か言いかけ、やめた。唇を噛み、馬車に乗り込んだ。扉が閉まる。格子窓の奥に金の髪が見えた。

車輪が石畳を噛み、黒い馬車が動き出した。北の修道院へ。王族の体面だけを残された――追放。

ルドルフが腕を組んだまま、弟の馬車を見送っていた。表情はなかった。けれど顎が強張っていたことに、エレノーラは気づいた。

二台目の馬車には、エステリア公国の紋章が付いていた。

セレスティア・ミルフィーユが衛兵に伴われて現れた。白い僧衣。簡素に束ねられた金の髪。聖女の華やかさは消えていた。

エレノーラの前を通り過ぎる時、足が止まった。

翡翠色の目がゆっくりと上がった。

「――負けたわ」

小さな声だった。微笑みのような、諦めのような表情。

「最初から勝てなかったのかもしれないわね」

エレノーラは答えなかった。答える必要がなかった。この女との戦いは、とうに終わっている。

セレスティアは小さく息を吐き、馬車に向かった。背中が小さく見えた。聖女の威光を剝がされた、ただの十八歳の少女の背中。

(同情はしない。けれど――憎みもしない)

二台目の馬車が動き出した。エステリア公国へ。

三台目の馬車は最も簡素だった。

カタリーナ・フォン・ヴァイセンブルクが乗り込む馬車。かつての叔母。その行く末は、辺境の修道院への蟄居。

カタリーナは衛兵に促されるまま歩いてきた。けれどその歩き方は変わっていなかった。背筋を伸ばし、顎を上げ、最後まで貴族の歩き方で。

エレノーラの前で足を止めることもなく、一瞥すら寄越さなかった。

(最後まで折れない人だった)

それは敬意ではなかった。ただの観察だった。

三台目の車輪が回り、遠ざかり、やがて音が消えた。

石畳の上に、轍の後だけが残っていた。

全てが、終わった。

アレクシスは修道院へ。セレスティアは隣国へ。カタリーナは辺境へ。

前世でエレノーラを陥れた者たち。毒を盛り、嘲り、利用し、追い詰めた者たち。その全員が――裁かれた。

城門の前に立ったまま、空を見上げた。青かった。どこまでも澄んだ青空。

復讐の達成感は湧いてこなかった。勝者の高揚も。あるのはただ――静けさだった。嵐の後の凪。

(終わった。全部。今度こそ)

「お嬢様」

背後から声がした。

振り返ると、マリアが立っていた。栗色の髪が朝の光に揺れ、エプロンの裾を両手で握りしめている。目が赤かった。

「マリア。泣いているの?」

「泣いておりません」

声が震えている。

「……お嬢様。本当に――お疲れ様でした」

その言葉に、胸の奥が温かくなった。

マリアは最初からいた。前世の秘密も聖遺物のことも知らない。ただ自分のお嬢様を信じて、毎朝お茶を淹れて、ずっと傍にいてくれた。

「ありがとう、マリア」

令嬢の言葉ではなかった。ただの十七歳の声。

「あなたがいなければ、わたくしは一人でしたわ」

マリアの目から涙が溢れた。エプロンで慌てて拭う姿が、少しだけ可笑しかった。

「お嬢様――わたくしは何も。お茶を淹れて、お着替えを手伝って、時々お小言を申し上げただけで――」

「それが全てですわ」

足音がした。規則的で、無駄がない。

「エレノーラ様」

クラウスが城門の傍に歩み寄った。銀灰色の髪に朝日が当たっている。

「全ての処分の執行を確認しました。書類の最終処理は午後に」

「ありがとうございます」

事務的な会話だった。けれどその後の沈黙に、別の重さがあった。

クラウスの紺色の瞳が、エレノーラを見ていた。

「目が変わりましたね」

「え?」

「初めて会った時――怒りがあった。前世の痛みに燃える、強い光が」

言葉を切った。この人にしては珍しく、言葉を探すように。

「今は――穏やかだ」

一瞬、何も言えなかった。

そして――笑った。仮面でも、鋭さでもない。ただの笑み。

「そうかもしれませんわね」

(怒りは、もう要らない。恨みも、復讐も――全部)

痛みが消えたわけではない。ただ――それを支えにして立つ必要が、なくなった。

「帰りましょう、クラウス様」

「どちらへ」

「宰相府ですわ。午後の書類が待っています」

「……戦いが終わった直後に書類仕事ですか」

「日常ですもの。日常が一番大切ですわ」

歩き出した。クラウスが隣を歩いている。半歩後ろでもなく半歩前でもなく、並んで。

振り返らなかった。三つの馬車が去った方角を、もう見なかった。

琥珀色の瞳に、怒りの光はもうなかった。あるのは――ただ、穏やかな朝の色だけだった。