軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

42.聖遺物の真実

地上の音が、消えた。

翌朝。封印区域への立ち入り許可を手に、エレノーラとクラウスは王城の西翼から地下へ降りていた。

石段を三十段ほど降りた辺りで、鳥の声も風の音も届かなくなった。代わりに石壁から滲む水の音がぽたり、ぽたりと一定の間隔で響いている。松明の炎が壁に影を揺らし、その影が生き物のように石段の先を這っていた。

「足元に気をつけて。苔が張りついています」

前を歩くクラウスが松明を低く傾けた。確かに、石段の端に灰緑色の苔がびっしりと付着している。ドレスの裾を片手で持ち上げ、慎重に足を進めた。

空気が変わっていく。地上の乾いた秋の風が、湿った冷気に置き換わる。息を吸うと鼻の奥が痛い。百年以上、人の体温を拒み続けた空気だった。

(王城の下にこんな場所があったなんて)

前世では知らなかった。宮廷で三年を過ごし、夜会にも茶会にも顔を出し、城の隅々まで歩いたつもりでいたのに——足元の深さには気づかなかった。

「封印管理官の記録では、正式な入室は十二年ぶりだそうです」

「十二年。わたくしが五歳の頃ですわね」

「ええ。それ以来、誰も正規の手続きで降りていない」

正規の手続きでは。

その言い回しが引っかかったが、今は先を急いだ。

石段が尽きた。

天井の低い廊下に出る。クラウスの長身では頭を下げなければ通れない。松明を掲げる腕が窮屈そうに曲がった。

壁に紋様が刻まれていた。

等間隔に並んだ幾何学模様が、松明の光を受けて薄く青く発光している。封印術式だ。近づくと空気が固くなる。目に見えない壁が指先を押し返す。

「初代国王の時代に施された術式です。百八十年間、破られた記録はありません」

「百八十年……」

この国が始まった頃から、ここにあるものを守ってきた封印。王朝が変わらなかったのは、もしかするとこの封印のおかげかもしれなかった。

廊下の突き当たりに、鉄の扉があった。

鉄と呼ぶには——重すぎる存在感。表面に幾重にも刻まれた術式紋様が脈打つように明滅している。生きている、と思った。この扉自体が一つの術式として呼吸しているかのように。

クラウスが封印管理官から預かった鍵を差し込んだ。

紋様が一斉に光った。青い光が廊下を満たし、石壁に刻まれた封印が呼応するように連鎖して輝く。

重い音がした。石を擦る低い振動が足裏に伝わって、ゆっくりと——扉が開いた。

足を踏み入れた瞬間に、呼吸を忘れた。

部屋の中央に、それはあった。

水晶で出来た時計台。高さは人の腰ほど。台座の上に鎮座するそれは、透明な結晶の内部に精巧な歯車と針を封じ込めていた。文字盤に数字はない。代わりに古代文字が円環状に刻まれ、針は——止まっていた。

止まっている。けれど死んではいない。

水晶の奥深くで、光が脈打っていた。ゆっくりと、絶え間なく。心臓の鼓動のように。百八十年の間ずっと、誰にも見られずに打ち続けてきた脈動。

「聖遺物」

クラウスの声が封印室の壁に反射した。

「『 時計(クロノス) の心臓』。初代国王が建国の際に封じたとされる神器です」

エレノーラは台座に近づいた。手を伸ばしかけて——やめた。触れてはいけないと、指先より先に体が知っていた。水晶の表面に吸い寄せられるような力と、それを拒む力が同時に働いている。

この神器が——隣国エステリアが喉から手が出るほど欲しがったもの。

(時を操る力。それがこの国の地下に眠っていた)

「古文書を確認しましょう。昨日の申請が通っているはずです」

クラウスが壁際の書架を示した。封印室の一角に、古びた文書が保管されている。羊皮紙の束。色褪せた革装丁。端が朽ちかけ、黄変した紙面から時代の重みが匂い立つ。

二人で書架の前に立ち、文書を一つずつ検めた。ほとんどは封印の管理手順や点検記録だった。定期的に封印の状態を確認し、異常がないことを記す——百八十年分の退屈な繰り返し。

クラウスの手が止まった。

「これを」

一冊の綴じを引き出した。他のものより明らかに古い羊皮紙。焼け焦げた端。掠れた文字。けれど——読める部分がある。

クラウスが解読しながら読み上げた。

「『この器は時の流れに干渉する力を持つ。針を逆に回せば、時は巻き戻る。ただし——』」

次の行で声が止まった。

「ページの下半分が欠損しています。代償に関する記述が、ちょうど——」

「読めない」

「ええ。意図的な破損の可能性があります」

誰かが、読ませたくなかった。あるいは——読んだ後に、消した。

クラウスが眼鏡を押し上げ、別の頁をめくった。

「補足の記録が残っています」

クラウスの指が、黄ばんだ羊皮紙の一節をなぞった。

「『時計の心臓は、使用者の強い意志によってのみ起動する。起動には三つの条件を要す』」

三つの条件。

エレノーラは息を詰めた。水晶の時計台の脈動が、背後で変わらず続いている。

「『第一——巻き戻すべき時間の起点となる者が、死を迎えること』」

死を、迎えること。

心臓の音が、耳の中で大きくなった。

「『第二——起動者が、その者との間に深い縁を持つこと』」

「『第三——起動者自身が、相応の代償を支払う覚悟を持つこと』」

三つの条件が、封印室の冷たい空気の中に並んだ。

クラウスの声は平坦だった。古文書を読み上げる声。事実を事実として発する声。けれどエレノーラは見ていた。ページを押さえる指先が——白くなっていることを。

「さらに注釈があります」

「『針が戻る先は、任意に定められぬ。巻き戻される者の運命が最初に大きく分岐した節目へ固定される』」

運命が——最初に分岐した節目。

エレノーラの指先が冷えた。

(春の大茶会。前世で、わたくしの転落が始まった日)

死に戻りの朝、目覚めたのはまさにその日の直前だった。三年前の、あの朝。

偶然だと思っていた。神が気まぐれに与えた二度目の機会だと。

違った。

「クラウス様」

「はい」

「この記述が正しいなら——わたくしの死に戻りは、偶然ではなかった」

「ええ」

クラウスが古文書から目を上げた。紺色の瞳が、水晶の時計台を見つめた。止まった針。凍った歯車。その奥で打ち続ける、消えない光。

「この神器を、誰かが意志を持って起動した。あなたが死んだ後に。あなたとの間に深い縁を持つ者が——代償を支払って」

封印室の冷気が、肌に食い込んだ。

(誰が?)

前世の自分に、縁の深い人間がいただろうか。

婚約者のアレクシスは——論外だ。エレノーラを利用し、捨てた人間。父のヨハンは婚約破棄の後、政治的に無力化されていた。マリアは前世では——毒を盛る側だった。

(前世のわたくしは、孤立していた。味方など——)

「封印室への入室記録を確認します」

クラウスが言った。声の響きは変わらない。相変わらず正確で、隙がない。

「封印管理官に照会をかけます。定例の管理記録では、十二年前を最後に正式な入室はないはずですが——」

「正規でない入室があった可能性がある」

「そう考えるべきでしょう」

クラウスが古文書を元の位置に戻した。その手が——一瞬だけ、震えた。

気づいた。

眼鏡の奥の紺色の瞳に、見慣れない色が過ぎった。動揺ではない。もっと深い場所から湧き上がる何か。苦しみとも、予感ともつかない色が、瞬きひとつの間に浮かんで消えた。

「クラウス様?」

「何でもありません」

即座に戻った。完璧な無表情。完璧な冷静さ。

けれどエレノーラは見逃さなかった。この人の表情の揺れを読むことには——もう、慣れている。

(何かを感じている。知っているのではなく——感じている)

問い詰めはしなかった。まだ早い。情報が足りない。

封印室を出た。鉄の扉が重い音を立てて閉じ、術式紋様が再び光を帯びた。

石段を上る間、二人の足音だけが反響していた。行きよりも速い足取り。けれど急いでいるわけではなかった。考えながら歩いている——二人とも。

「次の手順を確認しましょう」

エレノーラが言った。声を出すことで、胸の奥で渦巻く感情を押さえ込んだ。

「封印管理官の入室記録と、神殿の古い文書。入室記録は起動者の手がかりに、古文書は代償の内容に繋がるはずです」

「神殿文書庫への許可は、昨日のうちに申請してあります。明日には下りるでしょう」

地上に出た。陽光が眩しかった。地下の冷気がまだ体にまとわりついている。呼吸をすると、温かい空気が肺を満たした。生きている世界の空気だった。

「クラウス様」

石段を上りきったところで、足を止めた。

「この神器を起動したのは——誰だと思いますか」

クラウスは松明を壁の金具に掛け、火を消した。その背中が一瞬だけ硬くなったことを、エレノーラは見ていた。

「まだ、わかりません」

振り返らずに答えた声は、いつも通り静かだった。

けれどその「まだ」に含まれた重みを——エレノーラは、聞き逃さなかった。

答えは、まだ見えない。

地下の闇の中で、水晶の時計台が脈打ち続けている。止まった針の奥で、誰かの想いを封じたまま。

(誰が。なぜ。そしてその代償は——何だったの)