軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

17.勝手に守らないでください

翌朝、エレノーラは眠れないまま朝を迎えた。

寝台の天蓋を見つめながら、昨日の光景を何度も反芻する。聖女の涙。国王の沈黙。そして——クラウスの「急を要しました」。

(一晩かけても、整理がつかない)

怒っている。それは確かだ。

けれど、何に怒っているのか。自分でもわからないのが、一番腹が立つ。

「お嬢様、お支度のお時間です」

マリアの声に促され、エレノーラは寝台から起き上がった。

宰相府の執務室の前に立ったのは、午前十時だった。

深く息を吸い、背筋を伸ばす。ノックをした。

「どうぞ」

扉を開けると、アッサムの濃い香りがした。

クラウスは窓際に立っていた。いつもの執務机ではなく、窓の前に。まるで、こちらを待っていたように。

「昨日は失礼いたしましたわ」

「いえ」

エレノーラは部屋の中央で足を止めた。椅子には座らない。

「なぜ、わたくしに相談なく動いたのですか」

握りしめた手の爪が、掌に食い込んでいる。

クラウスは眼鏡を押し上げた。

「急を要しました。聖女が国王に接触する兆候を掴んだのが六日前。報告書の準備に五日。あなたに相談する余裕は——」

「ありませんでしたか? 本当に?」

エレノーラの声に、刃が混じった。

「六日あれば、一言伝えることくらいできたはずです。『聖女が動く』——それだけで良かった」

「……確かに」

「それなのに何も言わなかった。つまり、相談する気がなかったのでしょう」

クラウスが、わずかに目を伏せた。

この男が視線を外すのを見たのは、初めてだった。

「……否定はしません」

「なぜ」

「あなたの負担を増やしたくなかった」

淡々とした口調に、普段とは違う何かが混じっている。

「全てあなたが主導している。その上に聖女の対策まで背負わせるのは——合理的ではない」

「合理的」

エレノーラは一歩、前に出た。

「合理的ですって? では伺いますわ。宰相閣下を動かしてまで報告書を準備したこと——通常のあなたなら、そんなリスクは取らない」

エレノーラの琥珀色の瞳が、クラウスを射抜いた。

「あなたは合理性以外の理由で動いた。違いますか」

沈黙が執務室を満たした。

「……否定はしません」

二度目の、同じ言葉。

だがその声は、先ほどより少しだけ低かった。

「クラウス様」

エレノーラは背筋を伸ばした。声に力を込めた。

「わたくしは、自分で戦えます」

「知っています」

「守られなければならないほど、弱くありません」

「知っています」

クラウスの声が、僅かに強くなった。

「あなたが強いことは、誰よりも知っている」

一歩、クラウスが近づいた。銀灰色の髪が窓からの光を受けて白く輝く。紺色の瞳が、真っ直ぐにエレノーラを捉えていた。

「だが——あなたが一人で戦う必要はない」

その言葉が、胸の奥に落ちた。深く、静かに。

(——あの日と、同じだ)

「二人で道を作ればいい」。震えるわたくしの手を握って言った言葉。あの時は合理的な提案だった。

でも今は違う。今のクラウスは、合理性で動いていない。

「……っ」

言葉が出なかった。喉の奥が熱い。怒りで来たはずなのに、全く違う感情が込み上げてきている。

「……ずるいですわ」

絞り出した声は、怒りでも抗議でもなかった。

「いつもそうやって、わたくしの言葉を奪うのですね」

「そのつもりはありませんが」

「あるでしょう。絶対にあるでしょう」

エレノーラは顔を背けた。

頬が熱い。耳まで熱い。こんな顔を見せるわけにはいかない。

「——今後は、必ず事前にわたくしに相談してください。これは命令ではなく——」

一度、息を整えた。

「お願いですわ。わたくしたちは共犯者でしょう。情報の非対称は、計画の最大のリスクです」

「……わかりました」

クラウスの声に、微かな笑みが混じった気がした。

振り向いて確かめる勇気は、なかった。

「では、今後は全ての作戦について事前に共有します」

「ええ。そうしてくださいまし」

「ただし——」

クラウスが、ほんの一瞬、間を置いた。

「あなたが危険に晒される場面では、事後報告になる可能性がある。それだけは——許してほしい」

エレノーラは反射的に振り返った。抗議しようとして——言葉を失った。

紺色の瞳が、すぐそこにあった。いつものクラウスのはずなのに、その奥に見えたものに息を呑んだ。

(この人は——本気だ)

「……善処いたしますわ、としか言えませんわね」

精一杯の虚勢だった。声が裏返らなかったのが奇跡だ。

「それで十分です」

クラウスが一歩下がり、ティーポットに手を伸ばした。

「紅茶をどうぞ。今日はアッサムです」

「……いただきますわ」

椅子に腰を下ろした。膝が、少しだけ震えていた。

その頃——執務室の扉の向こうで。

マリアは、紅茶の載った盆を抱えたまま固まっていた。

(お、お嬢様の声が震えていた……)

ノックしようとした手が空中で止まっている。会話が嫌でも聞こえてしまった。

(「一人で戦う必要はない」って——それ、もう告白では?)

マリアは盆を抱え直し、静かに後ずさった。

(お嬢様のお顔が見たい。絶対に真っ赤。絶対に)

口元を押さえたいが盆が邪魔だ。唇を噛んで笑いを堪える。

(でも——よかった。お嬢様の孤独を、あの方はちゃんと見ている)

マリアは音を立てずに踵を返した。紅茶は冷めてしまったが、淹れ直せばいい。

今はまだ、あの扉を開けるべきではない。

執務室の窓から差す光が、午後の色に変わり始めていた。

二人は向かい合って紅茶を飲んでいた。

報告書の内容について。聖女の次の手について。国王の判断の行方について。話すべきことは山ほどあった。

けれどエレノーラの胸の中では、もう一つの言葉が静かに温もっていた。

(共犯者——いいえ、もう共犯者ではない)

カップを傾けながら、窓の外に目を向けた。

(この人は——パートナーだ)

その言葉が胸の中に落ちた瞬間、不思議なほど自然に、呼吸が楽になった。一人で戦っていた頃の、あの息苦しさが——ほんの少しだけ、和らいだ気がした。

「どうしました」

クラウスが怪訝そうに聞いた。

「いいえ。何でもありませんわ」

エレノーラは微笑んだ。

今度の微笑みは、令嬢の仮面ではなかった。

「——予定通りですわ」

嘘だった。

でも今度は——悪い嘘ではなかった。