「お姉さまだけが家族の肖像画にいらっしゃらないのね」とあざ笑う私の顚末。
作者: 空丘ジル
本文
「この肖像画、本当に素敵だわ。あら、でも……家族全員が揃っているものと思っておりましたけれど、お姉さまだけがいらっしゃらないのね。私、今の今まで気付きませんでしたわ」
何度となく繰り返した、私の棘ある嫌味。
しかし、トルエン侯爵家の長女で、私の姉・セシルは、どこ吹く風と優雅に微笑むだけだった。
私の言葉など、彼女の耳には心地よいそよ風程度にしか響いていないらしい。
(……チッ、相変わらず憎たらしい女!)
私は心の中で激しく舌打ちした。これっぽっちも効いていない姉の態度が、私の自尊心をちくちくと逆撫でする。
我がトルエン侯爵家では、数年置きに家族の肖像画を画家に描かせるのが常であった。
だが、今、広間の特等席に掲げられている巨大な絵画には、祖父母と両親、そして次女である私・グルジアの姿しかない。
それもそのはずだ。私自らがアトリエへ足を運び、姉が確実に不在となる日を狙って、画家の訪問スケジュールを無理やり変更させてやったのだから。
遠方に暮らす祖父母には、「画家の都合がどうしてもその日しか合わないそうですの。お姉さまの分は、あとからいくらでも描き足せますわ」と愛らしい笑みで言いくるめておいた。
もちろん、お抱えの画家にはきっちりと口止めをしてある。
「もし一言でも口外したら、お前の画家生命を直ちに終わらせてやるわ。いっそ、画家生命でなく、生命自体も終わらせてやりましょう」
そう脅しつけてやった時の、彼の怯えようと言ったら! 青い顔をしてブルブルと震える姿は、思い出すだけでも傑作だった。
数日後、進捗を確かめるためにアトリエを訪ねると、画家は律儀にも、姉が収まるはずだったスペースをぽっかりと白く空けて描いていた。
だが、私にはその真っ白な余白こそが、姉のどうしようもなく巨大な存在感を主張しているように思えて、無性に腹が立った。
「目障りよ。さっさとそこを背景の色で塗り潰しなさい」
そう命じてから、絵の具が乾くまでさらに数日。
我が家に届いた「姉のいない完璧な家族の絵」を目にしたときの全能感と喜びは、とても言葉では言い表せないものだった。
初めてこの絵を見たとき、あの姉がどんな絶望に顔を歪めるか。私は物陰からじっと盗み見ていた。
しかし、姉はほんのりと口元を綻ばせ、「よく描けているわね」とだけ呟いたのだ。
少しぐらい悲しんだり、取り乱したりすればいいものを!
……そして、この絵が仕上がって間もなく、母は突然の病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
図らずもこれが、私たちが「家族」として収まった最後の肖像画となったのだ。
母が死ぬ前に、あの邪魔な姉を完璧に絵から排除することができた。ああ、私はなんて賢く、運のいい人間なのだろう。
*
姉をこれほどまでに激しく憎むようになったのは、一体いつからだっただろうか。
もはや記憶の輪郭すら朧げな、ごく幼い時分から、私はあの女が許せなかった。
「先ほど、庭園に迷い込んだ子猫の顔をよく見ましたら、左右の目の色が違っていましたの。私、初めて見て驚いてしまいましたわ」
ある日の晩餐。スープを口に運びながら、姉は何気ない様子でそう言った。
すると、厳格な両親が、見たこともないような温かな微笑みを彼女に返すのだ。
「ああ、オッドアイというやつだね。猫には稀にそういう個体が生まれるそうだ」
「まあ、素敵ね。私も見てみたいわ。セシル、その子猫はまだお庭に?」
「ええ。侍女がちょうど今頃、温かいミルクをあげていますわ」
(……何がオッドアイよ。何がミルクよ)
なぜ両親は、こんな何の役にも立たない、一銭の価値もない無駄話を楽しそうに聞いているのか。
私はスプーンを握りしめ、姉をきつく睨みつけた。しかし、当の姉は私の視線にすら気づかない。
耐えかねた私は、大声で三人の会話をぶった切った。
「そういえばお父様、私の新しい侍女、まったく使えませんわ! 今すぐ首にしてくださいませ!」
貴族たるもの、動物がどうだという下俗な話に興じるべきではない。
それよりも私のように、完璧に仕事をこなせない無能な人間を、即座に処分することの方がよほど高尚で正しいはずだ。
しかし、両親は途端に顔を曇らせ、私に困惑した視線を向けた。
「グルジア……お前が侍女を変えるのは、今年でもう三人目だよ?」
「まだ来たばかりの子でしょう? 何が気に入らないのか知らないけれど、もう少し長い目で見ておやりなさい」
いつも、いつも、いつもこうだ。
姉のくだらない雑談には目尻を下げるくせに、私の正当な主張には眉をひそめる。
「嫌ですわ! 私は一分一秒たりとも我慢したくありませんもの! ……そうですわ、お姉さまのあの侍女を私付きにしてくださいませ!」
閃いた。姉が大切にしている、あの小賢しい侍女を奪い取ってやればいいのだ。
姉と仲良くお喋りするような出来損ない、私の手元でたっぷりといびり倒して、自分から泣いて辞めていくように仕向けてやる。想像するだけで、胸がすっとした。
しかし、姉は表情一つ変えず、静かに私を突き放した。
「お断りしますわ。私は彼女と、長い時間をかけて信頼関係を構築してきましたの。……グルジア、あなたも新しい侍女との関係作り、頑張ってちょうだいね?」
慈悲深い聖女のような顔で放たれた、憐れみ混じりのアドバイス。
「くっ……!」
私は奥歯が折れそうなほど歯噛みした。
どこまでも上から目線で私を見下ろすあの女を、いつか必ず、地面にひれ伏させ、泣き叫ばせてやる。
ある日の午後、私は廊下の曲がり角で、お抱えの家庭教師が両親と密やかに話しているのを見つけた。
足音を盗み、壁に背を預けて聞き耳を立てる。
「はい、セシル様はそれはもう優秀で、私の長い教え子人生のなかでも間違いなく一番の天才です。勉強熱心なのは言わずもがな、一を聞いて十を知るという、まさに才気煥発なお方ですな」
「まあ、そうなの」
「ふむ、なるほど、さすがは我が娘だ」
誇らしげな、そして嬉しさを噛み殺したような両親の声が響く。
「……で、グルジアの方はどうだね?」
不意に、父が思い出したように私の名を挙げた。
「は、はい。グルジア様は……その……」
途端に、家庭教師の歯切れが悪くなる。
「何でも遠慮せずに言ってちょうだい」
促す母の声に、家庭教師は意を決したように重い口を開いた。
「……非常に申し上げにくいことですが、勉強に不熱心であるばかりか、態度も極めて不真面目でいらっしゃいます。何より……姉君の勉強を執拗に邪魔なさるのには、一番頭を悩まされておりまして……」
私は物陰で、血が滲むほど唇を噛み締めた。
確かに勉強は嫌いだ。けれど、それをわざわざ両親に告げ口するなんて! 私はまだ子供なのだから、それが普通ではないか。すべては、あの完璧超人ぶる姉のせいで不当に比べられているだけなのに。
結局、私はこの件で直接叱られはしなかった。ただ、それまでの家庭教師は姉専用になり、私には、代わりに絵に描いたような堅物で厳しい老教師が付けられることになった。
勉強がダメなら、別の分野で叩きのめしてやればいい。
私は両親に「剣術を習いたい」と強請った。座学では勝てなくても、身体を動かす武芸なら、あの真面目だけの姉に絶対に勝てる確信があった。
だが、両親は一流の剣術講師を雇うと同時に、「それならセシルも一緒に」と姉も参加させてしまったのだ。
(チッ、余計なことを……!)
忌々しくは思ったが、すぐに考え直した。練習のドサクサに紛れて、木剣で姉を合法的に痛めつけてやればいいだけのことだ。
しかし、私の目論見はまたしても無残に打ち砕かれた。
姉には目を見張るほどの剣術の才能があったのだ。めきめきと上達していく姉の剣技に、私は瞬く間に太刀打ちできなくなった。
ちっとも面白くない。だから、私はすぐに剣術を投げ出してやった。私が辞めた後も、姉は愚直に泥臭い練習を続けているらしい。本当に狂っている。
そうこうするうちに、姉が学園に入学する年齢になった。
仕立てたばかりの美しい制服に身を包み、毎朝嬉しそうに通学する姿。……視界に入るだけで虫酸が走る。
ある日、私は玄関ホールで周りに人がいなくなるタイミングを見計らい、ねっとりとした声で姉に声をかけた。
「お姉さまは本当に感心なことですわ。そのような、頭ばかりが大きくてみっともないお姿でありながら、毎日毎日、健気に学園へ通っていらっしゃるのですもの」
とびきりの嫌味。しかし、姉はやはり、にこりと聖母のような微笑みを浮かべた。
「あなたも来年には入学ね。一緒に通えるのを、今から楽しみにしているわ」
――キィィィ、と奥歯が軋む音がした。
少しでも言い返してきたり、逆上して暴力を振るってきたりすれば、すぐに両親に泣きついて、被害者を演じることができるのに! この女はいつも、姑息にも私の計算をするりとすり抜けていく。
*
そうして憎悪の年月が流れ――ある日突然、父が重い病に倒れた。
お抱えの侍医が暗い顔で告げた見立てでは、もう余命はいくばくもないという。
(チャンスが来たわ……!)
姉のような、ただ真面目なだけの退屈な女に、名門侯爵家を率いる度量などあるはずがない。次代の侯爵に指名されるのは、聡明な私に決まっている。いよいよ、私がこの家の主役になる時が来たのだ。
姉は父の病室に文字通り一日中引きこもり、看病にかこつけて時間を無駄にしていた。若い娘という貴重な時期に、他にやることがないのだろうか?
そんな陰気な姉を尻目に、私は着飾って夜会へと繰り出した。次期侯爵となる私に相応しい、素敵な出会いが待っているかもしれないのだから。
そして、私の目論見は最高の形で現実となった。
華やかな夜会の中心で、なんとこの国の「第二王子」から直々に声をかけられたのだ。
「私は、君の姉君と学園で同級生でね。しばらく姿を見かけないのだが……セシル嬢はお元気だろうか?」
耳を疑う言葉だったが、私はすぐに理解した。
(ああ、なるほど。直接私を口説くのが恥ずかしいから、わざわざ姉の名前を出してきっかけを作ろうとしているのね。なんて奥ゆかしくて可愛い方かしら!)
私は極上の淑女の微笑みを貼り付け、声を潜めた。
「ええ、姉なら元気にしておりますわ。ただ、父の具合が少し悪くて……寂しいのか、病室にずっと引きこもってしまっているのですの」
「そうだったのか。……近いうち、お見舞いに伺っても構わないだろうか?」
「まあ、それには及びませんわ! 大した病ではございませんもの。きっとすぐに良くなりますわ」
私は流れるような動作で、極上の嘘を吐き出した。 こんな素敵で高貴な王子殿下を、あの忌々しい姉に再会させてやるものですか。殿下の隣に立つのは、この私なのだから。
一刻も早く私が「トルエン侯爵」の座を手に入れたい。その一心で、私は父の様子を探るべく、重苦しい空気が漂う病室の扉を押し開けた。
そこには、若い娘のくせにすっかり窶れた顔をして、ぼんやりと椅子に座っている間抜けな姉の姿があった。
私は鼻で笑い、容赦のない言葉をぶつけてやった。
「お姉さま、夜通しこの部屋にへばりついていらっしゃるのだから、少しは退いてくださる? 正直、目障りですわ」
父が息を引き取る前に、私の優秀さをしっかりと刻み込んでおかねばならない。どうせ次期当主に指名されるのは私に決まっているのだから、これは単なる形式的な確認に過ぎないけれど。
私はゆっくりと立ち上がった姉を退けると、その椅子に腰掛け、ベッドの父に向かって楽しげに語りかけ始めた。
「今日、刺繍の指南役にいたく褒められましたの。何とも見事な大輪の薔薇ですこと、と。それに引き換え、お姉さまの針仕事は随分と独創的でいらっしゃること。一体何を 象(かたど) ったものか見当すらつかないのですもの」
姉は何も言わず、ただ静かに佇んでいる。
「それから、本日は第二王子殿下から直々にお声を掛けていただきましたわ。殿下が私を気にかけておいでなのは疑いようもありません。もし、第二王子妃にと乞われたなら、私はどう応じるべきかしら。お姉さまの身の上であれば、天地が覆っても有り得ぬお話ですけれど」
姉は相変わらず、人形のように黙り込んでいる。
「けれど、お父さまのことですもの。きっと私を次期侯爵に指名するお心積もりでいらっしゃるのでしょう? 分かっておりますわ。お姉さまのような無骨な方に、この家を委ねられるはずがありませんものね」
父の呼吸音だけが、不気味に室内に響いていた。
「あら、お父さまの御爪がずいぶんと伸びていらっしゃること。お姉さまったら、四六時中この部屋にへばりついているくせに、何て気の利かないことかしら。お姉さま、早く爪切りのハサミを持ってきてくださらない?」
手出しをするには危うい、お止めなさい、と姉が偉そうに指示をする。私は父の従者へ直ちに道具を持参するよう命じた。
そうして手に入れたハサミを、横たわる父の指先へあてがう。
そのような真似は看病人に委ねなさい、と重ねて言葉を放つ姉を、私は「五月蠅いわね、私の邪魔をしないで頂戴!」と一喝した。
――その直後、一条の鮮血が室内に飛び散った。
私は即座に思った。姉のせいだ。
私は溢れ出る血に一瞬たじろぎながらも、即座に確信した。この女が余計な邪魔をするから、手元が狂って父が怪我をしたのだ。
本当にどこまでも目障りな疫病神。私が爵位を得たら、真っ先にこの家から叩き出してやろう。
そうだ、何もない極寒の修道院にでも幽閉してやるのがお似合いだわ。
「ああ、いけない。今宵も華やかな夜会があったのだわ! また第二王子殿下にお会いできるかもしれないのに」
私はシーツに広がる赤黒いシミから目を背け、大急ぎで着飾るために病室を飛び出した。
*
「あーあ、本当につまらない夜会だったわ。第二王子殿下もいらっしゃらなかったし、時間の無駄だったわね」
ドレスの裾を揺らし、一人ごちながら邸宅に帰ると、出迎えた執事が今まで見たこともないような、酷く固い顔をして私を見つめていた。
「グルジアお嬢様、一体どちらに行かれていたのですか。……先程、旦那様がお亡くなりになりました」
「うるさいわね。とっくに亡くなるのは知っていたわよ。それが、たまたま今日だっただけでしょう?」
私の正論に対し、執事は深く、重い溜息をついた。そして何も言わず、事務的に頭を下げてその場を立ち去った。
(フン、本当に躾のなっていない使用人だこと。主となる私に向かってあんな態度を取るなんて。私が正式に侯爵になったら、真っ先に解雇して路頭に迷わせてやるわ)
翌々日、邸宅では厳かに葬儀が執り行われた。
私は次期当主としてのプライドを胸に、参列者の前でこれ以上ないほど立派に振る舞ってやっていた。
それなのに、例の生意気な執事がまたしても私の前に立ちはだかったのだ。
「喪主はセシルお嬢様ですので、グルジアお嬢様は、こちらへ……」
そう言って、私を姉の後ろへと手招く。
あまりの無礼さに、私の理性の糸が弾け飛んだ。
「黙りなさい、使用人風情が! 私を誰だと思っているの!?」
私が激昂して怒鳴りつけると、騒然としていた会場は一瞬で水を打ったように静まり返った。
誰もが私を見つめている。
ほら見なさい、私の威厳に圧倒されたのだわ。
しかし次の瞬間、私の背後から、鈴の音のような声が響いた。
「グルジア。貴女に、喪主としての然るべき挨拶の用意があっての所行ですか?」
「え……?」
挨拶の用意? そんなもの、しているはずがない。
そもそも、喪主が参列者の前で挨拶をしなければならないなんて、今の今まで知りもしなかった。
言葉に詰まった私を見て、周囲の貴族たちの視線が「侮蔑」と「憐れみ」を孕んだものへと変わっていく。
私は屈辱に顔を真っ赤に染めながら、仕方なく姉の背後へと退がった。
(……よくも私に恥をかかせたわね……!)
葬儀の最中、私は前を向く姉の背中を、恨みを込めた眼差しで睨みつけ続けた。周囲の参列者たちの何人かが、そんな私の表情に気づいたかもしれないが、それがなんだというのだろう。
*
父の葬儀から数日後。
司法省から遺言執行人が、数人の厳めしい騎士を連れて当家を訪れた。
彼は広間に親族を集めると、厳粛な面持ちで、父が遺した最後の意思を読み上げ始めた。
『トルエン侯爵家の爵位、領地、および一切の財産を、長子セシルへと譲渡する。
次子グルジアについては、本日を以てトルエン侯爵家より廃籍とし、本人の私物以外の資産の持ち出しを厳に禁ずる。直ちに当館より退去させ、以後、二度と門をくぐることを許してはならない』
静まり返る広間で、私の頭は真っ白になった。
(やられた……! そんなはずがない、父がこんな遺言を残すわけがないわ!)
「狂言だわ! 偽造よ!」
私は、遺言執行人と姉のセシルに怒髪天を突く勢いで詰め寄った。
「狂言ではございません。私自らがこのお邸へ参上し、生前のトルエン侯爵閣下より直接手渡された、正真正銘、司法省公認の遺言書でございます」
執行人は表情一つ変えず、淡々と応じる。
「信じられるものですか、でっち上げよ! お姉さまと裏で手を組んで、書き直したに違いないわ!」
「私がしかと見届けております。旦那様が遺言を認め、署名なさるその瞬間まで、私はその傍らに仕えておりました」
一歩前に出た執事が、冷たい声で私を突き放す。
(こいつも、こいつもグルなのだわ……! 全員で私をハメたのよ!)
「そんなはずはないわ! お父様が愛していらしたのは、優秀な私だけよ!」
私は叫び、精一杯の抵抗を試みた。
しかし、執行人が同行させていた大柄な騎士たちに、両脇をがっしりと固められる。
そのまま、引きずられるようにして慣れ親しんだ我が家から連れ出されてしまった。
粗末な馬車に押し込められ、連れて行かれたのは、みすぼらしい留置所のような灰色の部屋だった。 貴族であるこの私を犯罪者のように扱うなんて、信じられない。
私は憤慨し、扉を叩いて怒鳴り、叫び散らしたが、誰も来なかった。
どれほど時間が経っただろうか。やっと入ってきた一人の不機嫌そうな男が、床にドサリと一つの鞄を投げ捨てた。
「お前の荷物だ。それを持ってさっさと立ち去れ」
男のあまりにもぞんざいな物言いに、私はすかさず言い返す。
「お前、名前は何というの!? 我がトルエン侯爵家から正式に抗議させていただくわ。不敬罪での処罰は必至ね!」
すると男は、哀れな狂人を見るかのように、鼻で馬鹿にしたように笑った。
「お前はもう、トルエン侯爵家から廃籍されているのを忘れたのか? ……ただの平民のくせに、令嬢ぶってんじゃねえよ」
「なっ……!」
悔しさに、爪が手のひらに食い込んで血が滲むほど拳を握りしめた。
しかし、私は言い返す言葉も持たぬまま、冷たい雨の降る路地へと文字通り放り出されてしまった。
「二度とあのお邸に近づくんじゃねえぞ。もしやったら、次は本物の監獄行きだからな!」という薄汚い怒声と共に、扉はピシャリと閉ざされた。
*
手元にあるのは、鞄に詰め込まれた数枚のドレスといくつかの宝石だけ。
私は渋々、薄暗い裏路地にある質屋の門を叩いた。
差し出した最高級のシルクドレスは、信じられないほど安い値段で買い叩かれた。足元を見られているのは分かっていたが、今の私に抗議する術は無かった。
その僅かな小銭で、その日からの薄汚い宿代と、口に合わない食事代を支払う。
何か仕事を、などとは微塵も思わなかった。誇り高き侯爵家の令嬢であるこの私が、汗水垂らして労働など、天地がひっくり返ってもあり得ない。たとえ安く買い叩かれたとしても、残りのドレスや宝石を少しずつ売れば、歳を取って死ぬまでの宿代と食事代くらいには困らないはずだ。
それに……そのうち私の美貌と才気を見込んだ誰かが、足元に跪き、喜んで援助を申し出るべきなのだから。
――誰か。私はベッドの上で必死に考えを巡らせた。
(そうだわ……! 第二王子殿下にお願いすればいいんだわ!)
あの夜会で、私を熱い眼差しで見つめ、気遣ってくださった殿下だ。きっと私のこの痛ましい窮状を知れば、深く心を痛め、姉の非道な所言を諌めて私を救い出してくださるに違いない。
私は辻馬車を拾い、王宮へと向かった。
しかし、眩い黄金の正門に辿り着いた瞬間、私の淡い期待は打ち砕かれた。甲冑を着た門番たちに、まるで野良犬でも払うかのように軽く追い払われてしまったのだ。
「無礼者! 私をトルエン侯爵家の者と知って、そんな態度を取るのですか!?」
私が馬車から顔を出し、毅然と言い放つ。
しかし、門番たちは一瞬呆気にとられたあと、下品に顔を見合わせた。
「ははっ! その高貴な侯爵家のお嬢様が、こんなボロい辻馬車で、しかも一人でお出ましとは……恐れ入りますな」
彼らは腹を抱えて爆笑した。
そして、引き攣る私を無視して、馬車の御者に向かって
「おい、痛い目に遭いたくなければ、その狂人を乗せてさっさと失せろ!」と槍を突きつけた。
怯えた御者は急いで馬車を走らせ、王宮から十分に離れた場所で私に降りるよう促した。
追加の金銭を渡すと、「……次はどちらへ?」と御者はひどく拗ねたように、冷ややかな声を出す。
私は屈辱に耐えながら、学園の同級生の中で最も爵位の高い、ある公爵家の名を口にした。
あそこの令嬢なら、私の優秀さを知っているはずだ。 御者は黙って頷くと、馬車を走らせた。
しかし――その絢爛豪華な公爵家の門前でも、私は名前を名乗っただけで、中に入れるどころか取次ぎすら拒否され、冷たく門前払いされたのだった。
五、六軒の貴族の邸宅を回り、そのすべてでゴミのように門前払いされた後、辻馬車の御者はついに呆れ果てたように吐き捨てた。
「お嬢さん、もういい加減に諦めなよ。どこへ行ったって同じさ」
その言葉に、私はようやく、認めたくなかった現実を突きつけられていた。
社交界には、すでに私がトルエン侯爵家を廃籍になったという事実が、最悪な形で知れ渡っているのだ。誰も落ちぶれた元令嬢などに関わりたくないのだ。
それからの私は、現実から逃げるように、浴びるように酒を飲むようになった。
安宿の狭い部屋で、あるいは薄汚い居酒屋の片隅で、毎日正体がなくなるまで泥酔し、あくる日も頭痛と共に目覚めてはまた同じように煽る。気が付けば、あの輝かしい我が家を追い出されてから、瞬く間に一年ほどの歳月が流れていた。手元の宝石もドレスも、ほとんどが酒代へと消えていた。
そんなある日、場末の居酒屋で、酒を煽っていると、隣の席にいた男たちの下俗な会話が、嫌でも耳に飛び込んできた。
「おい、聞いたか? 第二王子殿下の噂」
「ああ、てっきり外国の王女様の婿にでもなるのかと思っていたが、違ったんだろ?」
「なんでも、学生時代からずっと片思いしていた同級生の令嬢に、熱烈にプロポーズして婿入りするんだってなぁ」
「王女様なら『降嫁』って言うが、王子様が臣下に婿入りする場合は何て言うんだ?」
「さあな。とにかく、若くして家を継いだ麗しき『女侯爵』の婿に収まるって話らしいぜ」
「何て家だったかな、その令嬢の生家は」
「確か……トルエン侯爵家だ」
ゴトッ、と手元のグラスが床に落ちて割れた。
頭の中で、すべての血が激しく逆流していくような凄まじい衝撃が走る。
(あの女……!!)
第二王子が愛していた同級生?
私を気にかけていたはずの殿下を奪い、女侯爵としてすべてを手に入れ、幸せの絶頂にいると?
許さない。絶対に許さない。殺す。あの女を、殺すしかない。
私は殺意に突き動かされ、身をやつして裏通りの怪しげな武器屋へと向かった。
そして、黄色火薬を買い求める。火薬の筒に長い導火線が繋がったものだ。
顔を隠した私を、武器屋の主人は「おいおい、まともなご婦人が火薬なんか買って一体何をするんだ?」と胡散臭そうに睨んできたが、私はなけなしの金を無理やりその汚い手に握らせて無理矢理黙らせた。
手に入れたばかりの火薬を抱え、私はかつての実家、トルエン侯爵邸へと向かう。
作戦は至ってシンプルだ。
あの女が乗る侯爵家の馬車を待ち伏せし、導火線に火を付けた火薬を窓から投げ込んで、馬車ごと爆破してやるのだ。
姉さえ死ねば、トルエン家の血を引く正当な生き残りは私だけになる。
そうなれば、あの遺言は姉・セシルが改竄したものだったと国に訴え出て、もしかしたら、あの壮麗な家も爵位も私のものになるかもしれない。
いや、たとえそれが叶わなくても構わない。あの忌々しい姉を、この手で無残に殺すことができれば、それだけで私の乾いた心は十分に満たされる。
私は火薬をボロ布に包んで懐深くへと押し込み、侯爵邸の周囲で見張りを始めた。
今の私は、一年間の放蕩ですっかり痩せこけ、服もひどく安物だ。たとえ見つかったとしても、これがかつての美しき侯爵令嬢グルジアだと見破る者など、誰もいないだろう。それがひどく好都合だった。
だが、無情にも数日が過ぎても、侯爵家の紋章が入った馬車が正門から出入りする気配は全く無かった。あの女、引きこもっているのか?
痺れを切らした私は作戦を変更し、屋敷の裏手にある通用門へと回った。
出入りの商人が入る一瞬の隙を突き、こっそりと邸内へ忍び込んでやるのだ。
そして、ついに絶好の機会が訪れた。
商人らしき男が、慣れた様子で荷馬車でやって来たのだ。
門前で一旦馬車が停められ、その男が門番と書類を交わしているその隙に、私は音もなく荷台へと駆け上った。そして息を殺し、大きな荷物の隙間へと身を潜める。
やがて、門番が不躾に荷台の中を覗き込んできた。心臓がうるさいほどに鳴り響く。
「……よし、通っていいぞ!」
門番の声がして、馬車がガタリとまさに動き始めようとした、その瞬間だった。
もう一人の門番が、鋭い声をあげて馬車を制止した。
「いや、待て。おい、何か不審な匂いがしないか?」
私は思わず、ドクンと跳ねる自分の懐を両手で押さえた。
(匂い……? まさか、この火薬の匂い……!?)
「おい、奥の方をもう一度よく調べろ」
門番たちの足音が、荷台の床を鳴らしてこちらへ近づいてくる。一歩、また一歩。
――あと一歩で見つかる、というその刹那、私は門番たちの間をすり抜け、荷台から飛び出し、小さく開いた門の中へと駆け出した。
手には、ボロ布に包んだ火薬をしっかりと握りしめている。
「おい! 待て! 曲者だっ!」
背後から怒声が響き、門番たちが血相を変えて追いかけてくる。
しかし、私はこの敷地で育ったのだ。私は彼らの追跡を振り切り、幼い頃にたまたま見つけた、庭園の中ほどにある大木の洞の中へと滑り込んだ。
狭く暗い洞の中で、私は膝を抱えて呼吸を整える。
すぐ外の周りからは、無数の足音と「あっちへ行ったぞ!」「怪しい女を探せ!」という騒がしい怒号が飛び交っていた。彼らは今、必死になって私を探しているのだ。
外がすっかり静まり返り、追っ手の気配が遠のいたのを見計らって、私は窮屈な木の洞から這い出た。
そのまま影に潜みながら屋敷の裏手へと回り、厨房へと滑り込む。
ここで火種を盗み、姉の部屋に点火した火薬を投げ込んでやるのだ。さっき逃げ回った際、不覚にも私物の火打ち石を落としてしまったからだ。
私が燃え盛る竈から炭バサミで火のついた炭を掴もうとしたそのとき、「あら、あなた見かけない顔ね。新入りの下働き?」と、若い女の声が背後からした。
落ちぶれて薄汚れた私を、使用人だと勘違いしているのだ。私はまともに相手をするのも忌々しく、声を無視して手近にあった陶器のカップに熱い炭を放り込み、素早くその場を立ち去った。
だが、しばらく歩いたところで、私は耐えかねて地面にカップを落とした。
炭が熱いのは当然知っていたが、それを入れたカップの持ち手まで、これほど一瞬で白熱するとは思いもしなかったのだ。痛む指先を睨みつけながら、私は激しい焦燥感に駆られた。
猶予はない。私は懐からボロ布に包んだ火薬を取り出すと、その長い導火線の端を、地面に転がった炭の火種へと押し付けた。
じりじりと火花が散り、パチパチと不気味な音を立てて導火線が勢いよく燃え始める。
(これで終わりよ、お姉さま!)
これを持って姉の部屋へ走ろうと、人の気配がない勝手口へ一歩を踏み出した、その瞬間だった。
「おい、いたぞ! 曲者はここだっ!」という鋭い怒声と共に、私は一瞬にして数人の屈強な私兵たちに囲まれた。
抵抗する間もなく、彼らは一斉に私に飛びかかり、その場に組み伏せた。私の手から離れた火薬の導火線は、無慈悲にも重いブーツの底で幾度も踏みつけられ、消し止められた。
「無礼者! お前たち、私に触るな! お退きなさい! 私を誰だと思っているの!?」
地面に這いつくばりながら私が狂ったように叫ぶと、男たちはただ冷淡に見下ろし、「完全に狂ってやがるな」と吐き捨てた。
私の身柄は即座に騎士へと引き渡され、光の届かない冷たい地下牢へと連行された。
暗湿な牢獄に繋がれて十日後。鉄格子の向こうから、看守が事務的な声で私に判決を告げた。
「おい、お前の刑が決まったぞ。罪状は現職のトルエン侯爵暗殺未遂。……当然だが、絞首刑だ」
*
そして、今。
突き抜けるような青空の下、私は大勢の群衆が見守る絞首台の階段を、一歩ずつ上っている。
首に荒い麻縄がかけられる。群衆のなかには、あの忌々しい姉・セシルも、使用人たちの姿もないだろう。
私はトルエン侯爵家とは無関係の一人の狂った女として処刑されるのだ。
激しい憎悪で視界が真っ赤に染まる中、私は心の中で冷たく笑う。
ああ、神様がいるのなら聞いて頂戴。
もし次があるのなら、私は生まれ変わっても、またあの女の妹になって生まれたい。
そして、その時こそ――今度こそ、あの澄ました顔を絶望に歪めさせ、私の手でじわじわといびり殺してやる。
私はフフフと笑った。そのとき、視界が反転し、私の意識は永遠の闇へと落ちていった。