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作品タイトル不明

遊子吟

永禄二年(1559年) 八月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 慶寿院

義輝と美作守が得意げな表情をしています。春日局も得意そうです。そして侍従はそんな三人を憐れむように見ていました。

「関東管領は関東公方を補佐するのが役目、そして関東公方が統括するのは関八州に伊豆、甲斐、陸奥、出羽を加えた十二カ国、でおじゃりましたな」

「そうだ。弾正少弼には信濃への介入も認めた。弾正少弼が差配するのは十三カ国だ」

義輝の得意気な表情は止まりません。そして侍従の憐れむ様な表情も変わりません。

「関東を制圧するとなればそれに抵抗するのは北条氏、そして北条氏と同盟を結ぶ武田氏、今川氏でおじゃりましょう。公方、貴方様が彼らに付いて、彼らの治める領国について知っている事を麿に教えては頂けませぬか?」

義輝が訝しげな表情を浮かべました。義輝だけでは有りません。美作守、春日局、毬も訝しげな表情をしています。

「武田は新羅三郎義光の血を引く甲斐源氏の嫡流だ。当主信玄は甲斐一国から信濃の大部分を攻め取り当代の名将として名が高い」

「他には?」

義輝が“他?”と困惑した声を上げました。

「有りませぬか、では北条は?」

「今から百年程前、幕府の御家人であった伊勢新九郎が駿河の今川氏の混乱を収めそれ以来関東に勢力を伸ばす様になった。十五年程前には扇谷上杉家を滅ぼし山内上杉家を越後に追った。それ以来関東を我が物顔に支配しておる。許せぬ奴よ」

「……」

「今川は御一家吉良氏の分家じゃ。代々駿河の守護を務め駿河、遠江、三河に勢力を伸ばす足利の一門じゃ。今は武田、北条と盟を結んでいるが弾正少弼が関東を制すれば必ずこちらに味方しよう」

「なるほど」

侍従が私を見ました。

「慶寿院様、言葉は飾りませぬがよろしゅうおじゃりますな?」

「……構いませぬ」

一瞬躊躇いました。それが分かったのでしょう、侍従が一つ息を吐きました。

「伊勢氏が何故北条の姓を名乗ったか? 伊勢氏は関東では余所者、京からの流れ者と蔑まれたからでおじゃります。関東で生きて行こうとした伊勢氏にとっては伊勢の姓は不都合でおじゃりました。だから伊勢を捨て北条を名乗りました。かつて鎌倉幕府の執権として関東を制した北条の名を……」

「……」

「そして古河公方を擁し関東での勢いを強めつつある。彼らは自分達をかつての北条氏になぞらえているのです。北条氏の当主氏康殿は相模守を、先代の当主氏綱殿は左京大夫を名乗りましたがいずれも嘗ての執権が好んで名乗ったものでおじゃります。お分かりでおじゃりますかな、公方? 関東は古河公方と執権である北条氏が治める。関東管領などは必要ないと言っているのです。関東管領職の任命権は公方におじゃりましたな。しかし彼らはその関東管領を否定しているのです。当然ではおじゃりますが貴方様の事等認めてはおじゃりませぬ」

義輝が唇を噛み締めました。

「そして武田家の事、貴方様は何も御存じない」

「何を知らぬというのだ」

押し殺した声です。余程に怒っているのでしょう。ですが侍従は反発も怯えもしませんでした。微かに口元に笑みが有ります。苦笑でしょう。

「甲斐が貧しいという事でおじゃります」

「……貧しい……」

義輝が呟きました。訝し気な表情をしています。侍従が何を言いたいのか分からないのでしょう。

「そう、甲斐は貧しいのです。山国で天候不順による 旱魃(かんばつ) 、冷害、河川の氾濫による被害が非常に酷い。例年の様に不作、凶作が発生しておじゃります。当然ですが百姓達は酷く貧しい。食えずに餓死する者も居れば生まれて来る子を間引く親も居る」

“間引く?”と春日局が呟きました。

「殺すのです。生まれて来た子を水に流す、土に埋める。……惨い事でおじゃります。しかし食べる物が無く育てる事が出来ぬのです。自らも餓死しかねぬ程に食べる物が無いのです。それほどまでに貧しい」

シンとしました。皆が顔を強張らせています。私も強張っているでしょう。不作、凶作という言葉の意味は分かりますが実感は湧きませんでした。しかし餓死、生まれて来た子を間引く、その言葉には言いようのない重苦しさが有りました。甲斐は貧しいのだとはっきりと実感しました。

「甲斐には食べる物が無い。ならば如何するか? 簡単な事でおじゃります。食べる物が有るところから奪えばよい。武田が信濃に攻め込んだのはそれが理由でおじゃります。大きくなるためでも強くなるためでもなかった。武田は甲斐の領民を食わせるために信濃に攻め込んだのです。そして信濃の国人達からその領地を奪った」

「……」

「簡単な事ではおじゃりませぬぞ。大敗を喫し重臣達が何人も討ち死にした事もおじゃります。兵も大勢死んでいるのです。しかし武田も甲斐の領民達も信濃攻略を諦める事は無かった。貧しさと餓えから抜け出すために死に物狂いで戦ったのです。そして北信濃へ攻め込み長尾弾正少弼殿と対峙する事になった……」

侍従が義輝に“お分かりかな?”と問いかけました。優しげな声でしたが眼には刺すような光が……。義輝が怯みを見せると侍従が低い声で笑いました。

「武田は弾正少弼殿の関東制圧など認めませぬ。もし弾正少弼殿が関東を制圧すれば次は自分だと分かっているからでおじゃります。信濃を攻め取られれば武田はまた飢えと貧しさに喘ぐ事になる。武田には受け入れられぬ事におじゃりましょう。弾正少弼殿が関東に攻め込めば必ずや武田は北信濃で事を起こしましょうな。越後へ攻め込む姿勢を見せるやもしれませぬ」

義輝が、美作守が呻きました。

「北条も諦めますまい。武田が居る以上、北条は孤立していないのです。むしろ好機と思うやもしれませぬ。長尾を打ち払えば関東管領の権威を打ち砕けるのですから」

関東管領の権威を打ち砕く、つまりそれは足利の権威を打ち砕くという事でしょう。益々呻き声が強くなりました。

「今川も当てには出来ませぬ。公方、今川仮名目録を御存じでおじゃりますか?」

「今川仮名目録? 今川氏が領内を治めるために作った法であろう」

義輝が答えると侍従が頷きました。

「先年、治部大輔殿が条目を追加しました。その中には幕府が義務付けた守護不入を否定する条目もおじゃります」

侍従の言葉に義輝と美作守が“なんと”、“まさか”と声を上げました。侍従が笑い出しました。声を上げて笑っています。嘲笑では有りません、憫笑でした。侍従は義輝の無知を笑っていました。

「今川は足利の一門、自分の頼みを聞いてくれるだろう等という甘い考えはお捨てになる事です。むしろ今川でさえ幕府を否定したと考えられた方が良い」

「……」

「貴方様は弾正少弼殿に数々の特権をお与えなされた。しかしその特権を認めぬ者達が居る。それが現実でおじゃります」

「しかし、信濃の者達の中には弾正に太刀を献上する者も居ると聞いた。弾正が予に嘘を言う筈が無い!」

義輝の言葉に侍従がまた笑いながら首を横に振りました。

「身代の小さい者は身代の大きい者の機嫌を常に取ろうとするのでおじゃります。それに北条の勢威を憎み余所者と蔑む者もおりましょう。そういう者達は喜びましょうな。幕府のため、貴方様の為ではおじゃりませぬ。そして太刀を贈ったからと言って味方になると決まったわけでもない。判断を誤れば家を滅ぼす事になるのです、好き嫌いで決める事が出来ると御思いか? 例え嫌いでも頭を下げる、そうでなければこの乱世を生き残れませぬ」

「……」

「北条、武田、今川、いずれも自分に利が有るとなれば貴方様の命に従いましょうがそうでなければ平然と無視致しましょう。そしてそれは北条、武田、今川に留まりませぬ。多くの者が同じでおじゃります」

「……」

侍従が笑うのを止めました。そして私を見ました。

「これでよろしゅうございますか?」

「有り難うございました」

「太閤殿下とは月に二回、御台所のご機嫌伺いに室町第へ赴く約束でおじゃりましたが今日で最後とさせて頂きます」

毬が声を上げましたが“静かにしなさい”と窘めました。

「分かりました。兄には私からその事を伝えましょう」

侍従が頷きました。

「それと西洞院大路の邸でおじゃりますが麿は遠慮致しますので誰か適当な方にお与え下さい」

侍従が義輝に視線を向けると義輝が無言で頷きました。室町第への来訪の取り止めも邸の辞退も幕臣達が危険だと思ったのでしょう。多分、義輝達は納得せず不満を皆に漏らすと思ったのです。その不満を聞いた者達が如何思うか? 第二、第三の糸千代丸が現れる事を怖れた……。

「ではこれにて失礼いたしまする」

「玄関まで送りましょう」

侍従が眼元に笑みを浮かべました。

「お気遣い、忝のうございまする」

私が先導して玄関へと向かいました。

「侍従殿、御身お大切になされませ」

「貴女様がそれを申されますか?」

背後から苦笑いが聞えました。しかし声に咎める色は有りませんでした。

「済まぬ事をしたとは思います。しかし公方の目を覚ますには他に手が……」

「……麿よりも貴女様がお気を付けられた方が良いでしょう。口煩い母親というものは何処の家でも疎まれるものです」

「……そうかもしれませぬ」

寂しい事です。義輝の事を思えば思う程距離を感じてしまう自分が居る……。

歩いているうちに玄関に着きました。幕臣達が何人か居ます。私の姿を見て気まずそうにしました。来て良かった。この者達は侍従に危害を加えるか、或いは侮辱を加えようとしたのでしょう……。侍従がクスッと笑いました。

「御見送り、有り難うございました。この御好意、決して忘れませぬ」

「いえ、礼を言うのはこちらでございます。有り難うございました」

互いに顔を見合わせました。或いはこれが最後となるかもしれませぬ。会った回数は少ないですが私は侍従を忘れる事は無いでしょう。いえ、死ぬまでこの少年を忘れる事は無いと思います。

「失礼致しまする」

侍従が去っていきます。部屋に戻ろうと思った時声が聞えました。

“慈母 手中の線 遊子 身上の衣”

遊子吟です、胸を衝かれました。息子を思う母の気持ち、その母を思う息子の気持ちを述べた詩……。義輝に私の気持ちは通じなくても侍従には通じている。涙が眼に滲みました。

“行に臨んで密密に縫い 意は恐る 遅遅として帰らんことを 誰か言う 寸草の心 三春の暉に報い得んと”

堪りませぬ、嗚咽が漏れ涙が零れます。自然と頭が下がりました……。

永禄二年(1559年) 八月下旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 近衛前嗣

室町第での事の次第を伝えると父が“そうでおじゃったか”と言った。

「叔母上が父上に詫びておられました。父上の配慮を無にする事になってしまったと」

“已むを得ぬ事よ”と父が首を横に振った。

「公方に状況の厳しさを教えるにはそれしかないと思っての事でおじゃろう。麿も同じ事を何度か考えた。慶寿院を責める事は出来ぬ」

「はい」

毬を足利家に嫁がせたが毬と公方の仲は必ずしも睦まじくはない。むしろ二人の溝は広まりつつある。父にとっては誤算であっただろう。侍従を傍に置いたのは奔放な毬への抑えも有ったが公方や幕臣に毬を蔑ろにさせぬ事、侍従を利用して朝廷工作をさせるのが目的であった。そういう方向にもっていく、少しずつ少しずつ侍従と足利の距離を縮めるのが狙いであったが……。上手く行かぬ、幕臣達の侍従を敵視する姿勢を強い。侍従を朽木家から追ったという事で恨まれているという不安が強いのかもしれぬ。

「毬の事は麿が何とかしよう」

「御心労をお掛け致しまする」

父が苦笑を浮かべた。

「なんの、子の面倒を見るのは親の役目よ。そなたが気にする事は無い。それより公方の事、如何でおじゃった」

思わず溜息が出た。

「以前に比べれば、楽観の度合いは減ったと思いまする」

「そうか……」

父が頷いた。

「なれど関東制圧は成るという想いは強いと見ました。麿は必ずしも簡単ではないと強く諭しましたが……」

「納得はしなかった、そうだな?」

「はい」

父が渋い表情をしている。自分も同様だろう。

この一月、公方と幕臣達が浮かれまくった。関東制圧は成ったも同然、三好を討ち果たし積年の恨みを晴らす日も近いと燥ぎまくった。そして六角、畠山、朝倉に文を出した。弾正少弼が上洛するときは呼応して三好を討てと……。余りにも軽率に過ぎる。三好は関東制圧は成らぬと見ている。なればこそ放置しているが危ういと疑念を持てばどうなるか……。

「関東制圧が成ったとして父上は本当に三好を討つつもりでおじゃりますか?」

父が首を横に振った。

「畿内で大戦を起こすべきでは無かろう。それでは応仁・文明の乱同様畿内は荒れ果てかねぬ。麿が考えているのは上杉と三好、それに六角、畠山、朝倉が協力する事で天下を安定させ幕府を再興する事だ。そう、必ずしも上杉が上洛する必要は無い。その可能性が有るというだけで三好は公方を蔑ろには出来ぬ筈だ」

「……」

「勿論、上洛して公方を助けるというなら重畳よ。公方も心強かろう。昔のように大名達が在京し公方を助けるというようになるやもしれぬ。そのためにも三好を追い払うのではなく幕府の中に取り込むべきだと麿は思う」

ゆっくりとした口調だ。或いは自分の考えを確かめながら喋ったのかもしれぬ。しかし大名達が在京する? なかなかに難しいだろう。

「公方は三好を討つ事を諦めますまい。それに三好も公方を忌諱しておじゃります。あれは自らが武家の棟梁となる事を望んでおりましょう」

「……」

「父上のお考えのようにはならぬやもしれませぬ」

多分ならない。畿内は戦で荒れる……。

「かもしれぬの、そなたは如何思うのだ?」

父が私をジッと見た。

「分かりませぬ。戦は避けるべきだとは思いまするが可能とも思えませぬ。如何すればよいか……」

父が“フフフ”と笑った。

「やれやれよな。関東制圧どころか未だ下向もせぬというのに……」

「左様でおじゃりますな。問題ばかりが山積みで」

二人で声を合わせて笑った。

「分らぬ事ばかりよ。先の事を悩むよりも眼の前の事を一つづつ片付けるべきでおじゃろう」

「その通りかと思いまする」

「室町第の事は良い、後は麿が引き受ける。越後へ下向する準備は出来たか?」

「はい、秋の除目も漸く纏まりました」

父が“ほう”と声を上げた。

「遅れていたが漸く纏まったか」

「はい、月が変われば公になります」

本来なら八月の内に行うものだったが……。

「目玉は?」

「飛鳥井侍従基綱を従五位上、右近衛権少将へ。同じく飛鳥井侍従雅敦を従五位上、左近衛権少将へ」

父がまた“ほう”と声を上げた。

「それに飛鳥井左衛門督を権中納言へ」

「ほほほほほほ、飛鳥井一門は目覚ましい出世じゃな」

「皆が羨みましょう」

侍従にはこれからも力を貸して貰わなければならぬ。このくらいはせねば……。父も笑い声を上げているが眼は笑っていない。

「近衛と飛鳥井を結び付けるか。しかし、そなたの留守を預かるには少々役不足よ」

「……」

「今一つ、工夫が必要じゃのう」

父がニイッと唇の端を上げて笑った。