軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

一人勝ち

永禄二年(1559年) 八月上旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 飛鳥井基綱

「暑いわねえ」

御台所毬がバタバタと扇子を扇いでいる。そりゃ暑いだろう、そんな何枚も文袿を掛けていたら。毬が不思議そうな表情で俺を見た。

「侍従殿は暑くないの?」

「暑いです」

その暑い中をわざわざ来たんだ。少しは感謝しろ!

「でもあまり汗をかいてないわね」

「そうですか」

首筋を濡れた布で冷やしながら来たからな。多少は違う。

今日でご機嫌伺いは四度目だ。大体半刻ほど室町第に居て帰る。もう小半刻は過ぎたからあと小半刻だ。我慢、我慢……、我慢出来るか! うんざりだ!

来る度に幕臣達に胡散臭そうな目で迎えられる。摂津糸千代丸は噛み付きそうな目で俺を見る。多分今も誰かが俺と毬の会話に聴き耳を立てているに違いない。何考えてんだか、お前らがこの女の相手をまともにしないから俺が来る事になったんだろう。俺はお前らの尻拭いをさせられてるんだ。少しは感謝しろ! 室町第には感謝の気持ちの無い奴が多過ぎる!

毬によると室町第での俺の評価は三好筑前守義長との会談以降、更に悪くなる一方なのだそうだ。俺が義長を高く評価した事が面白くないらしい。確かに褒めたよ、なかなかの人物だってな。しかし京の街中では次期三好家の当主に相応しい逸材だと俺がべた褒めしたと言われているらしい。多分、三好側の宣伝工作だろう。会談をセッティングしたのは松永弾正だった事から察すると弾正がやっているのだと思う。

何故ならだ、俺は公方に会っても一言も褒めなかったという噂も流れているからだ。三好の次期当主は出来物だが公方は盆暗だと俺を使って比較しているのだと思う。もう一つ、妙な噂も流れている。三好筑前守義長が俺の事を若年ながら知力、胆力に優れた人物だと褒めているという噂だ。これも宣伝工作の一つだろう。互いに認め合ったと言いたいに違いない。もしかすると三好孫四郎への対策かもしれない。だとすると孫四郎は未だ俺を危険視しているという事になる。少ししつこいな、あの親父。

「最近兄上がいらっしゃらないの。越後への下向の準備で忙しいみたいね」

「麿もそのように聞いております。なんでも九月の中頃には京を出るとか。色々と準備が有りましょう」

ちょっと寂しそうだ。普段煩いくらいに活気のある人間が沈んでいる、そういう姿を見ると可哀想だなと思う。その時だけだけどな。

「重陽の節句が済んでからね」

「はい」

沈んでいた毬が不意に邪悪な笑みを浮かべた。良からぬ事を企んだな。嫌な予感が……。

「九日にいらっしゃいよ。菊の着綿で身体を拭いてあげるわ」

「馬鹿な事を申されてはなりませぬ。御台所が拭くのは公方の身体でおじゃりましょう」

「良いのよ、公方の身体を拭きたがる人は他にもいるの。それに私が拭くと言っても公方が嫌がるわ」

重陽の節句、九月九日なのだがその前夜に菊の花の上に真綿をかぶせると翌朝には夜露と菊の香りが染み込む。これを菊の着綿といってその真綿で身体を拭い無病息災と不老長寿を願う。元々は宮中の習慣だったんだが今では公家や上級の武家達が自分達の家で行っている。養母が俺の身体を拭きたがるんだ。嫌なんだけど無病息災と不老長寿を願っての習慣だから断れない。そうすると春齢も一緒に拭こうとする。勘弁して欲しいよ。許嫁だけどそっちは主筋の娘なんだから。俺はそんなに図太くない。

「……たとえそうでも言うべきでおじゃります」

本当なら強く言うべきなのだろう。だが言えなかった。強がっていても何処かに寂しさが有る。毬は室町第で自分の居場所が無いと感じているのかもしれない。近衛の家に帰りたがるのもその所為だろうな。いかんな、はっきり言わなければ。

「御正室である御台所を差し置いて公方の身体を拭くなど僭越以外の何物でもありますまい。左様な振舞いを許すべきではおじゃりませぬぞ!」

「……でも」

「もし、公方やその周辺が嫌がるようならはっきりと申されませ。上の者が秩序を守らぬのなら下の者に秩序を守らせる事は出来ぬと。天下の乱れを嘆く資格もなければ三好の専横を不満に思う資格も無いと!」

「……」

「それでも貴女様を蔑ろにするようなら足利は近衛を必要としていないという事でおじゃりましょう、離縁して近衛家にお戻りなされよ! 関白殿下も越後下向など御止めなされましょうぞ!」

思いっきり声を張り上げて怒鳴る様に言った。聴き耳を立てている奴にも聞えただろう。

「……有り難う。やっぱり侍従殿は悪侍従だわ」

如何いう意味だ、それは。

「わざと大声で言ってくれたんでしょう、周りに聞かせるために。優しいのね」

戯っぽい笑みを浮かべながら毬が俺の顔を覗き込んだ。

「……腹が立ったから声が大きくなっただけでおじゃります」

「まあ」

毬が声を上げて笑い出した。そして“嘘が下手ね”と笑いながら言う。可愛くないな、可哀想でもない。なんでさっきは可哀想なんて思ったんだろう。騙されたな。

「そうね、言ってみるわ」

「それが宜しゅうおじゃります」

毬がジッと俺を見た。

「兄上が言っていたわ。侍従殿は思慮深く才知に優れるが情も有れば実も有るって……」

「……」

「春齢様が羨ましい」

「……馬鹿な事を」

ポツンとした声だった。思わず俺も声が小さくなった。阿保、騙されるな! こいつは現代に生まれていればオスカーだって取れそうな役者なのだ。

「ホホホホホホ」

明らかに嘲笑と分かる声が聞えた。廊下に女が立っていた。春日局、義輝の乳母だ。うんざりだな。

「まあまあ、何とも仲睦まじい。年少の侍従殿と御年上の御台所様。まるで源氏の物語のような。……なれど少し控えて頂かなくては、……妙な噂が流れかねませぬ」

悪意が声に満ち溢れてる。流れかねないっていうよりも流したそうだぞ。お前が監視役か。それにしても源氏物語って俺が光源氏で毬は藤壺の女御とでも言いたいらしいな。俺はそんな美男じゃないんだが。いや、その前に毬は如何見ても藤壺の女御には見えない。……なんで毬は嬉しそうな顔をしてるんだ? ここは怒るところだろうが! このトラブル女!

「良く分かりませぬが妙な噂とは何でおじゃりましょう」

敢えて惚けて聞くとまた“ホホホホホホ”と春日局が嘲笑した。この女、細面で眼が細い、狐顔だな。これからは春日局じゃなくて 春日(かすがの) 狐(きつね) と呼ぼう。

「それはもう、男女の仲になるという事でございます。お分かりでございましょう?」

勝ち誇るな、阿呆。

「ホホホホホホ、麿は未だ十一歳でおじゃりますぞ。春日局殿は想像力が豊か、いや豊か過ぎるようでおじゃりますな。日々そのような事ばかり考えておられますのか?」

“ホホホホホホ”ともう一度笑う。狐の顔が引き攣った。毬は勝ち誇ったような顔をしている。なんか不本意だ、お前も勝ち誇るな。はっきり言っておこう。

「御心配には及びませぬ。麿にも好みというものがおじゃります。麿は心映え優しく情愛の深い女性が好きです。例えば麿の養母のような。騒々しく問題ばかり起こすような女性は好みませぬ」

チラリと毬を見ると毬が“何で私を見るのよ”と文句を言った。自覚が無いのか? 少しは自覚しろ!

「ましてや僻みっぽく妄想癖の有る御婆殿とあっては……、ああ、盗み聞きが得意というのも有りましたな」

“ホホホホホホ”と笑いながら狐に視線を送ると“ぶ、無礼な!”と声を張り上げた。あらあら、プルプル震えているぞ。眼も吊り上がっている。益々狐になって来た。

「おお、怖い怖い」

笑ながら扇子で口元を抑えた。うん、公家の厭らしさが爆発だな。毬ににっこりと笑いかけた。毬が嬉しそうにした。

「御台所、お気をつけなされませ。貴女様と春日局殿は良く似ておじゃりますぞ。ああなってはまるで鬼女、いや鬼婆じゃ。怖い怖い」

春日局が“こ、この餓鬼!”、毬が“こんなのと一緒にしないでよ!”と叫んだ。狐が“何ですってー!”と金切り声を上げた。あ、怒った? 怒ったのね。

「ホホホホホホ、御機嫌を損ねたようですので麿はこれにて失礼致しまする」

言い捨てて後ろへ向かった。

「待ちゃれ!」

「待ちなさいよ!」

「ホホホホホホ、待てませぬ。ああ怖や、室町第には鬼が出る。おお怖や、室町第には鬼が出る。ホホホホホホ」

歌いながら小走りに玄関へと向かった。後ろから衣擦れの音が聞えたが直ぐに“ドスン”という音と“何するのよ!”、“そちらこそ何をなされます!”という叫び声が聞こえた。互いに相手の裾でも踏ん付けたのだろう。襖でもぶち抜いたかもしれんな。

玄関に行くと糸千代丸が居た。こいつ、待ち伏せかと思ったが武家伝奏広橋権大納言も居る。なるほど、出迎えか。俺を睨む糸千代丸を無視して権大納言に声を掛けた。

「権大納言様、御用でおじゃりますか?」

「うむ、公方にちょっと。侍従殿は御台所へのご機嫌伺いかな?」

「はい」

権大納言の表情が硬い。なんだかなあ、親父の前内府とは揉めたがあんたとは揉めていないぞ。そんな警戒しなくても良いのに。あ、騒がしくなってきたな。どうやら毬はトラブルメーカーの本領を発揮しつつあるらしい。いや、本領発揮は狐の方かな。権大納言、糸千代丸も訝し気な表情をしている。

「糸千代丸殿、何をしておじゃる」

「はあ?」

いきなり名前を呼ばれて糸千代丸が困惑している。

「あの騒ぎが聞えぬのかな? 権大納言様に見苦しいところをお見せしてよいのか? 公方の威信にも関わりますぞ、早う行って騒ぎを収めなされ」

糸千代丸が“失礼致しまする”と言って慌てて奥へと走った。頑張れよ、糸千代丸。その若さで女の争いを収められれば君は間違いなく出世するぞ。……無理だろうがな。

「では麿はこれで」

広橋権大納言に声を掛けると権大納言は曖昧な表情で頷いた。次は半月後だ、その頃には喧嘩も収まっているだろう……。

永禄二年(1559年) 八月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井雅春

“ホホホホホホ”と笑い声が聞えた。一つではない、複数。声のした方を見れば勧修寺権中納言、徳大寺権中納言、四辻権大納言が庭を見ながら扇子で口元を押さえて笑っている。

「広橋権大納言殿の話によれば二人とも取っ組み合ってあられもない姿であったとか」

「ホホホホホホ、それではまるで御台所と春日局が侍従を奪い合ったようではおじゃりませぬか」

「真に。侍従は艶福家でおじゃりますな、羨ましい事で」

また三人が声を合わせて笑う。やれやれよ。溜息を堪えてその場を離れた。妹の所へ行かねば……。

「居るかな?」

声を掛けて妹の部屋に入ると“いらせられませ”と答えが有った。妹の目々典侍と姪の春齢姫がそこに居た。座ると妹が麦湯を用意してくれた。美味い、暑い時にはこれに限る。

「侍従は?」

「桔梗屋へ行っております。西洞院大路に移るとなれば色々と揃えなければなりませぬから」

妹が答えた。姪の春齢は不満そうだ。離れ離れになるのが嫌なのだろう。

「なかなかの邸じゃ」

「左様でございますか、侍従からも聞きましたが真に?」

訝しそうな表情をしている。幕府が侍従のために邸を建てる。嫌々の筈であり大したものではないと思っていたのだろう。

「余り粗末な邸を建てては幕府の沽券に関わるからのう」

“なるほど”と妹が頷いた。

「何処に行っても例の話で持ち切りでおじゃるの」

「室町第の騒ぎでございますか」

妹は可笑しそうだ。姪は面白くなさそうな表情をしている。はて……。

「大騒ぎになったと聞きましたが?」

「御台所と公方の乳母が取っ組み合いの大喧嘩をしたのじゃ。皆止める事が出来ずおろおろしていたと聞く。室町第でも前代未聞の騒ぎでおじゃろう」

妹がクスクス笑い出した。

「そなたは笑っているが慶寿院が一喝してようやく収まったのだぞ」

「公方は?」

「止めたが無視されたようじゃ、二人にの」

「……あまり良い事ではございませんね」

「そうでおじゃるの」

無力さだけが際立ってしまう。

「事の発端は春日局が御台所と侍従の間柄を邪推したからだと聞きますが?」

妹の問いに姪の不満そうな表情が更に強まった。なるほど、焼餅か。

「そのようでおじゃるの。だが侍従は未だ十一歳じゃ。ちと無理が有る。そこには裏が有ると見なければなるまい」

「裏?」

姪が不思議そうな声を出した。

「太閤殿下と関白殿下が侍従に御台所を見舞ってくれと頼んだのは公方の御台所への扱いに不満が有ったからよ。近衛家は公方の流浪中に足利のために動かなかった。その事に対する不満は相当に大きい。それが御台所への扱いに出た。当然だが太閤殿下も関白殿下もその事は分かっていた筈じゃ。後見とまでは言わぬが宮中の実力者である侍従を御台所の傍に置く事で公方と幕臣達を牽制したのだと麿は見る。侍従もその辺りは分かっていた筈じゃ」

妹と姪が頷いた。関白の留守中はその代わりに帝の傍に侍るのだ。無視は出来まい。

「実際騒ぎの前に侍従が公方と幕臣達の振舞いを強い声で非難したらしい。これ以上蔑ろにされるくらいなら離縁して近衛家に戻れと侍従が御台所に迫ったと聞く」

「何と、真でございますか?」

妹と姪が驚いている。

「真じゃ。関白殿下も越後下向を取り止めるだろうとな、脅したのよ。春日局が出てきたのはその直後じゃ。となれば邪推も侍従が邪魔だからという事でおじゃろう。余計な事を言うと侍従を遠ざけようとしたのよ」

「……」

「太閤殿下、関白殿下、慶寿院、何処からも侍従を非難する声は無い。騒ぎに対して不満は有ろうが自分達の言いたい事を代弁した、そう思っているのだと麿は思う」

妹と姪が溜息を吐いた。思ったよりも複雑な事情が有ると分かったのだろう。

「兄上、その話を何処から」

「広橋権大納言よ」

妹が“なんと”と呟いた。

「権大納言は周囲には面白可笑しく御台所と春日局が大喧嘩をしたとしか言っておらぬ。おそらくは必要以上に足利と近衛の不仲を広めるべきではないと考えたのでおじゃろう。笑い話として収めようという肚じゃ。麿に話したのは侍従が話すと思ったのでおじゃろうな。広橋家は松永弾正とも繋がりが有る。弾正にはその辺りは伝えておじゃろう。そこから三好家にも伝わる筈じゃ」

また妹と姪が溜息を吐いた。やれやれよ、少しは心を軽くしてやるか。

「典侍、皆が言うておるぞ」

「何をでございましょう」

「此度の喧嘩、典侍の一人勝ちじゃとな。心映え優しく情愛の深い女性だと侍従が絶賛したからのう」

妹が“まあ”と言って嬉しそうにした。姪は不機嫌そうだ。母親にまで焼餅か、女というのは難しいものよ……。