作品タイトル不明
第66話 失われた色彩と、過去の足音
二日目の朝も、世界は完全に沈黙していた。
目が覚めて、最初に視界に入ったのは、いつもと変わらない白い天蓋だった。
けれど、いつもなら『奥様、起きて起きて! 今日もいい天気よ!』と飛び跳ねるように弾むシーツの感触は、ただの冷たくて平らな布地でしかなかった。
私はゆっくりと起き上がり、クローゼットを開けた。
並んでいるドレスたちはどれも美しく手入れされているけれど、私を歓迎するような衣擦れの音は聞こえない。
以前なら『今日の気候なら、この薄紫のドレスが最高に映えるわ!』『いや、こっちのレース付きの方がご主人様が喜ぶぞ!』と大騒ぎをしていたはずの衣服たちが、今はただ静かにハンガーに吊るされている。
「……これに、しましょう」
自分で選んだ落ち着いた薄緑のドレスに袖を通す。
鏡の前に座り、ブラシを髪に当てる。
カツン、カツンと、ブラシが髪を梳く音だけが、無機質に部屋の中に響いた。
その静かすぎる時間が、私の胸の奥に、少しだけ過去の不安を呼び起こした。
王都の実家での日々。
周りからは独り言が多くて気味が悪いと遠巻きにされ、心を許せる話し相手は、部屋の家具や道具たちだけだった。
彼らとの賑やかなお喋りがあったからこそ、私は家族と距離があっても、寂しさを紛らわせて明るく過ごしてこられたのだ。
けれど、今の私はどうだろう。
オルステッド領に来て、ジークハルト様に愛され、たくさんの優しい人々に囲まれている。
それなのに、モノたちの声が消えただけで、世界から鮮やかな色が失われてしまったような心細さに囚われている。
「モノたちの声を聞くことで、みんなのお手伝いをしてきたのに……。この力がなくなってしまったら、私はただの不器用な令嬢に戻ってしまうのではないかしら」
ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届くことなく静寂に溶けていった。
◇
食堂へ向かう廊下も、やはり静まり返っていた。
「おはよう、コーデリア」
食堂の扉を開けると、ジークハルト様がすでに席について私を待っていた。
私が席に座ると、彼はすぐに私の顔をじっと見つめ、そのアイスブルーの瞳に微かな陰りを浮かべた。
「お前……やはり、あまり眠れなかったようだな。目の下に、少し影ができている」
「いえ、そんなことは……。ジークハルト様、おはようございます」
私は慌てて微笑んでみせたが、自分の声がどこか上調子なのが分かった。
差し出されたスープを口に運ぶ。
ジャンさんが私のために心を込めて作ってくれた、お野菜の甘みが詰まった温かいスープ。とても美味しいはずなのに、いつもより味が薄く感じられてしまうのは、私の気持ちが沈んでいるからだろう。
ジークハルト様は、黙々とスプーンを動かしていたが、不意にそれを皿に置いた。
「……セバスチャン」
「はい、旦那様」
「今日の午前中の執務だが、すべて午後に回せ。急ぎの案件は、俺の代わりに処理しておいてくれ」
その言葉に、私は驚いて顔を上げた。
セバスチャンさんも一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにすべてを察したように、深く一礼した。
「畏まりました。ボルドー氏からの連絡も含め、午前中の件は私が責任を持って対応いたします。どうぞ、お出かけになってください」
「ジークハルト様? お仕事をお休みになって、どうされるのですか?」
私が尋ねると、ジークハルト様は席を立ち、私の隣へと歩み寄ってきた。そして、私の少し冷えた手を、迷いのない動作でぎゅっと握りしめた。
「……散歩に行くぞ。お前を、この静かすぎる城の中に閉じ込めておくわけにはいかない」
有無を言わさぬ、けれどどこまでも優しい響き。私は彼の熱い掌に導かれるようにして、食堂を後にした。
◇
城の裏手に広がる庭園は、夏の終わりの柔らかな緑に包まれていた。風が吹くと、木の葉がサワサワと音を立てて揺れる。
「ワオォォン!」
私たちの気配を察して、庭の奥から大きな白い影が飛び出してきた。魔獣のポチだ。
ポチは嬉しそうに尻尾を激しく振りながら、私のドレスの裾に鼻を押し付けてきた。
「ポチ、おはよう。元気だった?」
私がしゃがみ込んでそのフサフサの首元を撫でると、ポチは「クゥン」と喉を鳴らして、私の掌に頭を擦りつけてくる。
いつもなら、『奥様、おはよう! 早く俺を撫でてくれよ!』というような無邪気な声が、直接頭の中に響いてきたはずだ。
けれど、今はただの獣の鳴き声しか聞こえない。
ポチが何を思い、私に何を伝えようとしているのか、正確な言葉としては何も伝わってこない。
「……ごめんなさい、ポチ。今の私、あなたの言葉を、うまく受け止めてあげられないの」
ポチの背中を撫でる私の手が、ふと止まる。
ポチの声も、温泉街の床板たちの不満も、鉱山の道具たちの機嫌も、今の私には何も分からない。
万物の声を聞くことで領地を開拓し、みんなの役に立ってきた私から、その力が消えてしまったら、みんなをがっかりさせてしまうのではないか。
そんな不安が、頭をぐるぐると駆け巡る。気づけば、私の視界が涙で小さく滲んでいた。
「……コーデリア」
すぐ頭上から、ジークハルト様の低く、硬い声が降ってきた。
彼が私の前に膝をつき、私の目線に合わせるようにして顔を覗き込んできた。その瞳は、悲しいほどに真剣だった。
「……あいつらの声が聞こえなくなって、自分の価値がなくなったと、そんな風に思っているのではないか」
「っ……!」
図星だった。
私は思わず息を呑み、視線を逸らそうとしたけれど、ジークハルト様の大きな手が優しく私の頬を包み込み、それを許さなかった。
「……お前は、本当に馬鹿なことを考える」
ジークハルト様は、ひどくもどかしそうに、けれど今にも壊れてしまいそうな宝物を扱うような手つきで、私の涙を親指でそっと拭った。
「俺が、セバスチャンが、この領民たちが、お前の力だけを愛しているとでも思うのか? お前がただそこにいて、微笑んでくれるだけで、どれほどの人間が救われているか分かっていない」
「でも、私は……。この力がなければ、王都にいた頃のような、誰からも必要とされない、ただの空っぽな令嬢に……」
「二度と、その言葉を口にするな」
私が言い終わるより早く、ジークハルト様が強い口調で遮った。
「お前が独り言を言おうが、何も聞こえなくなろうが、そんなことはどうでもいい。俺がお前を求めたのは、お前自身が、誰よりも温かく、優しい人間だからだ」
彼は私の頬を包んだまま、一言一言を噛み締めるように告げた。
「言葉が聞こえないなら、俺の言葉を聞け。モノたちが喋らないなら、俺がお前といくらでも話そう。……お前を、絶対に一人にはさせない」
その真っ直ぐで、不器用な肉声が、私の胸の奥の不安を、じわじわと溶かしていく。
グラムの通訳など、最初から必要なかったのだ。
ジークハルト様自身の声が、これほどまでに私の心を激しく揺さぶり、満たしてくれる。
「ジークハルト、様……」
私は彼の胸に顔を埋め、今度は堪えきれずに、ぽろぽろと涙を零した。
ジークハルト様は何も言わず、ただ私の背中に大きな腕を回し、折れそうなほど強く、けれどどこまでも温かく、私を抱きしめ続けてくれた。
静寂の世界の中で、彼の力強い心音だけが、トントンと私の鼓膜を優しく叩いていた。