作品タイトル不明
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夜は、静かだった。
昼の喧騒が嘘のように、温泉館の中庭には人の気配がない。
石畳の上に置かれた鉄皿の前に、私は立っていた。
「準備は、これでよいか」
背後で控えるマルクが、短く応じる。
「はい。量も抑えております」
私は頷き、小袋を開いた。
中には、砕いた硫黄。淡い黄色の粉が、灯りを受けて鈍く光る。
……遊びではない。
これは、見せるためのものだ。
エリシア王女を待ちながら、私は一度、思考を遡らせた。
あれは、王女がこの地に来る少し前。
机の上に広げた報告書をめくるたび、同じ記述が繰り返されていた。
――けしの実の消費量、増加。
「……多いな」
鎮痛、鎮静、手術、処置、確実に効くがゆえに、使われる。そして。
「……採取法を、手に入れたか」
未熟な果実に傷をつけ、滲み出た乳液を集める。技術だけは広がったけれども、報告は正直だった。
効くものはよく効くが、効かないものも混ざる。
「……ばらつきがある」
原因は明確だった。
「……土地か」
南方の地で採れるものは質が高い。
日照、気温、乾燥がこの地とは違う。
私は椅子に背を預けた。
技術はある。しかし、材料が追いつかない。
そして、このままでは――
「……危ういな」
供給が足りないだけではない、効かないという声が増えれば、医術そのものの信頼が揺らぐ。
積み上げてきたものが、崩れる。
「……確保する必要がある」
良質なけしの実の安定供給。
それが急務だった。
たとえば――大国の南方の属国は温暖で乾いた土地だ。条件は揃っている。
だが。
「……誰に、持ちかける」
そう考えた、その時だった。
「お待たせいたしました」
現実に、声が差し込む。
私は思考を切り替え、顔を上げた。
「エリシア殿下」
そこに立っていたのは、計算の外ではない存在。大国の第一王女、南方を動かせる立場の人間。
私は、静かに息を整える。
……ここからが、交渉だ。
「何を見せてくださるのですか」
王女の声は、静かだった。その顔には、昼間と同じ冷静さがある。そして鼻と口元は、薄い布で覆われていた。
「匂いが強い、と聞きましたので」
そう言って、わずかに目を細める。
「賢明です」
私は答えた。
だが、その奥には、明確な期待がある。
私は、わずかに口元を緩めた。
「これは――殿下にだけお見せするものです」
鉄皿に、硫黄の粉を落とし、火を近づける。
次の瞬間、音もなく炎が立ち上がった。
青く、淡く、冷たい光。
風もないのに、ゆらりと揺れる。
「……これは」
エリシア王女の声が、わずかに沈む。
目が、はっきりと見開かれていた。
私は知っている。
この世界の者にとってこの火は、魔法か、神の奇跡に見える。
マルクに見せた時も、同じ反応だった。
「温泉から採取した硫黄で、再現可能な現象です」
正確には、湧出口周辺、ならびに水路の縁からの採取なのだが。
王女の視線が、わずかに揺れる。
「……神の火のよう」
布越しに、吐息のような声。
「恐ろしくもあり、美しい」
……十分だ。
だが、これはただの見世物ではない。
知的好奇心を持つ者にとって、“奇跡ではなく技術である”という事実は、強烈な引力になる。
私は、静かに続けた。
「いまは――殿下のお心にのみ留め置いてください。これは、魔法でも神の奇跡でもありません。再現が可能な“技術”です」
エリシア王女の指先が、わずかに動いた。
視線が、炎ではなく――私へと向く。
……興味を持った。
青い炎は、やがて細くなり、音もなく消えた。
残るのは、灰と匂いだけ。
しかし、本当に残ったのは、別のものだ。
その少し離れた場所で、侍女は静かにその一部始終を見ていた。
……まったく。
胸の内で、小さく息を吐く。
明日にはこの地を発つというのに、夜の時間を欲しいなどと仰るから、何事かと思えば。
こちらは準備で手一杯だというのに。 高貴な方のわがままに振り回されるのは、今に始まったことではないが――
……どうせ、ろくでもない話。
そう、思っていた。しかし。
「……っ」
思わず、息を呑む。鉄皿の上で燃え上がったそれは、 これまで見てきたどの火とも違っていた。青い。淡く、冷たく、それでいて確かに燃えている。
揺らぎは静かで、 風もないのに、ゆらりと形を変えるその炎は―― まるで、この世のものではないかのようだった。
……なに、あれは?
一歩、無意識に後ずさる。
そして、視線が自然とエリシア王女へ向く。
エリシア王女は、じっとそれを見ていた。
瞬きもせず、ただ静かに。布越しでも分かるほど、 その瞳は強く、光を宿している。
……ああ。
侍女は、わずかに目を細めた。
……これは、確かに“夜”を欲しがるわけだわ。この炎は見せられる者が限られるもの、そして。
……その顔。
王女の横顔を見つめる。そこにあったのは、 交渉の顔でも、王女の顔でもなかった。ただ純粋に、“何かを得た者”の顔。
……特別を、いただいたのね。
小さく、胸の内で呟く。なるほど、これならば。
……怒る気も、失せるわ。
侍女は何も言わず、ただ静かに見ていた。
夜は、まだ、終わらない。