作品タイトル不明
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ある日、一人の商人が訪れた。
かつて、私に意見を申し立ててきた大商人だ。
扉の前で一礼し、顔を上げる。
「殿下、お久しぶりです。素晴らしい繁栄ですね」
その視線は、一瞬窓の外へ向けられた。
人の流れ、途切れぬ荷車、賑わう市。
「今日は、取引に参りました」
静かに、本題へ入る。
「街道の破壊工作がありましたね」
私は、わずかに目を細めた。
「ああ」
「あの件……もし事前に情報を得られていれば、防げた可能性があるとは思いませんか?」
否定はできない。
「それで?」
商人は、わずかに口元を緩めた。
「難しい話ではありません。私は“耳”を持っております。各地に、人がおります。流れてくる情報もあります」
私は、その目をまっすぐ見た。
「……信頼に値するのか?」
商人は、わずかに笑った。
「商いは信用がすべてです。積み上げられぬ者は、大きくはなれません」
さらりと言う。
「偽りの情報を流す者に、次はありませんので。それを承知で、この話を持ってきております」
なるほど、情報網を売りに来たか、と心の中で頷く。
「代わりに?」
「市での特権を。具体的には、市場税の免除をお願い申し上げます」
部屋の空気が、わずかに張り詰める。
市場税の免除――それは単なる優遇ではない。この商人に対して、明確な優位を与えることになる。
「……随分と大きく出たな」
私が言うと、商人は肩をすくめた。
「対価としては妥当かと。情報は、時に金より価値があります」
確かにそうだ。破壊工作、妨害、それらを未然に防げるのであれば、損失は比べるまでもない。しかし。
「一人だけを優遇すれば、市の均衡が崩れる」
「独占は望みません。“私が持ち込む商材に限る”で構いません。量も、期間も制限を設けていただいて構いません」
抜け目がない。完全な特権ではなく、“調整可能な優位”として提示してきた。
流石、商人だな。
私は、しばらく考えた。この街は、回っている。ならば、その流れに、「目」を加えるのは悪くない。
「条件付きで認めよう」
商人の目が、わずかに細まる。
「虚偽の情報は即時破棄。特権も取り消す。加えて、情報の質と頻度に応じて、免除範囲は見直す」
「結構です」
迷いのない返答。
「それと、一人に頼るつもりはない。他にも同様の仕組みは作る」
牽制だ。商人は、わずかに笑った。
「競争があった方が、良い情報は集まりますからね」
一礼する。
「では、良い取引を」
その背を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
――“耳”、か。
各地に散らばり、拾い上げるもの。
だが、それをそのまま使うつもりはない。
「集めた耳は、こちらで“目”として使う」
小さく呟く。
見て、選び、切り分ける。
それを誤れば、毒にもなる。
金だけでは守れないものがある。けれども、金と情報があれば、守れるものは増える。
この街は、そういう場所になりつつあった。
商人が部屋を出た後、扉が静かに閉まる。
わずかな沈黙。その空気を破るように、マルクが口を開いた。
「……宜しいのですか?」
静かに、抑えた声だった。
私は、書簡へと視線を落としたまま答える。
「危険は分かってる。特に彼は……ただの商人ではない」
各地に人を持ち、情報を流す。それは、商いの範疇を超えている。
「富を蓄え影響力を持てば、いずれは“口出し”を始めるでしょう」
マルクの言葉は淡々としていたが、その指摘は的確だった。
「ギルドを束ね都市に食い込み、やがては自治を求めるかもしれません。それに、こちらが頼りすぎれば……」
「借りを作る形になるかもな」
短い応酬。私は、ゆっくりと息を吐いた。
「だから、縛る。商人は使う。しかし、使われはしない」
顔を上げる。
「競わせるだけじゃない。精査もする」
マルクの目が、わずかに動く。
「同じ情報を、別の経路からも取る。食い違えば、切る」
「……裏を取る、ということですか」
「ああ。それに、いずれは、こちらで“持つ”」
「……情報を、ですか」
「商人の耳に頼るだけでは足りない。こちらにも目を置く」
領主直轄の目。人を置き、流れを見せる。
「表に出るものではないがな」
マルクはしばし黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「承知しました。人選は慎重に行います」
「頼む」
再び静けさが戻る。それでも、先ほどまでとは違う静けさだった。
利を取れば、影も伸びる。それは避けられない。
「それでも、有用なのは覆せないからな」
小さく、そう言った。