軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第26話 南鳥島への接続

模擬希土類混合液、という言葉の響きは地味だ。

少なくとも、初めて聞いた時に胸が高鳴るような単語ではない。

化学の実験室でよく見る、色のついたビーカーや攪拌機や分析装置の匂いがする。

ニュース速報の見出しにもならないし、動画映えもしない。

だが、今の俺にはその地味さがむしろ厄介に思えた。

派手な技術は、派手に警戒される。

でも、本当に深いところまで社会へ刺さるのは、こういう地味な顔をしたやつだ。

「……始まるな」

東都マテリアルサイエンス研究棟の材料評価エリア。その一角を一時的に切り出して作られた閉鎖試験区画の前で、俺はガラス越しの装置群を見ながらそう呟いた。

隣で天城澪が、珍しく腕を組んだまま頷いた。

「ええ」

それだけ。

いつも通り短い返事だったが、その短さの中にある緊張は分かった。

彼女も、これがただの延長試験ではないと分かっているのだろう。

今日の試験は、論文の続きではない。

高選択性無機膜としての材料評価でもない。

もっと先だ。

資源。

泥。

選択抽出。

そして、南鳥島。

もちろん、本物の泥をいきなり持ち込んだわけではない。

さすがにそこまで愚かじゃない。

今日の試験液は、模擬条件をかなり丁寧に組んだものだ。

希土類混合イオン。

海水由来を模した高塩濃度。

粘土鉱物と微細粒子の懸濁。

不純物としての鉄、マンガン、アルミ。

さらに、処理工程で面倒になる有機分も少量だけ混ぜてある。

言ってしまえば、

「もし本当にレアアース泥を相手にするなら、こんな感じでこちらを困らせるだろう」

という嫌がらせを、先回りして配合した液だ。

「ここまでやるのか」

俺がガラス越しに並んだタンクと配管を見て言うと、天城は肩をすくめた。

「やるでしょう。やるから意味があるんです。水処理寄りの顔だけで押し切れるなら、わざわざ今日ここへ久世さんを呼びません」

まあ、それはそうだ。

試験区画の中では、柏木と黒崎が最終確認をしている。

他にも、今日は見慣れない顔がいる。

東都財閥の資源開発系子会社から来た技術者が二人。

金属精製プロセスの設計担当が一人。

それから、名前だけ聞いても何をやっている部署なのかよく分からない「戦略資源連携室」の男が一人。

全員、地味なスーツか作業着だ。

それなのに、顔だけで分かる。

今日は論文の続きじゃない。

金の匂いがしている。

いや、金よりもっと厄介な、国家が欲しがる金属の匂いだ。

閉鎖試験区画へ入る前に、神代室長が全員を集めた。

白い壁。

簡易会議台。

壁面モニターに映るフロー図。

上流に模擬混合液のタンク。

前処理槽。

圧力制御ユニット。

評価セル。

そして、その中心に今日の主役――特殊処理高選択性無機膜、と表記されたモジュール。

もちろん、それは表向きの名前だ。

本当は、その中に入っているのは俺が海鳴りの倉庫で設定した試験片だ。

「本日の目的を確認します」

神代の声は静かだったが、無駄がなかった。

「今回の試験は、模擬希土類混合液に対する選択透過挙動の初期確認です。再現性のある工業条件試験ではありません。資源回収プロセスとして成立するか否かを論じる段階でもありません。ただし」

そこで一拍置く。

「もしここで期待以上の偏りが出た場合、以後この技術の意味は一段変わります」

部屋の空気が少しだけ硬くなった。

皆、分かっている。

だからこそ誰も余計なことは言わない。

希土類を選ぶ。

不純物を弾く。

しかも普通の膜では難しい塩濃度と混濁条件下で、それをやる。

それが本当にできるなら、話は変わる。

材料研究や水処理では済まない。

神代が視線を動かした。

「久世さん」

「はい」

「今回、試験片は“選択性を絞った固定条件”で間違いありませんね」

「間違いない。ただし万能じゃない。都合よく全部抜いてくれるような設定じゃない。狙いはあくまで偏りの確認だ」

「十分です」

神代は頷いた。

「今日欲しいのは奇跡ではなく、方向です」

その言い方は好きだった。

奇跡を欲しがると、だいたい話が壊れる。

方向だけ見えれば、あとは研究者と事業屋が勝手に大騒ぎしてくれる。

柏木がそこへ補足を入れる。

「念のため言っておきますが、今回の試験で“そのまま資源化できます”みたいな結論は出ません。そんなに都合よく話は進みません。ただ、選択係数の傾きが見えた時点で、もう後戻りはできなくなります」

「その表現、やめろよ」

俺が苦笑して言うと、柏木は真顔のまま返した。

「事実です」

最近みんな、イヴみたいなことを言うようになってきたな。

試験が始まったのは、その十分後だった。

装置が動き出す。

ポンプの低い駆動音。

配管を流れる液体。

圧力計の針。

モニター上に並ぶ数字。

見た目は地味だ。

研究所の試験というのは、基本的に全部地味だ。

だがその地味さの向こうで何が起きているのかを知っている人間にとっては、これ以上なく落ち着かない時間でもある。

俺はガラス越しに膜モジュールを見ていた。

中に入っているのは、表向きには高選択性無機膜。

実際には、選択透過概念付与核で条件を与えられた“本物”だ。

配布試料でも証明されたように、こいつは論文通りに動く。

問題は、どこまで動くかだ。

「初期流束、安定」

黒崎が言う。

「懸濁負荷の影響は?」

資源会社側の技術者が聞く。

「今のところ見えていません。ただし、前段でかなり削っています」

「削ってなおこの濁りか」

もう一人の技術者が、半ば独り言のように言った。

彼らの顔つきは、研究者よりもう少し直接的だった。

良いか悪いかではなく、使えるか使えないかを見る目だ。

そういう人間が今この試験を見ている時点で、もうだいぶ先へ来ている。

最初の三十分は、ほとんど変化がなかった。

というより、変化がなさすぎた。

流束が落ちない。

圧力が暴れない。

選択性の数字も、妙に静かだ。

「……安定しすぎでは?」

資源会社の技術者が思わずそう言った。

柏木が少しだけ眉をひそめる。

「そういう感想になりますよね」

「いや、すみません。でも、この条件でここまで素直だと、逆に落ち着かないんですよ」

「ええ。分かります」

それは分かる。

というか、今のこの技術はだいたい全部そうだ。

目立った異常挙動ではなく、

“異常なくらい挙動が整っている”

ことで人をざわつかせる。

その時、黒崎がモニターへ顔を寄せた。

「……出てます」

部屋の視線が集まる。

「何が」

神代が聞く。

黒崎は画面を指差した。

「希土類側の偏りです。まだ初期ですが、透過側と残液側で挙動差が立ち始めている。しかも不純物の一部は思ったより引っかかっている」

資源会社の技術者が一歩前へ出た。

「どの程度だ」

「まだ断定値では言えません。ただ、通常の多孔体や一般的な選択膜でここまで綺麗な方向が出る条件ではありません」

柏木がすぐ別の補助データを出す。

比較対象として入れていた既存膜の挙動。

こちらは当然ながら、普通だ。

普通に濁る。

普通に落ちる。

普通に広く通し、普通に詰まる。

言ってしまえば、現代のまともな材料の顔をしている。

それに対して、こちらは違う。

完全に夢のような値ではない。

だが、方向が揃いすぎている。

不純物側の暴れ方に対して、欲しい成分側の偏りがあまりにも素直だ。

「……これ」

戦略資源連携室の男が、初めて口を開いた。

「もう“水処理寄りの高性能膜”の顔ではないですね」

神代が答えなかった代わりに、天城が言った。

「はい。この時点で、少なくとも社内的には別のカテゴリへ入ります」

その一言で、会議室でも研究棟でもない、第三の空気が生まれた気がした。

社内カテゴリの変更。

言葉にすると事務的だ。

でも実際には、技術の意味が変わったということだ。

昼過ぎ、試験は一度止められた。

中間解析。

透過液、残液、堆積物の簡易分析。

その結果を見て、全員が少しだけ言葉を失った。

数字はまだ荒い。

正式な報告書に載せるには当然、再試験も必要だ。

だが、それでも方向は十分すぎるほど見えていた。

「……ここまで偏るのか」

資源会社の技術者が低く言った。

「模擬条件ですよね、これ」

「ええ」

柏木が答える。

「しかも、本番をかなり意地悪に見積もった配合です。楽な条件ではありません」

「それでこれか」

誰も大声は出さない。

でも、その小さな一言の方が重かった。

東都マテリアルサイエンスの連中にとっては、これは研究成果の延長かもしれない。

だが資源会社側の人間にとっては違う。

これは工程数であり、コストであり、プラントであり、国家との距離だ。

神代が腕を組む。

「現時点で言えるのはここまでです。通常膜に対して、明らかに異なる分離傾向が出ている。しかも高塩濃度・高混濁条件下で。これだけで充分、嫌な意味で大きい」

「嫌な意味って言うなよ」

俺が言うと、柏木が珍しく少しだけ笑った。

「では、落ち着かない意味で」

「それも似たようなもんだろ」

「でも事実です」

またそれか。

だが、今回ばかりは本当にそうだった。

これはもう“面白い材料”ではない。

“静かに浸透する研究成果”でもない。

欲しい人間が、はっきりと具体的になる。

資源が欲しい国。

選択抽出を握りたい企業。

南鳥島を巡って先に座りたい行政。

それが全部、薄皮一枚の向こうへ来る。

「表には出せませんね」

天城が、確認するように言った。

神代は即答した。

「出せません」

「論文第二報は?」

「まだ早い。少なくともこのデータは、そのままでは無理です」

資源会社側の技術者が、少しだけ前のめりになる。

「社内限定で、もう少し広げる価値はあります。模擬条件のバリエーションを増やしたい。特に懸濁粒子の性質と塩濃度の振り方を――」

そこで戦略資源連携室の男が、静かに首を振った。

「優先順位をつけましょう」

その声は小さい。

だが、部屋が一瞬で静かになる。

「研究としては正しい。しかし、この段階で広げすぎると情報の重みが変わる。まず必要なのは、結果の精密化ではなく、結果の扱い方の固定です」

天城が頷く。

「同意します。今このデータが意味するのは、“いけるかもしれない”ではありません。“これで各国が本気になる”です」

その一言で、空気が完全に変わった。

皆、見ていた方向は同じだったのだ。

ただ、誰も先に口にしなかっただけで。

各国。

日本。

アメリカ。

中国。

ロシア。

いままでは、まだ研究の顔で問い合わせが来ていた。

でも、この模擬試験の方向性が社内で共有された時点で、あとは早い。

レアアース泥へ接続しうる。

その一文だけで、技術の重さが変わる。

「……なるほどな」

俺は小さく呟いた。

「ここでやっと、学術界のざわめきと国家の欲が繋がるのか」

「はい。だから今日の試験は重要だったんです」

夕方、試験区画の隣の小会議室で、簡単な整理が行われた。

外へ出す言葉は当然制限される。

研究棟内でも共有範囲は絞る。

東都マテリアルサイエンス、東都E&L、資源会社、財閥本流。

ここに閉じる。

そしてもう一つ、今後の外部反応の想定が並べられた。

日本の省庁系照会。

アメリカの政府寄り研究機関。

中国の資源技術提携名目。

ロシアの材料・鉱業ルート。

欧州の金融・資源ファンド経由。

まだ来ていない。

でも、来る顔がはっきり見える。

「順番待ちが増えますね」

神代が言う。

天城はそれに対して、ほんの少しだけ笑った。

「ええ。かなり。嫌な話だ。でも悪くありません」

その言い方に、俺は思わず天城を見た。

彼女はいつもの無表情に近い顔へ戻っていたが、目だけが少しだけ鋭い。

「こちらが並ばされるんじゃない。向こうが並ぶんです」

その一言は、思った以上に気持ちよく響いた。

研究者。

企業。

政府。

国家。

皆が、こっちの膜を欲しがる。

でも、東都財閥という壁がある限り、誰もいきなりは手を伸ばせない。

礼儀正しい問い合わせ。

綺麗な共同研究。

丁寧な視察依頼。

非公式だけど、形式だけは守った面談要請。

その列が、これからできる。

「……本当にそうなるのか」

俺が半分独り言みたいに言うと、戦略資源連携室の男が静かに答えた。

「なります。なった時に困らないよう、今日ここに全員集まっているんです」

その通りだった。

夜、工房に戻ってから、俺はしばらく一人で机の上のメモを眺めていた。

模擬希土類混合液。

高塩濃度。

懸濁条件下。

通常膜との差。

偏り。

方向性。

全部、地味な言葉だ。

だが、その一つ一つが、静かに爆発力を持っている。

「なあ、イヴ」

【はい】

「今日のやつ、やっぱり大きかったよな」

【はい】

「どのくらい大きい?」

【恒一たちが保持する選択透過技術が、学術的興味の対象から戦略資源技術の候補へ移行した程度です】

「……言い方がでかい」

【事実です】

「最近、本当に加減しないな」

【必要な加減をしていないのは恒一です】

「ひどいな」

でも、否定しきれない。

学術界がざわつく。

試料が欲しがられる。

コピーは死ぬ。

その先で、模擬レアアース泥条件でも方向が出る。

ここまで来たら、もう“面白い材料”ではない。

国家が視線を向ける理由が、ちゃんとできてしまった。

「……次は、来るな」

【何がですか】

「連絡だよ。研究者の顔だけじゃないやつ」

少しの間のあと、イヴが答える。

【可能性は高いです】

【日本、アメリカ、中国、ロシアのいずれも、関心を高める合理性があります】

「だよな」

【ただし、直ちに強硬な接触へ移行するとは限りません】

「東都財閥があるからか」

【その要因は大きいと考えられます】

やっぱりそこだ。

東都財閥が、ただの大企業集団じゃないからこそ、各国も最初は綺麗な顔を崩せない。

つまりしばらくは、礼儀正しい順番待ちが続く。

その間に、こっちは次の手を考えられる。

「……悪くないな」

【何がですか】

「待たせられるの。全員が欲しがってるのに、ちゃんと列に並ばせられるの、ちょっと気持ちいい」

【恒一は性格が悪い傾向があります】

「今さらだろ」

【はい】

笑いながら、椅子へ深くもたれた。

工房の外では、夜の車が走る音がする。

どこまでも普通の東京の音だ。

でもその裏で、選択透過技術は、とうとう南鳥島まで繋がりうる顔を見せた。

次はきっと、研究の言葉だけでは済まない。

もっと綺麗で、もっと重い言葉で、外の世界が近づいてくる。

「……面倒だけど」

【はい】

「ここからが本番だな」

【その認識で問題ありません】

俺は机の上のメモを閉じ、照明を少し落とした。

資源。

国家。

財閥。

順番待ち。

祖父の押し入れにあった白い円盤から、よくここまで来たものだ。

でも、たぶんまだ終わらない。

というか、むしろ今ようやく、本当に始まったのかもしれない。